青森県は古く、蝦夷の居住地であり、平安朝後期には奥州藤原氏の後背地でもあり、密接な関係を持っていました。鎌倉期には東南部に南部家が封じられましたが、北・中部は北条(得宗)家が惣地頭となっており、安藤(安東)家が渡党などの蝦夷を管轄し、他に曽我・工藤などの諸家が統治に当たっていました。南北朝期には安東家が室町幕府方となったのに対し、南朝方の北畠顕信が八戸南部家などの勢力に支持されて鎮守府将軍となっていました。室町期に北畠家は浪岡御所として存続、北奥は安東家と三戸南部家との対立の場となり、15世紀中葉には南部家が一帯を制圧しましたが、戦国期になると南部家の被官である大浦家や大光寺家が割拠しました。16世紀後半には大浦家が勢力を蓄え、為信は津軽家に改称して南部家から自立、津軽群を支配して豊臣秀吉から統治権を承認されました。江戸期には北・三戸・二戸の三郡は南部藩領、後に一部が八戸藩(南部別家)領となり、津軽郡は津軽=弘前藩領でした。1871年の廃藩置県により弘前県が成立、同年、青森県と改称し、二戸郡は陸中諸郡とともに盛岡県→岩手県に編入されました。1872年に県の北海道部分が開拓使の所属となり、現在の県域が確定しました。
北畠(浪岡)家 大光寺家 津軽家→津軽藩 黒石藩=津軽家 八戸藩=南部家 七戸藩=南部家 斗南藩=松平(会津)家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
北畠 顕成 | 従二位 権大納言 |
行意? | 北畠顕家男 | 1378頃 | 東山根館(陸奥) | 南朝方 | |||||
北畠 顕元 | 権大納言 | 賢王丸 | 顕成男 | ↓ | 南朝方 | ||||||
北畠 顕邦 | 権大納言 | 忠具? | 顕元男 | ↓ | |||||||
北畠 顕義 | 左中将 | 大真院 | 俊具? | 顕邦男 | 1467頃 | ↓ 浪岡城(陸奥) |
(具永までの系譜に 代数の欠落など 不明瞭な部分あり) |
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北畠 顕具 | 侍従 左衛門佐 |
次郎左衛門 | 顕義男? | ↓ | |||||||
北畠 具永 | 従四位下 左中将 弾正大弼 |
顕永? | 顕具男 | 1555 | ↓ | ||||||
北畠 具統 | 従五位下 侍従 弾正少弼 |
寛了 | 具永男 | ↓ | |||||||
北畠 具運 | 従五位下 式部大輔 |
悟本寂山 | 具統男 | ?-1562 | 1562 | ↓ | |||||
北畠 顕村 | 三郎兵衛 | 具愛 | 具運男 | 1562-78 | 1578(21) | ↓ 1578滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
南部 行実 | 彦九郎 | 南部助政四男 | 1483頃 | 陸奥南部領内 地未詳 |
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堤 光康 | 弾正左衛門 | 南部信時四男 | ↓ | ||||||||
堤 経行 | 遠江守 | 光康男 | ↓ | ||||||||
大光寺 景行 | 遠江守 | 政行? | 経行男 | 1546頃 | 大光寺城(陸奥) | ||||||
大光寺 政基 | 左衛門佐 | 景行男 | ↓ | ||||||||
大光寺 政景 | 弾正左衛門 | 政基男 | ?-1581後 | ↓ | |||||||
大光寺 光親 | 政徳 | 政景男 | 1581後-88 | ↓ 1588失領 (後、一時大館城主) |
代 | 氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
1 | 大浦 光信 | 右京亮 | 出自未詳 | 1502頃 | 1491?種里(陸奥) 1502?大浦城(陸奥) |
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2 | 大浦 盛信 | 信濃守 | 右京亮 | 光信男 | 1546頃 | ↓ | |||||||
3 | 大浦 政信 | 右京亮 | 善暘先公 | 盛信男 | 1541 | ↓ | |||||||
4 | 大浦 為則 | 右京亮 | 政信男 | 1567 | ↓ | ||||||||
5 | 津軽 為信 | 従五位下 右京大夫 |
瑞祥院 梁宅源棟 天室 |
扇 右京 |
大浦守信男? (久慈治義男?) |
?-1607 | 1607(58) | 戌=阿保良 (為則女) |
↓ 1590本領安堵 津軽群一円(陸奥) 45,000石 1594堀越城を築く 1600加増 47,000石 |
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6 | 津軽 信枚 | 従五位下 越中守 |
津梁院 徳山寛海 |
信繁 信長 岩麿 平蔵 |
為信三男 | 1607-31 | 1631(46) | 満天 (徳川家康養女 =松平康元女) |
↓ 1611弘前城に移転 |
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7 | 津軽 信義 | 従五位下 土佐守 |
桂光院 雪峰宗瑞 |
信吉 平蔵 |
信枚長男 | 1631-55 | 1655(37) | 富宇 (松平康久女) |
↓ | ||||
8 | 津軽 信政 | 従五位下 越中守 |
妙心院 泰澗真覚 養正軒 清如堂 |
平蔵 | 信義長男 | 1656-1710 | 1710(65) | 不卯 (増山正利女) |
↓ 1656分知 45,000石、同時に高直し 47,000石 |
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9 | 津軽 信寿 | 従五位下 土佐守 |
玄圭院 性定徹心 |
信重 竹千代 平蔵 出羽守 (致仕後) 竹翁 栄翁 |
信政二男 | 1710-31 | 1746(78) | 曽野 (松平忠尚女) |
↓ | ||||
津軽 信興 | 従五位下 越中守 |
瑞巌院 台岳円乗 |
磐麿 右京 右京亮 |
信寿長男 | (早世) | 1730(36) | 綱 (近衛家煕養女) |
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10 | 津軽 信著 | 従五位下 出羽守 |
顕休院 真道妙因 |
勝千代 | 信興長男 | 1731-44 | 1744(26) | 道 (有馬則維女) |
↓ | ||||
11 | 津軽 信寧 | 従五位下 越中守 |
戒香院 梅渓常薫 |
岩松 土佐守 右京亮 出羽守 |
信著長男 | 1744-84 | 1784(46) | 章 (松平明矩女) |
↓ | ||||
12 | 津軽 信明 | 従五位下 土佐守 |
体孝院 真境普光 安郷 |
熊五郎 松五郎 出羽守 |
信寧長男 | 1784-91 | 1791(30) | 喜佐 (松平朝矩女) |
↓ | ||||
13 | 津軽 寧親 | 従四位下 侍従 越中守 |
上仙院 桃翁舜詢 如山 |
征方 和三郎 出羽守 (致仕後) 右京大夫 広州 |
津軽著高 (信政孫)三男 |
1791-1825 | 1833(69) | 福=稲 (杉浦正勝女) |
↓ 1805高直し 70,000石 同年、高直し 100,000石 |
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14 | 津軽 信順 | 従四位下 侍従 越中守 |
寛広院 深達了義 瞳山 |
雅之助 大隅守 (致仕後) 出羽守 好問斎 |
寧親二男 | 1825-39 | 1862(63) | 金 (徳川斉匡女) |
↓ | ||||
15 | 津軽 順承 | 従四位下 侍従 越中守 |
政徳院 脩道幻光 梅翁 |
信寛 邦足 順徳 新之助 左近将監 大隅守 (致仕後) 和泉守 長楽庵 |
松平信明三男 | 1839-59 | 1865(66) | 泉 (有馬久保女) |
↓ | ||||
16 | 津軽 承昭 | 弘前藩知事 | 桃園 | 護明 承烈 寛五郎 土佐守 越中守 |
細川斉護四男 | 1859-71 | 1916(77) | 常 (順承女) 尹子 (近衛忠煕女) |
↓ 1871廃藩置県 |
伯爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
津軽信英(津軽信枚二男。1645蔵米300俵。1656津軽藩より分家、陸奥黒石5,000石)-信敏(1662分知、4,000石)-政兕⇒寿世- 著高-寧親(津軽藩主継承)-典暁⇒ |
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津軽 親足 | 従五位下 甲斐守 |
大常院 果徳円明 |
安彦 三十郎 |
黒田直亨四男 | 1809-25 | 1849(62) | 1805黒石(陸奥)襲封 1809宗家より 蔵米加増 10,000石 |
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津軽 順徳 | 従五位下 左近将監 |
信寛 邦足 新之助 |
松平信明三男 | 1825-39 (津軽藩主継承 =順承) |
1865(66) | ↓ | |||||
津軽 承保 | 従五位下 出雲守 |
祐那院 寛心守恭 |
正足 斧勝 |
親足二男 | 1839-51 | 1851(31) | ↓ | ||||
津軽 承叙 | 黒石藩知事 (廃藩後) 貴族院議員 |
朝澄 本次郎 式部少輔 |
津軽順朝二男 | 1851-71 | 1903(64) | ↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
南部 直房 | 従五位下 左衛門佐 |
清涼院 天性自心 |
直好 数馬 |
南部利直七男 | 1664-68 | 1668(41) | - | 1664南部=盛岡藩所領分割 八戸(陸奥) 20,000石 |
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南部 直政 | 従五位下 遠江守 |
天祥院 月礀宗真 |
武大夫 | 直房長男 | 1668-99 | 1699(39) | 志久 (南部行信女) |
↓ | 側用人 | |||
南部 通信 | 従五位下 遠江守 |
三玄院 法林徹証 |
内匠 右近 |
南部重信 (利直五男) 四男 |
1699-1716 | 1716(43) | 友 (前田利明女) |
↓ | ||||
南部 広信 | 従五位下 甲斐守 |
正見院 覚雲宗智 |
宮内 | 通信長男 | 1716-41 | 1741(33) | 秀 (松平信庸女) |
↓ | ||||
南部 信興 | 従五位下 左衛門尉 |
竜津院 珠巌宗滉 |
智信 亀之助 左衛門 左衛門佐 遠江守 |
広信長男 | 1741-65 | 1773(49) | 織田長亮女 | ↓ | ||||
南部 信依 | 従五位下 甲斐守 |
宝性院 禅岩宗安 |
亀次郎 左近 |
信興長男 | 1765-81 | 1781(35) | 慶 (伊達村信女) |
↓ | ||||
南部 信房 | 従五位下 伊勢守 |
仙渓院 仁達宗寿 |
繁松 右近 内蔵頭 五梅庵 畔季 |
信依長男 | 1781-96 | 1835(71) | 良 (溝口直養女) |
↓ | ||||
南部 信真 | 従五位下 左衛門尉 |
惇徳院 仁峯宗栄 |
安吉 主水 左衛門 |
信依四男 | 1796-1842 | 1846(67) | 里 (大久保忠顕女) |
↓ 1838城主格 |
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南部 信順 | 八戸藩知事 | 久命 虎之助 篤之丞 伊勢守 遠江守 |
島津重豪九男 | 1842-71 | 1872(60) | 鶴 (信真女) |
↓ 1871廃藩置県 |
養孫・利克 のとき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
南部政信(南部重信六男。1694分家、南部(=盛岡)藩内の新田5,000石。1706蔵米5,000俵に変更)⇒信弥⇒信伝-信喜 (従五位下・肥前守)- |
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南部 信鄰 | 従五位下 播磨守 |
耀篤院 浄巌宗光 |
徳太郎 主税 |
信喜長男 | 1819-21 | 1821(46) | 1800蔵米相続 5,000俵 1819南部藩から新田を加増 11,000石高 |
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南部 信誉 | 従五位下 丹波守 |
主税 | 信鄰長男 | 1822-62 | 1862(58) | ↓ 1858城主格 1859七戸(陸奥)に陣屋を築く |
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南部 信民 | 美作守 | 棋三郎 璋五郎 |
南部信也四男 | 1862-68 | 1900(68) | ↓ 1868列藩同盟に参加、隠居謹慎 |
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南部 信方 | 七戸藩知事 | 雄麿 | 南部利剛三男 | 1869-71 | 1923(65) | 1869減封 10,384石 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
松平 容大 | 斗南藩知事 (廃藩後) 陸軍騎兵大尉 貴族院議員 |
慶三郎 | 松平容保長男 | 1869-71 | 1910(42) | 鞆子 (松平武聡女) |
1868会津藩を収公され 1869復家 斗南(陸奥) 30,000石 1871廃藩置県 |
子爵 |
(2017.05.01up)
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