福島県は古くは、浮田・信夫・染葉・石城・岐閇・菊多・阿尺・石背・白河などの国造が支配していましたが、大化の改新で陸奥国に統合され、718年に亘理・宇太・行方・標葉・石城の5郡と常陸菊多郡とを併せて石城国、信夫・安積・会津・石背・白河の5郡を石背国として分置しましたが、724年に再び陸奥国に合併されました。奈良朝期には対蝦夷防衛のため白河関・勿来関などが置かれましたが、平安朝期には防衛線が北上して有名無実となりました。平安朝後期には奥州藤原氏の勢力圏に入りましたが、源頼朝は藤原氏を滅ぼして御家人や旧族の諸家に地頭職を付与しました。建武政権下では伊達家と白河(結城)家とが代表格であり、南北朝期に入ってもしばらく南朝方として活動し、北畠家の軍事行動を支持しましたが、奥州探題を筆頭とする室町幕府方の勢力が浸透するに及んで、二家も幕府方に転じました。室町期には一時篠川公方・稲村公方が設置されましたが、陸奥南部の政局は伊達・白河・蘆名の三家を軸として展開し、戦国期にかけては、磐城地方に相馬家・岩城家、岩代地方に二階堂家・田村家などが割拠しました。戦国後期には伊達家の勢力が拡大し、岩代地方の諸大名を併合しあるいは服属させ、1589年には伊達政宗が蘆名家を滅ぼして岩代地方を領有しました。翌年、豊臣秀吉が陸奥へ進駐すると、白河家などを廃絶させ、政宗から会津地方、さらに信達地方を収公して、蒲生氏郷を封じ、相馬家・岩城家の本領を安堵、のち会津には上杉景勝を封じました。徳川家康は会津に蒲生家を復封し、岩城家を左遷、旧族では相馬家のみが残り、磐城・岩代地方には次第に譜代の中小大名が入封しました。江戸中期以後は、相馬=中村藩(相馬家)・平藩(安藤家)・福島藩(板倉家)・二本松藩(丹羽家)・三春藩(秋田家)・白河藩(久松松平家→阿部家)・会津藩(松平家)など10藩が配置され、会津地方の南部は幕領でした。戊辰戦争で会津藩が解体されて政府直轄となります。1871年の廃藩置県により、磐城国のうち刈田・伊具・亘理・白河(西)を除く部分は平県=磐前県、岩代国の東5郡と白河郡とは福島県、岩代国の西5郡は越後国東蒲原郡と合併して若松県となり、1876年に磐前県と若松県(東蒲原郡を除く)とが福島県に合併し、県域が確定しました。
篠川公方・稲村公方 足利家 伊達家 石川家 岩城家 蘆名家 相馬家→相馬藩 二階堂家 畠山(二本松)家 白河(結城)家 田村家 会津領主蒲生家 磐城平藩 棚倉藩 窪田藩 会津藩 三春藩 二本松藩 白河藩 泉藩 湯長谷藩=内藤家 福島藩 梁川藩 守山藩 桑折藩 下村藩 下手渡藩 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
【篠川公方】 |
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足利 満直 | 左兵衛佐 | 篠川殿 | 足利氏満二男 | 1399-1440 | 1440 | 鎌倉公方庶家 1399安積郡篠川(陸奥)に派遣 1440自殺、絶家 |
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【稲村公方】 |
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足利 満貞 | 稲村殿 | 足利氏満四男 | 1399-1439 | 1439 | 鎌倉公方庶家 1399岩瀬郡稲村(陸奥)に派遣 1439自殺、絶家 |
伊達家(信達地方在国期)
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
伊達 朝宗 | 従五位下 高松院非蔵人 |
満勝寺 浄光念西 |
藤原光隆男 | 1199(71) | 真壁郡伊佐(常陸)・ 伊達郡(陸奥) |
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伊達 宗村 | 従五位下 次郎 |
持国院 念山道正 |
為重? 常陸介? |
朝宗二男 | 伊達郡 | |||||||
伊達 義広 | 従五位下 蔵人大夫 |
観音寺 本明覚仏 |
資綱? 宗広? 粟野次郎 判官代 |
宗村二男 (弟?) |
1256(72) | ↓ | ||||||
伊達 政依 | 従五位下 蔵人大夫 |
東昌寺 覚印願西 |
政頼 二郎 |
義広長男 | 1301(75) | ↓ | ||||||
伊達 宗綱 | 従五位下 小太郎 |
金福寺 浄方真西 |
兵部少輔 | 政依長男 | 1317? | 信夫・伊達二郡 | ||||||
伊達 基宗 | 従五位下 孫太郎 |
満願寺 誠志堅貞 |
基実 小弾正 |
宗綱長男 | ↓ | |||||||
伊達 行宗 | 従四位下 宮内大輔 |
延命院 念海円如 |
朝村 行朝 |
基宗長男 | 1348(58) | 田村某の女 | ↓ | |||||
伊達 宗遠 | 従五位下 弾正少弼 |
喜見寺 寂庵定叟 |
浄高 | 行宗長男 | ?-1385 | 1385(62) | 白河宗広女 | 梁川城(陸奥。 奥羽九郡に進出) |
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伊達 政宗 | 従五位下 大膳大夫 |
東光寺 儀山円孝 |
五郎 兵部権少輔 |
宗遠長男 | 1385-1405 | 1405(53) | 紀通清女 | (奥羽13郡に進出) | ||||
伊達 氏宗 | 従五位下 兵部少輔 |
正光寺 東孝受天 |
政宗長男 | 1405-12 | 1412(42) | ↓ | ||||||
伊達 持宗 | 従五位下 大膳大夫 |
真常院 天海円宗 |
泰宗 松犬丸 次郎 兵部少輔 |
氏宗長男 | 1412-69 | 1469(77) | ↓ | |||||
伊達 成宗 | 従四位上 大膳大夫 |
栖竜院 瓊巌円玖 |
三郎 兵部少輔 |
持宗二男 | 1469-? | 1487?(53?) | 大崎教兼女 | ↓ | ||||
伊達 尚宗 | 五位下 大膳大夫 |
護国院 香山円桂 |
小三郎 | 成宗長男 | ?-1514 | 1514(62) | 上杉定実女 | ↓ | ||||
伊達 稙宗 | 従四位下 左京大夫 |
智松院 直山円入 |
次郎 | 尚宗長男 | 1514-48 | 1565(78) | 蘆名盛高女 | ↓ 1532西山城(陸奥) |
1522-48 陸奥守護 |
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伊達 晴宗 | 従四位下 左京大夫 |
乾徳院 保山道祐 |
次郎 | 稙宗長男 | 1548-63 | 1577(59) | 窪 (岩城重隆女) |
↓ 1548米沢城(出羽) |
1558前-63 奥州探題 |
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伊達 輝宗 | 従四位下 左京大夫 |
覚範寺 性山受心 |
彦太郎 総次郎 |
晴宗二男 | 1563-84 | 1585(42) | 義 (最上義守女) |
↓ | ||||
伊達 政宗 | 従三位 権中納言 陸奥守 |
瑞巌寺 貞山利公 |
梵天丸 藤次郎 美作守 左京大夫 越前守 |
輝宗長男 | 1584-1636 | 1636(70) | 愛 (田村清顕女) |
↓ 1589会津黒川城(陸奥) 1590米沢城 奥羽12郡安堵 1591岩出山城(陸奥) 580,000余石 1603仙台城(陸奥) へ居所移転 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
石川 有光 | 源太 | 良寛公栄 | 福原頼遠男 | 1086(51) | 石川郡(陸奥) | ||||||
石川 基光 | 治部大輔 | 大方継元 | 三郎 | 有光男 | 1099 | ↓ | |||||
石川 光義 | 大和守 | 明輝道寛 | 源太 | 基光男 | 1121 | ↓ | |||||
石川 義季 | 大和守 | 需水天広 | 光義男 | 1177 | ↓ | ||||||
石川 基光 | 大和守 | 義季男 | 1199 | ↓ | |||||||
石川 広季 | 大膳大夫 | 柴光広門 | 基光男 | 1248 | ↓ | ||||||
石川 光貞 | 左馬頭 | 雷声之中 | 広季男 | 1269 | ↓ | ||||||
石川 光長 | 左馬頭 | 休広天息 | 光貞男 | 1290 | ↓ | ||||||
石川 元盛 | 大和守 | 微聴笛声 | 光盛 | 光長男 | 1307 | ↓ | |||||
石川 盛義 | 安芸守 | 山月声門 | 元盛男 | 1318 | ↓ | ||||||
石川 家光 | 摂津守 | 通山義宗 | 盛義長男 | 1330 | ↓ | ||||||
石川 時光 | 宮内大輔 | 堅大良固 | 六郎 | 盛義四男 | 1335 | ↓ | |||||
石川 貞光 | 美作守 | 長輝月琴 | 家光男 | 1341 | ↓ | ||||||
石川 詮持 | 中務大輔 | 延林広仙 | 石川義光 (家光男)の男 |
1351 | ↓ | ||||||
石川 満持 | 中務少輔 | 躰用喜康 | 詮持男 | 1393 | ↓ | ||||||
石川 満朝 | 宮内大輔 | 貞休良治 | 満持男 | 1413 | ↓ | ||||||
石川 義光 | 駿河守 | 光念 | 孫太郎 | 満朝男 | 1448 | ↓ | |||||
石川 持光 | 中務少輔 | 孫三郎 | 義光(駿河守)男 | 1457 | ↓ | ||||||
石川 宗光 | 治部大輔 | 持光男 | 1475 | ↓ | |||||||
石川 成光 | 中務大輔 | 宗光男 | 1488 | ↓ | |||||||
石川 尚光 | 駿河守 | 治部少輔 | 成光男 | 1514 | ↓ | ||||||
石川 稙光 | 駿河守 | 尚光男 | 1530 | ↓ | |||||||
石川 晴光 | 修理大夫 | 恵徳院 固岳道賢 |
伊勢守 | 稙光男 | 1580 | ↓ | |||||
石川 昭光 | 従五位下 大和守 |
広岩明額 | 次郎 | 伊達晴宗四男 | 1580-1603 | 1622(73) | ↓ 1590失領 1591松山城(陸奥) 8,000石 1598角田城(陸奥) 12,000石 |
伊達家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
高久 忠衡 | 高久三郎 | 平安忠男? | 12C前半 | 岩城郡内 好島荘など(陸奥) |
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岩城 忠清 | 岩城二郎 | 忠衡男 | ↓ | ||||||||
岩城 清隆 | 好島太郎 | 忠清男 | ↓ | ||||||||
岩城 師隆 | 新田太郎 | 清隆男 | ↓ | ||||||||
岩城 隆義 | 岩城太郎 | 師隆長男 | ↓ | ||||||||
某女 | 隆義妻 | ↓ | |||||||||
岩城 繁隆 | 小次郎 | 師隆二男 | ↓ | ||||||||
岩城 乗祐 | 繁隆男 | ↓ | |||||||||
岩城 隆衡 | 小次郎 | 願真? | 乗祐男 | 1331前-46後 | ↓ | ||||||
岩城 隆兼 | 弥次郎 | 隆衡男 | 1349頃 | ↓ | |||||||
岩城 隆教 | (系未詳) | ↓ | |||||||||
岩城 隆泰 | (系未詳) | 1354頃 | ↓ | (以後、惣領家の 動向は未詳) |
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【白土岩城家】 |
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白土 常朝 | 次郎 | 規堂道弘 | 隆弘 | 行方隆行 (師隆男)の裔 |
?-1407頃 | 岩城白土(陸奥) | (庶子家) | ||||
白土 清胤 | 次郎 | 徹山玖公 | 常朝男 | ↓ | |||||||
岩城 隆忠 | 従五位下 下総守 |
実山明真 | 次郎 | 清胤男 | 1421後-1463 | 1463 | ↓ | ||||
岩城 親隆 | 下総守 | 明寅虎山 | 次郎 左京大夫 |
隆忠二男 | 1463-74後 | ↓ 岩城大舘城 |
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岩城 常隆 | 従五位下 下総守 |
可山繁公 | 左京亮 | 親隆長男 | 1474後-1511頃 | ↓ | |||||
岩城 由隆 | 従四位下 民部大輔 |
鷹山明俊 | 次郎 | 常隆二男 | 1511頃-34頃 | 1542 | ↓ | ||||
岩城 重隆 | 従五位下 左京大夫 |
月山明徹 | 二郎太郎 | 由隆長男 | 1534頃-69 | 1569 | ↓ | ||||
岩城 親隆 | 従四位下 左京大夫 |
光山寧本 | 宣隆 孫次郎 |
伊達晴宗長男 (重隆外孫) |
1569-71頃 | 1594 | ↓ | ||||
岩城 常隆 | 従四位下 左京大夫 |
鐘山明心 | 親隆 (左京大夫) 長男 |
1571頃-90 | 1590(24) | ↓ 1590本領安堵 磐城平城 120,000石 |
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岩城 貞隆 | 忠次郎 | 能化丸 | 佐竹義重三男 | 1590-1601 1602-20 |
1620(38) | ↓ 1601関が原の戦で 石田方、改易 1602月俸300俵 1616川中島領内(信濃) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
佐原 義連 | 十郎左衛門尉 | 三浦義明十男 | 武田信光女 | 佐原・蘆名(相模) | ||||||||
佐原 盛連 | 従五位下 遠江守 |
次郎兵衛尉 | 義連四男 | 1233 | 三浦義村女 | ↓ | ||||||
蘆名 光盛 | 従五位下 遠江守 |
次郎 四郎左衛門尉 |
盛連四男 | 1263(60) | 会津門田荘(陸奥) | |||||||
蘆名 泰盛 | 遠江守 | 三郎左衛門尉 | 光盛長男 | ↓ | ||||||||
蘆名 盛宗 | 遠江守 | 次郎四郎 左衛門尉 |
泰盛長男 | ↓ | ||||||||
蘆名 盛員 | 大夫判官 | 遠江守 | 盛宗長男 | 1335 | ↓ | |||||||
蘆名 直盛 | 従五位下 若狭守 |
三郎左衛門尉 遠江守 |
盛員二男 | 1390(68) | ↓ 1384黒川城を築く |
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蘆名 詮盛 | 従五位下 弾正少弼 |
会津小太郎 遠江守 |
直盛長男 | 1407(62) | ↓ | |||||||
蘆名 盛政 | 従五位下 修理大夫 |
久山道庵 | 会津小太郎 左衛門尉 刑部大夫 |
詮盛長男 | 1429(54) | ↓ | ||||||
蘆名 盛久 | 従五位下 遠江守 |
会津小太郎 三郎左衛門尉 |
盛政長男 | 1444? | ↓ | |||||||
蘆名 盛信 | 従五位下 刑部大夫 |
元慶聖喜 | 小二郎 左近将監 |
盛政二男 | 1451(56) | ↓ | ||||||
蘆名 盛詮 | 従五位下 遠江守 |
祝巌尊祐 | 下総守 | 盛信長男 | 1466 | ↓ | ||||||
蘆名 盛高 | 従四位下 修理大夫 |
常勝院 天祥麟公 |
小太郎 刑部丞 |
盛詮長男 | ?-1517 | 1517 | 伊達持宗女 | ↓ | ||||
蘆名 盛滋 | 出羽判官 | 法住院 成道高岩 |
会津小太郎 民部少輔 遠江守 |
盛高長男 | 1517-21 | 1521(59) | ↓ | |||||
蘆名 盛舜 | 遠江守 | 雲松院 慶峯善通 |
修理大夫 | 盛高二男 | 1521-53 | 1553(64) | 金上盛興女 | ↓ | ||||
蘆名 盛氏 | 従五位下 修理大夫 |
瑞雲院 竹巌宗関 |
大膳大夫 (致仕後) 止々斎 |
盛舜長男 | 1553-61 | 1580(60) | 伊達稙宗女 | ↓ | ||||
蘆名 盛興 | 出羽判官 | 喜応院 武山浄勇 |
盛氏長男 | 1561-75 | 1575(29) | 彦 (伊達晴宗女) |
↓ | |||||
蘆名 盛隆 | 三浦介 | 瑞泉院 蘭室 |
平四郎 | 二階堂盛義長男 | 1575-84 | 1584(24) | 彦 (前・盛興室) |
↓ | 二階堂家と 同君連合 |
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蘆名 亀王丸 | 月心院 空顔恵幼 |
盛隆長男 | 1584-86 | 1586(3) | - | ↓ | ||||||
蘆名 盛重 | 主計頭 | 義広 義勝 |
佐竹義重二男 | 1586-1631 | 1631(57) | 岩 (盛興女 =盛隆養女) |
↓ 1589失領 1590江戸崎城 (常陸)復封 |
代 | 氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
1 | 相馬 師常 | 相馬二郎 | 常心 | 千葉常胤二男 | 1205(67) | 行方郡(陸奥)・ 相馬郡内(下総) |
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2 | 相馬 義胤 | 五郎 | 小太郎? | 師常長男 | ↓ | ||||||||
3 | 相馬 胤綱 | 二郎左衛門尉 | 胤経 | 義胤長男 | ↓ | ||||||||
4 | 相馬 胤村 | 五郎左衛門尉 | 孫五郎? | 胤綱長男 | 1272? | ↓ | |||||||
5 | 相馬 師胤 | 彦次郎 (左衛門尉) |
松若丸 | 胤村五男 | 行方郡内 | (庶子家) | |||||||
6 | 相馬 重胤 | 孫五郎 | 天叟 | 松鶴丸 | 師胤長男 | 1337 | 田村宗猷女 | ↓ 小高城を築く |
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7 | 相馬 親胤 | 出羽権守 | 聖心月洞 | 孫次郎 | 重胤長男 | 1358? | 三河道中女 | ↓ | |||||
8 | 相馬 胤頼 | 従五位下 讃岐守 |
陽雲大成 | 松鶴丸 治部少輔 |
親胤長男 | ?-1367 | 1371? | ↓ | |||||
9 | 相馬 憲胤 | 治部少輔 | 洞岩 | 千代王丸 讃岐次郎 |
胤頼長男 | 1367-95? | 1395? | ↓ | |||||
10 | 相馬 胤弘 | 讃岐守 | 道空 | 孫次郎 | 憲胤長男 | 1395?-1436 | ↓ | ||||||
11 | 相馬 重胤 | 治部少輔 | 天右建公 | 孫次郎 | 胤弘長男 | 1436-39 | ↓ (宇多郡を制圧) |
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12 | 相馬 高胤 | 讃岐守 | 大雄翁山 | 隆胤 孫次郎 治部少輔 出羽守 |
重胤 (治部少輔) 長男 |
1439-92 | 1492 | ↓ | |||||
13 | 相馬 盛胤 | 従四位下 大膳大夫 |
大盛院 日頭照公 |
定胤 孫次郎 大膳亮 |
高胤長男 | 1492-1521 | 1521(46) | 蘆名盛舜女 | ↓ (標葉郡を含め 三郡を領有) |
||||
14 | 相馬 顕胤 | 讃岐守 | 宗国院 雄山英公 |
孫次郎 | 盛胤長男 | 1521-49 | 1549(42) | 伊達稙宗女 | ↓ | ||||
15 | 相馬 盛胤 | 従四位下 弾正大弼 |
天授院 籌山勝公 |
孫次郎 (致仕後) 一通斎 明節 |
顕胤長男 | 1549-78 | 1601(73) | 伊達義宗女 | ↓ | ||||
16 | 相馬 義胤 | 従五位下 長門守 |
蒼霄院 外天雲公 |
孫次郎 | 盛胤 (弾正大弼) 長男 |
1578-1602 | 1635(88) | 伊達稙宗女 三分一所義景女 |
↓ 1590本領安堵 49,000余石 1598牛越城に 居所を移す 1602所領没収 |
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17 | 相馬 利胤 | 従四位下 大膳亮 |
二照院 日璨宗杲 |
三胤 密胤 虎王丸 孫次郎 |
義胤長男 | 1603-25 | 1625(45) | 蘆名盛隆女 岡田元次女 |
1602復封 1603小高城 1611中村城(陸奥) に居所を移転 |
||||
18 | 相馬 義胤 | 従五位下 大膳亮 |
巴陵院 月海霜剣 |
虎之助 | 利胤長男 | 1625-51 | 1651(33) | 内藤忠重女 | ↓ 1629高直し 60,000石 |
||||
19 | 相馬 忠胤 | 従五位下 長門守 |
広徳院 方山貞義 |
勝胤 式部 |
土屋利直二男 | 1652-73 | 1673(37) | 亀 (大膳亮義胤女) |
↓ | ||||
20 | 相馬 貞胤 | 従五位下 出羽守 |
光明院 瓊岩周英 |
信胤 虎千代 |
忠胤長男 (大膳亮義胤 の孫) |
1673-79 | 1679(21) | 板倉重矩女 | ↓ | ||||
21 | 相馬 昌胤 | 従五位下 弾正少弼 |
建徳院 勢誉峻岩 孔照 |
采女 | 忠胤二男 (大膳亮義胤 の孫) |
1679-1701 | 1728(68) | 多禰 (松平頼元女) |
↓ | ||||
22 | 相馬 叙胤 | 従五位下 長門守 |
香雲院 靉翁玄靆 |
義珍 仁寿丸 求馬 図書頭 |
佐竹義処二男 (長門守義胤 の玄孫) |
1701-09 | 1711(35) | 品(昌胤女) | ↓ | ||||
23 | 相馬 尊胤 | 従五位下 弾正少弼 |
寿高院 仁誉廉節 瑞巌 |
清胤 宗胤 千代松 民部 讃岐守 |
昌胤二男 | 1709-65 | 1772(77) | 丈 (本多康慶女) |
↓ | ||||
相馬 徳胤 | 従五位下 因幡守 |
洞岳院 別宗覚天 |
菊千代 内膳 |
叙胤四男 (昌胤孫) |
(早世) | 1752(51) | そよ (内藤信輝養女) 浅野吉長女 |
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24 | 相馬 恕胤 | 従五位下 因幡守 |
高峻院 徳応雲巌 |
内膳 讃岐守 (致仕後) 長門守 |
徳胤長男 | 1765-83 | 1791(57) | 青山幸秀女 | ↓ | ||||
25 | 相馬 祥胤 | 従五位下 因幡守 |
岹嶢院 恭雲巨岳 |
吉次郎 讃岐守 (致仕後) 弾正少弼 |
恕胤三男 | 1783-1801 | 1816(52) | 久美 (松平忠告女) |
↓ | ||||
26 | 相馬 樹胤 | 従五位下 因幡守 |
大隆院 英巌徳雄 |
内膳 讃岐守 (致仕後) 豊前守 |
祥胤長男 | 1801-13 | 1839(59) | 駒 (松平忠済女) |
↓ | ||||
27 | 相馬 益胤 | 従五位下 長門守 |
以徳院 寛量照潤 |
吉次郎 | 祥胤二男 | 1813-35 | 1845(50) | 高 (松平頼慎女) |
↓ | ||||
28 | 相馬 充胤 | 大膳大夫 | 豊丸 吉次郎 大膳亮 |
益胤長男 | 1835-65 | 1889(71) | 永 (柳沢保泰女) 綺子 (太田資始女) |
↓ | |||||
29 | 相馬 誠胤 | 中村藩知事 | 秊胤 吉太郎 吉次郎 因幡守 |
充胤長男 | 1865-71 | 1892(41) | 京子 (戸田光則女) |
↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
二階堂 行政 | 従五位下 山城守 |
生毘沙門 | 白尾三郎 四郎左衛門尉 主計允 民部丞 出雲権守 |
藤原行遠男 | 二階堂地内(相模) | 政所執事 | |||||
二階堂 行光 | 従五位下 信濃守 |
掃部允 民部丞 |
行政男 | 1219 | ↓ | 政所執事 | |||||
二階堂 行盛 | 従五位下 信濃民部大夫 |
行然 | 民部少丞 紀伊権守 |
行光男 | 1253(73) | ↓ | 政所執事・ 評定衆 |
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二階堂 行綱 | 伊勢守 | 行願 | 三郎左衛門尉 信濃大夫判官 |
行盛男 | 1281(66) | ↓ | 政所執事・ 評定衆 |
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二階堂 頼綱 | 従五位下 下総守 |
三郎左衛門尉 伊勢守 |
行綱男 | 1283(45) | ↓ | 政所執事・ 評定衆 |
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二階堂 貞綱 | 三郎左衛門尉 | 行禅 | 師綱 | 頼綱男 | 1331 | ↓ | |||||
二階堂 行朝 | 従五位下 信濃守 |
行珍 | 右衛門尉 | 貞綱男 | 1353 | ↓ 岩瀬郡内(陸奥) |
政所執事・ 評定衆 |
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二階堂 行親 | 正五位上 左衛門尉 |
行朝男 | 1336 | ↓ | (以後、惣領家の 動向は未詳) |
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【須賀川二階堂家】 |
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二階堂 行続 | 参河守 | 行嗣 行春? 信濃守? |
行朝の裔? | 1459 | 須賀川城(陸奥) | ||||||
二階堂 為氏 | 遠江守 | 盛重 藤寿丸 二郎 |
行続男 | 1464 | ↓ | ||||||
二階堂 行光 | 山城守 | 為氏男? | ↓ | ||||||||
二階堂 行詮 | 山城守 | 行光男? | ↓ | ||||||||
二階堂 続義 | 遠江守 | 長福寺 忠誉道玄 |
晴行 宗義? 統義? |
行詮男? | ?-1531後 | ↓ | |||||
二階堂 輝行 | 従五位下 駿河守 |
照行 弾正 |
続義男 | 1531後-37 | 1537 | ↓ | |||||
二階堂 盛義 | 信濃守 | 遠江守 | 輝行男 | 1537-81 | 1581 | ↓ | |||||
二階堂 盛隆 | 左京亮 | 瑞泉院 蘭室 |
三浦介 | 盛義男 | 1581-84 | 1584(24) | ↓ | 蘆名家と同君連合 1581-82名義上の 当主は行親(弟) との説もあり |
|||
伊達 阿南 | 伊達晴宗女 盛義室 |
1584-89 | 1602(62) | ↓ 1589失領 佐竹家が保護 |
実質的な城代は 須田盛秀が担う |
||||||
城代・須田盛秀は佐竹家に仕え、後代、秋田藩の廻座(重臣)として1,600余石で存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
畠山 義純 | 従五位下 遠江守 |
最乗寺 | 足利太郎 岩松二郎 |
足利義兼長男 | 1222(35) | 秩父畠山(武蔵) | |||||
畠山 泰国 | 従五位下 上総介 |
空蓮 | 三郎 | 義純三男 | ↓ | ||||||
畠山 時国 | 正五位下 阿波守 |
上蓮 | 国氏 三郎太郎 小太郎 式部丞 |
泰国長男 | ↓ | ||||||
畠山 高国 | 上総介 | 信元 | 小太郎 蔵人 上野介 |
時国孫? | 1351(47) | ↓ | 1336-38 伊勢守護 |
||||
畠山 国氏 | 従五位上 右馬権頭 |
弥太郎 中務大輔 |
高国男 | ?-1351 | 1351 | ↓ 1345安達郡(陸奥)移転 1351滅亡 |
1345-51 奥州探題 |
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畠山 国詮 | 修理大夫 | 称名寺 道甫 |
平石丸 二本松二郎 上総介 宮内大輔 中務入道 |
国氏男 | 1354-1413頃 | 1354再興 二本松城(陸奥) |
賀美・黒川 (陸奥)分郡 守護職 |
||||
畠山 満泰 | 修理大夫 | 称念寺 安曼道泰 良俊 覚阿 |
七郎 左京大夫 宮内大輔 |
国詮男 | 1413頃-38後 | ↓ | |||||
畠山 持泰 | 治部少輔 | 良源 | 持重? 修理大夫? |
満泰男 | ↓ | ||||||
畠山 政泰 | 右京亮 | 良勝 | 政国? 治部少輔? |
畠山満盛 (満泰男) の男? |
↓ | ||||||
畠山 村国 | 修理大夫 | 義国? | 政泰男? | ↓ | |||||||
(畠山 晴国 | 右馬頭 | 弥太郎 | 村国男? | ↓ ) | (相続未詳) | ||||||
畠山 家泰 | 七郎 | 村国男? | ↓ | ||||||||
畠山 義氏 | 信濃守 | 宗阿 | 重義 七郎 |
家泰男? (弟?) |
1542前-47 | 1547後 | ↓ | ||||
畠山 義国 | 修理大夫 | 其阿 | 尚国 | 新城村国男 | 1547-80 | 1580 | ↓ | ||||
畠山 義継 | 七郎 | 月峰円公 | 義次 | 義国男 | 1580-85 | 1585 | ↓ | ||||
畠山 義綱 | 国王丸 | 義泰 七郎 |
義継男 | 1585-86 | 1589(16) | ↓ 1586失領 1589蘆名家にて 被殺、滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
白河(結城)祐広 | 弥七左衛門尉 | 結城朝広二男 | 白河郡白河荘(陸奥) | ||||||||
白河 宗広 | 上野介 | 君山道忠 | 弥七左衛門尉 | 祐広男 | 1338 | ↓ | |||||
白河 親朝 | 修理大夫 | 東山 | 大蔵少輔 三河守 |
宗広男 | 1347 | ↓ | |||||
白河 顕朝 | 大膳大夫 | 大印相公 | 弾正少弼 | 親朝男 | ↓ | ||||||
白河 満朝 | 三河守 | 長川道久 | 中務丞 左衛門尉 |
小峰政常 (親朝孫)の男 |
↓ | ||||||
白河 氏朝 | 弾正少弼 | 義秀好忠 | 那須資朝男 | ↓ | |||||||
白河 直朝 | 修理大夫 | 関川院 海竜道朝 |
小峰朝親 (政常孫)の男 |
1444頃 | ↓ | ||||||
白河 政朝 | 弾正少弼 | 亀山道総 心江 |
義永 | 直朝男 | 1470前-1510? | ↓ | |||||
白河 顕頼 | 左兵衛佐 | 長渓道永 | 政頼 宮内少輔 |
政朝男 | ↓ | ||||||
白河 義綱 | 一統 | 門舟院 道海義綱 |
左兵衛佐 | 顕頼男 | ↓ | ||||||
白河 晴綱 | 左京大夫 | 門書院 | 直広 晴広 |
義綱男 | 1533前-73 | 1573 | ↓ | ||||
白河 義顕 | 治部大輔 | 七若丸 | 晴綱男 | 1573-75 | 1613 | ↓ | |||||
白河 義親 | 従五位下 上野介 |
元照院 月翁道雲 |
関七郎 不説斎 |
顕頼男 | 1575-90 1601-26 |
1626(86) | ↓ 1590失領 1601 100人扶持 |
伊達家臣 | |||
白河義綱(義親養子)以後、仙台伊達家一門となり、江戸中期より陸奥真坂1,022石を知行。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
田村 直顕 | 右京大夫 | 春江栄公 | 遠江守? | 田村持顕男? | 1454頃 | 1474 | 田村荘(陸奥) (守山城?) |
||||
田村 盛顕 | 大膳大夫 | 賀翁慶公 | 左衛門大夫 | 直顕男 | 1487? | ↓ | |||||
田村 義顕 | 従四位下 大膳大夫 |
梁山棟公 | 左衛門大夫 | 盛顕男 | ?-1532頃 | 1561 | ↓ | ||||
田村 隆顕 | 安芸守 | 長岳泰公 | 左衛門大夫 | 義顕男 | 1532頃-71? | 1574 | ↓ 三春城に移転 |
||||
田村 清顕 | 侍従 大膳大夫 |
長雲寺 雲岳松公 |
隆顕長男 | 1571?-86 | 1586 | ↓ | |||||
田村 宗顕 | 孫七郎 | 定顕 | 田村氏顕 (隆顕二男)の男 |
1588-90 | ↓ 1590失領 1652宗良(伊達忠宗 三男・清顕外曽孫)が 岩沼(陸奥)にて再興 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
蒲生 氏郷 | 従三位 参議 飛騨守 |
レオン(霊名) 昌林院 高岩忠公 |
賦秀 鶴千代 忠三郎 |
蒲生賢秀三男 | 1590-95 | 1595(40) | 冬 (織田信長女) |
1584日野(近江)襲封 同年、松ヶ島城(伊勢) 120,000石 1588松坂城へ居所を移転 1590会津若松城(陸奥) 420,000石 1591加増 909,300石 |
||||
蒲生 秀行 | 従四位下 侍従 飛騨守 |
弘真院 覚山静雲 |
秀朝 秀隆 鶴千代 藤三郎 |
氏郷長男 | 1595-98 1601-12 |
1612(30) | 振 (徳川家康女) |
↓ 1598内訌減封 宇都宮城(下野) 180,000石 1601会津若松城 600,000石 |
(1598-1601 上杉景勝が 会津領主) |
|||
蒲生 忠郷 | 正四位下 参議 下野守 |
見樹院 徳誉玄光 |
亀千代 | 秀行長男 | 1612-27 | 1627(25) | 藤堂高虎女 | ↓ 1627無嗣 (弟・出羽上山城主 忠知が継ぎ、伊予松山へ) |
公称松平 | |||
1613年頃の重臣配置は以下の通り。 津川城代 岡重政 30,000石(居城は越後国内) 白河城代 町野幸和 28,000石 二本松城代 本山豊前 15,000石 守山城代 蒲生郷治 15,000石 長沼城代 玉井貞佑 10,000石 猪苗代城代 岡越後 10,000石(以上、居城はいずれも陸奥国内) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔鳥居家〕 |
||||||||||||
鳥居 忠政 | 従五位下 左京亮 |
新太郎 | 鳥居元忠二男 | 1602-22 | 1628(63) | 滝川雄利女 | 1600矢作城(下総)襲封 40,000石 1602磐城平城(陸奥) 100,000石 後、加増 120,000石 1622山形城(出羽)転封 |
|||||
〔内藤家〕 |
||||||||||||
内藤 政長 | 従四位下 左馬助 |
悟真院 養誉堆安 道山 |
金一郎 | 内藤家長長男 | 1622-34 | 1634(67) | 三宅康貞女 | 1600佐貫城(上総)襲封 20,000石 後、累増 45,000石 1622磐城平城 70,000石 |
||||
内藤 忠興 | 従四位下 帯刀 |
高岳院 円誉月心 長山 |
忠長 万鍋 金一郎 |
政長長男 | 1634-70 | 1674(83) | 酒井家次女 | ↓ | ||||
内藤 頼長 | 従四位下 左京大夫 |
美鈴院 方誉雪桜 風山 |
義概 義泰 万菊 左京亮 風虎 紫軒 |
忠興長男 | 1670-85 | 1685(67) | 松平忠国女 三条実秀女 |
↓ | ||||
内藤 義孝 | 従五位下 能登守 |
冬玄院 西誉了心 義山 |
藤丸 露江 |
頼長三男 | 1685-1712 | 1712(44) | 土屋政直女 | ↓ | ||||
内藤 義稠 | 従五位下 右京亮 |
廓寥院 真誉中棠 |
小一郎 | 義孝二男 | 1712-18 | 1718(20) | - | ↓ | ||||
内藤 政樹 | 従五位下 備後守 |
豊松 民部 |
内藤義英 (頼長二男) 長男 |
1718-47 | 1766(64) | - | ↓ 1747延岡城(日向)転封 |
|||||
〔井上家〕 |
||||||||||||
井上 正経 | 従五位下 河内守 |
正賢 利容 正燕 民部 |
井上正之長男 | 1747-56 | 1766(42) | 仙石政房女 | 1737笠間城(常陸)襲封 60,000石 1747磐城平城 1756摂津等四国内転封 |
寺社奉行 | ||||
〔安藤家〕 |
||||||||||||
安藤 信成 | 従四位下 侍従 対馬守 |
法融院 顕実意証 得悟日準 |
信明 勝蔵 |
安藤信尹二男 | 1756-1810 | 1810(63) | 松平武元女 | 1755加納城(美濃)襲封 50,000石 1756磐城平城 |
老中 | |||
安藤 信馨 | 従五位下 対馬守 |
慈広院 正円巍山 口宗 |
重馨 林三郎 勝蔵 伊勢守 長門守 |
信成二男 | 1810-12 | 1812(45) | 美吉 (久世広誉女) 満 (内藤信凭女) |
↓ | ||||
安藤 信義 | 従五位下 対馬守 |
最隆院 憲誉游学 道樹 |
新次郎 (致仕後) 山城守 近江守 |
安藤信厚 (信成長男) 長男 |
1812-29 | 1843(57) | 夲 (津軽寧親女) さち子 (立花鑑寿女) |
↓ | 奏者番 | |||
安藤 信由 | 従五位下 対馬守 |
宣照院 光誉和昶 自徳 |
浜之助 伊勢守 |
信馨五男 | 1829-47 | 1847(47) | 於従 (松平信明女) |
↓ | ||||
安藤 信正 | 侍従 対馬守 |
鶴翁 晩翠 |
信睦 信行 欽之進 欽之助 |
信由長男 | 1847-62 | 1871(53) | 苞 (本荘宗発女) |
↓ 1862隠居謹慎 |
老中 | |||
安藤 信民 | 鏻之助 | 孝懐院 即誉哲心 超世 |
信正長男 | 1862-63 | 1863(5) | - | 1863父有罪減封 30,000石 |
|||||
安藤 信勇 | 磐城平藩知事 (廃藩後) 学習院教授 |
理三郎 対馬守 |
内藤正義三男 (信由孫) |
1863-71 | 1908(60) | 登女子 (三浦万邦女) |
↓ 1871廃藩置県 |
義弟・信守 のとき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔立花家〕 |
||||||||||||
立花 宗茂 | 従四位下 侍従 左近将監 |
宗虎 統虎 鎮虎 正成 親成 尚政 俊正 信正 経正 千熊丸 弥十郎 |
高橋鎮種長男 立花鑑連養子 |
1609-20 | 1642(74) | 誾千代 (立花鑑連女) 八千子 (矢島秀行女) 菊子 (葉室頼宣女) |
1587柳河城(筑後) 132,200石 1600関が原の戦で改易 1604復封 旗本 5,000石 1609棚倉城(陸奥) 10,000石 後30,000石 1620柳河城に復帰 |
|||||
〔丹羽家〕 |
||||||||||||
丹羽 長重 | 従三位 参議 加賀守 |
鍋丸 五郎左衛門 |
丹羽長秀長男 | 1622-27 | 1637(67) | 織田信長女 | 1595小松城(加賀) 125,400石 1600所領没収 1603古渡(常陸)復封 10,000石 1619加増 20,000石 1622棚倉城(陸奥) 50,000石 1627白河城(陸奥)転封 |
|||||
〔内藤家〕 |
||||||||||||
内藤 信照 | 従五位下 豊前守 |
清浄院 長誉良栄 徹春 |
弥七郎 | 内藤信正長男 | 1627-65 | 1665(74) | 阿部正次女 | 1626近江・山城 二国内襲封 50,090石 1627棚倉城 |
||||
内藤 信良 | 従五位下 豊前守 |
宝岩院 静誉供安 |
犬千代 淡路守 摂津守 |
信照長男 | 1665-74 | 1695(71) | 奥平忠昌女 延 (松平直基養女) |
↓ | ||||
内藤 弌信 | 従五位下 紀伊守 |
信勝 市之助 |
内藤信光 (信照従弟) 二男 |
1674-1705 | 1730(73) | 太田資次女 品子 (毛利綱広女) |
↓ 1705田中城(駿河)転封 |
|||||
〔太田家〕 |
||||||||||||
太田 資晴 | 従五位下 備中守 |
資重 資在 熊次郎 |
太田資直五男 | 1705-28 | 1740(46) | 戸田氏定女 | 1705田中城(駿河)襲封 50,037石 同年棚倉城 1728館林城(上野)転封 |
若年寄 | ||||
〔松平(越智)家〕 |
||||||||||||
松平 武元 | 従五位下 右近将監 |
丹下 源之進 主計頭 |
松平頼明三男 松平武雅養子 |
1728-46 | 1779(67) | 松平忠雅女 | 1728館林城(上野)襲封 54,000石 同年棚倉城 1746館林城転封 |
西丸老中 | ||||
〔小笠原家〕 |
||||||||||||
小笠原 長恭 | 従五位下 能登守 |
慈雲院 本源崇徳 |
長明 土丸 内膳 佐渡守 |
小笠原長庸長男 | 1746-76 | 1776(37) | 永 (小笠原忠基養女) |
1744掛川城(遠江)襲封 60,000石 1746棚倉城 |
||||
小笠原 長堯 | 従五位下 佐渡守 |
南萼院 梅翁崇敬 |
岩丸 津八郎 |
長恭長男 | 1776-1812 | 1812(49) | 松平頼恭女 | ↓ | 奏者番 | |||
小笠原 長昌 | 従五位下 主殿頭 |
篤三郎 津八郎 |
長堯五男 | 1812-17 | 1823(28) | 連 (水野忠光女) |
↓ 1817唐津城(肥前)転封 |
|||||
〔井上家〕 |
||||||||||||
井上 正甫 | 従五位下 河内守 |
安住院 越海日久 |
武三郎 直之助 |
井上正定長男 | 1817-20 | 1858(80) | 峯 (真田幸弘女) 松平武寛女 喜 (織田信浮女) |
1786浜松城(遠江)襲封 1817棚倉城 |
奏者番 | |||
井上 正春 | 従五位下 河内守 |
亀丸 | 正甫長男 | 1820-36 | 1847(42) | 於昌 (松平忠学養女) |
↓ 1836館林城(上野)転封 |
寺社奉行 | ||||
〔松平(松井)家〕 |
||||||||||||
松平 康爵 | 従五位下 周防守 |
寛隆院 温誉誠円 徳潤 |
左近将監 | 松平康任二男 | 1836-54 | 1868(59) | 堅 (稲葉雍通女) |
1835浜田城(石見)襲封 60,422石 1836棚倉城 |
||||
松平 康圭 | 従五位下 周防守 |
左近将監 | 康任三男 | 1854-62 | 1862(42) | 竹子 (内藤政優養女) |
↓ | |||||
松平 康𣳾 | 従五位下 周防守 |
厳若 | 康圭長男 | 1862-64 | 1864(16) | - | ↓ | |||||
松平 康英 | 侍従 石見守 |
万太郎 康直 |
松平康済長男 | 1864-66 | 1904(75) | 鍵 (松平康正女) 直子 (鍋島直政女) |
↓ 1865加増 80,422石 1866川越城(武蔵)転封 |
老中 | ||||
〔阿部家〕 |
||||||||||||
阿部 正静 | 美作守 | 録太郎 長吉郎 |
阿部正外長男 | 1866-68 | 1878(30) | 通 (須田津次郎女) |
1866白河城(陸奥)襲封 100,000石 同年、棚倉城 1868白河城復封 |
|||||
阿部 正功 | 棚倉藩知事 | 基之助 | 阿部正耆二男 | 1868-71 | 1925(66) | 照子 (徳大寺公純女) |
1868減封 棚倉城 60,000石 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
土方 雄重 | 従五位下 掃部頭 |
雪江了寒 | 鎬 | 土方雄久二男 | 1622-28 | 1628(37) | 1608野々市(加賀)襲封 15,000石 1622菊多窪田(陸奥) 20,000石 |
|||||
土方 雄次 | 従五位下 河内守 |
清光院 江月浄澄 |
彦三郎 | 雄重長男 | 1629-79 | 1680(70) | ↓ | |||||
土方 雄隆 | 従五位下 伊賀守 |
高恭院 玄山宗道 |
雄高 監物 山城守 |
雄次二男 | 1679-84 | 1691(50) | ↓ 1679分知 18,000石 1684内訌改易 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔加藤家〕 |
||||||||||||
加藤 嘉明 | 従四位下 侍従 左馬助 |
三明院 宣興道誉 |
茂勝 孫六 |
岸教明長男 | 1627-31 | 1631(69) | 堀部市右衛門女 | 1602松山城(伊予) 200,000石 1627会津若松城(陸奥) 400,000石 |
||||
加藤 明成 | 従四位下 侍従 式部少輔 |
円通院 休意 |
孫次郎 | 嘉明長男 | 1631-43 | 1661(70) | 保科正直女 | ↓ 1643所領返還 (子・明友が石見吉永、 後、近江水口に新封) |
||||
〔保科→松平家〕 |
||||||||||||
保科 正之 | 正四位下 左中将 肥後守 贈従三位 |
土津霊神 | 幸松 | 徳川秀忠四男 | 1643-69 | 1672(62) | 菊 (内藤政長女) 万 (藤木弘之女) |
1636山形城(出羽) 200,000石 1637保科家から 別れ一家を設立 1643会津若松城 230,000石 |
将軍補佐 | |||
保科 正経 | 従四位下 侍従 筑前守 |
鳳翔院 宜山休公 |
大之助 (致仕後) 素行軒 致休 |
正之四男 | 1669-81 | 1681(36) | 熊 (前田利常女) |
↓ | ||||
松平 正容 | 正四位下 左中将 肥後守 |
徳翁霊神 | 正信 重四郎 |
正之六男 | 1681-1731 | 1731(63) | 竹 (阿部正武女) 祐 (横山常定女) |
↓ | 1696 改称松平 |
|||
松平 容貞 | 従四位下 左少将 肥後守 |
土常霊神 | 菊千代 長菊 |
正容八男 | 1731-50 | 1750(27) | 友 (松平頼豊女) |
↓ | ||||
松平 容頌 | 正四位下 左中将 肥後守 |
恭定霊神 | 容綏 容清 亀五郎 |
容貞長男 | 1750-1805 | 1805(62) | 鉄 (阿部正允女) 齢 (毛利重就養女) |
↓ | ||||
松平 容詮 | 従四位下 侍従 駿河守 |
宣明院 円通義覚 |
専之助 | 松平容章 (正容九男)長男 |
(早世) | 1785(36) | 穎 (前田治脩養女) |
|||||
松平 容住 | 従四位下 侍従 若狭守 |
貞昭霊神 | 金之助 | 容詮二男 | 1805 | 1805(28) | 謙 (井伊直幸女) |
↓ | ||||
松平 容衆 | 従四位下 左少将 肥後守 |
欽文霊神 | 金之助 | 容住二男 | 1806-22 | 1822(20) | 幸子=元 (徳川家斉女) |
↓ | ||||
松平 容敬 | 正四位下 左中将 肥後守 |
忠恭霊神 | 慶三郎 靱負 |
松平義和三男 | 1822-52 | 1852(50) | 節 (佐竹義和女) 厚 (前田斉広女) |
↓ | ||||
松平 容保 | 参議 肥後守 (廃藩後) 東照宮宮司 |
銈之允 若狭守 |
松平義建六男 | 1852-68 | 1893(59) | 敏(容敬女) | ↓ 1864加増 280,000石 1868所領没収 (1869息子・容大が 陸奥斗南復封) |
京都守護職 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔加藤家〕 |
||||||||||||
加藤 明利 | 従五位下 民部大輔 |
民部 民部少輔 |
加藤嘉明三男 | 1627-28 | 1641(43) | 朝倉宣正女 | 1627新封 三春(陸奥) 30,000石 1628二本松城(陸奥)転封 |
会津藩主 加藤家与力 |
||||
〔松下家〕 |
||||||||||||
松下 長綱 | 従五位下 石見守 |
月照院 円室宗孤 |
左助 | 松下重綱長男 | 1628-44 | 1658(49) | 喜与 (山内忠義女) |
1627二本松城(陸奥)襲封 50,000石 1628幼少減封 三春城 30,000石 1644精神疾患 により改易 |
会津藩主 加藤家与力 |
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〔秋田家〕 |
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秋田 俊季 | 従五位下 河内守 |
真如院 実岩常固 |
安東太郎 伊豆守 |
秋田実季長男 | 1645-49 | 1649(52) | 松平信吉女 | 1631宍戸城(常陸)襲封 50,000石 1645三春城 55,000石 |
||||
秋田 盛季 | 従五位下 安房守 |
陽雲院 竜天蒼松 |
久松 左近 |
俊季長男 | 1649-76 | 1676(57) | 安藤重長女 | ↓ 1649分知 50,000石 |
||||
秋田 輝季 | 従五位下 信濃守 |
乾元院 剛山瑞陽 |
万吉 大蔵 |
盛季二男 | 1676-1715 | 1720(72) | 酒井忠直女 秋田実久女 |
↓ | ||||
秋田 頼季 | 従五位下 信濃守 |
広運院 俊徳玄明 |
季侶 主水 主水正 |
荒木高村 (実季外曽孫) 長男 |
1715-43 | 1743(48) | 岩子 (輝季養女) |
↓ | ||||
秋田 延季 | 従五位下 河内守 |
天稟院 令徳永顕 扇裏 |
治季 民部 東太郎 (致仕後) 太季 山城守 |
頼季長男 | 1743-51 | 1773(56) | - | ↓ | ||||
秋田 定季 | 従五位下 主水正 |
恭徳院 仁則惟敬 |
季陳 富三郎 主水 |
頼季二男 | 1751-57 | 1757(32) | - | ↓ | ||||
秋田 倩季 | 従五位下 山城守 |
建徳院 古極体仁 |
千季 乙之助 東太郎 信濃守 (致仕後) 英翁 |
延季二男 | 1757-97 | 1813(63) | 静 (松平信礼女) 青山幸道女 |
↓ | ||||
秋田 長季 | 従五位下 信濃守 |
大仰院 法鑑高輪 |
謐季 乙之助 大炊 大炊頭 河内守 |
倩季二男 | 1797-1803 | 1811(34) | 久世広誉女 | ↓ | ||||
秋田 孝季 | 従五位下 山城守 |
大雄院 英徳文明 |
季孝 (致仕後) 主水正 伊予守 |
倩季三男 | 1803-32 | 1844(59) | 鉄 (秋田季周女) |
↓ | ||||
秋田 肥季 | 従五位下 安房守 |
瑞季院 麗山紹光 |
邦季 憙季 信濃守 |
孝季長男 | 1832-65 | 1865(53) | 儕 (池田斉訓養女) |
↓ | ||||
秋田 映季 | 三春藩知事 (廃藩後) 貴族院議員 |
万之助 信濃守 |
肥季二男 | 1865-71 | 1907(50) | 邦 (山内豊福女) 竜子 (池田徳潤女) |
↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔松下家〕 |
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松下 重綱 | 従五位下 石見守 |
州伝寺 栄岩長誉 |
左助 右兵衛尉 |
松下之綱長男 | 1627 | 1627(49) | 加藤嘉明女 | 1616烏山城(下野) 20,800石 1627二本松城(陸奥) 50,000石 |
会津藩主 加藤家与力 |
|||
松下 長綱 | 従五位下 石見守 |
左助 | 重綱長男 | 1627-28 | 1658(49) | 喜与 (山内忠義女) |
↓ 1628三春城(陸奥)転封 |
会津藩主 加藤家与力 |
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〔加藤家〕 |
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加藤 明利 | 従五位下 民部大輔 |
宝樹院 雲心夢月 |
民部 民部少輔 |
加藤嘉明三男 | 1628-41 | 1641(43) | 朝倉宣正女 | 1627新封 三春城(陸奥) 30,000石 1628二本松城(陸奥) 1641没後、嗣子幼少 により所領収公 |
会津藩主 加藤家与力 |
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〔丹羽家〕 |
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丹羽 光重 | 従四位下 侍従 左京大夫 |
慈明院 玉峰性瑶 半古庵 |
宮松丸 左京亮 |
丹羽長重長男 | 1643-79 | 1701(81) | 安藤重長女 櫛笥隆胤女 |
1637白河城(陸奥)襲封 100,700石 1643二本松城 |
||||
丹羽 長次 | 従四位下 侍従 左京大夫 |
興国院 節山麟功 |
鍋丸 大膳 若狭守 |
光重長男 | 1679-98 | 1698(56) | 幸 (蜂須賀光隆女) |
↓ | ||||
丹羽 長之 | 従五位下 越前守 |
巌松院 徽外宗絃 |
重昌 主殿 |
光重二男 | 1698-1700 | 1700(45) | - | ↓ | ||||
丹羽 秀延 | 従四位下 左京大夫 |
泰雲院 鉄山玄栄 |
尹重 五郎三郎 |
長之長男 | 1701-28 | 1728(39) | 阿部正邦女 | ↓ | ||||
丹羽 高寛 | 従四位下 左京大夫 |
天岳院 豁如了然 |
百介 五郎左衛門 |
丹羽長道 (長重弟長次 の曽孫)長男 |
1728-45 | 1769(63) | 秀延養女 | ↓ | ||||
丹羽 高庸 | 従四位下 若狭守 |
大洞院 柏庭宗樹 |
百介 五郎左衛門 |
高寛長男 | 1745-65 | 1765(37) | 達 (徳川宗直女) |
↓ | ||||
丹羽 長貴 | 従四位下 侍従 加賀守 |
雄峯院 覚道俊英 |
宮松丸 五郎左衛門 左京大夫 |
高庸長男 | 1766-96 | 1796(46) | 貞 (伊達村候女) |
↓ | ||||
丹羽 長祥 | 従四位下 加賀守 |
顕徳院 円通了義 |
希驥 鍋太郎 大炊頭 左京大夫 |
長貴長男 | 1796-1813 | 1813(34) | 品 (有馬頼貴女) |
↓ | ||||
丹羽 長富 | 従四位下 左少将 左京大夫 |
泰国院 一宝道光 |
蕃吉 覚蔵 (致仕後) 若狭守 |
長祥長男 | 1813-58 | 1866(64) | 益 (有馬頼端女) |
↓ | ||||
丹羽 長国 | 侍従 左京大夫 |
保蔵 越前守 |
長富長男 | 1858-68 | 1904(71) | 久子 (戸田氏正女) |
↓ 1868列藩同盟に 参加、隠居謹慎 |
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丹羽 長裕 | 二本松藩知事 | 頼丸 五郎左衛門 |
上杉斉憲九男 | 1868-71 | 1886(28) | 峯(長国女) | 1868減封 50,000石 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔丹羽家〕 |
||||||||||||
丹羽 長重 | 従三位 参議 加賀守 |
大鄰寺 傑俊浄英 |
鍋丸 五郎左衛門 |
丹羽長秀長男 | 1627-37 | 1637(67) | 織田信長女 | 1622棚倉城(陸奥) 50,000石 1627白河城(陸奥) 100,700石 |
||||
丹羽 光重 | 従四位下 侍従 左京大夫 |
宮松丸 左京亮 |
長重長男 | 1637-43 | 1701(81) | 安藤重長女 櫛笥隆胤女 |
↓ 1643二本松城(陸奥)転封 |
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〔榊原家〕 |
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松平 忠次 | 従四位下 式部大輔 |
国千代 | 松平忠政長男 榊原康勝養子 |
1643-49 | 1665(61) | 徳 (黒田長政女) |
1615館林城(上野)襲封 100,000石 1625高直し 110,000石 1643白河城 140,000石 1649姫路城(播磨)転封 |
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〔本多家〕 |
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本多 忠義 | 従五位下 能登守 |
大信院 本誉忠義 |
忠光 唐之助 右兵衛 幸千代 (致仕後) 鈍斎 |
本多忠政三男 | 1649-62 | 1676(75) | 兼 (森忠政女) |
1644村上城(越後) 100,000石 1649白河城 120,000石 |
||||
本多 忠平 | 従五位下 下野守 |
唐之助 | 忠義長男 | 1662-81 | 1695(64) | 奈阿 (池田光政女) |
↓ 1662分知 100,000石 1681宇都宮城(下野)転封 |
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〔松平(奥平)家〕 |
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松平 忠弘 | 従四位下 侍従 下総守 |
清良 鶴松丸 |
松平忠明長男 | 1681-92 | 1700(70) | 細川忠利女 | 1668宇都宮城(下野) 150,000石 1681白河城 1692山形城転封 |
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〔松平(結城)家〕 |
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松平 直矩 | 従四位下 侍従 大和守 |
天祐院 鉄船道駕 |
鶴松 藤松 |
松平直基長男 | 1692-95 | 1695(54) | 駒 (松平直政女) 丁 (東園基賢女) |
1686山形城(出羽) 100,000石 1692白河城 150,000石 |
||||
松平 基知 | 従四位下 侍従 大和守 |
仰高院 実性英賢 |
源次郎 久太郎 和泉守 |
直矩二男 | 1695-1729 | 1729(51) | 封 (有馬頼元女) 安 (東園基雅養女) |
↓ | ||||
松平 明矩 | 従四位下 侍従 大和守 |
金之助 兵庫頭 相模守 土佐守 |
松平知清 (直矩四男) 長男 |
1729-41 | 1748(36) | 艶 (小笠原忠基女) |
↓ 1741姫路城転封 |
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〔松平(久松)家〕 |
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松平 定賢 | 従四位下 越中守 |
俊徳院 興誉鉄岩 仁譲 |
頼儀 頼軌 左門 |
松平頼貞四男 松平定儀養子 |
1741-70 | 1770(62) | 幾 (松平定儀養女) |
1727高田城(越後)襲封 110,000石 1741白河城 |
||||
松平 定邦 | 従四位下 越中守 |
寛光院 紹誉継風 憐道 |
久米次郎 河内守 近江守 (致仕後) 木工頭 |
定賢長男 | 1770-83 | 1790(63) | 黒田継高女 | ↓ | ||||
松平 定信 | 従四位下 左少将 越中守 |
守国院 崇達社 天誉保徳 楽翁 |
賢丸 上総介 |
徳川宗武七男 | 1783-1812 | 1829(72) | 峯(定邦女) 隼 (加藤泰武女) |
↓ | 老中・ 将軍補佐 |
|||
松平 定永 | 従四位下 侍従 越中守 |
太郎丸 式部大輔 |
定信長男 | 1812-23 | 1838(48) | 綱 (蜂須賀治昭女) |
↓ 1823桑名城(伊勢)転封 |
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〔阿部家〕 |
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阿部 正権 | 銕丸 | 光覚院 瑞誉常照 知鑑 |
阿部正由長男 | 1823 | 1823(17) | - | 1808忍城(武蔵)襲封 100,000石 |
|||||
阿部 正篤 | 従五位下 飛騨守 |
大巌院 義誉徳風 無疆 |
房丸 | 松平頼興二男 | 1823-31 | 1843(37) | 聡 (島津斉宣女) |
↓ | ||||
阿部 正瞭 | 従五位下 能登守 |
成徳院 行誉自昭 翠山 |
益之助 | 松平信明七男 | 1831-38 | 1838(26) | 彩 (松平康任養女) |
↓ | 寺社奉行 | |||
阿部 正備 | 能登守 | 弾正 | 大村純昌五男 | 1838-48 | 1874(52) | 教 (内藤頼寧女) |
↓ | 奏者番 | ||||
阿部 正定 | 誠一郎 | 清竜院 智底 |
阿部正蔵長男 | 1848 | 1848(26) | 鏞 (花房職恕女) |
↓ | |||||
阿部 正耆 | 従四位下 侍従 播磨守 |
浄厳院 徳誉賢譲 良節 |
義三郎 | 阿部正粋二男 | 1848-63 | 1863(37) | 豊 (阿部正寧女) |
↓ | 奏者番 | |||
阿部 正外 | 侍従 豊後守 |
葆真 兵庫 久米作 越前守 |
阿部正蔵三男 | 1864-66 | 1887(60) | 千代 (長谷川正直女) |
↓ | 老中 | ||||
阿部 正静 | 美作守 | 録太郎 長吉郎 |
正外長男 | 1868 | 1878(30) | 通 (須田津次郎女) |
1866棚倉城(陸奥)転封 1868白河城復封 同年列藩同盟に 参加、隠居謹慎 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔内藤家〕 |
||||||||||||
内藤 政晴 | 従五位下 兵部少輔 |
光台院 長誉月秀 了山 |
万福 兵部 |
内藤政長四男 | 1634-45 | 1645(20) | 土屋利直女 | 1634兄・内藤政長の 先封地=陸奥三郡内 20,000石新封 |
||||
内藤 政親 | 従五位下 丹波守 |
得大院 門誉惣持 賢山 |
政直 金一郎 右近 右近大夫 |
政晴長男 | 1646-96 | 1696(52) | 朽木稙綱女 | ↓ 1668泉に居所を築く |
若年寄 | |||
内藤 政森 | 従五位下 山城守 |
金一郎 右近 |
政親三男 | 1696-1702 | 1738(56) | 柳沢吉保養女 柳沢吉保二女 |
↓ 1702安中城(上野)転封 |
将軍小姓 | ||||
〔板倉家〕 |
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板倉 重同 | 従五位下 伊予守 |
祥額院 雲峯源瑞 |
百助 靱負 |
神保元茂二男 板倉重形 (外祖父)養子 |
1702-17 | 1717(39) | 細川興栄女 | 1686安中(上野)襲封 15,000石 1702泉 |
将軍小姓 | |||
板倉 勝清 | 従五位下 佐渡守 |
重清 百助 伊予守 |
重同長男 | 1717-46 | 1780(75) | 板倉重冬女 | ↓ 1746相良(遠江)転封 |
若年寄 | ||||
〔本多家〕 |
||||||||||||
本多 忠如 | 従五位下 越中守 |
葆真院 沖翁玄宜 壺山 |
時之助 讃岐守 |
本多忠直五男 本多忠通養子 |
1746-54 | 1773(62) | 吉子 (松浦篤信女) |
1721相良(遠江)襲封 15,000石 1746泉 |
||||
本多 忠籌 | 従四位下 侍従 弾正大弼 |
賢剛院 忠岳衍良 |
雄之進 大蔵 弾正少弼 |
忠如長男 | 1754-99 | 1812(74) | 富子 (松浦誠信女) |
↓ 1790加増 20,000石 城主格 |
老中格 | |||
本多 忠誠 | 従五位下 越中守 |
徳照院 泰岸祥雲 |
忠武 勇次郎 河内守 |
忠籌二男 | 1799-1815 | 1832(72) | 八百子 (板倉勝暁女) |
↓ | ||||
本多 忠知 | 従五位下 弾正少弼 |
泰岳院 松翁真封 |
正之進 河内守 |
忠誠長男 | 1815-36 | 1839(53) | 昌子 (榊原政敦女) |
↓ | ||||
本多 忠徳 | 従五位下 越中守 |
憲徳院 雄山良義 汲深斎 |
治之助 晴之丞 長三郎 |
忠知三男 | 1836-60 | 1860(43) | 馨子 (柳沢保泰女) |
↓ | 若年寄 | |||
本多 忠紀 | 能登守 | 静翁 | 哲四郎 | 忠知四男 | 1860-68 | 1883(65) | 喜子 (柳沢里顕女) |
↓ 1868列藩同盟に 参加、隠居謹慎 |
若年寄 | |||
本多 忠伸 | 泉藩知事 | 兵庫之助 | 本多忠行長男 | 1868-71 | 1903(52) | 春子 (遠山景明女) |
1868減封 18,000石 1871廃藩置県 |
息子・忠彦 のとき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
遠山 頼直 | 従五位下 主殿頭 |
覚性院 円心光山 |
政亮 百助 主殿 |
内藤忠興三男 | 1670-93 | 1693(69) | 1670磐城平藩内藤家より分家 湯本(陸奥) 10,000石 1676湯長谷(陸奥)へ居所を移転 後、累増 15,000石 |
大坂定番 | ||||
遠山 政徳 | 従五位下 内膳正 |
泰巌院 竜光雲山 |
三八郎 求馬 |
堀直行二男 | 1694-1703 | 1703(30) | ↓ | |||||
内藤 政貞 | 従五位下 主殿頭 |
智光院 泰仁勇山 |
長十郎 主殿 |
土方雄賀 (頼直の姉の男) 二男 |
1703-22 | 1722(38) | ↓ | 改称内藤 | ||||
内藤 政醇 | 従五位下 播磨守 |
不退院 風航致山 |
政令 政盈 銀一郎 |
政貞長男 | 1722-41 | 1741(31) | ↓ | |||||
内藤 政業 | 従五位下 播磨守 |
大慈院 等誉恵明 葛山 |
亮長 銀一郎 |
政醇長男 | 1741-61 | 1811(72) | ↓ | |||||
内藤 貞幹 | 従五位下 因幡守 |
徳本院 有隣愍山 |
雅之進 主殿頭 伊賀守 |
徳川宗直六男 | 1761-78 | 1778(33) | ↓ | |||||
内藤 政広 | 雅之進 | 顕明院 曜誉瑞光 玉山 |
貞幹二男 | 1778-87 | 1787(18) | ↓ | ||||||
内藤 政徧 | 従五位下 主殿頭 |
岩三郎 新三郎 |
貞幹四男 | 1787-99 | 1799(27) | ↓ | ||||||
内藤 政璟 | 従五位下 播磨守 |
濤山 | 春之丞 | 水野忠鼎十男 | 1799-1824 | 1836(52) | ↓ | |||||
内藤 政民 | 従五位下 因幡守 |
造酒 | 酒井忠徳五男 | 1824-55 | 1855(50) | ↓ | ||||||
内藤 政恒 | 従五位下 播磨守 |
光亨 起之進 伊賀守 |
松平光庸四男 | 1855-59 | 1859(24) | ↓ | ||||||
内藤 正敏 | 従五位下 因幡守 |
勝之丞 | 内藤政ヨシ (又の右脇に丶) 長男 |
1859-63 | 1863(21) | ↓ | ||||||
内藤 政養 | 長寿麿 | 政恒三男 | 1863-68 | 1911(55) | ↓ 1868列藩同盟に 参加、隠居謹慎 |
|||||||
内藤 政憲 | 湯長谷藩知事 | 英之助 | 大炊御門家孝男 | 1869-71 | 1919(72) | 1869減封 14,000石 1871廃藩置県 |
息子・政潔 のとき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔本多家〕 |
||||||||||||
本多 忠国 | 従五位下 中務大輔 |
政義 政武 小次郎 平八郎 |
松平頼元二男 本多政長養子 |
1679-82 | 1704(39) | 振 (池田綱政女) |
1679郡山城(大和)襲封 120,000石 同年、福島城(陸奥) 150,000石 1682姫路城(播磨)転封 |
|||||
〔堀田家〕 |
||||||||||||
堀田 正仲 | 従四位下 下総守 |
常楽院 其阿法漢 映性 |
左京 | 堀田正俊長男 | 1686-94 | 1694(33) | 松 (池田綱政女) |
1685山形城(出羽) 100,000石 1686福島城 |
||||
堀田 正虎 | 従五位下 伊豆守 |
織部 | 正俊二男 | 1694-1700 | 1729(68) | 永井尚申女 | ↓ 1700山形城(出羽)転封 |
|||||
〔板倉家〕 |
||||||||||||
板倉 重寛 | 従五位下 甲斐守 |
実崇院 義峰源卓 |
重長 重知 千次郎 式部 (致仕後) 将監 |
板倉重種長男 | 1702-17 | 1721(53) | 亀井茲政女 | 1683父重種旧領のうち、 坂木(信濃) 30,000石相続 1702福島城 |
||||
板倉 重泰 | 従五位下 出雲守 |
大通院 了雲源智 |
重信 千之助 |
重寛長男 | 1717-18 | 1718(28) | 水野忠直女 | ↓ | ||||
板倉 勝里 | 従五位下 甲斐守 |
真空院 徹参源慧 |
正幸 重房 靱負 式部 |
高木正陳 (重種の妹の男) 二男 |
1718-43 | 1743(38) | 辰 (相馬昌胤女) |
↓ | ||||
板倉 勝承 | 従五位下 内膳正 |
玄泰院 寛道源通 |
式部 | 勝里長男 | 1743-65 | 1765(31) | 銕子 (京極高矩女) |
↓ | ||||
板倉 勝任 | 兵庫 | 諦了院 宗心源洞 |
富之助 | 勝里二男 | 1765-66 | 1766(31) | - | ↓ | ||||
板倉 勝行 | 従五位下 備中守 |
寛亨院 廓照源明 |
安之丞 蔵人 |
板倉勝澄四男 | 1766-73 | 1773(22) | - | ↓ | ||||
板倉 勝矩 | 従五位下 河内守 |
桃渓院 仙翁源齢 |
定五郎 | 板倉勝清五男 | 1773-75 | 1775(34) | - | ↓ | ||||
板倉 勝長 | 従五位下 内膳正 |
泰寿院 仙峰源久 |
伊三郎 | 勝矩二男 | 1776-1815 | 1815(55) | 八重 (脇坂安親女) 籌 (本多忠薫女) |
↓ | ||||
板倉 勝俊 | 従五位下 甲斐守 |
玉翁院 崑山源耀 |
亥三郎 右近将監 |
勝長長男 | 1815-34 | 1841(54) | 貞 (上杉治広女) |
↓ | ||||
板倉 勝顕 | 内膳正 | 松園 | 鑑之助 刑部少輔 |
勝俊長男 | 1834-66 | 1877(64) | 彝 (上杉斉定女) |
↓ | ||||
板倉 勝尚 | 甲斐守 | 容園 | 勝己 尚吉 |
勝顕長男 | 1866-68 | 1924(74) | 藤子 (渡辺当忠女) |
↓ 1868列藩同盟に 参加、隠居謹慎 |
||||
板倉 勝達 | 内膳正 | 銑之助 教之助 |
板倉勝定 (勝長の男) 長男 |
1868-69 | 1913(75) | 竹 (松原作左衛門女) 稲子 (細川行芬女) |
1868減封相続 28,000石 1869大沼郡内(陸奥) 同年、重原(三河)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔松平(尾張)家〕 |
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松平 義昌 | 従四位下 左少将 出雲守 |
得安院 洪誉原境 活法 |
義則 次郎太 出雲 |
徳川光友三男 | 1683-1713 | 1713(63) | 1683新封 梁川(陸奥) 30,000石 |
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松平 義方 | 従四位下 左少将 出雲守 |
晴寥院 源誉澈水 義照 |
義賢 久太郎 求馬 右近将監 右近大夫 |
義昌長男 | 1713-21 | 1721(36) | ↓ | ||||
松平 義真 | 従四位下 侍従 式部大輔 |
善暁院 本誉速証 源然 |
求馬 義貞 |
義方長男 | 1721-29 | 1729(16) | ↓ 1729無嗣 |
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松平 通春 | 従四位下 侍従 主計頭 |
万五郎 求馬 |
徳川綱誠十八男 | 1729-30 | 1764(69) | 1729再封 1730尾張藩徳川継友 継嗣(=徳川宗春) 梁川松平家消滅 |
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〔松前家〕 |
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松前 章広 | 従五位下 志摩守 |
勇之助 敷広 |
松前道広長男 | 1807-21 | 1833(59) | 1792福山館(蝦夷地)襲封 10,000石以上格 1807梁川(陸奥)および 常陸・上野国内 9,002石(込高18,626石) 1821福山館復帰 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
松平 頼貞 | 従四位下 左少将 大学頭 |
荘侯 義山 |
大学 (致仕後) 直指 |
松平頼元長男 | 1700-43 | 1744(80) | 1693額田(常陸)襲封 20,000石 1700守山(陸奥) |
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松平 頼寛 | 従四位下 侍従 若狭守 |
頃侯 黄竜 仙子 |
武次郎 雄次郎 一学 主税 頼母 |
頼貞三男 | 1743-63 | 1763(61) | ↓ | |||||
松平 頼亮 | 従四位下 侍従 式部大輔 |
簡侯 | 頼種 徳之進 美作守 |
頼寛三男 | 1763-1801 | 1801(58) | ↓ | |||||
松平 頼慎 | 従四位下 侍従 大学頭 |
徳侯 | 栄之允 敏麻呂 式部大輔 |
頼亮二男 | 1801-36 | 1836(61) | ↓ | |||||
松平 頼誠 | 従四位下 侍従 大学頭 |
祁侯 | 繁麻呂 刑部大輔 |
頼慎長男 | 1836-62 | 1862(60) | ↓ | |||||
松平 頼升 | 守山藩知事 | 蛟竜 | 掃部頭 大学頭 |
頼誠三男 | 1862-69 | 1872(41) | ↓ | |||||
松平 頼之 | 守山藩知事 | 昭鄰 二十二麿 |
徳川斉昭二十二男 | 1869-70 | 1873(16) | ↓ 1870松川(常陸)へ 藩庁を移転 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
松平 忠尚 | 従五位下 宮内少輔 |
聞修院 秀峯義節 |
乗高 乗守 源次郎 宮内大輔 |
松平乗久長男 松平忠弘養子 |
1688-1719 | 1726(76) | 1688白河藩松平(奥平)家 より分家 20,000石 1700桑折(陸奥) |
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松平 忠暁 | 従五位下 玄蕃頭 |
高松院 雲峯浄関 |
乗包 留之助 小三郎 |
松平乗春 (忠尚実弟)五男 |
1719-36 | 1736(46) | ↓ | 寺社奉行 | ||||
松平 忠恒 | 従五位下 宮内少輔 |
定太郎 大蔵少輔 |
忠暁二男 | 1736-47 | 1768(49) | ↓ 1736篠塚(上野)転封 |
奏者番 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
田沼 意明 | 従五位下 淡路守 |
紹徳院 就道不宰 |
竜助 | 田沼意知長男 | 1787-96 | 1796(24) | 1787遠江相良藩主 意次(祖父)の継嗣 下村(陸奥) 10,000石 |
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田沼 意壱 | 従五位下 左衛門佐 |
天稟院 隆岳道栄 |
意吉 万吉 万之助 |
意知二男 | 1796-1800 | 1800(21) | ↓ | |||||
田沼 意信 | 従五位下 主計頭 |
万章院 温質道厚 |
鎌之丞 | 意知四男 | 1800-03 | 1803(22) | ↓ | |||||
田沼 意定 | 従五位下 主計頭 |
謙厚院 玄体義霊 |
幾之助 | 田沼意致 (意知従弟) 六男 |
1803-04 | 1804(21) | ↓ | |||||
田沼 意正 | 従五位下 玄蕃頭 |
忠徳 金弥 中務少輔 玄蕃 |
意次四男 | 1804-23 | 1836(78) | ↓ 1823相良(遠江)転封 |
若年寄 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
立花 種善 | 従五位下 豊前守 |
真巌院 実恩紹報 |
順之助 和泉守 |
立花種周四男 | 1806-32 | 1832(39) | 1805三池(筑後)襲封 10,000石 1806下手渡(陸奥) |
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立花 種温 | 従五位下 主膳正 |
円体院 智鑑紹永 |
総之丞 | 種善長男 | 1833-49 | 1849(39) | ↓ | |||||
立花 種恭 | 出雲守 | 鐘之助 | 立花種道 (種周二男) 長男 |
1849-68 | 1905(70) | ↓ 1868三池復封 |
会計総裁 |
(2009.01.03up)
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