静岡県は古く、伊豆・珠流河・廬原・素賀・久努・遠淡海の国造が支配していましたが、大化の改新で駿河・遠江の二国に統合され、681年に駿河国から伊豆国が分離しました。『延喜式』では伊豆が3郡、駿河は7郡、遠江は13郡(後代12郡)。平安朝期の荘園は伊勢神宮などの寺社領や皇族領などが散在し、末期には伊豆の狩野家、駿河の岡部家、遠江の井伊家などの在庁官人の台頭が見られました。鎌倉期の守護は、伊豆・駿河が北条(得宗)家、遠江ははじめ安田家、中期以降は大仏家。南北朝期に伊豆は石塔・畠山・上杉家が守護を務め、駿河は今川家の任国となりましたが、遠江では井伊家が南朝の宗良親王を奉じて活動し、武家方の守護はしばしば交替しました。室町期には伊豆の上杉家、駿河の今川家、遠江の斯波家が守護に定着します。戦国期に入ると、堀越公方が伊豆へ下向しましたが、今川家の被官だった伊勢盛時(=北条早雲)がこれを滅ぼして一国を領有し、次の氏綱の代に今川家から独立します。今川家は斯波家を駆逐して遠江国の守護職を兼帯しました。今川義元が桶狭間の戦で織田信長に敗死すると同家は勢力後退し、戦国末になって武田晴信(=信玄)と徳川家康に分割され滅亡しました。1582年に武田家が信長に滅ぼされると、家康が遠江から駿河までを領有しました。豊臣秀吉は1590年、家康を関東-伊豆を含む-へ移封し、駿河・遠江を中小の織田・豊臣系大名に分割しました。家康が関ヶ原の戦に勝利すると、再び三国に徳川系大名を配置、将軍職を退任した家康が駿府を居城として、没するまで事実上政権を運営しました。江戸期には伊豆に下田奉行が置かれ、駿河・遠江は一時徳川頼宣領、ついで徳川忠長領、その後は中小の譜代大名や上級旗本の所領となりました。江戸中期以降、駿府に城代が置かれ、沼津藩・横須賀藩・掛川藩・浜松藩などの譜代諸藩が置かれ(藩主は江戸後期までしばしば交替)、幕領や旗本領が混在していました。1868年に諸藩は明治新政府によって房総半島へ移され、旧徳川将軍家が静岡藩として、駿河・遠江の大部分を領有しました。1871年の廃藩置県により静岡県と浜松県とが成立、伊豆は足柄県に編入されました。1876年に静岡県、浜松県、および足柄県の旧伊豆国の部分が統合されて静岡県となり、1878年に伊豆諸島が東京府へ編入されて、現在の県域が確定しました。
遠江守護職 伊豆守護職 堀越公方足利家 今川家=駿河守護 堀越家(=遠江今川家) 蒲原家 富士大宮司 井伊家 奥山家 葛山家 岡部家 天野家 由比家 三浦家 浜名家 興津家 大沢家 飯尾家 加々爪家 朝比奈家 江川家 清水家 松井家 小笠原家 庵原家 久野領主 韮山城主 浜松藩 横須賀藩 掛川藩 駿河府中藩/静岡藩 田中藩 沼津藩 小島藩 相良藩 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
今川 範国 | 五郎入道 | 心省 | 1336-38後 | |
仁木 義長 | 右馬権助 | 1339前-43後 | ||
千葉 貞胤 | 千葉介 | 1346頃 | ||
仁木 義長 | 越後守 | 1351頃 | ||
今川 範氏 | 上総介 | 1352 | ||
今川 範国 | 五郎入道 | 心省 | 1352-65後、1379前-1384 | |
今川 貞世 | 伊予守 | 了俊 | 1384-88、1395-99(半国) | |
今川 仲秋 | 右衛門佐 | 仲高 | 1388-99(1395-99半国) | |
今川 泰範 | 上総入道 | 法高 | 1400-1404後 | |
(1405年以降は斯波家-愛知県-を参照) | ||||
(1508年以降は今川家を参照) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
石塔 義房 | 宮内少輔四郎入道 | 義慶 | 1334前-38後 | |
上杉 重能 | 伊豆守 | 1346前-49 | ||
石塔 義房 | 宮内少輔四郎入道 | 義慶 | 1350?-51 | |
上杉 能憲 | 兵部少輔 | 1351 | ||
畠山 国清 | 修理権大夫・阿波守 | 道誓 | 1352前-61 | |
高坂 氏重 | 兵部大輔 | 1362前-68 | ||
上杉 能憲 | 兵部少輔入道 | 1368/9-78 | ||
(以後は上杉家-群馬県-を参照) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
足利 政知 | 従三位 左兵衛督 |
勝幢院 九山 |
清久 (せいきゅう) 左馬頭 |
足利義教四男 (実は二男) |
1457-91 | 1491(57) | 武者小路隆光女 | 1457関東公方 鎌倉へ入部できず 堀越(伊豆)に滞留 伊豆一国を統治 |
堀越公方 | |||
足利 茶々丸 | 願成就院 福山広徳 |
政知長男 | 1491-95 | 1498 | ↓ 1495伊勢盛時に 敗れて追放 1498失地回復に 失敗して自殺 |
堀越公方 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
今川 国氏 | 四郎 | 䎆英 | 吉良長氏二男 | 1282(40) | 幡豆郡今川荘(三河) | |||||||
今川 基氏 | 太郎 | 存英 | 竜王丸 | 国氏長男 | 1323(65) | ↓ | ||||||
今川 頼国 | 式部大輔 | 頼基 太郎 |
基氏長男 | 1335 | ↓ | |||||||
今川 範国 | 従五位下 上総介 |
正光寺 悟庵心省 |
松丸 五郎 |
基氏五男 | 1384(90) | ↓ | 1336-38後 1352-65後 1379前-1384 遠江守護 1338-53 駿河守護 |
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今川 範氏 | 従五位下 中務大輔 |
慶寿寺 雲峰信慶 |
五郎 左馬助 上総介 |
範国長男 | 1352頃-65 | 1365(50) | ↓ 駿河国内 |
1352 遠江守護 1353-65 駿河守護 |
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今川 氏家 | 中務大輔 | 範氏長男 | 1365-68? | 1368? | ↓ | 駿河守護 | ||||||
今川 泰範 | 従四位下 上総介 |
長慶寺 大山法高 |
左馬助 宮内少輔 |
範氏二男 | 1368?-1409 | 1409 | 上杉朝顕女 | ↓ | 駿河守護 1400-04後 遠江守護 |
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今川 範政 | 従四位下 民部大輔 |
今林寺 慶堂道賀 |
五郎 上総介 |
泰範長男 | 1409-33 | 1433(70) | 上杉氏定女 | ↓ | 駿河守護 | |||
今川 範忠 | 従四位下 治部大輔 |
宝処寺 不二全公 |
彦五郎 上総介 民部大輔 |
範政二男 | 1433-61 | 1461(54) | ↓ | 駿河守護 | ||||
今川 義忠 | 従五位下 上総介 |
長保寺 桂山昌公 |
彦五郎 治部大輔 |
範忠長男 | 1461-76 | 1476(41) | 「北川殿」 (伊勢盛定女) |
↓ | 駿河守護 | |||
今川 氏親 | 従四位上 修理大夫 |
増善寺 喬山紹僖 |
竜王丸 五郎 上総介 治部大輔 |
義忠長男 | 1479-1526 | 1526(54) | 寿桂 (中御門宣胤女) |
↓ | 駿河守護 1508-26 遠江守護 |
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今川 氏輝 | 従五位下 上総介 |
臨済寺 用山玄公 |
竜王丸 五郎 |
氏親長男 | 1526-36 | 1536(24) | ↓ | 駿河・遠江守護 | ||||
今川 義元 | 従四位下 治部大輔 |
天沢寺 秀峰哲公 栴岳承芳 |
芳菊丸 | 氏親五男 | 1536-60 | 1560(42) | 武田信虎女 | ↓ | 駿河・遠江守護 | |||
今川 氏真 | 従四位下 上総介 |
仙巌院 豊山泰永 宗誾 |
竜王丸 五郎 彦五郎 |
義元長男 | 1560-69 ?-1614 |
1614(77) | 北条氏康女 | ↓ 1569失領 後、野洲郡内(近江) 500石 |
1560-69 駿河・遠江守護 後、徳川家臣 |
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今川 範以 | 左馬助 | 徳報院 秀山長英 |
五郎 | 氏真長男 | (早世) | 1607(38) | 吉良義安女 | |||||
今川 直房 | 従四位下 左少将 刑部大輔 |
浄峯院 松山青公 |
範英 五郎 主膳 主膳正 |
範以長男 | 1614-61 | 1661(68) | 立花宗茂養女 | ↓ 1645加増 1,000石 |
高家 子孫は代々 幕府の高家と して存続 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
今川 貞世 | 正四位下 伊予守 |
海蔵寺 徳翁了俊 |
六郎 左京大夫 |
今川範国二男 | 1418?(93?) | 土岐頼雄女 | 未詳→ 藤沢(相模)?→ 堀越郷(遠江) |
1366-67侍所頭人 1370-95九州探題 1371-95肥前守護 1371-90安芸守護 1371-79備後守護 1374-79豊前守護 1375-87筑前守護 1375-95筑後守護 1376-82薩摩守護 1376-84大隅守護 1378-95壱岐守護 1380-95肥後守護 1384-88,95-99 遠江守護 1385-?日向守護 1395-99 駿河半国守護 |
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今川 仲秋 | 右衛門佐 | 仲高 | 国泰 頼泰 中務少輔 |
範国四男 | 千葉某の女 | ↓ | 1368侍所頭人 後 肥前守護代 1388-99遠江守護 1393-98尾張守護 |
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今川 貞臣 | 従五位下 伊予守 |
義範 孫松丸 左京大夫 |
貞世長男 | 1399後-? | ↓ | |||||||
今川 貞相 | 従五位下 治部大輔 |
安楽寺 | 伊予守 | 貞臣男 | ↓ | |||||||
今川 範将 | 従五位下 陸奥守 |
安養寺 | 伊予守 治部少輔 |
貞相男 | ?-1464 | 1464 | ↓ | |||||
堀越 貞延 | 陸奥守 | 海雲東公 | 六郎 | 範将男 | 1464-74 | 1474 | ↓ | 今川家被官 | ||||
堀越 貞基 | 治部少輔 | 源六郎 | 貞延二男 | 1474-1537 | 1537 | ↓ | 今川家被官 | |||||
堀越 氏延 | 左京大夫 | 貞直 六郎 |
貞基男 | 1537-63 | ↓ 1563失領 |
今川家被官 | ||||||
【瀬名家】 |
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瀬名 弌秀 | 陸奥守 | 義秀 源五郎 |
貞延長男 | 瀬名村(駿河) | 今川家被官 | |||||||
瀬名 氏貞 | 陸奥守 | 松寿院 玉山 |
源五郎 | 弌秀長男 | 1538(42) | 貞基女 | ↓ | 今川家被官 | ||||
瀬名 氏俊 | 右衛門佐 | 徳雲寺 別山 |
貞綱 源五郎 伊予守 |
氏貞長男 | 今川氏親女 | ↓ (一時失領) |
今川家被官 | |||||
瀬名 信輝 | 伊予守 | 浄庵 | 氏詮 氏明 源五郎 左衛門佐 |
氏俊長男 | ?-1569 | 葛山氏元女 | ↓ 1569失領 |
今川家被官 | ||||
瀬名 政勝 | 十右衛門 | 玄紅 | 源五郎 | 氏明長男 | 1590前-1616 | 1616(51) | - | 1590前 復家 300石 1590入間郡内(武蔵) |
徳川家臣 | |||
瀬名清貞(政勝長男)が加増されて500石となり、旗本として代々存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
今川 直世 | 弾正少弼 | 氏兼 九郎 修理亮 越後守 |
今川範国三男 | ?-1374後 | 幡豆郡内(三河) | 越後守護代 | |||||
今川 頼春 | 直世二男 | ↓ | |||||||||
蒲原 氏頼 | 播磨守 | 頼春男 | 1432前-? | ↓ 1432庵原郡蒲原荘(駿河) 蒲原城に居住 |
今川家被官 | ||||||
蒲原 氏慶 | 兵部丞 | 氏頼男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
蒲原 貞氏 | 中務丞 | 氏慶男 | 1467頃 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
蒲原 満氏 | 左衛門尉 | 貞氏男 | 1489前-1536 | 1536 | ↓ | 今川家被官 | |||||
蒲原 氏徳 | 宮内少輔 | 氏政? | 満氏男 | 1536-60 | 1560 | ↓ | 今川家被官 | ||||
蒲原 徳兼 | 三郎左衛門尉 | 氏徳男 | 1560-68 | ↓ 1568失領 |
今川家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
富士 時棟 | 大宮司 | 和邇部信時男 | 1100頃 | 富士郡富士上方(駿河) | ||||||
富士 直世 | 大宮司 | 時棟男 | ↓ | |||||||
富士 直信 | 大宮司 | 直世男 | ↓ | |||||||
富士 信親 | 大宮司 | 直信男 | ↓ | |||||||
富士 信直 | 大宮司 | 信能 | 信親男 | ↓ | ||||||
富士 直則 | 大宮司 | 国能 | 信直男 | ↓ | ||||||
富士 則時 | 大宮司 | 直則男 | ↓ | |||||||
富士 直時 | 従五位下 中務権大輔 大宮司 |
則時男 | ?-1345 | ↓ | ||||||
富士 資時 | 大宮司 | 弥一丸 | 直時男 | 1345-? | ↓ | |||||
富士 成時 | 大宮司 | 資時男 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
富士 氏時 | 大宮司 | 成時男 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
富士 直氏 | 右馬介 大宮司 |
祐本 | 成時男 | ↓ | 今川家被官 | |||||
富士 政時 | 大宮司 | 直氏男 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
富士 忠時 | 能登守 大宮司 |
右馬助 | 直氏男 | 1462前-66 | ↓ | (一時、兄・政時と対立) 今川家被官 |
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富士 親時 | 能登守 大宮司 |
宮若丸 又次郎 |
忠時男 | 1466-93後 | ↓ | 今川家被官 | ||||
富士 信盛 | 能登守 大宮司 |
親時男 | 1493後-? | ↓ | 今川家被官 | |||||
富士 信忠 | 兵部少輔 大宮司 |
宮若 相模守 |
信盛男 | ?-1571前 | 1583 | ↓ | 今川家被官 | |||
富士 信通 | 蔵人 大宮司 |
中務丞 能登守 |
信忠男 | 1571前-? | ↓ | 今川家被官 後、武田家被官 |
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富士 信家 | 右馬助 大宮司 |
信通男 | ↓ | 武田家被官 後、徳川家被官 武家兼帯から 社家専任へ転換 |
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富士信公(信家男)以降、幕府直属の社家(大宮司家)として、浅間神社と近傍一帯を代々支配。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
井伊 共保 | 備中大夫 | 寂明 | 三国(?)共資男 | 1093? | 引佐郡井伊谷(遠江) | |||||||
井伊 共家 | 遠江介 | 良運 | 共政? 備中次郎 |
共保男 | 1165 | ↓ | ||||||
井伊 共直 | 遠江権介 | 正篤院 機峯祐関 |
政保? 兼政? 九郎 |
共家男 | ↓ | |||||||
井伊 惟直 | 新大夫 | 智良 | 政盛? 維政? 太郎 |
共直男 | ↓ | |||||||
井伊 盛直 | 太郎 | 浄密 | 道親? | 惟直男 | ↓ | |||||||
井伊 良直 | 太郎 | 楞厳院 本心正道 |
道貞? 次郎? |
盛直男 | ↓ | |||||||
井伊 弥直 | 太郎左衛門尉 | 正受院 観空自練 |
道直? | 良直男 | 1293 | ↓ | ||||||
井伊 道永 | 太郎 | 弥直長男? | 1323 | ↓ | ||||||||
井伊 道政 | 井伊介 | 太郎 | 道永長男 | 1354 | ↓ | (候南朝) | ||||||
井伊 高顕 | 井伊介 | 太郎 | 道政男 | ↓ 失領? |
(候南朝) | |||||||
井伊 道三 | 井伊介 | 井伊道勝 (道政男)の男 |
後、没落(消息未詳) | (候南朝) | ||||||||
【泰直系井伊家】 |
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井伊 泰直 | 左衛門尉 | 了等 | 次郎 | 弥直二男? | 1331 | 井伊谷領内 | 庶家 | |||||
井伊 行直 | 左衛門太郎 | 円定 | 泰直長男 | 1367 | ↓ | |||||||
井伊 景直 | 彦太郎 | 元寿 | 行直長男 | ↓ | ||||||||
井伊 時直 | 遠江介 | 景直男 | ↓ 井伊谷城 |
高顕系没落の後 に宗家となる |
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井伊 顕直 | 時直男? または兄弟? |
↓ | ||||||||||
井伊 諄直 | 顕直男? または兄弟? |
↓ | ||||||||||
井伊 成直 | 遠江権介 | 諄直男? または兄弟? |
1439 | ↓ | (時直~成直の 続柄は未詳) |
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井伊 忠直 | 弥太郎 | 義穏 | 成直男 | 1485 | ↓ | |||||||
井伊 直氏 | 弥太郎 | 常明院 寿岳道栄 |
次郎 | 忠直男 | 1508 | ↓ | (渋川井伊家= 泰直孫・直貞系 「井伊次郎」との 関係は未詳) |
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井伊 直平 | 信濃守 | 桂雲院 西月顕祖 |
修理亮 兵部少輔 |
直氏長男 | 1563(75) | 井伊安直女 | ↓ | 今川家被官 | ||||
井伊 直宗 | 宮内少輔 | 華蔵院 心翁昌安 |
直平長男 | ?-1542 | 1542 | 井平直郷女 | ↓ | 今川家被官 | ||||
井伊 直盛 | 信濃守 | 竜潭寺 天運道鑑 |
虎松 内匠助 |
直宗長男 | 1542-60 | 1560(35) | 新野親種女 | ↓ | 今川家被官 | |||
井伊 直親 | 肥後守 | 大藤寺 創峯宗慧 |
亀之丞 | 井伊直満 (直平二男) の男 |
1560-63 | 1563(27) | ひよ (奥山朝利女) |
↓ | 今川家被官 | |||
井伊 直虎 (女性) |
次郎法師 | 妙雲院 月船祐円 |
直盛女 | 1565-75 | 1582 | - | ↓ 1568失領 同年、復帰 1570再度失領 1573再度復帰 |
徳川家被官 | ||||
井伊 直政 | 従五位下 侍従 兵部少輔 |
虎松 万千代 |
直親長男 | 1575-1602 | 1602(42) | 花 (松平康親女) |
↓ 1590箕輪城 (上野)転封 |
徳川家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
奥山 朝清 | 左衛門太郎 | 蓮定 | 赤座共明 (井伊一族)男 |
1312 | 引佐郡奥山郷(遠江) | ||||||
奥山 盛朝 | 六郎 | 朝清二男 | ↓ | ||||||||
奥山 朝良 | 六郎次郎 | 道円 | 盛朝男 | ↓ | |||||||
奥山 直朝 | 越前守 | 朝良男 | 1375 | ↓ | (候南朝) | ||||||
奥山 朝藤 | 修理亮 | 六郎次郎 | 直朝男 | ↓ | (候南朝) | ||||||
奥山 朝実 | 六郎次郎 | 朝藤長男 | ↓ | ||||||||
奥山 助朝 | 中務少輔 | 朝実男? | ↓ | ||||||||
奥山 朝次 | 左京亮 | 助朝男 | ↓ | ||||||||
奥山 親朝 | 因幡守 | 朝次男? | ↓ | ||||||||
奥山 朝利 | 因幡守 | 親朝男 | 1562? | ↓ | 今川家被官 | ||||||
奥山 朝宗 | 因幡守 | 親秀 | 朝利男 | ?-1560 | 1560 | ↓ | 今川家被官 | ||||
奥山 朝忠 | 六左衛門 | 奇峯道雲 | 朝宗男 | 1560-1629 | 1629 | ↓ 1590井伊家に随従して 箕輪(上野)領内へ移転 1600佐和山(近江)領内 |
井伊家臣 子孫は彦根藩 笹之間詰(重臣) 700石 |
||||
【久頭郷奥山家】 |
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奥山 定則 | 金吾正 | 朝藤二男 | 1338久頭郷城(遠江) | (候南朝) | |||||||
(途中未詳) | |||||||||||
奥山 良茂 | 大膳亮 | 定則の裔 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
奥山 定之 | 能登守 | 良茂男 | 1560 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
奥山 貞益 | 民部少輔 | 定之長男 | 1569 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
奥山 定吉 | 加賀守 | 定之三男 | 大洞若子城(遠江) | 分立 | |||||||
奥山 吉兼 | 大膳亮 | 定吉男 | ↓ | はじめ分立 後に一家統合? 武田家被官 |
|||||||
奥山 定友 | 兵部丞 | 定之四男 | 小川城(遠江) | はじめ分立 後に吉兼跡式継承? 今川家被官 |
|||||||
奥山 友久 | 左近将監 | 定友男 | ↓ 1590井伊家に従い 箕輪領へ移る。 |
徳川家被官 後、井伊家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
鮎沢 惟兼 | 従五位上 四郎大夫 |
高橋惟康男 | 12C中葉 | 駿東郡葛山(駿河) | |||||||
葛山 惟忠 | 二郎 | 惟兼男 | ↓ | ||||||||
葛山 惟重 | 六郎 | 惟忠男 | 1180前-? | ↓ | |||||||
葛山 広重 | 左衛門尉 | 惟重男 | ↓ | ||||||||
葛山 惟時 | 次郎兵衛尉 | 広重男 | ↓ | ||||||||
葛山 惟行 | 六郎 | 惟時男 | ↓ | ||||||||
葛山 惟宗 | 次郎左衛門尉 | 惟行男 | ↓ | ||||||||
(途中未詳) | |||||||||||
葛山 駿河守 | 惟宗の裔? | 1434頃 | 葛山城 | ||||||||
葛山 氏広 | 駿河守との 関係未詳 |
1479頃 | ↓ | ||||||||
葛山 惟貞 | 備中守 | 氏広との 関係未詳 |
↓ | 今川家被官 | |||||||
葛山 氏時 | 左馬助 | 新六郎 | 伊勢盛時二男 | (後、別に玉縄 北条家を創設) |
↓ | 今川家被官 | |||||
葛山 氏堯 | 氏時男 | ↓ | 今川家被官 | ||||||||
葛山 氏広 | 中務大輔 | 竜光院 大円登雲 |
氏貞 | 氏時男 | 1524前-38/9 | 1538/9 | ↓ | 今川家被官 | |||
葛山 氏元 | 備中守 | 元氏 | 氏広 (中務大輔)男 |
1538/9-72? | 1573? | ↓ | 今川家被官 後、武田家被官 |
||||
葛山 信貞 | 十郎 | 義久 六郎 |
武田晴信六男 | 1572?-82 | 1582 | ↓ 1582滅亡 |
武田家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
岡辺 清綱 | 駿河権守 | 藤原維綱男 | 志太郡岡部(辺)郷(駿河) | ||||||||
岡部 泰綱 | 駿河権守 | 清綱男 | 13C前半 | ↓ | |||||||
岡部 忠綱 | 八郎 | 泰綱男 | ↓ | ||||||||
岡部 長綱 | 小次郎 | 忠綱男 | ↓ | (以後、時綱までの 継承は確認できず) |
|||||||
岡部 家綱 | 左京大夫 | 長綱男 | ↓ | ||||||||
岡部 康綱 | 権守 | 太郎 | 家綱男 | ↓ | |||||||
岡部 照綱 | 次郎 | 康綱男 | ↓ | ||||||||
岡部 時綱 | 左兵衛尉 | 明綱 | 照綱男 | ↓ | |||||||
岡部 永綱 | 和泉守 | 時綱男 | 1423頃 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
岡部 春綱 | 石見守 | 良喜 | 永綱男 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
岡部 良綱 | 石見守 | 春綱男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
岡部 仲綱 | 次郎 | 良綱男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
岡部 信綱 | 美濃守 | 常慶 | 久綱 | 仲綱男 | 1547 | ↓ 高田(駿河) |
今川家被官 | ||||
岡部 正綱 | 次郎右衛門尉 | 吸江院 好雪道龐 |
信綱長男 | ?-1583 | 1583(42) | ↓ 1568清水城(駿河) 1582駿河・甲斐二国内 |
今川家被官 後、武田家臣 後、徳川家臣 |
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岡部 長盛 | 従五位下 内膳正 |
半弥 弥次郎 |
正綱長男 | 1584-1632 | 1632(65) | ↓ 1590山崎(下総) 1609亀山城(丹波)転封 |
徳川家臣 | ||||
【岡部和泉守家】 |
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岡部 和泉守 | 春綱男? | 未詳 | 今川家被官 | ||||||||
岡部 左京進 | 和泉守男? | 今川家被官 | |||||||||
岡部 親綱 | 左京進 | 玄忠 | 二郎 | 左京進男 | 1562 | 今川家被官 | |||||
岡部 元信 | 丹波守 | 宗心 | 長教 真幸 元綱 五郎兵衛尉 |
親綱男 | ?-1581 | 1581 | 今川家被官 後、武田家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
天野 遠景 | 民部丞 | 蓮景 | 藤原景光男 | ?-1207後 | 田方郡天野荘 (伊豆) |
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天野 政景 | 和泉守 | 覚正仏円 | 六郎 | 遠景長男 | 1219前-39後 | ↓ 安芸国などにも所領 |
長門守護 | ||||
天野 景氏 | 次郎左衛門尉 | 政景二男 | ↓ | ||||||||
天野 景茂 | 新左衛門尉 | 景氏男 | ↓ (以後未詳) |
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【犬居天野家】 |
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天野 景経 | 安芸守 | 真阿心義 | 七郎左衛門尉 | 政景七男 | 1252(63) | 周智郡山香荘(遠江) | |||||
天野 遠時 | 周防守 | 経景? | 景経長男 | ↓ | |||||||
天野 経顕 | 周防七郎左衛門尉 | 遠時男 | 1336 | ↓ | |||||||
天野 経政 | 三郎 | 経顕男 | ↓ | ||||||||
天野 景隆 | 下野守 | 近江守 | 経政男 | 1375前-82後 | ↓ | ||||||
天野 秀政 | 安芸守 | 修理亮 | 景隆男 | 1400頃 | ↓ | ||||||
天野 景政 | 左京亮 | 秀政男 | ↓ 犬居城を築く |
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天野 景顕 | 安芸守 | 景政男 | ↓ | ||||||||
(途中未詳) | |||||||||||
天野 安芸守 | 景政の裔 | ↓ | 今川家被官 | ||||||||
天野 景泰 | 安芸守 | 安芸守の男 | ?-1563 | ↓ 1563今川家に離反 |
今川家被官 | ||||||
天野 藤秀 | 宮内右衛門尉 | 犬房 小四郎 |
天野虎景男 | 1563-? | 秋葉城主 1563犬居の跡式を継ぐ |
今川家被官 | |||||
天野 景貫 | 安芸守 | 小四郎 宮内右衛門尉 |
藤秀男 | ?-1573 | ↓ 1573失領 |
今川家被官 後、徳川家被官 後、武田家被官 |
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【天野三郎兵衛家】 |
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天野 遠房 | 縫殿助 | 景政の裔 | 16C前半 | (三河国内) | 松平家臣 | ||||||
天野 景隆 | 甚右衛門 | 正欣 | 遠房男 | 1580(78) | 松平家臣 | ||||||
天野 康景 | 三郎兵衛 | 興圀寺 報誉宗恩 |
景能 又五郎 |
景隆男 | ?-1607 | 1613(77) | 1586采地知行 1590大須賀(下総) 3,000石 1601興国寺城(駿河) 10,000石 1613争論退去、改易 |
徳川家臣 | |||
天野康宗(従五位下・対馬守。康景長男)が1628復家、1,000石の旗本として代々存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
由比 光高 | 大五郎 | 大宅光延男 | 13C中葉 | 庵原郡由比郷(駿河) | |||||||
由比 為光 | 大次郎 | 光高男 | ↓ | ||||||||
由比 光朝 | 左衛門尉 | 為光男 | ↓ | ||||||||
由比 光時 | 大四郎 | 浄円 | 光朝男 | 1380頃 | ↓ | 今川家被官 | |||||
由比 光茂 | 西山季茂男 光時外孫 |
↓ | 今川家被官 | ||||||||
(途中未詳) | |||||||||||
由比 光規 | 豊前守 | 光茂の裔 | ?-1523後 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
由比 光澄 | 寅寿丸 | 光規男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
由比 光資 | 助太郎 | 光澄男 | ?-1568 | ↓ 1568失領 |
今川家被官 | ||||||
【川入由比家】 |
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由比 光行 | 弥五郎 | 光茂の裔 | 15C後半 | 川入城(駿河) | 今川家被官 | ||||||
由比 直任 | 孫二郎 | 光行男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
由比 光家 | 五郎二郎 | 直任男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
由比 光張 | 光家男 | ↓ | 今川家被官 | ||||||||
由比 光教 | 助四郎 | 光張男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
由比 正信 | 美作守 | 由比安忠(直任孫)男 | ?-1560 | 1560 | ↓ | 今川家被官 | |||||
由比 正純 | 出羽守 | 正信男 | 1560-69 | 1569 | ↓ 1569滅亡 |
今川家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
三浦 朝信 | 三浦朝村男? | 13C後半 | 未詳 | ||||||||
三浦 朝久 | 四郎左衛門尉 | 朝信男 | |||||||||
三浦 宗久 | 太郎左衛門尉 | 朝久男 | 1352頃 | 安倍郡安東荘(駿河) | |||||||
三浦 高久 | 遠江守 | 宗久男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
三浦 範永 | 隠岐守 | 高久男 | ↓ | 今川家被官 (同時代の「三浦安芸守」 との関係は未詳) |
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三浦 範高 | 次郎左衛門尉 | 範永男 | 1476頃 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
三浦 氏員 | 上野介 | 範時? | 範高男 | ↓ | 今川家被官 (代数に欠落あるか?) |
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三浦 氏満 | 次郎左衛門尉 | 三休 喜春 |
氏俊 | 氏員男 | 1630(83) | ↓ 1568失領 後、徳川家内で扶持 後代350石で存続 |
今川家被官 後、武田家臣 後、北条家臣 後、徳川家臣 |
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【三浦備後守家】 |
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三浦 正俊 | 備後守 | 内匠助 | 朝信の裔 | 1565 | 未詳 | 今川家被官 | |||||
三浦 真俊 | 与次 | 正俊男 | 1568没落 | 今川家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
浜名 頼氏 | 源頼政の裔 | 13C後半 | 浜名郡浜名(遠江) | ||||||||
浜名 清政 | 左近大夫 | 鵺代二郎 | 頼氏男 | ↓ 1348佐久城を築く |
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浜名 詮政 | 備中守 | 清政男 | 1375前-81後 | ↓ | |||||||
浜名 満政 | 備中守 | 詮政男 | ↓ | ||||||||
浜名 持政 | 兵庫助 | 満政男 | ↓ | ||||||||
浜名 政義 | 隼人正 | 持政男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
浜名 政明 | 備中守 | 三郎 兵庫助 |
政義男 | 1487前-1522後 | ↓ | 今川家被官 | |||||
浜名 頼親 | 政明男 | ↓ | 今川家被官 | ||||||||
浜名 正国 | 三郎 | 頼親男 | ?-1560後 | ↓ | 今川家被官 | ||||||
浜名 頼広 | 肥前守 | 重政? 三郎 兵庫助 |
正国男 | 1560後-68 | ↓ 1568失領 |
今川家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
興津 美作守 | 入江(興津) 維道の裔 |
1356頃 | 1356後 庵原郡横山城(駿河) |
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(途中未詳) | |||||||||||
興津 盛綱 | 左衛門尉 | 覚阿 | 彦九郎 | 美作守の裔 | 1528 | ↓ | 今川家被官 | ||||
興津 彦九郎 | 宗鉄 | 盛綱男? | ↓ | 今川家被官 | |||||||
興津 清房 | 左衛門尉 | 彦九郎 | 宗鉄男? | ?-1561後 | ↓ 1561後 廃絶? |
今川家被官 | |||||
【興津美濃守家】 |
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興津 久信 | 美濃守 | 美作守の裔 または同族 |
1514頃 | 横山領内? | 今川家被官 (美作守系との 宗支関係未詳) |
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興津 正信 | 藤兵衛尉 | 久信男? | 今川家被官 | ||||||||
興津 信綱 | 美濃守 | 弥四郎 | 正信男? | ?-1568 | 1561以降惣領家? 横山城主? 1568失領 |
今川家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
持明院 基秀 | 左中将 | 持明院家藤 (公家)男 |
1362頃 | 1362後 敷智郡堀江城(遠江) |
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大沢 基久 | 従四位下 侍従 左衛門佐 |
基秀男 | ↓ | ||||||||
大沢 基武 | 治部大輔 | 基久男 | ↓ | (以後、基相までの 世系の正確性は未詳) |
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大沢 基利 | 右兵衛佐 | 基武男 | ↓ | ||||||||
大沢 基景 | 左衛門佐 | 基利男 | ↓ | ||||||||
大沢 基輝 | 治部大輔 | 基景男 | ↓ | このころ今川家被官 | |||||||
大沢 基房 | 左衛門佐 | 基輝男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
大沢 基相 | 治部大輔 | 基房男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
大沢 基胤 | 左衛門佐 | 月江院 雪天長盛 |
基相男 | 1605(80) | ↓ | 今川家被官 後、徳川家被官 |
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大沢 基宿 | 正四位下 左中将 兵部大輔 |
真休斎 | 民部 | 基胤長男 | 1588前-1632 | 1640(76) | ↓ 1590小滝(上総) 1600堀江 1,550石 |
高家 | |||
大沢基重(従四位下・侍従・右京亮。基宿長男)以後、代々高家として存続、後代5,562石。 大沢基寿が1868年、明治政府に10,006石と申告、「堀江藩」を自称するも、廃藩置県後に虚偽が発覚して取り消される。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
飯尾 長連 | 善左衛門尉 | 飯尾親実男? | 1476 | 駿河国内 | 今川家被官 | ||||||
飯尾 賢連 | 善左衛門尉 | 長連男 | ↓ 1516引間城(遠江) |
今川家被官 | |||||||
飯尾 乗連 | 豊前守 | 善四郎 | 賢連男 | ?-1560 | 1560 | ↓ | 今川家被官 | ||||
飯尾 連竜 | 豊前守 | 致実 善四郎 |
乗連男 | 1560-65 | 1565 | ↓ 1565誅殺、滅亡 |
今川家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
加々爪 政定 | 修理亮 | 太郎 | 上杉(八条)満定男 (今川範政猶子) |
15C中葉 | 未詳 | 今川家被官 | |||||
加々爪 忠定 | 右京亮 | 政定男 | 山名郡山名新池郷 (遠江) |
今川家被官 | |||||||
加々爪 政泰 | 右京亮 | 忠定男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
加々爪 泰定 | 右京亮 | 藤八 | 政泰男 | 1547 | ↓ | 今川家被官 | |||||
加々爪 政豊 | 備前守 | 松月 | 千増 | 泰定男 | ?-1592? | 1621 | ↓ 1568徳川家に降伏 本領安堵 1590高座郡内(相模) |
今川家被官 後、徳川家臣 |
|||
加々爪 政尚 | 従五位下 隼人正 |
東雲院 雪岡宗渓 |
甚十郎 民部 備後守 |
政豊二男 | 1592?-96 | 1596(35) | 1592高坂(武蔵) 3,000石 |
徳川家臣 | |||
加々爪 忠澄 | 従五位下 民部少輔 |
宗黒 | 甚十郎 | 政尚長男 | 1596-1641 | 1641(56) | ↓ 後、累増 1632加増 9,500石 |
大目付 | |||
加々爪 直澄 | 従五位下 甲斐守 |
名月庵鑑 | 藤八郎 次郎右衛門 甚十郎 |
忠澄長男 | 1641-79 | 1685(76) | ↓ 1641前封を加え 10,000石 掛塚(遠江)近傍 1668加増 13,000石 |
寺社奉行 | |||
加々爪 直清 | 従五位下 土佐守 |
図書 | 石川総長二男 | 1679-81 | 1685(43) | ↓ 1681落度改易 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
朝比奈 泰永 | 丹後守 | 吉俊 | 朝比奈泰智男? | 15C後半 | 益津郡内(駿河)? | 今川家被官 | |||||
朝比奈 泰煕 | 備中守 | 丹波守 | 泰永男 | ?-1512 | 1512 | 1469後 掛川城(遠江) | 今川家被官 | ||||
朝比奈 泰能 | 備中守 | 泰就 又太郎 弥次郎 |
泰煕男 | 1512-57 | 1557 | ↓ | 今川家被官 | ||||
朝比奈 泰朝 | 備中守 | 左京亮 | 泰能男 | 1557-69 | ↓ 1569退去、失領 |
今川家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
江川 英住 | 左馬亮 | 正慶 | 江川英房 (久朝?)男 |
15C末 | 1515 | 田方郡内(伊豆) | 北条家被官 | ||||
江川 英盛 | 肥前守 | 日了 | 久盛 彦五郎 |
英住長男 | 1520 | ↓ | 北条家被官 | ||||
江川 英景 | 彦左衛門尉 | 日祐 | 吉久 | 英盛長男 | 1532 | ↓ | 北条家被官 | ||||
江川 英元 | 太郎右衛門尉 | 日立 | 吉直 吉茂 孫太郎 兵衛大夫 肥前守 |
英景長男 | 1532-61 | 1561(49) | ↓ | 北条家被官 | |||
江川 英吉 | 肥前守 | 善祐日運 | 孫太郎 太郎左衛門 |
英元長男 | 1561-90 | 1625(80) | ↓ 1590没落 |
北条家被官 | |||
江川 英長 | 太郎左衛門 | 荷年日啓 | 英吉長男 | 1590-1615後 | 1632(72) | 1590徳川家より所領安堵 物成十分の一付与 1601後 韮山(伊豆)代官 同地周辺一帯を管理 |
徳川家臣 | ||||
江川英政(英長三男)以降、韮山代官を世襲。後代、英暉のとき蔵米150俵に変更、代々存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
清水 某 | 盛吉? | 未詳 | 15C末 | 賀茂郡加納(伊豆) | 北条家被官 | ||||||
清水 綱吉 | 上野介 | 太郎左衛門尉 | 某の男 | 1523前-41後 | ↓ | 北条家被官 | |||||
清水 康英 | 上野介 | 常楽寺 茂林祖繁 |
太郎左衛門尉 | 綱吉男 | 1541後-86前 | 1591(60) | ↓ (致仕後、1590年 下田城将となる) |
北条家被官 | |||
清水 政勝 | 太郎左衛門 | 本政院 玉巌意笑 正花 |
新七郎 | 康英二男 | 1586前-90 | 1616 | ↓ 1590失領 1600結城秀康に 仕え、後に越前国内 1,025石 |
北条家被官 後、結城家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
松井 宗能 | 山城守 | 松井山城守男 | 16C初頭? | 城東郡平川郷(遠江) 堤城に居住 |
今川家被官 | ||||||
松井 貞宗 | 兵庫助 | 八郎 | 宗能男 | 1563前 | ↓ | 今川家被官 | |||||
松井 信薫 | 左衛門尉 | 心応正前 | 義行? 兵庫助 山城守 |
貞宗長男 | ?-1529 | 1529 | ↓ 1514二股城(遠江) |
今川家被官 | |||
松井 宗信 | 左衛門佐 | 寂応自空 | 五郎八郎 兵部少輔 |
貞宗二男 | 1529-60 | 1560(46) | ↓ | 今川家被官 | |||
松井 宗恒 | 山城守 | 八郎 | 宗信男 | 1560-68後 | ↓ 1568家臣団が 徳川家に降伏 宗恒は武田家へ |
今川家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
小笠原 長高 | 信濃守 | 浄願 | 豊若丸 彦五郎 右馬助 左京大夫 |
小笠原貞朝長男 | 1544(57) | 知多郡名和(尾張) 後 幡豆郡内(三河) 後 浅羽荘(遠江) 馬伏塚城に居住 |
織田家被官 後、吉良家被官 後、今川家被官 |
||||
小笠原 春義 | 左京進 | 春義 | 長氏 豊千代 彦太郎 与八郎 左京大夫 |
長高長男 | 1572 | ↓ 1521高天神城(遠江) |
今川家被官 | ||||
小笠原 氏清 | 美作守 | 泰翁 | 氏興 豊若 彦五郎 与八郎 左京進 |
春義長男 | ?-1569 | 1569 | ↓ | 今川家被官 後、徳川家被官 |
|||
小笠原 信興 | 弾正忠 | 氏義 氏助 長忠? 与八郎 |
氏清長男 | 1569-82 | 1590? | ↓ 1582失領 後、誅殺 |
徳川家被官 後、武田家被官 |
||||
小笠原 義頼 | 右京進 | 道鉄 | 茂頼 豊松 彦五郎 弥八郎 |
春義四男 | 1582-? | 1613(79) | 1582復家 馬伏塚城 後、横須賀領附属 3,300石 |
徳川家臣 長男・義信以降は 紀伊徳川家臣 |
|||
小笠原胤次(従五位下・肥前守。義信曽孫)が1716旗本となり、4,500石で代々存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
庵原 政盛 | 左衛門尉 | 近江蒲生一族の裔? | 16C前半 | 庵原郡庵原 庵原城(駿河)に居住 |
今川家被官 | ||||||
庵原 忠職 | 忠次? | 政盛男 | ↓ | 今川家被官 | |||||||
庵原 忠胤 | 安房守 | 由比忠任男 | ?-1568 | ↓ 1568失領 |
今川家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 領主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔久野家(前期)〕 |
|||||||||||
久野 宗隆 | 佐渡守 | 遠江久野一族 | 16C前半 | 山名郡久野(遠江) 久野城を築く |
今川家被官 | ||||||
久野 忠宗 | 三郎左衛門尉 | 宗隆男? | ↓ | 今川家被官 | |||||||
久野 元宗 | 三郎四郎 | 宗忠 | 忠宗長男 | ?-1560 | 1560 | ↓ | 今川家被官 | ||||
久野 宗能 | (下段参照) | (下段参照) | 1560-90 | ↓ 1590佐倉(下総)近傍? 13,000石 (まもなく致仕。 以後は下段参照) |
今川家被官 後、徳川家臣 |
||||||
〔松下家〕 |
|||||||||||
松下 之綱 | 従五位下 石見守 |
正寿院 真誉長参 |
熊太郎 加兵衛 肥前守 |
松下長則長男 | 1590-98 | 1598(62) | 碧海郡松下郷(三河) 父の所領継承 後、頭陀寺城(遠江) 1574後 失領 1583羽柴家臣として 丹波等二国内に所領 2,000石(累増6,000石) 1590久野城 16,000石 |
今川家被官 後、豊臣家臣 |
|||
松下 重綱 | 従五位下 石見守 |
左助 右兵衛尉 |
之綱二男 | 1598-1603 | ↓ 1603小張(常陸)転封 1616烏山城(下野)転封 |
||||||
〔久野家(後期)〕 |
|||||||||||
久野 宗能 (再封) |
三郎左衛門 | 大得院 宗安 |
忠宗三男 | 1603-09 | 1609(83) | 下総国内にて致仕後、 長男・宗朝(従五位下・ 民部少輔)が継ぐが、 1596殺人の後に自殺 宗能が旧領のうち 1,000石で再封 1603久野城に復帰 8,500石 |
|||||
久野 宗成 | 従五位下 丹波守 |
金五郎 | 久野宗朝二男 (父の罪により 祖父・宗能の 養子となる) |
1609-19 | 1625(44) | ↓ 1611徳川頼宣に附属 1619田丸城(伊勢)転封 |
|||||
〔北条家〕 |
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北条 氏重 | 従五位下 出羽守 |
久太郎 | 保科正直四男 北条氏勝養子 |
1619-40 | 1658(64) | 1611岩富(下総)襲封 10,000石 1613富田(下野) 1619久野城 1640関宿城(下総)転封 |
大番頭 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 城主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔北条家〕 |
|||||||||||
北条 氏規 | 美濃守 | 助五郎 左馬助 |
北条氏康四男 | 1569-? 1579-82 1588-90 |
1600(56) | 1567三崎(相模)城主として 韮山城将(伊豆)を三度兼任 1590失領 1591丹南郡内(河内)復封 |
北条家臣 | ||||
〔内藤家〕 |
|||||||||||
内藤 信成 | 三左衛門 | 嶋田景信二男 内藤清長養子 |
1590-1601 | 1612(68) | 1565中島(三河)新封 1589常光寺城(甲斐) 6,000石 1590韮山城 10,000石 1601駿河府中城転封 |
徳川家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔徳川家〕 |
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徳川 家康 | (在城1570-86。江戸幕府徳川家を参照) | |||||||||||
〔土岐家(徳川家の城代)〕 |
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菅沼(明智) 定政 |
藤蔵 | 愛菊 | 明智定明長男 | 1586-90 (城代) |
1597(47) | 鳥居元忠女 | 1582切石(甲斐)知行 1586浜松城代となり 徳川世子・秀忠を補佐 1590守谷(下総)転封 |
徳川家臣 | ||||
〔堀尾家〕 |
||||||||||||
堀尾 吉晴 | 従四位下 帯刀 |
法雲院 松庭世栢 |
可晴 吉定 吉直 二王丸 小太郎 毛介 |
堀尾泰晴男 | 1590-99 | 1611(69) | 津田某の女 | 1582氷上郡内(丹波) 1583高浜城(若狭) 17,000石 1584坂本城(近江) 20,000石 1585佐和山城(近江) 40,000石 1590浜松城(遠江) 120,000石 |
中老 (豊臣政権) |
|||
堀尾 忠氏 | 正五位下 信濃守 |
弥介 | 吉晴二男 | 1599-1600 | 1604(28) | 前田玄以女 | ↓ 1600富田城 (出雲)転封 |
|||||
〔松平(桜井)家〕 |
||||||||||||
松平 忠頼 | 従五位下 左馬允 |
円通院 観翁浄喜 |
松平忠吉二男 松平家広養子 |
1601-09 | 1609(28) | 織田長益女 | 1601松山城 (武蔵)襲封 25,000石 同年、浜松城 50,000石 1609横死、改易 1610長男・忠重が 深谷(武蔵)領内に 再封、復家 1622佐貫城(上総) |
|||||
〔水野(重央系)家〕 |
||||||||||||
水野 重央 | 従五位下 出雲守 |
重信 重仲 藤四郎 藤次郎 対馬守 |
水野忠分三男 | 1609-19 | 1621(52) | 安部信盛養妹 | 徳川領内にて知行 5,500石 1592武蔵・上総二国内 7,000石 1608徳川頼宣に附属 水戸(常陸)領内 10,000石 1609浜松城 25,000石 1617加増 35,000石 1619新宮城 (紀伊)転封 |
大番頭 | ||||
〔高力家〕 |
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高力 忠房 | 従五位下 摂津守 |
忠長 左近 左近大夫 |
高力正長長男 | 1619-38 | 1655(72) | まん (真田信之女) |
1599岩槻城 (武蔵)襲封 20,000石 1619浜松城 31,500石 1634加増 36,500石 1638島原城 (肥前)転封 |
奏者番 | ||||
〔松平(大給)家〕 |
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松平 乗寿 | 従五位下 和泉守 |
乗勝 源次郎 |
松平家乗長男 | 1638-44 | 1654(55) | 松平康長女 | 1614岩村城 (美濃)襲封 20,000石 1638浜松城 35,000石 1644館林城 (上野)転封 |
奏者番 | ||||
〔太田家〕 |
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太田 資宗 | 従五位下 備中守 |
瑞華院 道顕日応 |
康資 新六郎 摂津守 采女正 |
太田重正二男 太田勝=梶 (重正の妹、 または姪。 徳川家康妾) の養子 |
1644-71 | 1680(81) | 板倉重宗女 | 1638西尾城(三河) 35,000石 1644浜松城 |
六人衆 (=若年寄) |
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太田 資次 | 従五位下 摂津守 |
資世 左馬助 |
資宗二男 | 1671-78 | 1684(56) | 本多忠利女 長(宗義成女) |
↓ 1671分知 32,037石 1678摂津等五国内 転封(大坂城代) |
寺社奉行 | ||||
〔青山家〕 |
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青山 宗俊 | 従四位下 因幡守 |
蟠竜院 義辺寸忠 |
光俊 伊勢千代 藤五郎 |
青山忠俊長男 | 1678-79 | 1679(76) | - | 1662摂津等六国内 50,000石(大坂城代) 1678浜松城 |
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青山 忠雄 | 従五位下 和泉守 |
凌松院 広巌紹闊 |
忠親 伊勢千代 |
宗俊二男 | 1679-85 | 1685(35) | 真田信政女 | ↓ | ||||
青山 忠重 | 従五位下 下野守 |
冬松 喜大夫 |
宗俊三男 | 1685-1702 | 1722(69) | 青山幸通女 青山幸実女 |
↓ 1702亀山城 (丹波)転封 |
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〔松平(本庄)家(第一期)〕 |
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松平 資俊 | 従四位下 侍従 伯耆守 |
源徳院 静誉善澄 義海 |
宗俊 辰之助 太郎三郎 太郎兵衛 安芸守 豊後守 |
本庄宗資二男 | 1702-23 | 1723(64) | 佐野勝由女 | 1699笠間城 (常陸)襲封 50,000石 1702浜松城 70,000石 1705称松平 |
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松平 資訓 | 1723-29 | (下段参照) | ||||||||||
〔松平(大河内)家〕 |
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松平 信祝 | 従四位下 侍従 伊豆守 |
万松院 泰叟道雲 |
信高 亀千代 甲斐守 |
松平信輝長男 | 1729-44 | 1744(62) | 種=稲子 (酒井忠挙養女) |
1712吉田城(三河) 70,000石 1729浜松城 |
老中 | |||
松平 信復 | 従五位下 伊豆守 |
泉四郎 左衛門佐 |
信祝長男 | 1744-49 | 1768(50) | - | ↓ 1749吉田城転封 |
|||||
〔松平(本庄)家(第二期)〕 |
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松平 資訓 | 従四位下 侍従 豊後守 |
大隆院 興誉仁岳 寂然 |
宗惇 資惇 捨五郎 主膳 図書頭 |
佐野勝由二男 (本庄宗資の 姉の孫) |
1749-52 | 1752(53) | 有馬頼元女 浅野綱長女 松平輝貞養女 |
1723浜松城襲封 70,000石 1723吉田城 (三河)転封 1749浜松城 |
京都所司代 | |||
松平 資昌 | 富之助 | 豊之助 | 資訓四男 | 1752-58 | 1762(19) | - | ↓ 1752宮津城 (丹後)転封 |
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〔井上家(第一期)〕 |
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井上 正経 | 従四位下 侍従 大和守 |
保光院 善徳登竜 日門 |
正賢 利容 正燕 民部 河内守 |
井上正之長男 | 1758-66 | 1766(42) | 町子 (仙石政房女) |
1756摂津等四国内 60,000石(大坂城代) 1758浜松城 |
老中 | |||
井上 正定 | 従五位下 河内守 |
善隆院 義勇日詠 |
岑有 銕之進 |
正経二男 | 1766-86 | 1786(33) | 松平乗佑女 土岐定経女 |
↓ | 寺社奉行 | |||
井上 正甫 | 従五位下 河内守 |
武三郎 直之助 |
正定長男 | 1786-1817 | 1858(80) | 峯 (真田幸弘女) 松平武寛女 喜 (織田信浮女) |
↓ 1817棚倉城 (陸奥)転封 |
奏者番 | ||||
〔水野(忠元系)家〕 |
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水野 忠邦 | 従四位下 侍従 越前守 |
英烈院 忠亮孝友 |
於菟五郎 式部少輔 和泉守 左近将監 松軒 菊園 |
水野忠光二男 | 1817-45 | 1851(58) | 嗣 (酒井忠進女) |
1812唐津城 (肥前)襲封 60,000石 1817浜松城 70,000石 1845蟄居 |
老中 | |||
水野 忠精 | 金五郎 | 忠邦長男 | 1845 | 1884(53) | - | 1845父の失政により 減封2万石の上、 山形城(出羽)転封 |
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〔井上家(第二期)〕 |
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井上 正春 | 従四位下 侍従 河内守 |
亀丸 | 正甫長男 | 1845-47 | 1847(42) | 阿部正精女 於昌 (松平忠学養女) |
1836館林城(上野) 60,000石 1845浜松城 |
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井上 正直 | 侍従 河内守 |
英之助 | 正春四男 | 1847-68 | 1904(68) | 芳(松平忠固女) 行(板倉勝殷女) |
↓ 1868上総国内へ転封 |
老中 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔松平(大須賀)家(第一期)〕 |
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大須賀 康高 | 五郎左衛門尉 | 大須賀正綱男 | 1581-89 | 1589(63) | 1580横須賀城(遠江) | |||||||
大須賀 忠政 | (下段参照) | (下段参照) | 榊原康政長男 (康高外孫) |
1589-90 | (下段参照) | |||||||
〔渡瀬家〕 |
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渡瀬 繁詮 | 左衛門佐 | 氏繁 繁勝 重詮 小次郎 |
由良成繁二男 | 1590-95 | 1595 | 有馬則頼女 | 1585前 豊臣家臣 1590横須賀城 30,000石 1595豊臣秀次に 連座して改易、賜死 |
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〔有馬家〕 |
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有馬 豊氏 | 従五位下 玄蕃頭 |
万助 | 有馬則頼二男 | 1595-1600 | 1642(74) | 連 (松平康直女・ 徳川家康養女) |
1595新封、横須賀城 30,000石 1600福知山城 (丹波)転封 |
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〔松平(大須賀)家(第二期)〕 |
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松平 忠政 | 従五位下 出羽守 |
華馨院 泰誉叟安 |
国千代 五郎左衛門 |
榊原康政長男 (康高外孫) |
1601-07 | 1607(27) | 松平康元女 =徳川家康養女 |
1589横須賀城襲封 1590久留里城(上総) 30,000石 1601横須賀城復帰 60,000石 |
1602称松平 | |||
松平 忠次 | 五郎左衛門 | 国千代 | 忠政長男 | 1607-15 | 1665(61) | - | ↓ 1615館林城(上野) 榊原康勝の継嗣と なり、当家は廃絶 |
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〔松平(能見)家〕 |
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松平 重勝 | 従五位下 大隅守 |
松岳院 雄誉助白 |
伝三郎 次郎右衛門 越前守 |
松平重吉四男 | 1619-20 | 1620(72) | 鳥居忠吉女 | 1617関宿城(下総) 26,000石 1619横須賀城 |
駿府城代 | |||
松平 重忠 | 従五位下 丹後守 |
重政 伝三郎 |
重勝長男 | 1620-22 | 1626(57) | 毛利高政女 | ↓ 1622上山城 (出羽)転封 |
駿府城代 | ||||
〔井上家〕 |
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井上 正就 | 従五位下 主計頭 |
忠源院 隆昌日操 |
半九郎 | 井上清秀三男 | 1622-28 | 1628(52) | 市川孫左衛門女 | 徳川領内で知行 150石、後累増 1615加増(地未詳) 10,000石 1622横須賀城 52,500石 |
加判 | |||
井上 正利 | 従五位下 河内守 |
大学助 | 正就長男 | 1628-45 | 1675(70) | 鳥居成次女 | 1628分知 47,500石 1645笠間城 (常陸)転封 |
奏者番 | ||||
〔本多家〕 |
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本多 利長 | 従五位下 越前守 |
石見 | 本多忠利六男 | 1645-82 | 1692(58) | 松平正綱女 | 1645岡崎城 (三河)襲封 50,000石 同年、横須賀城 1682不行跡減知 村山郡内(出羽)転封 |
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〔西尾家〕 |
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西尾 忠成 | 従五位下 隠岐守 |
東麟院 元彩祥鳳 |
勝之助 右京 |
西尾忠昭長男 | 1682-1713 | 1713(61) | 丹羽光重女 | 1679小諸城(信濃) 25,000石 1682横須賀城 |
||||
西尾 忠尚 | 従四位下 侍従 隠岐守 |
高鳳院 徳巌道樹 |
忠直 千次郎 播磨守 |
忠成四男 | 1713-60 | 1760(72) | 辨子 (京極高豊女) |
↓ 1745加増 30,000石 1749加増 35,000石 |
老中 | |||
西尾 忠需 | 従四位下 主水正 |
寿量院 覚翁乗蓮 |
安三郎 主水 |
京極高或二男 | 1760-72 | 1789(74) | - | ↓ | 奏者番 | |||
西尾 忠移 | 従五位下 隠岐守 |
慈徳院 覚体天光 |
尚親 金三郎 兵部 山城守 |
忠需二男 | 1772-1801 | 1801(56) | 千賀 (田沼意次女) |
↓ | 寺社奉行 | |||
西尾 忠善 | 従五位下 隠岐守 |
高徳院 傑山道寿 |
栄次郎 右衛門佐 右京亮 (致仕後) 豊後守 |
牧野貞長四男 | 1801-29 | 1830(63) | 年(忠移女) | ↓ | 奏者番 | |||
西尾 忠固 | 従五位下 隠岐守 |
戒珠院 粛堂瑞光 |
剛之丞 右京亮 (致仕後) 豊後守 |
忠善四男 | 1829-43 | 1857(47) | 璋 (松平宗発女) |
↓ | ||||
西尾 忠受 | 従五位下 隠岐守 |
高俊院 仙峰道安 華渓 |
式部少輔 | 酒井忠実三男 | 1843-61 | 1861(41) | 錠 (土岐頼布女) |
↓ | 奏者番 | |||
西尾 忠篤 | 隠岐守 | 鎰之助 | 忠受長男 | 1861-68 | 1910(61) | 瑟子 (松平親良女) 明子 (堀越角次郎女) |
↓ 1868花房(安房)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔山内家〕 |
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山内 一豊 | 従五位下 対馬守 |
辰之助 猪右衛門 |
山内盛豊三男 | 1590-1600 | 1605(61) | 若宮友興女 | 1585長浜城(近江) 20,000石 1590掛川城(遠江) 50,000石 1595まで累増 68,000石 1600高知城 (土佐)転封 |
|||||
〔松平(久松)家(隠岐守)〕 |
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松平 定勝 | 従五位下 隠岐守 |
長福 三郎四郎 |
久松俊勝四男 | 1601-07 | 1624(65) | 奥平貞友女 | 1590新封 小南(下総) 3,000石 1601掛川城 30,000石 1607伏見(山城)城代 1617桑名城 (伊勢)転封 |
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松平 定行 | 従五位下 河内守 |
定重 千松 刑部 |
定勝二男 | 1607-24 | 1668(82) | 島津家久養女 | 1607掛川城 30,000石 1624父の継嗣と なり所領収公 |
|||||
〔安藤家〕 |
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安藤 直次 | 従五位下 帯刀 |
千福丸 彦四郎 彦兵衛 |
安藤基能長男 | 1617-19 | 1635(82) | 中根助右衛門女 本多信俊女 |
1591新封、武蔵国内 1,000石 1607まで累増 13,030石 1610駿府藩主(当時) 徳川頼宣に附属 1615分知 10,000石 1617掛川城(遠江) 20,000石 1619田辺城 (紀伊)転封 |
加判 | ||||
〔松平(久松)家(越中守)〕 |
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松平 定綱 | 従五位下 越中守 |
定信 亀松 三郎四郎 |
定勝三男 | 1618-25 | 1651(60) | 浅野長政女 | 1616下妻(常陸) 30,000石 1618掛川城 1623加増 35,000石 1625淀城 (山城)転封 |
|||||
〔朝倉家〕 |
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朝倉 宣正 | 従五位下 筑後守 |
宣政 藤十郎 |
朝倉在重長男 | 1625-32 | 1637(65) | 清 (土井利昌女) |
1590関東にて采地 200石、後累増 1621甲斐国内 10,000石 徳川忠長に附属 1622加増 16,000石 1625掛川城 26,000石 1632忠長に連座 改易、配流 |
|||||
〔青山家〕 |
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青山 幸成 | 従五位下 大蔵少輔 |
石之助 藤蔵 雅楽助 |
青山忠成四男 | 1633-35 | 1643(58) | 小笠原信之女 | 1619新封 常陸国内 1623加増 16,000石 1633掛川城 26,000石 1634加増 33,000石 1635尼崎城 (摂津)転封 |
書院番頭 | ||||
〔松平(桜井)家〕 |
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松平 忠重 | 従五位下 大膳亮 |
正覚院 観誉春翁 道喜 |
松平忠頼長男 | 1635-39 | 1639(39) | 木下延俊女 | 1633田中城(駿河) 1634加増 30,000石 1635掛川城 40,000石 |
奏者番 | ||||
松平 忠倶 | 万助 | 忠重長男 | 1639 | 1696(63) | 松平定行養女 | ↓ 1639飯山城 (信濃)転封 |
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〔本多家〕 |
||||||||||||
本多 忠義 | 従五位下 能登守 |
忠光 唐之助 右兵衛 幸千代 |
本多忠政三男 | 1639-44 | 1676(75) | 兼 (森忠政女) |
1626姫路本多家 より分家新封 姫路領内(播磨) 40,000石 1631加増 50,000石 1639掛川城 70,000石 1644村上城 (越後)転封 |
|||||
〔松平(藤井)家〕 |
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松平 忠晴 | 従五位下 伊賀守 |
与吉郎 | 松平信吉二男 | 1644-48 | 1669(72) | 杉原長房女 | 1642田中城(駿河) 25,000石 1644掛川城 30,000石 1648亀山城 (丹波)転封 |
|||||
〔北条家〕 |
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北条 氏重 | 従五位下 出羽守 |
久太郎 | 保科正直四男 北条氏勝養子 |
1648-58 | 1658(64) | 杉原長房女 | 1644田中城(駿河) 25,000石 1648掛川城 30,000石 1658無嗣、絶家 |
|||||
〔井伊家〕 |
||||||||||||
井伊 直好 | 従五位下 兵部少輔 |
大勝院 日頼春杲 |
直之 大膳 万千代 |
井伊直勝長男 | 1659-72 | 1672(55) | 酒井忠勝女 松平家信女 |
1645西尾城(三河) 35,000石 1659掛川城 |
||||
井伊 直武 | 従五位下 伯耆守 |
原忠院 高節元義 |
菊千代 万千代 |
直好長男 | 1672-94 | 1697(48) | 鶴 (安藤重之養女) |
↓ | ||||
井伊 直朝 | 従五位下 兵部少輔 |
温良院 恭徳宜謙 |
直旧 菊千代 万千代 兵部 (致仕後) 伯耆守 |
直武長男 | 1694-1705 | 1715(36) | 井伊直該女 | ↓ 1705精神疾患に より改易 |
||||
井伊 直矩 | 万千代 | 弁之丞 | 井伊直該四男 | 1705 | 1742(50) | 阿部正邦女 | 1705継嗣直後に 与板(越後)転封 |
|||||
〔松平(桜井)家〕 |
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松平 忠喬 | 従五位下 遠江守 |
倶武 勝千代 与七郎 |
松平忠継二男 松平忠倶 (祖父)継嗣 |
1706-11 | 1756(75) | 戸田忠真女 | 1696飯山城 (信濃)襲封 40,000石 1706掛川城 1711尼崎城 (摂津)転封 |
|||||
〔小笠原家〕 |
||||||||||||
小笠原 長煕 | 従五位下 壱岐守 |
乾亨院 貞山崇元 |
長信 長寛 津八郎 |
小笠原長重二男 | 1711-39 | 1752(63) | 染 (松平頼貞女) |
1710岩槻城 (武蔵)襲封 60,000石 1711掛川城 |
||||
小笠原 長庸 | 従五位下 山城守 |
祥雲院 竜山崇吟 |
久次郎 数馬 |
小笠原長丘二男 | 1739-44 | 1744(23) | 長煕女 | ↓ | ||||
小笠原 長恭 | 内膳 | 長明 土丸 |
長庸長男 | 1744-46 | 1776(37) | - | ↓ 1746棚倉城 (陸奥)転封 |
|||||
〔太田家〕 |
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太田 資俊 | 従五位下 摂津守 |
慈徳院 道俊日潤 |
資元 新六郎 |
太田資晴長男 | 1746-63 | 1763(44) | 板倉重治養女 | 1740館林城(上野) 50,037石 1746掛川城 |
寺社奉行 | |||
太田 資愛 | 従四位下 侍従 備中守 |
大隆院 道一日敬 |
多門 備後守 |
資俊二男 | 1763-1805 | 1805(67) | 鏐 (牧野忠利女) |
↓ | 老中 | |||
太田 資順 | 従五位下 摂津守 |
大悟院 道栄日感 |
愛親 正之助 |
資愛二男 | 1805-08 | 1808(45) | 幹(丹羽高庸女) 於八満 (本多忠可女) |
↓ | 奏者番 | |||
太田 資言 | 従五位下 備後守 |
見了院 道円日成 |
資敬 洋之進 |
資愛四男 | 1808-10 | 1810(29) | 於満 (牧野忠精女) |
↓ | ||||
太田 資始 | 従四位下 侍従 備中守 |
道醇 | 正寛 友三郎 多門 摂津守 (致仕後) 備後守 |
堀田正穀三男 | 1810-41 | 1867(69) | 条(資言女) | ↓ | 老中 | |||
太田 資功 | 従五位下 備中守 |
新六郎 摂津守 |
資始長男 | 1841-62 | 1862(36) | 操 (青山忠良女) |
↓ | 寺社奉行 | ||||
太田 資美 | 備中守 | 総次郎 | 資功四男 | 1862-68 | 1913(60) | 於晉 (間部詮勝女) |
↓ 1868柴山(上総)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔中村家〕 |
||||||||||||
中村 一氏 | 従五位下 式部少輔 |
大竜院 一源心公 |
孫平次 | 中村一政男 | 1590-1600 | 1600 | せん (池田恒興女) |
1583岸和田城(和泉) 30,000石 1585水口城(近江) 60,000石 1590駿河府中城 145,000石 |
中老 (豊臣政権) |
|||
中村 忠一 | 一学 | 一氏長男 | 1600 | 1609(20) | - | ↓ 1600米子城 (伯耆)転封 |
||||||
〔内藤家〕 |
||||||||||||
内藤 信成 | 従五位下 豊前守 |
三左衛門 | 嶋田景信二男 内藤清長養子 |
1601-06 | 1612(68) | 粟生長勝女 | 1590韮山城(伊豆) 10,000石 1601駿河府中城 40,000石 1606長浜城 (近江)転封 |
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〔徳川(紀伊)家〕 |
||||||||||||
徳川 頼宣 | 従三位 権中納言 常陸介 |
頼信 頼将 長福丸 |
徳川家康十男 | 1610-19 | 1671(70) | あま (加藤清正女) |
1603水戸城(常陸) 200,000石 1610駿河府中城 500,000石 1619和歌山城 (紀伊)転封 |
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〔徳川(駿河)家〕 |
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徳川 忠長 | 従二位 権大納言 |
峰巌院 晴徹暁雲 |
国松 | 徳川秀忠三男 | 1624-32 | 1633(28) | 昌子 (織田信良女) |
1616甲斐府中城 1622加増 250,000石 1624駿河府中城 1632驕暴により 改易、配流 1633自殺 |
||||
〔徳川家(宗家)〕 |
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徳川 家達 | 静岡藩知事 (廃藩後) 貴族院議長 |
静岳 | 亀之助 左中将 |
徳川慶頼三男 | 1868-71 | 1940(78) | 泰子 (近衛忠房女) |
1868江戸城(旧幕府領) を収公された後、復家 駿河府中城 700,000石 1869静岡藩と改称 1871廃藩置県 |
公爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔酒井(備後守)家〕 |
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酒井 忠利 | 従五位下 備後守 |
与七郎 備後 |
酒井正親三男 | 1601-09 | 1627(69) | 鈴木重直女 | 1590新封 川越領内(武蔵) 3,000石 1601田中城(駿河) 10,000石 1609川越城転封 |
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〔松平(桜井)家〕 |
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松平 忠重 | 従五位下 大膳亮 |
松平忠頼長男 | 1633-35 | 1639(39) | 木下延俊女 | 1622佐貫城(上総) 15,000石 1633田中城 1634加増 30,000石 1635掛川城 (遠江)転封 |
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〔水野家〕 |
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水野 忠善 | 従五位下 大監物 |
左近 | 水野忠元長男 | 1635-42 | 1676(65) | 阿久利 (井上正就女) |
1620山川(下総)襲封 35,000石 1635田中城 45,000石 1642吉田城 (三河)転封 |
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〔松平(藤井)家〕 |
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松平 忠晴 | 従五位下 伊賀守 |
与吉郎 | 松平信吉二男 | 1642-44 | 1669(72) | 杉原長房女 | 1619新封 新治郡内(常陸) 2,000石 1633加増 5,000石 1642田中城 25,000石 1644掛川城 (遠江)転封 |
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〔北条家〕 |
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北条 氏重 | 従五位下 出羽守 |
久太郎 | 保科正直四男 北条氏勝養子 |
1644-48 | 1658(64) | 杉原長房女 | 1640関宿城(下総) 20,000石 1644田中城(駿河) 25,000石 1648掛川城 30,000石 |
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〔西尾家〕 |
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西尾 忠昭 | 従五位下 丹後守 |
円明院 如翁良忠 |
忠照? 右京 右京亮 |
西尾忠永長男 | 1649-54 | 1654(42) | 竹中重義女 松平伊昌女 |
1620土浦城 (常陸)襲封 20,000石 1649田中城 25,000石 |
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西尾 忠成 | 従五位下 隠岐守 |
勝之助 右京 |
忠昭長男 | 1654-79 | 1713(61) | 丹羽光重女 | ↓ 1654分知 20,000石 1675分領返還 25,000石 1679小諸城 (信濃)転封 |
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〔酒井(日向守)家〕 |
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酒井 忠能 | 従五位下 日向守 |
円浄院 鏡岳高照 |
万千代 | 酒井忠行二男 | 1679-81 | 1705(78) | 稲葉正勝女 | 1662小諸城(信濃) 30,000石 1679田中城 40,000石 1681不行跡により改易 1690赦免、復家 蔵米2,000俵 1697采地に変更 1702加増 5,000石 代々旗本として存続 |
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〔土屋家〕 |
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土屋 政直 | 従五位下 相模守 |
左門 能登守 |
土屋数直長男 | 1682-87 | 1722(82) | 幾久子 (松平康信女) 六条有知女 |
1679土浦城 (常陸)襲封 45,000石 1682田中城 1684加増 65,000石 1687土浦城転封 |
京都所司代 | ||||
〔太田家〕 |
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太田 資直 | 従五位下 摂津守 |
高徳院 道祐日運 |
左近 備後守 備中守 |
太田資次二男 | 1684-1705 | 1705(48) | 板倉重常女 | 1684大坂城代の父・ 資次の所領を継ぎ 分知分を差し引き 50,037石 同年、田中城 |
若年寄 | |||
太田 資晴 | 熊次郎 | 資直五男 | 1705 | 1740(46) | - | ↓ 1705棚倉城 (陸奥)転封 |
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〔内藤家〕 |
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内藤 弌信 | 従五位下 紀伊守 |
信勝 市之助 |
内藤信光二男 内藤信良養子 |
1705-12 | 1730(73) | 太田資次女 品 (毛利綱広女) |
1674棚倉城 (陸奥)襲封 50,090石 1705田中城 1712摂津等三国内へ 転封、大坂城代 |
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〔土岐家〕 |
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土岐 頼殷 | 従四位下 伊予守 |
官成院 俊巌紹英 |
頼隆 兵部 |
土岐頼行二男 | 1712-13 | 1722(82) | 西郷延員女 牧野親成女 |
1692摂津等三国内 35,000石 1712田中城 |
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土岐 頼稔 | 従五位下 丹後守 |
頼俊 内匠 兵部 |
頼殷長男 | 1713-30 | 1744(50) | 松平忠雄女 | ↓ 1730摂津等三国内へ 転封、大坂城代 |
寺社奉行 | ||||
〔本多家〕 |
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本多 正矩 | 従五位下 伯耆守 |
興隆院 泰禅 |
右京 左門 宮内 |
本多正方長男 本多正武養子 |
1730-35 | 1735(55) | 安 (松野助義女) |
1721沼田城 (上野)襲封 40,000石 1730田中城 |
奏者番 | |||
本多 正珍 | 従四位下 侍従 伯耆守 |
覚亨院 受明 |
当五郎 三弥 紀伊守 (致仕後) 伯翁 |
正矩三男 | 1735-73 | 1786(77) | - | ↓ | 老中 | |||
本多 正供 | 従五位下 紀伊守 |
普現院 皆遵 |
孝吉 三弥 |
正珍二男 | 1773-77 | 1777(32) | - | ↓ | ||||
本多 正温 | 従五位下 伯耆守 |
寂静院 西岳 葵泉 |
正徳 孝之助 三弥 (致仕後) 紀伊守 |
正供長男 | 1777-1800 | 1838(73) | 数 (永井直珍女) |
↓ | ||||
本多 正意 | 従五位下 遠江守 |
乗満院 勝尊 葵園 |
栄松 三弥 遠江守 |
正温長男 | 1800-29 | 1829(46) | 光 (戸田忠翰女) |
↓ | 若年寄 | |||
本多 正寛 | 従五位下 豊前守 |
敬得院 雪渓 亀城 |
邦太郎 三弥 |
正意長男 | 1829-60 | 1860(53) | 睦 (松平斉孝女) |
↓ | 奏者番 | |||
本多 正訥 | 紀伊守 | 鈼五郎 伯耆守 |
正意七男 | 1860-68 | 1885(59) | 文子 (松平信発女) 鋭 (稲垣長剛女) |
↓ 1868長尾(安房)転封 |
駿府城代 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔大久保家〕 |
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大久保 忠佐 | 治右衛門 | 源喜院 日諦 |
弥八郎 | 大久保忠員二男 | 1601-13 | 1613(77) | - | 1590茂原(上総) 5,000石 1601沼津城(駿河) 20,000石 1613無嗣、絶家 |
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〔水野家〕 |
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水野 忠友 | 従四位下 侍従 出羽守 |
修徳院 譲誉興仁 懿翁 |
卯之助 惣兵衛 豊後守 |
水野忠穀長男 | 1777-1802 | 1802(72) | 八重子 (牧野康周女) |
1742佐久郡内 (信濃)襲封 1768までに累増 13,000石 1777沼津城 20,000石 1781加増 25,000石 1785加増 30,000石 |
老中 | |||
水野 忠成 | 従四位下 侍従 出羽守 |
巍徳院 夬誉成栄 融鑑 |
午之助 友五郎 吉太郎 大和守 |
岡野知暁二男 | 1802-34 | 1834(73) | 水野忠隣養女 八重(忠友女) |
↓ 1821加増 40,000石 1829加増 50,000石 |
老中 | |||
水野 忠義 | 従四位下 出羽守 |
共徳院 寛誉泰安 義山 |
惣兵衛 大和守 |
忠成三男 | 1834-42 | 1842(51) | 松平乗寛女 | ↓ | ||||
水野 忠武 | 従五位下 出羽守 |
恒徳院 道誉赫然 曜武 |
啓次郎 惣兵衛 大和守 |
忠義二男 | 1842-44 | 1844(21) | 美代子=安喜 (毛利斉煕女) |
↓ | ||||
水野 忠良 | 従五位下 出羽守 |
常徳院 泰誉安然 義道 |
益之助 惣兵衛 |
忠義五男 | 1844-58 | 1858(25) | - | ↓ | ||||
水野 忠寛 | 出羽守 | 健次郎 右京亮 河内守 (致仕後) 左京大夫 |
水野忠紹 (忠成二男)長男 |
1858-62 | 1874(68) | 牧野忠救女 | ↓ | 側用人 | ||||
水野 忠誠 | 従四位下 出羽守 |
原恭院 照誉幹誠 聡哲 |
欽之助 惣兵衛 豊後守 |
本多忠考四男 | 1862-66 | 1866(33) | 忠寛養女 | ↓ | 老中 | |||
水野 忠敬 | 出羽守 | 吉太郎 | 水野忠明二男 | 1866-68 | 1907(57) | 鍈子 (大河内正和女) |
↓ 1868菊間 (上総)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
松平 重信 | 従五位下 丹後守 |
源保院 雲誉了白 |
勝信 助十郎 |
松平家信二男 松平正勝養子 |
1656-73 | 1673(74) | 1639前 新封 上総・常陸二国内 1,200石 1652加増 3,200石 1656庵原・安倍・有渡 三郡内(駿河) 5,000石 |
駿府城代 | |||
松平 信孝 | 従五位下 安房守 |
源松院 尊誉一法 樹廓 |
大蔵 助十郎 但馬守 |
松平典信 (家信孫)長男 |
1673-90 | 1690(36) | ↓ 1682加増 6,000石 1689加増 10,000石 |
若年寄 | |||
松平 信治 | 従五位下 下野守 |
円明院 証誉元清 浄体 |
重秀 宮内 助十郎 |
戸田重恒二男 (典信外孫) |
1690-1724 | 1724(52) | ↓ 1704小島(駿河)に 陣屋を築く |
大番頭 | |||
松平 信嵩 | 従五位下 安房守 |
昭真院 皎誉義卓 暁山 |
己之助 箕之助 助十郎 |
松平信庸 (典信三男) 六男 |
1724-31 | 1731(22) | ↓ | ||||
松平 昌信 | 従五位下 安房守 |
楞伽院 静誉円入 止観 |
信清 信之 箕之助 源之助 助十郎 内匠頭 |
信嵩長男 | 1731-71 | 1771(44) | ↓ | ||||
松平 信義 | 従五位下 丹後守 |
源隆院 寂誉湛然 了義 |
左近 助十郎 豊後守 |
堀直堯二男 | 1771-1800 | 1801(60) | ↓ | ||||
松平 信圭 | 従五位下 丹後守 |
信敏 寛之進 |
信義長男 (昌信外孫) |
1800-15 | 1820(45) | ↓ | |||||
松平 信友 | 従五位下 丹後守 |
源之助 助十郎 |
信圭長男 | 1815-36 | 1848(52) | ↓ | |||||
松平 信賢 | 丹後守 | 信徳 助十郎 |
松平信志 (信庸曽孫) 六男 |
1836-51 | 1873(66) | ↓ | |||||
松平 信進 | 従五位下 丹後守 |
敬次郎 助十郎 |
松平斉恒二男 | 1851-63 | 1863(51) | ↓ | |||||
松平 信書 | 従五位下 丹後守 |
為吉 助十郎 |
信友二男 | 1863-64 | 1864(19) | ↓ | |||||
滝脇 信敏 | 丹後守 | 保吉 助十郎 |
内藤頼寧四男 | 1864-68 | 1887(37) | ↓ 1868金ヶ崎(上総)転封 |
1868改称滝脇 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔本多(弾正)家〕 |
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本多 忠晴 | 従五位下 弾正少弼 |
清源院 道麟祥岳 |
吉左衛門 | 本多忠義四男 本多忠以養子 |
1710-15 | 1715(75) | - | 1662宗家・忠平 より分家 白河郡内(陸奥) 2,500石 1664兄・忠以継嗣 浅川(陸奥) 10,000石 1681伊保(三河) 1705加増 15,000石 1710相良(遠江) |
寺社奉行 | |||
本多 忠直 | 従五位下 信濃守 |
大蔵 越中守 |
忠晴長男 | (宗家・忠常の 養子となり 継承せず) |
1717(48) | |||||||
本多 忠通 | 従五位下 弾正少弼 |
桂光院 月嶠浄昌 |
勝之助 | 忠直二男 | 1715-21 | 1721(17) | - | ↓ | ||||
本多 忠如 | 従五位下 越中守 |
時之助 讃岐守 |
忠直五男 | 1721-46 | 1773(62) | 吉子 (松浦篤信女) |
↓ 1721泉(陸奥)転封 |
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〔板倉家〕 |
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板倉 勝清 | 従五位下 佐渡守 |
重清 百助 伊予守 |
板倉重同長男 | 1746-49 | 1780(75) | 板倉重冬女 | 1717泉(陸奥)襲封 15,000石 1746相良(遠江) 1748城主、加増 20,000石 1749安中城 (上野)転封 |
若年寄 | ||||
〔本多(長門守)家〕 |
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本多 忠央 | 従五位下 長門守 |
本誠院 義山忠央 |
忠就 兵庫 兵庫頭 (失脚後) 紫翁 |
本多忠次長男 | 1749-58 | 1802(95) | 本多忠統女 | 1711挙母 (三河)襲封 10,000石 1749相良 1758不正、改易 |
若年寄 | |||
〔田沼家〕 |
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田沼 意次 | 従四位下 侍従 主殿頭 |
隆興院 耆山良英 |
竜助 | 田沼意行長男 | 1767-87 | 1788(70) | 伊丹直賢女 | 1735襲封、相模国内 600石 後、累増 1758遠江・相模・ 下総の三国内 10,000石 1762加増 15,000石 1767相良城 20,000石 1785までに累増 57,000石 1786失脚、減封 37,000石 1787蟄居 |
老中 | |||
田沼 意知 | 従五位下 山城守 |
仁良院 孝岳元忠 |
竜助 大和守 播磨守 |
意次長男 | (暗殺され 父に先立つ) |
1784(36) | 松平康福女 | 若年寄 | ||||
田沼 意明 | 従五位下 淡路守 |
竜助 | 意知長男 | 1787 | 1796(24) | 喜 (織田信浮女) |
↓ 1787祖父が断罪され 下村(陸奥)転封 |
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田沼 意壱 | 田沼 意定 |
(下村藩-福島県-を参照) | |||||||||||
田沼 意正 | 従四位下 玄蕃頭 |
麟徳院 祥山紹禎 |
忠徳 金弥 中務少輔 玄蕃 |
意次四男 田沼意定養子 |
1823-36 | 1836(78) | 八重 (水野忠友女) |
1804下村襲封 10,000石 1823相良 |
側用人 | |||
田沼 意留 | 従五位下 備前守 |
齢源院 鶴翁宗寿 楽山 |
金弥 (致仕後) 楽山 |
意正長男 | 1836-40 | 1861 | 堀直教女 岩 (分部光実女) |
↓ | ||||
田沼 意尊 | 従五位下 玄蕃頭 |
金弥 | 意留長男 | 1840-68 | 1869(52) | 蓮 (久留島通嘉女) |
↓ 1868小久保 (上総)転封 |
若年寄 |
(2019.12.31up)
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