石川県は古くは、能登・羽咋・賀我・江沼の各国造が支配していましたが、大化の改新のとき越前国に属し、718年に北部が能登国として分立、741年には越中国に合併、757年に再び能登国が成立し、823年に南部が加賀国として越前から分立しました。『延喜式』では、能登は4郡、加賀は4郡。平安朝期の荘園は上賀茂社などの寺社領や摂家(九条家)領、皇室領などが存在しました。鎌倉期の守護ははじめ比企一族系、のち北条一門であり、加賀では在庁官人・冨樫家の台頭が見られました。南北朝期には能登の吉見家、加賀の冨樫家が守護に任じられて、南朝方と戦っています。室町期には畠山家が能登守護、斯波家が加賀守護となりますが、加賀では冨樫家が守護に復帰、能登では能登畠山家が宗家から分かれて守護家となりました。戦国期に入ると、1488年に加賀本願寺門徒(「一向一揆」)が冨樫家を圧倒して国の支配権を掌握、能登では畠山家の実力が低下して遊佐家・温井家・長家などの国人勢力が分立しました。1577年に上杉輝虎(謙信)が能登を攻略して加賀へ進出しましたが、1580年には織田信長が加賀の門徒を制圧して能登をも平定、加賀には佐久間盛政、能登には前田利家を配置しました。豊臣秀吉は賤ヶ岳の戦後、利家に加賀北二郡を与え、南二郡には中小大名を配置しました。その後、前田家は利家の子・利長が加賀北二郡および能登半国(および旧領の越中一国)、利政が能登半国を領知しますが、関ヶ原の戦で利政は徳川家康に与しなかったため所領を没収され、加賀・能登の大部分は利長に加封されました。江戸期を通じて前田家が加賀藩として存続し、能登・加賀の一部は幕領でした。1871年の廃藩置県により七尾県・金沢県が成立、翌年、金沢県は石川県と改称、七尾県は石川・新川の二県に分属しました。1876年に石川県として統合されましたが、1883年に再び富山県が分立したことで、現在の県域が確定しました。
加賀守護職 能登守護職 冨樫家 畠山(能登)家 長家 遊佐家 温井家 佐久間家 加賀藩=前田家 大聖寺藩 小松藩 七尾領→前田(土佐守)家 加賀藩年寄・本多家 野々市藩 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
冨樫 高家 | 冨樫介 | 1335-37後 | ||
冨樫 氏春 | 冨樫介 | 1355前-57後 | ||
冨樫 昌家 | 竹童丸・冨樫介 | 1364前-87 | ||
斯波 義種 | 修理大夫 | 1387-90後 | ||
斯波 義教(義重) | 治部大輔 | 1391-? | ||
斯波 義種 | 修理大夫 | 道守 | 1393前-1408 | |
斯波 満種 | 左衛門佐 | 1408-14 | ||
冨樫 満春 | 冨樫介 | 1414-27 | 1418までは半国守護 | |
冨樫 満成 | 兵部大輔 | 1414-18 | 半国守護 | |
(以後は冨樫家を参照) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
吉見 頼為 | 宗寂 | ?-1336 | ||
吉見 頼顕 | 右馬頭 | 1336-? | ||
吉見 頼隆 | 大蔵大輔 | 1337前-46後 | ||
吉見 氏頼 | 掃部助 | ?-1348後 | ||
桃井 兵部大輔 | 1349前-51後 | |||
吉見 氏頼 | 三河守・右馬頭 | 1352前-79後 | ||
畠山 基国 | 右衛門佐 | 徳元 | 1391前-1406 | |
(以後は畠山-能登-家を参照) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
冨樫 家国 | 冨樫介 | 藤原宗助男 | 12C前半 | 石川郡冨樫荘(加賀) | ||||||||
冨樫 信家 | 冨樫介 | 西仏 | 家国男 | ↓ | ||||||||
冨樫 家通 | 冨樫次郎 | 信家男 | ↓ | |||||||||
冨樫 家経 | 冨樫次郎 | 仏誓 | 家通男(弟?) | ↓ | ||||||||
冨樫 家直 | 冨樫介 | 家経男 | ↓ | |||||||||
冨樫 泰家 | 冨樫介 | 家直男(弟?) | ?-1290前 | ↓ | ||||||||
冨樫 家春 | 冨樫介 | 定照 | 泰家長男 | ?-1314後 | ↓ | |||||||
冨樫 泰明 | 冨樫次郎 | 家春長男 | 1320前-? | ↓ | ||||||||
冨樫 高家 | 冨樫介 | 泰明長男 | 1335前-37後 | ↓ | 加賀守護 1335-37後 |
|||||||
冨樫 氏春 | 冨樫介 | 高家長男 | 1345前-57後 | ↓ | 加賀守護 1355前-57後 |
|||||||
冨樫 昌家 | 冨樫介 | 孚山浄祐 | 竹童丸 | 氏春長男 | 1361前-87 | 1387 | ↓ | 加賀守護 1364前-87 |
||||
冨樫 詮親 | 冨樫介 | 昌家男 | 1387-91 | 1391 | ↓ | |||||||
冨樫 満春 | 冨樫介 | 勝蓮寺 常継 |
英田満家 (氏春二男)の男 |
?-1427 | 1427 | ↓ | 加賀守護 1414-27 |
|||||
冨樫 持春 | 冨樫介 | 福厳寺 常永 |
満春長男 | 1427-33 | 1433(21) | ↓ | 加賀守護 | |||||
冨樫 教家 | 冨樫介 | 禅興寺 | 次郎 刑部大輔 |
満春二男 | 1433-41 | ↓ | 加賀守護 | |||||
冨樫 泰高 | 冨樫介 | 瑞光院 真幸 |
慶千代丸 | 満春三男 | 1441-64 | ↓ 1447家督折半 |
加賀守護 1441-47 江沼・能美二郡守護 1447-64 |
|||||
冨樫 成春 | 冨樫介 | 大仙寺 | 亀幢丸 次郎 |
教家長男 | 1442-62 | 1462 | 1447家督折半 | 加賀守護(対立) 1442-47 石川・河北二郡守護 1447-58 |
||||
冨樫 政親 | 冨樫介 | 大明寺 通明 |
亀童丸 次郎 |
成春長男 | 1462-88 | 1488(34) | ↓ 1462家督統一 高尾城(加賀) 1488本願寺門徒に 敗亡して自殺 |
江沼・能美二郡守護 1464-68後 加賀守護 1468後-88 |
||||
冨樫 泰高 (再承) |
冨樫介 | 1488-1500後 | ↓ | 加賀守護 本願寺門徒勢力下 |
||||||||
冨樫 泰成 | 中務大輔 | 智識院 慈顕 |
泰高長男 | (早世) | ||||||||
冨樫 稙泰 | 冨樫介 | 泰雲寺 通安 |
恒泰 次郎 |
泰成長男 | 1504前-31 | 1535 | ↓ | 加賀守護 本願寺門徒勢力下 |
||||
冨樫 晴貞 | 冨樫介 | 慈光寺 明晴 |
泰縄 晴泰 晴時 |
稙泰二男 | 1531-70 | 1570 | ↓ 野々市城(加賀) 1570滅亡 |
本願寺門徒勢力下 | ||||
冨樫 泰俊 | 冨樫介 | 泰成 | 稙泰長男 | 1570-74 | 1574 | (逃亡生活) 一時、野々市城 1574滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
畠山 満慶 | 修理大夫 | 勝禅寺 真源道祐 |
満則 左馬助 |
畠山基国二男 | 1408-32 | 1432(61) | 鹿島郡府中 (能登)ほか |
河内・紀伊・越中守護 1406-08 能登守護 1406-32 |
||||
畠山 義忠 | 修理大夫 | 竜興寺 芳彦堅良 |
左馬助 阿波守 |
満慶長男 | 1432-55 | 1463 | ↓ | 能登守護 | ||||
畠山 義有 | 治部少輔 | 義忠長男 | (早世) | |||||||||
畠山 義統 | 左衛門佐 | 大寧寺 大彦徳孫 |
義有長男 | 1455-97 | 1497 | ↓ 七尾城を築く |
能登守護 | |||||
畠山 義元 | 修理大夫 | 興徳寺 久峰徳昌 |
左馬助 | 義統長男 | 1497-1500 | ↓ | 能登守護 | |||||
畠山 慶致 | 左衛門佐 | 保寧院 徳宗 |
弥次郎 | 義統二男 | 1500-07 | 1525 | ↓ | 能登守護 | ||||
畠山 義元 (再承) |
1507-15 | 1515 | ↓ | 能登守護 | ||||||||
畠山 義総 | 従四位下 修理大夫 |
興臨院 伝翁悳胤 |
次郎 | 慶致長男 | 1515-45 | 1545(55) | ↓ | 能登守護 | ||||
畠山 義続 | 左衛門佐 | 興源院 霊岩悳祐 |
義総二男 | 1545-51 | 1590 | ↓ | 能登守護 | |||||
畠山 義綱 | 修理大夫 | 興禅院 華岳徳栄 |
次郎 | 義続長男 | 1551-66 | 1593 | 六角義賢女 | ↓ | 能登守護 | |||
畠山 義慶 | 修理大夫 | 興性寺 桂岳徳林 |
次郎 | 義綱長男 | 1566-74 | 1574 | ↓ | |||||
畠山 義隆 | 伊賀守 | 幽徳院 宗栄 |
義綱二男 | 1574-76 | 1576 | 三条某の女 | ↓ | |||||
畠山 春王丸 | 義隆長男 | 1576-77 | 1577(5) | ↓ 1577家名中絶 |
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畠山 義春 | 民部少輔 | 興松院 入庵宗波 |
弥五郎 織部 |
義続二男 | 1587-? | 1643(81) | 長尾政景女 | はじめ上条家養子 1587畠山に復し 高安郡内(河内) 500石 1593までに累増 1,500石 |
上杉家臣 後、豊臣家臣 |
|||
畠山義真(従五位下・下総守。義春三男)が幕臣となり、3,120石を知行して高家として存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
長 信連 | 従六位下 左兵衛尉 |
長谷部為連男 | 1218 | 珠洲郡大屋荘(能登) | |||||||
長 朝連 | 従六位下 左衛門尉 |
信連男 | ↓ | ||||||||
長 政連 | 左衛門尉 | 朝連男 | ↓ | ||||||||
長 有連 | 左衛門尉 | 政連男 | ↓ | ||||||||
長 盛連 | 九郎左衛門尉 | 有連男 | ↓ | ||||||||
長 国連 | 九郎左衛門尉 | 盛連男 | ↓ | ||||||||
長 宗連 | 九郎左衛門尉 | 盛連男 | 1360 | ↓ | |||||||
長 正連 | 従四位下 遠江守 |
九郎左衛門尉 左近将監 |
国連男 | ↓ この頃、穴水城 (能登)を築く |
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長 頼連 | 九郎左衛門尉 | 正連男 | ↓ | ||||||||
長 連重 | 左衛門尉 | 頼連男 | ↓ | ||||||||
長 藤連 | 九郎左衛門尉 | 連重男 | 1421前-? | ↓ | |||||||
長 泰連 | 九郎左衛門尉 | 藤連男 | ↓ | ||||||||
長 政連 | 九郎左衛門尉 | 泰連男 | 1468 | ↓ | |||||||
長 光連 | 九郎左衛門尉 | 泰連男 | ↓ | ||||||||
長 秀連 | 九郎左衛門尉 | 政連(15C)男 | ↓ | ||||||||
長 氏連 | 左衛門尉 | 秀連男 | ?-1487前 | ↓ | |||||||
長 教連 | 左衛門尉 | 光連男 | 1487前-88 | 1488 | ↓ | ||||||
長 英連 | 従五位下 対馬守 |
九郎左衛門尉 | 教連男 | 1488-? | ↓ | ||||||
長 続連 | 従五位下 対馬守 |
怡岩院 大雲良悦 |
勝光 新九郎 九郎左衛門尉 |
平信光 (教連男)二男 |
?-1567後 | 1577 | ↓ | 畠山家被官 | |||
長 綱連 | 九郎左衛門尉 | 瑞松院 悦叟良喜 |
重連 大九郎 左兵衛 |
続連長男 | 1567後-77 | 1577(38) | ↓ 1577中絶 |
畠山家被官 | |||
長 連竜 | 九郎左衛門 | 東嶺寺 如庵 |
好連 万松 宗顒 |
続連三男 | 1580-1606 | 1580再興 福水城(能登) 鹿島半郡領知 後、田鶴浜に居所 32,000石 |
織田家臣 後、前田家臣 |
||||
長 好連 | 十左衛門 | 南涌院 | 熊松 安芸守 |
連竜長男 | 1606-11 | 1611(30) | ↓ 1606前封を加え 33,000石 |
前田家臣 | |||
長 連竜 (再承) |
1611-19 | 1619(74) | ↓ | 前田家臣 | |||||||
長 連頼 | 九郎左衛門 | 譲徳院 鉄山良剛 |
長松丸 左衛門二郎 左兵衛 安芸守 |
連竜二男 | 1619-71 | 1671(68) | ↓ | 前田家臣 | |||
長 元連 | 左兵衛 | 清雲院 一玄 |
石千代 | 連頼長男 | (廃嫡) | 1697(70) | |||||
長 尚連 | 従五位下 大隅守 |
天尚院 | 時連 千松 九郎左衛門 |
元連長男 | 1671-1703 | 1703(42) | ↓ 1671加賀・越中・能登 三国内に知行分散 |
前田家臣 | |||
長高連(従五位下・甲斐守。元連孫、尚連養子)-善連⇒連起(従五位下・大隅守)-連愛(従五位下・甲斐守)⇒連弘 (従五位下・大隅守)-連恭(従五位下・大隅守)⇒成連(息子・克連のとき男爵) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
遊佐 祐信 | 美作守 | 河内遊佐一族 | 15C前半 | 珠洲郡内(能登) | 能登守護代 | ||||||
遊佐 忠光 | 孫右衛門尉 | 祐信男? | ↓ | 能登守護代 | |||||||
遊佐 統秀 | 美作守 | 忠光男 | ↓ | 能登守護代 | |||||||
遊佐 秀盛 | 孫右衛門尉 | 統秀男? | 16C前半 | ↓ | 能登守護代 | ||||||
遊佐 秀頼 | 豊後守 | 秀盛男 | ?-1554後 | ↓ | 能登守護代 | ||||||
遊佐 続光 | 美作守 | 遊佐総光男 | ?-1570前 | 1581 | ↓ | 畠山家被官 秀頼の継嗣 かは未詳 |
|||||
遊佐 盛光 | 四郎左衛門尉 | 綱光 孫太郎 |
続光男 | 1570前-81 | 1581 | ↓ 1581滅亡 |
畠山家被官 後、上杉家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
温井 俊宗 | 備中守 | 能登国人領主 | ?-1476後 | 鳳至郡輪島(能登) | 畠山家被官 | ||||||
温井 孝宗 | 兵庫助 | 俊宗男 | 1479前-1531 | 1531 | ↓ | 畠山家被官 | |||||
温井 総貞 | 備中守 | 紹春 | 兵庫助 | 孝宗男 | 1531-55 | 1555 | ↓ | 畠山家被官 | |||
温井 続宗 | 兵庫助 | 総貞男 | 1555 | 1555 | ↓ 1555中絶 |
畠山家被官 | |||||
温井 景隆 | 備中守 | 兵庫助 | 続宗男 | 1566-82 | 1582 | 1566再興 1581越後へ退去 1582滅亡 |
畠山家被官 後、上杉家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
佐久間 盛政 | 玄蕃允 | 英伯善俊 | 理助 | 盛次長男 | ?-1583 | 1583 | 御器所近傍(尾張) 1575越前国内 1581尾山城(加賀) 1583滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
前田 利家 | 従二位 権大納言 贈従一位 |
高徳院 桃雲浄見 |
犬千代 孫四郎 又左衛門 筑前守 |
前田利昌四男 前田利久継嗣 |
1569-98 | 1599(62) | 松 (篠原主計女) |
海東郡荒子城(尾張)襲封 1575越前府中 33,300石 1581七尾城(能登一円) 210,000石? 1582小丸山城に移転 1583金沢城(加賀) 730,000石? 1597分知 515,000石 |
大老 (豊臣家) |
|||
前田 利長 | 従三位 権中納言 贈正二位 権大納言 |
瑞竜院 聖山英賢 |
利勝 犬千代 孫四郎 肥前守 |
利家長男 | 1598-1605 | 1614(53) | 永 (織田信長女) |
1583松任城(加賀) 40,000石 1585富山城(越中一円) 320,000石 1598家督 前封を併せ 835,000石 1601加増 1,192,700石 |
大老 (豊臣家) |
|||
前田 利常 | 従三位 権中納言 肥前守 |
微妙院 一峯充乾 |
利光 猿千代 犬千代丸 筑前守 |
利家四男 | 1605-39 | 1658(66) | 珠 (徳川秀忠女) |
↓ | 1605 公称松平 |
|||
前田 光高 | 正四位下 左少将 筑前守 |
陽広院 将巌天良 |
利高 犬千代丸 筑前守 |
利常長男 | 1639-45 | 1645(31) | 阿智=大姫 (徳川頼房女 =徳川家光養女) |
↓ 1639分知・分割 800,000石 |
||||
前田 綱紀 | 従三位 参議 加賀守 |
松雲院 徳翁一斎 敬義 顧軒 香雪 |
綱利 犬千代丸 (致仕後) 肥前守 |
光高長男 | 1645-1723 | 1724(82) | 摩須 (保科正之女) |
↓ 1658利常の隠居料 を返還される 1,025,000石 |
||||
前田 吉徳 | 正四位下 参議 加賀守 |
護国院 仏鑑法性 |
利興 吉治 勝次郎 勝丸 犬千代丸 又左衛門 若狭守 |
綱紀三男 | 1723-45 | 1745(56) | 松 (徳川綱誠女 =徳川綱吉養女) |
↓ | ||||
前田 宗辰 | 正四位下 左中将 加賀守 |
大応院 梅観雪峯 皓然斎 |
利雄 利勝 勝丸 犬千代丸 又左衛門 佐渡守 |
吉徳長男 | 1745-46 | 1746(22) | 常 (松平正容女) |
↓ | ||||
前田 重煕 | 正四位下 左中将 加賀守 |
謙徳院 緝甫尚古 |
利安 亀次郎 但馬守 |
吉徳二男 | 1747-53 | 1753(25) | - | ↓ | ||||
前田 重靖 | 正四位下 左少将 加賀守 |
天珠院 嘯月仁勇 擒藻斎 |
利見 嘉三郎 上総介 |
吉徳五男 | 1753 | 1753(19) | - | ↓ | ||||
前田 重教 | 正四位下 左中将 加賀守 |
泰雲院 仁山彭寿 以寛斎 |
利篤 重基 健次郎 (致仕後) 肥前守 |
吉徳七男 | 1754-71 | 1786(46) | 千間 (徳川宗将女) |
↓ | ||||
前田 治脩 | 正四位下 参議 加賀守 |
太梁院 俊山徳英 郁郁斎 慎甫 |
利有 時次郎 闡真 (致仕後) 肥前守 |
吉徳十男 | 1771-1802 | 1810(66) | 正 (前田利道女) |
↓ | ||||
前田 斉広 | 正四位下 左中将 加賀守 |
金竜院 文古雲遊 世功 |
利厚 亀万千 勝丸 犬千代 又左衛門 筑前守 (致仕後) 肥前守 |
重教二男 | 1802-22 | 1824(43) | 琴 (徳川宗睦養女) 隆子 (鷹司政煕女) |
↓ | ||||
前田 斉泰 | 権中納言 加賀守 |
温敬公 | 利候 勝千代 勝丸 犬千代 又左衛門 若狭守 (致仕後) 肥前守 |
斉広長男 | 1822-66 | 1884(74) | 偕子=溶 (徳川家斉女) |
↓ | ||||
前田 慶寧 | 金沢藩知事 | 恭敏公 | 利住 犬千代 筑前守 加賀守 |
斉泰長男 | 1866-71 | 1874(45) | 崇子 (有馬頼徳女) 通子 (鷹司政通養女) |
↓ 1871廃藩置県 |
1868前田 姓に復す |
大聖寺藩 (1639より加賀支藩)
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔溝口家〕 |
||||||||||||
溝口 秀勝 | 従五位下 伯耆守 |
定勝 竹 金右衛門尉 |
溝口勝政男 | 1583-98 | 1610(63) | 長井源七郎女 | 1581高浜城(若狭) 5,000石 (丹羽家与力) 1583大聖寺城(加賀) 44,000石 1585大名に列す 1598新発田城 (越後)転封 |
|||||
〔山口家〕 |
||||||||||||
山口 正弘 | 従五位下 玄蕃頭 |
宗永 左馬助 |
山口光広男 | 1598-1600 | 1600(56?) | 1597名島(筑前)城主 小早川秀秋家老 1598大聖寺城 60,000石 1600関ヶ原の戦で 石田方、自殺・改易 |
||||||
〔前田家〕 |
||||||||||||
前田 利治 | 従四位下 侍従 飛騨守 |
実性院 機雲宗用 |
宮松丸 | 前田利常三男 | 1639-60 | 1660(43) | 徳 (上杉定勝女) |
1639加賀藩主 前田家より分家 大聖寺城(実は陣屋) 70,000石 |
公称松平 | |||
前田 利明 | 従四位下 飛騨守 |
大機院 賢翁紹英 |
利成 万吉 美濃 大蔵 大蔵少輔 |
前田利常五男 | 1660-92 | 1692(56) | 亀 (上杉定勝女) 勢幾 (本多忠義女) |
↓ | ||||
前田 利直 | 従四位下 飛騨守 |
円通院 悟性義聞 |
大学 内記 |
利明長男 | 1692-1710 | 1710(39) | 種 (酒井忠義女) |
↓ | ||||
前田 利章 | 従四位下 備後守 |
正智院 廓巌泰然 |
富五郎 造酒丞 |
前田綱紀五男 | 1711-37 | 1737(47) | - | ↓ | ||||
前田 利道 | 従四位下 備後守 |
顕照院 徹巌義心 |
造酒丞 壱岐守 (致仕後) 遠江守 |
利章長男 | 1737-78 | 1781(49) | 隆 (前田利隆女) |
↓ | ||||
前田 利精 | 従五位下 備後守 |
高源院 天然良池 華山 |
勇之助 造酒丞 美作守 |
利道二男 | 1778-82 | 1791(34) | - | ↓ | ||||
前田 利物 | 従五位下 美濃守 |
覚成院 通峯紹玄 |
虎次郎 主水 |
利道三男 | 1782-88 | 1788(29) | 豊 (前田利幸女) |
↓ | ||||
前田 利考 | 従四位下 飛騨守 |
峻徳院 倹岳明恭 |
勇之助 | 利精長男 | 1788-1805 | 1805(27) | 幾 (溝口直信女) |
↓ | ||||
前田 利之 | 従四位下 侍従 備後守 |
篤含院 温山良潤 済民 |
主水 虎次郎 |
利物三男 | 1806-36 | 1836(52) | 富 (酒井忠徳女) |
↓ 1821高直し 100,000石 |
||||
前田 利極 | 従四位下 駿河守 |
恭正院 仁応道義 静斎 |
鍛太郎 | 利之二男 | 1837-38 | 1838(27) | 勇 (前田斉広女) |
↓ | ||||
前田 利平 | 従四位下 備後守 |
見竜院 存誠洗心 弘斎 |
鈺七郎 大蔵少輔 |
利之六男 | 1838-49 | 1849(27) | 井上正春女 | ↓ | ||||
前田 利義 | 従四位下 備後守 |
諦岳院 賢道良哲 |
基五郎 | 前田斉泰四男 | 1849-55 | 1855(23) | 弘 (前田利保女) |
↓ | ||||
前田 利行 | 豊之丞 | 懿香院 梅苑寿梢 |
前田斉泰五男 | 1855 | 1855(21) | - | ↓ | |||||
前田 利鬯 | 大聖寺藩知事 (廃藩後) 掌典 貴族院議員 |
竹径 | 貞用 利益 桃之助 飛騨守 |
前田斉泰七男 | 1855-71 | 1920(80) | 久 (伊東祐相女) 祉 (前田利保女) |
↓ 1871廃藩置県 |
1868復前田姓 子爵 |
小松藩 (1639より加賀藩領内)
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
〔丹羽家〕 |
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丹羽 長重 | 従四位下 侍従 五郎左衛門 |
鍋丸 | 丹羽長秀長男 | 1587-1600 (松任時代含む) |
1637(67) | 1585小浜城(若狭) 150,000石 1587松任城(加賀) 40,000石 1595小松城(加賀) 125,400石 1600関ヶ原の戦で 石田方、所領没収 1603古渡(常陸)復封 1622棚倉城(陸奥)転封 |
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〔前田家〕 |
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前田 利常 | (加賀藩を参照) | 前田利家四男 | 1639-58 | 1658(66) | 1639加賀藩主を引退 隠居料を分割 小松城(加賀) 200,000石 1658没後、加賀藩に 所領返還 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
前田 利政 | 従四位下 侍従 能登守 |
福昌院 怡伯宗悦 |
又若丸 孫四郎 |
前田利家二男 | 1597-1600 | 1633(56) | 1597加賀藩主 前田家より分家 七尾城(能登) 215,000石 1600関が原の戦で 違令、改易 |
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前田直之(利政長男。1615加賀藩内にて復家、2,000石。後、累増、加賀・越中・能登三国内10,050石)-直作-直堅(従五位下・ 近江守)-直躬(従五位下・土佐守)-直方(従五位下・土佐守)-直養-直時(従五位下・土佐守)-直良(従五位下・ 近江守)⇒直会⇒直信(金沢藩大参事。息子・直行のとき男爵) |
本多政重(従五位下・安房守。相模玉縄藩主・本多正信二男。1602加賀前田家臣、1604米沢上杉家臣、1611前田家に帰参、 30,000石、1614加増、加賀・越中・能登三国内50,000石)-政長(従五位下・安房守)-政敏(従五位下・安房守)-政質 (従五位下・安房守)⇒政昌(従五位下・安房守)⇒政行(従五位下・遠江守)-政成(従五位下・安房守)-政礼(従五位下・ 安房守)-政和(従五位下・播磨守)-政通(従五位下・周防守)⇒政均(従五位下・播磨守)-政以(男爵) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
土方 雄久 | 従五位下 河内守 |
功運院 功運建忠 |
雄良 彦三郎 勘兵衛 |
土方信治長男 | 1600-08 | 1608(56) | 1583菰野城(伊勢) 織田信雄領内 1584犬山城(尾張) 45,000石 1590信雄に連座、 改易、蟄居 1600野々市(加賀) 10,000石 1604加増 15,000石 |
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土方 雄重 | 従五位下 掃部頭 |
鍋 | 雄久二男 | 1609-22 | 1628(37) | ↓ 1622窪田(陸奥)転封 |
(2017.12.07up)
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