福井県は古くは、三国・高志・角鹿・若狭の各国造が支配していましたが、大化の改新のとき北東部は越国の一部、西南部は若狭国となり、7世紀後半には北東部に越前国が成立、718年に能登、823年に加賀が分離しました。『延喜式』では、越前は6郡(後代8郡)、若狭は3郡。平安朝期には東大寺・興福寺など寺社領をはじめ多くの荘園が分立しました。鎌倉期の守護は、はじめ比企一族系、のち越前は後藤家、若狭は北条一門。南北朝期には足利方が新田一族と抗争の末、両国を制圧し、斯波家などが守護に任じられました。室町期には越前守護を斯波家、若狭守護を一色家が世襲、一色家が没落すると武田家が代わって若狭守護職を獲得しました。応仁の乱を契機に、朝倉家が斯波家に代わって越前国主となり、戦国時代にもその地位を保ち、1568年には武田家を傘下に屈服させました。織田信長は1573年に朝倉家を滅ぼし、越前に柴田勝家、若狭に丹羽長秀を封じ、豊臣秀吉は1583年に勝家を滅ぼして長秀に越前を加封しましたが、翌々年に長秀が没すると丹羽家を解体し、両国に豊臣系の中小大名を配しました。徳川家康は関が原の戦後、越前に結城秀康、若狭に京極高次を封じました。江戸中期以降は、越前に福井藩(松平家)、丸岡藩(有馬家)、勝山藩(小笠原家)、大野藩(土井家)、鯖江藩(間部家)、若狭に小浜藩(酒井家)党が配置されていました。1871年の廃藩置県により、足羽県(はじめ福井県)と敦賀県とが成立、1873年に敦賀県が足羽県を合併しましたが、1876年に廃止されて石川県と敦賀県とに分割され、1881年に福井県として再設置されました。
越前守護職 若狭守護職 武田家 朝倉家 前波(桂田)家 山崎家 越前国主・北庄城主 若狭国主・小浜藩 敦賀/鞠山藩 東郷領 丸岡藩 大野藩 福井藩=松平家 松岡藩 越前府中領/武生藩=本多家 勝山藩 高森藩 鯖江藩=間部家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
斯波 高経 | 尾張守・右馬頭・修理権大夫・修理大夫 | 道朝 | 1336-50? 1351-54 1356-66 |
1354-56南朝方 |
斯波 氏経 | 民部少輔 | 1355頃 | ||
畠山 義深 | 尾張守・尾張入道 | 1366-79 | ||
畠山 基国 | 右衛門佐 | 1379 | ||
斯波 義将 | 左衛門佐・右衛門督入道 | 道将 | 1379-96後 | |
斯波 義教(義重) | 左衛門佐・右兵衛督・右兵衛督入道 | 道孝 | 1398前-1418 | |
斯波 義淳 | 治部大輔・左兵衛佐 | 1418-33 | ||
斯波 義郷 | 治部大輔 | 1433-36 | ||
斯波 義健 | 千代徳丸・治部大輔 | 1436-52 | ||
斯波 義敏 | 左兵衛佐 | 1452-59 | ||
斯波 義寛(義良) | 松王丸 | 1459-61 | ||
斯波 義廉 | 治部大輔 | 1461-66 | ||
斯波 義敏 | 左兵衛佐 | 1466 | ||
斯波 義廉 | 治部大輔・左兵衛佐 | 1466-67 1467-72(西幕府) |
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斯波 義寛(義良) | 松王丸・治部大輔・左兵衛佐 | 1467-71(東幕府) 1471-? |
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(以後は朝倉家を参照) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
斯波 家兼(時家) | 尾張式部大夫・伊予守 | 1336 | ||
京極 高氏 | 佐渡大夫判官入道 | 導誉 | 1336-37? | |
斯波 家兼 | 伊予守 | 1337-38 | ||
桃井 直常 | 駿河守 | 1338 | ||
大高 重成 | 伊予権守 | 1338-? | ||
斯波 氏頼 | 左近大夫将監 | 1339-40 | ||
斯波 高経 | 右馬頭 | 1340-41 | ||
大高 重成 | 伊予権守 | 1342-? 1344-48 |
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山名 時氏 | 伊豆守 | 道静 | 1348-51 | |
大高 重成 | 伊予権守 | 1351-52 | ||
斯波 家兼 | 右京権大夫 | 1352-54 | ||
山名 時氏 | 伊豆守 | 1353 | 南朝方 | |
細川 清氏 | 相模守 | 1354-61 | ||
石橋 和義 | 尾張左衛門佐入道 | 心勝 | 1361-63 | |
斯波 義種 | 民部少輔 | 1363-66 | ||
一色 範光 | 修理大夫入道 | 信伝 | 1366-88 | |
一色 詮範 | 左京大夫 | 信将 | 1388-1406 | |
一色 満範 | 修理大夫 | 道範 | 1406-09 | |
一色 義貫(義範) | 兵部少輔・修理大夫 | 1409-40 | ||
(以後は武田家を参照) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
武田 信栄 | 治部少輔 | 長福寺 天游光芸 |
伊豆守 | 武田信繁長男 | ?-1440 | 1440(28) | 佐東郡内(安芸) 代々継承 |
安芸佐東・山県・ 安南三郡守護 1440若狭守護 |
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武田 信賢 | 大膳大夫 | 大通寺 大人宗武 |
治部少輔 武蔵守 |
信繁二男 | 1440-71 | 1471(52) | ↓ 若狭国内へ 拠点を移す |
安芸佐東・山県・ 安南三郡守護 若狭守護 |
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武田 国信 | 従四位上 大膳大夫 |
玉華院 功林宗勲 |
治部少輔 | 信繁三男 | 1471-90 | 1490(49) | ↓ | 安芸佐東・山県・ 安南三郡守護 若狭守護 |
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武田 元信 | 従三位 大膳大夫 |
仏国寺 大雄紹壮 |
彦次郎 伊豆守 |
国信二男 | 1490-1519 | 1521(67) | 伊勢貞祐女 | ↓ | 若狭守護 | |||
武田 元光 | 大膳大夫 贈従三位 |
発心院 天源宗勝 |
伊豆守 | 元信二男 | 1519-39 | 1551(58) | 細川澄元女 | ↓ | 若狭守護 | |||
武田 信豊 | 従五位下 伊豆守 |
霊雲寺 大仙紹真 |
治部少輔 | 元光長男 | 1539-58? | 六角定頼女 | ↓ | 若狭守護 | ||||
武田 義統 | 大膳大夫 | 桂林寺 聖寂宗清 |
彦次郎 治部少輔 伊豆守 |
信豊長男 | 1558?-67 | 1567(42) | 足利義晴女 | ↓ | 若狭守護 | |||
武田 元明 | 孫八郎 | 法雲寺 文甫紹昌 |
元次 孫犬丸 |
義統長男 | 1567-82 | 1582(32) | 竜子 (京極高佳女) |
↓ 1568朝倉家に抑留 1573神宮寺(若狭) 1581石山城(若狭) 1582滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
朝倉 広景 | 美作守 | 空海覚性 | 孫右衛門尉 | 朝倉広信男 (朝倉宗直男?) |
1352(98) | 足羽北庄(越前) | ||||||
朝倉 高景 | 弾正左衛門尉 | 徳岩宗祐 | 正景 鶴千代 孫次郎 彦三郎 孫右衛門尉 遠江守 |
広景長男 | 1372(59) | ↓ 黒丸城を拠点 後代、一乗谷城 を本拠とする |
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朝倉 氏景 | 美作守 | 大切勝勲 (宗勲) |
孫次郎 孫右衛門尉 |
高景長男 | 1405(66) | ↓ | ||||||
朝倉 為景 | 下野守 | 大心宗忠 | 又太郎 孫右衛門尉 |
氏景長男 | 1436(77) | ↓ | ||||||
朝倉 教景 | 美作守 | 大円院 心月宗覚 |
小太郎 孫右衛門尉 |
為景長男 | ?-1458前 | 1463(84) | ↓ | |||||
朝倉 家景 | 下野守 | 固山良堅 | 為景 教景 孫次郎 孫右衛門尉 |
教景(心月)長男 | (早世) | 1450(49) | ||||||
朝倉 孝景 | 弾正左衛門尉 | 一乗寺 英林宗雄 |
敏景 教景 小太郎 孫右衛門尉 |
家景長男 | 1458前-81 | 1481(54) | 朝倉将景女 逸見某の養女 |
↓ 1471越前国主 |
事実上の 越前守護権 (以下同) |
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朝倉 氏景 | 孫右衛門尉 | 安国寺 子春宗孝 |
阿君 孫次郎 |
孝景長男 | 1481-86 | 1486(38) | 織田孫左衛門尉女 | ↓ | ||||
朝倉 貞景 | 弾正左衛門尉 | 長陽院 天沢宗清 |
孫次郎 | 氏景(宗孝)長男 | 1486-1512 | 1512(40) | 斎藤利国女 | ↓ | ||||
朝倉 孝景 | 弾正左衛門尉 | 性安寺 大岫宗淳 |
孫次郎 | 貞景長男 | 1512-48 | 1548(56) | 武田元信女 | ↓ | ||||
朝倉 義景 | 左衛門督 | 松雲院 太球宗光 |
延景 孫次郎 |
孝景(宗淳)長男 | 1548-73 | 1573(41) | 細川晴元女 細川義種女 |
↓ 1573滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
前波 吉煕 | 藤右衛門尉 | 1479前-89後 | 足羽郡前波村(越前) | 朝倉家被官 | |||||||
前波 豊前守 | 吉煕男 | 1490前-97後 | ↓ | 朝倉家被官 | |||||||
前波 藤右衛門尉 | 吉当? | 吉煕男(孫?) | 1506前-22後 | ↓ | 朝倉家被官 | ||||||
前波 景定 | 藤右衛門尉 | 藤右衛門尉の男 | 1546前-62後 | ↓ | 朝倉家被官 | ||||||
前波 景当 | 藤右衛門尉 | 左衛門五郎 | 景定男 | 1565前-70 | 1570 | ↓ | 朝倉家被官 | ||||
桂田 長俊 | 播磨守 | 吉継 九郎兵衛尉 |
景定男 | 1570-74 | 1574 | ↓ 1574滅亡 |
1573-74 越前守護代 (織田家被官) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
山崎 吉家 | 長門守 | 長時? 肥前守? 新左衛門尉 |
1479前-? | 越前府中近傍? | 朝倉家被官 | ||||||
山崎 長吉 | 肥前守 | 祖桂 | 小次郎 | 吉家男 | 1506頃 | ↓ | 朝倉家被官 | ||||
山崎 吉家 | 長門守 | 新左衛門尉 | 長吉男 | 1531前-73 | 1573 | ↓ 1573滅亡 |
朝倉家被官 | ||||
山崎 長徳 | 長門守 | 閑斎 | 長鏡 小七郎 庄兵衛 |
山崎吉延 (長吉男) の男 |
1583-1604 | 1620(69) | 明智家→柴田家に滞留 1583前田家中で家再興 1585放生津(越中)城代 一時退去、後帰参 1600までに加増され 15,000石 |
前田家臣 | |||
山崎長郷(長徳男)が家禄相続。後代に減知、子孫は加賀前田家人持組として5,500石を知行。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔柴田家(越前国主)〕 |
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柴田 勝家 | 修理亮 | 幡岳寺 籌山勝公 |
権六 左京進 |
柴田土佐守男 | 1575-83 | 1583 | 先妻 (出自未詳) 市 (織田信秀女) |
↓ 1570長光寺城(近江) 1575北庄城(越前) 1583滅亡 |
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〔堀家〕 |
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堀 秀政 | 従四位下 侍従 左衛門督 |
東樹院 高岳道哲 |
菊千代 久太郎 |
堀秀重長男 | 1585-88 | 1588(38) | 喜多島和泉守女 | 1581坂田郡内(近江) 1582佐和山城(近江) 1585北庄城(越前) 180,800石 |
||||
堀 秀治 | 従五位下 侍従 左衛門督 |
久太郎 | 秀政長男 | 1588-98 | 1606(31) | 長谷川秀一女 | ↓ 1598春日山城(越後)転封 |
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〔青木家〕 |
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青木 秀以 | 従五位下 侍従 紀伊守 |
西江院 傑山長英 |
一矩 重治 重吉 勘兵衛 勘七 |
青木重矩男 | 1598-1600 | 1600 | 豊臣秀長家臣 1585入山城(紀伊) 1587豊臣秀吉直臣 立石城(播磨) 後、大野城(越前) 80,000石 1592越前府中城 100,000石 1598北庄城 200,000石 1600関が原の戦で 石田方、病死 没後改易 |
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〔松平(結城・越前)家(越前国主)〕 |
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結城 秀康 | 正三位 権中納言 三河守 |
浄光院 森巌道愍 浄正 |
秀朝 於義丸 |
徳川家康二男 | 1600-07 | 1607(34) | 鶴 (結城晴朝養女) |
1584豊臣秀吉養子 新封、河内国内 20,000石 1590結城晴朝養子 結城城(下総) 101,000石 1600北庄城(越前一国) 680,000石 |
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松平 忠直 | 従三位 参議 三河守 |
西岸院 相誉連友 一白 |
長吉丸 国若丸 |
秀康長男 | 1607-23 | 1650(56) | 勝 (徳川秀忠女) |
↓ 1623不行跡により改易 長男・光長が高田城 (越後)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔丹羽家(若狭国主)〕 |
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丹羽 長秀 | 越前守 | 総光寺 大憐宗徳 |
万千代 五郎左衛門尉 |
丹羽長政男 | 1573-85 | 1585(51) | 織田信広女 | 1571佐和山城(近江) 1573小浜城(若狭) 後、若狭一国支配 1583越前府中城 (越前半国・加賀の 一部を加増) |
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丹羽 長重 | 従四位下 侍従 五郎左衛門 |
鍋(幼名) | 長秀長男 | 1585-87 | 1637(67) | 織田信長女 | ↓ 1585違令減封 小浜城(若狭のみ) 150,000石 1587再度違令減封 松任城(加賀)転封 |
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〔浅野家〕 |
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浅野 長政 | 従五位下 弾正少弼 |
長吉 与兵衛 |
安井重継長男 浅野長勝養子 |
1587-93 | 1611(65) | 浅野長勝女 | 1581大津・坂本両城(近江) 20,300石 1587小浜城 60,000石 1593甲斐府中城転封 |
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〔木下家〕 |
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木下 勝俊 | 従四位下 少将 大蔵 |
木下家定長男 | 1593-1600 | 1649(81) | うめ (森可成女) |
1593新封、小浜城 62,000石 1600関ヶ原の戦で 石田方、改易 1608父家定継嗣 足守(備中)再封 |
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木下 利房 | 従五位下 宮内大輔 |
勝義 | 木下家定二男 | (高浜城主) | 1637(65) | 織田信包女 進藤正次女 |
1594新封、高浜城(若狭) 20,000石 1596加増 30,000石 1600関ヶ原の戦で 石田方、改易 1615父家定継嗣 足守(備中)襲封 |
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〔京極家(若狭国主)〕 |
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京極 高次 | 従三位 参議 若狭守 |
泰雲寺 徹宗道閑 |
小法師 小兵衛 |
京極高慶長男 | 1600-09 | 1609(47) | 初 (浅井長政女) |
1595大津城(近江) 60,000石 1600小浜城 85,000石 1601加増 92,100石 |
||||
京極 忠高 | 従四位下 左少将 若狭守 |
熊麿 | 高次長男 | 1609-34 | 1637(45) | 初 (徳川秀忠女) |
↓ 1624加増 113,600石 1634松江城(出雲)転封 |
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〔酒井家〕 |
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酒井 忠勝 | 従四位上 左少将 讃岐守 |
空印寺 傑伝長英 |
鍋之助 与七郎 |
酒井忠利長男 | 1634-56 | 1662(76) | 松平親能女 | 1627川越城(武蔵) 1632加増 100,000石 1634小浜城 113,558石 1636加増 123,558石 |
大老 | |||
酒井 忠直 | 従四位下 侍従 修理大夫 |
勇厳院 独立空山 |
靫負 | 忠勝四男 | 1656-82 | 1682(53) | 松平定頼女 | ↓ 1668分知 113,558石 |
||||
酒井 忠隆 | 従四位下 遠江守 |
高台院 指厳道徽 |
千熊丸 靫負佐 |
忠直長男 | 1682-86 | 1686(36) | 島津綱久女 | ↓ 1682分知 103,558石 |
奏者番 | |||
酒井 忠囿 | 従四位下 靫負佐 |
宝光院 崑山道琳 |
千熊 与七郎 |
忠隆長男 | 1686-1706 | 1706(37) | 土井利益女 | ↓ | ||||
酒井 忠音 | 従四位下 侍従 讃岐守 |
霊苗院 曇華道瑞 |
助次郎 一学 修理大夫 |
酒井忠稠 (忠直二男) 二男 |
1706-35 | 1735(46) | 有馬頼元女 | ↓ | 老中 | |||
酒井 忠存 | 従五位下 讃岐守 |
実相院 諦覚円成 |
初三郎 与七郎 |
忠音三男 | 1735-40 | 1740(21) | - | ↓ | ||||
酒井 忠用 | 従四位下 侍従 讃岐守 |
霊岳院 大機道乗 |
幸之助 一学 修理大夫 |
忠音四男 | 1740-57 | 1775(54) | 松平定儀女 | ↓ | 京都所司代 | |||
酒井 忠与 | 従五位下 遠江守 |
樹徳院 康山成功 |
元之助 竹之助 左膳 宮内 |
忠音五男 | 1757-62 | 1762(42) | - | ↓ | ||||
酒井 忠貫 | 従四位下 修理大夫 |
本覚院 寂応道寛 |
藤太郎 数太郎 |
忠与長男 | 1762-1806 | 1806(55) | 敬子 (伊達宗村女) 久我通兄女 棟 (久我信通養女) |
↓ | ||||
酒井 忠進 | 従四位下 侍従 若狭守 |
寛隆院 仁峯良義 |
八之助 与七郎 靫負佐 |
酒井忠香六男 | 1806-28 | 1828(59) | 高子 (奥平昌鹿女) |
↓ | 老中 | |||
酒井 忠順 | 従四位下 修理大夫 |
天性院 霊雄道智 |
亀太郎 | 忠貫二男 | 1828-34 | 1853(63) | 辰 (松平定国女) |
↓ | ||||
酒井 忠義 | 若狭守 | 悠之助 与七郎 靫負佐 修理大夫 (致仕後) 右京大夫 |
忠進六男 | 1834-62 | ↓ 1862加増 113,558石 |
京都所司代 | ||||||
酒井 忠氏 | 若狭守 | 晴蔵 修理 修理大夫 |
酒井忠欽三男 | 1862-68 | 1876(42) | 稜子 (忠義女) |
↓ 1862不行届減封 103,558石 |
|||||
酒井 忠禄 (忠義再承) |
小浜藩知事 | 1868-70 | 1873(61) | 盈子 (大河内輝延女) |
↓ 1870鞠山藩と合併 |
長男・忠道 のとき伯爵 |
敦賀/鞠山藩(1682年より小浜支藩)
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔蜂屋家〕 |
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蜂屋 頼隆 | 侍従 出羽守 |
正受院 雲岳宗閞 |
兵庫頭 | 出自未詳 | 1583-89 | 1589(56?) | 1574?肥田城(近江) 1580岸和田城(和泉) 1585敦賀城(越前) 40,000石 1589無嗣、絶家 |
||||
〔大谷家〕 |
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大谷 吉継 | 従五位下 刑部少輔 |
渓広院 心月白頭 |
吉隆 紀之介 |
大谷吉房男 | 1589-1600 | 1600(42?) | 1589敦賀城 20,000余石 1590加増 50,000石 1600関が原の戦で 石田方、戦死。改易 |
||||
〔酒井家〕 |
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酒井 忠稠 | 従五位下 右京亮 |
胆徳院 節級祖巌 |
忠登 仙千代 右京 |
酒井忠直二男 | 1682-1706 | 1706(54) | 1682兄・小浜藩主 忠隆より分家 敦賀鞠山(越前) 10,000石 |
大番頭 | |||
酒井 忠菊 | 従五位下 飛騨守 |
徳雲院 海晏浄清 |
縫殿 | 忠稠長男 | 1706-22 | 1722(44) | ↓ | 大番頭 | |||
酒井 忠武 | 従五位下 佐渡守 |
天梁院 一運元利 |
富之助 右京 |
忠菊三男 | 1722-31 | 1731(24) | ↓ | ||||
酒井 忠香 | 従五位下 飛騨守 |
寛国院 水翁仁海 |
松之丞 播磨守 |
忠菊八男 | 1731-88 | 1791(77) | ↓ | 若年寄 | |||
酒井 忠言 | 従五位下 相模守 |
鶴寿院 南岡天游 |
豊之助 | 忠香四男 | 1788-97 | 1799(44) | ↓ | 大番頭 | |||
酒井 忠藎 | 従五位下 飛騨守 |
臨海院 帰山去道 |
忠明 豊之助 右京 右京亮 |
忠言長男 | 1797-1833 | 1833(53) | ↓ | 大坂定番 | |||
酒井 忠毗 | 飛騨守 | 右京亮 | 忠藎四男 | 1833-67 | 1876(62) | ↓ 1852城主格 |
若年寄 | ||||
酒井 忠経 | 小浜藩知事 | 右京亮 鞠山藩知事 |
忠毗四男 | 1867-70 | 1884(37) | ↓ 1869敦賀藩と称す 1870鞠山藩に復称 同年、小浜藩と合併 同藩知事に就任 1871廃藩置県 |
長男・忠亮 のとき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔長谷川家〕 |
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長谷川 秀一 | 従四位下 侍従 藤五郎 |
貞長 竹丸 |
長谷川丹波守男? | 1585-94 | 1594 | 1583?肥田城(近江) 1585東郷城(越前) 110,000石 1594無嗣、絶家 |
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〔丹羽家〕 |
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丹羽 長正 | 従五位下 備中守 |
長昌 宮松 |
丹羽長秀二男 | 1595-1600 | 1620? | 1587藤枝城(越前) 50,000石 1595東郷城 1600関ヶ原の戦で 石田方、改易 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔青山家〕 |
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青山 宗勝 | 従五位下 修理亮 |
助兵衛 | 出自未詳 | 1585-? | 1585越前国内 20,000石 1598丸岡城(越前) 46,000石 |
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青山 忠元 | 伊賀守 | 虎 | 宗勝男 | ?-1600 | ↓ 1600関ヶ原の戦で 石田方、改易 |
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〔今村家〕 -松平(越前)家臣 |
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今村 盛次 | 掃部助 | 今村掃部助 (浅井家臣) の男? |
1601-12 | 1601丸岡城 25,500石 1612越前騒動に より改易、配流 |
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〔本多家〕 |
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本多 成重 | 従五位下 飛騨守 |
本光院 銕哉土菴 |
仙千代 丹下 次郎大夫 |
本多重次長男 | 1613-45 | 1647(76) | 直子 (土岐定政女) |
1596井野(下総)襲封 3,000石 1602加増 5,000石 1613丸岡城 40,000石 松平忠直に付属 1624独立大名 46,300石 1626分知 43,300石 |
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本多 重能 | 従五位下 淡路守 |
常然院 光巌在心 |
勘五郎 作左衛門 信濃 淡路 |
成重長男 | 1645-51 | 1651(62) | 大久保忠常女 | ↓ | ||||
本多 重昭 | 従五位下 飛騨守 |
重昭院 智光真海 |
大吉 作左衛門 |
重能長男 | 1652-76 | 1676(43) | 国 (松平忠昌女) 甘露寺嗣長女 |
↓ | ||||
本多 重益 | 従五位下 飛騨守 |
無量院 寂照宜休 |
成宗 成邦 成伸 成秦 作左衛門 |
重昭長男 | 1676-95 | 1733(71) | 長 (松平頼元女) |
↓ 1695内訌、改易 1708赦免 1709相馬郡内(下総) 2,000石 |
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〔有馬家〕 |
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有馬 清純 | 従五位下 左衛門佐 |
華岳院 清山宗純 |
永純 大吉 周防守 |
有馬康純長男 | 1695-1702 | 1702(59) | 国 (岡部行隆女) 世伊 (脇坂安政女) |
1691糸魚川(越後) 50,000石 1695丸岡城 |
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有馬 一準 | 従五位下 左衛門佐 |
常泰院 性山宗住 |
真純 純寿 寿純 大吉 (致仕後) 左兵衛佐 |
清純長男 | 1703-33 | 1757(61) | 秀子 (毛利吉広養女) |
↓ | ||||
有馬 孝純 | 従五位下 日向守 |
体顕院 真巌宗修 |
純長 吉太郎 |
一準長男 | 1733-57 | 1757(41) | 稲葉正知女 | ↓ | ||||
有馬 允純 | 従五位下 左衛門佐 |
正達院 天岳宗真 |
外吉 遠江守 |
孝純八男 | 1757-72 | 1772(26) | 富子 (松平定温女) |
↓ | ||||
有馬 誉純 | 従五位下 左兵衛佐 |
無暦菴 玄空誉純 |
大之進 | 允純長男 | 1772-1830 | 1836(68) | 鶴子 (稲葉正弘女) |
↓ | 若年寄 | |||
有馬 徳純 | 従五位下 左兵衛佐 |
悠禅院 咸説宗教 |
政裕 格次郎 蔵人 |
榊原政敦四男 | 1830-37 | 1837(33) | 稵子 (誉純女) |
↓ | ||||
有馬 温純 | 従五位下 日向守 |
欽崇院 建中宗祐 |
其太郎 | 戸田純佑 (誉純二男) 長男 |
1838-55 | 1855(27) | 善子 (松平定芝女) 冨子 (榊原政養女) 作子 (戸田氏正女) |
↓ | ||||
有馬 道純 | 丸岡藩知事 | 知四郎 左兵衛佐 遠江守 |
本多忠鄰 (孝純曽孫) 二男 |
1855-71 | 1903(67) | 冨子 (戸田忠温女) 敬子 (戸田忠温女) |
↓ 1871廃藩置県 |
老中 子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔織田家〕 |
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織田 秀雄 | 従三位 参議 |
月松院 天巌玄高 |
三法師 | 織田信雄長男 | 1592-1600 | 1610(28) | - | 1592新封 大野城(越前) 50,000石 1600関ヶ原の戦で 石田方、改易 1602蔵米3,000俵 |
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〔松平(越前・結城)家〕 |
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松平 直政 | 従四位下 侍従 出羽守 |
河内麿 国麿 出羽介 |
結城秀康三男 | 1624-33 | 1666(66) | 久 (松平忠良女) |
1616新封 木本(越前) 10,000石 1619姉崎(上総) 1624大野城(越前) 50,000石 1633松本城(信濃)転封 |
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松平 直基 | 従四位下 大和守 |
五郎八 七郎 |
結城秀康五男 | 1635-44 | 1648(45) | 布連 (本多富正女) |
1624勝山城(越前) 30,000石 1635大野城 50,000石 1644山形城(出羽)転封 |
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松平 直良 | 従四位下 侍従 但馬守 |
松巌院 光山徹源 |
直久 直輝 直之 成政 直富 長光丸 土佐守 |
結城秀康六男 | 1644-78 | 1678(75) | 豊 (本多成重女) |
1635勝山城(越前) 35,000石 1644大野城 50,000石 |
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松平 直明 | 従四位下 若狭守 |
富明 左門 |
直良三男 | 1678-82 | 1721(66) | 仙 (松平定頼養女) |
↓ 1682明石城(播磨)転封 |
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〔土井家〕 |
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土井 利房 | 従四位下 侍従 能登守 |
隆興院 真誉凉山 道空 |
七助 | 土井利勝四男 | 1682-83 | 1683(53) | 万 (津軽信義女) |
1644古河藩主(兄) 利隆より分家 足利郡内(下野) 10,000石 1679までに累増 40,000石 1682大野城 |
老中 | |||
土井 利知 | 従五位下 甲斐守 |
宝岸院 賢誉道慶 耀山 |
利治 内記 |
利房長男 | 1683-1743 | 1745(73) | 稲葉正往養女 | ↓ | 奏者番 | |||
土井 利寛 | 従五位下 伊賀守 |
全性院 法誉義海 徳潤 |
巳之助 | 利知長男 | 1743-46 | 1746(29) | 通 (仙石政房女) |
↓ | ||||
土井 利貞 | 従五位下 能登守 |
大信院 為誉道元 利貞 |
岩之助 千之助 |
利寛長男 | 1746-1805 | 1807(67) | 泰 (酒井忠恭女) |
↓ | ||||
土井 利義 | 従五位下 造酒正 |
対松院 信誉法風 漣漪 |
直軌 銀之助 左京亮 中務少輔 甲斐守 (致仕後) 笙州 |
井伊直幸十男 | 1805-10 | 1818(42) | 松 (岡部長備女) |
↓ | ||||
土井 利器 | 従五位下 甲斐守 |
道樹院 祥誉感徹 顕瑞 |
広侶 秀五郎 雄之丞 |
久世広明十一男 | 1810-18 | 1818(36) | トシ (利義女) |
↓ | ||||
土井 利忠 | 従五位下 能登守 |
憲章院 法誉体仁 利忠 |
錦橘 (致仕後) 柳涯 欽斉 |
利義長男 | 1818-62 | 1868(58) | 晋 (戸沢正胤女) 楽 (戸田氏庸女) |
↓ | ||||
土井 利恒 | 大野藩知事 | 捨次郎 能登守 |
利忠三男 | 1862-71 | 1893(46) | 福子 (土井利則女) |
↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
松平 忠昌 | 正四位下 参議 伊予守 |
竜芳院 廓翁貞真 |
虎松 虎之助 |
結城秀康二男 | 1624-45 | 1645(49) | 花 (浅野幸長女) 道 (広幡兼賢女) |
1619高田城(越後) 250,000石 1624北庄城(越前) 505,280石 福井城と改称 1637加増 525,280石 |
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松平 光通 | 従四位下 左少将 越前守 |
大安院 堅誉徳詔 万休 |
万千代 | 忠昌二男 | 1645-74 | 1674(39) | 国 (松平光長女) |
↓ 1645分知 450,280石 |
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松平 昌親 | 従四位下 左少将 兵部大輔 |
探源院 順誉和祥 竜山 |
昌明 福松 辰之助 |
忠昌五男 | 1674-76 | ↓ 1674先封を合せ 475,280石 |
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松平 綱昌 | 従四位下 左少将 越前守 |
清浄院 明誉光巌 照哲 |
千菊 | 松平昌勝 (忠昌長男) 長男 |
1676-86 | 1699(39) | 清 (飛鳥井雅直女) |
↓ 1686精神疾患に より蟄居 |
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松平 吉品 (昌親再承) |
1686-1710 | 1711(72) | 万 (森長継女) |
1686再相続 250,000石 |
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松平 吉邦 | 従四位下 左少将 伊予守 |
昇安院 住誉智真 本栄 |
昌尚 昌邦 勝千代 大炊頭 |
松平昌勝六男 | 1710-21 | 1721(41) | 梅 (日野西国豊女) |
↓ | ||||
松平 宗昌 | 従四位下 侍従 中務大輔 |
豊仙院 円誉照元 安住 |
仙鉄 昌興 昌平 |
松平昌勝三男 | 1721-24 | 1724(50) | 菊 (松平頼元女) |
↓ 1721先封を合せ 300,000石 |
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松平 宗矩 | 従四位下 左少将 兵部大輔 |
徳正院 広誉明達 賢提 |
千次郎 | 松平知清 (結城秀康曽孫) 二男 |
1724-49 | 1749(37) | 勝 (吉邦二女) |
↓ | ||||
松平 重昌 | 従四位上 左少将 越前守 |
源隆院 俊誉慈愍 哲雄 |
小五郎 於義丸 |
徳川宗尹長男 | 1749-58 | 1758(16) | - | ↓ | ||||
松平 重富 | 正四位下 左中将 越前守 |
隆徳院 仁誉和順 道本 |
仙之助 | 徳川宗尹三男 | 1758-99 | 1809(42) | 致 (徳川宗将女) |
↓ | ||||
松平 治好 | 正四位下 左中将 越前守 |
威徳院 温誉恭道 光乗 |
於義丸 伊予守 |
重富長男 | 1799-1825 | 1825(58) | 定 (徳川宗武女) |
↓ 1818加増 320,000石 |
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松平 斉承 | 従四位上 左少将 越前守 |
天梁院 乗誉玄通 明哲 |
仁之助 伊予守 |
治好二男 | 1826-35 | 1835(25) | 㵾子=浅 (徳川家斉女) |
↓ | ||||
松平 斉善 | 正四位下 左中将 越前守 |
諦観院 廓誉超勝 常然 |
民之助 千三郎 |
徳川家斉二十四男 | 1835-38 | 1838(19) | - | ↓ | ||||
松平 慶永 | 左中将 越前守 (致仕後) 権中納言 大学別当 麝香間祗候 |
春嶽 | 錦之丞 (致仕後) 大蔵大輔 参議 議定 内国事務総督 民部卿 |
徳川斉匡八男 | 1838-58 | 1890(63) | 勇 (細川斉護女) |
↓ | 政事総裁職 京都守護職 |
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松平 茂昭 | 福井藩知事 (廃藩後) 貴族院議員 |
巽嶽 | 直廉 鑜之助 日向守 越前守 |
松平直春四男 | 1858-71 | 1890(55) | 幸子 (久我建通女) 幾子 (広瀬胤保女) |
↓ 1871廃藩置県 |
侯爵 |
松岡藩 (福井支藩)
松平昌勝(松平忠昌長男。従四位下・中務大輔。1645分家、越前松岡50,000石)-昌平(従四位下・中務大輔。1721福井藩主継承、 封地は宗家へ返還) |
越前府中領/武生藩=本多家 (福井藩領内)
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | ||||
本多 富正 | 従五位下 丹波守 |
普照院 元覚正円 |
源四郎 志摩 伊豆守 |
本多重富長男 | 1601-49 | 1649(78) | 小栗重国女 | 1590結城秀康家臣 1601越前府中城 39,000石 1623福井藩主・ 松平忠昌に附属 45,282石 |
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本多 昌長 | 内蔵助 | 月心院 徳応正天 |
千菊 源四郎 |
富正四男 | 1649-69 | 1669(56) | 松平直基養女 | ↓ 1649分知 40,000石 |
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本多 長員 | 孫太郎 | 護法院 慈眼正慧 |
昌長五男 | 1669-1717 | 1717(49) | - | ↓ 1686福井藩主・ 松平綱昌に連座 20,000石 |
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本多 長教 | 大蔵 | 真乗院 実山正道 |
朝次郎 | 松平綱昌長男 | 1717-28 | 1728(39) | 葉室頼敦女 | ↓ | |||||
本多 副紹 | 内蔵助 | 玉関院 無漏為一 |
富紹 万之助 |
長教長男 | 1728-80 | 1780(62) | 綾小路俊宗女 萩原兼武女 |
↓ | |||||
本多 副充 | 内蔵助 | 聖諦院 廓然不識 |
長之丞 | 副紹三男 | 1780-1821 | 1821(66) | 誠照寺某の女 | ↓ | |||||
本多 副久 | 大蔵 | 韶音院 心空解脱 |
副文 謙太郎 大隅 |
本多副脩 (副紹長男) 長男 |
(廃嫡) | 1825(63) | 香音=五百 (本多副邵女) |
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本多 副昌 | 内蔵助 | 観光院 鉄山俊翁 |
久平 寛次郎 大蔵 (致仕後) 観翁 |
副久二男 | 1821-56 | 1864(71) | 都和 (副久養女) |
↓ | |||||
本多 富恭 | 丹波 | 慈徳院 孝岳良親 |
直喬 廉之丞 |
副昌三男 | 1856-62 | 1862(42) | 昌 (木下利愛女) |
↓ | |||||
本多 副元 | 興之助 (廃藩後) 貴族院議員 |
三郎 | 松平頼功三男 | 1863-69 | 1910(66) | 清 (分部光寧女) |
↓ 1869福井藩家老 として版籍奉還 1879武生藩として 追認、華族に列す |
男爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔松平(結城・越前)家〕 |
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松平 直基 | 従四位下 大和守 |
五郎八 七郎 |
結城秀康五男 | 1624-35 | 1648(45) | 布連 (本多富正女) |
1614結城家督 越前国内 5,000石 1624勝山城(越前) 30,000石 1635大野城(越前)転封 |
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松平 直良 | 従四位下 土佐守 |
直久 直輝 直之 成政 直富 長光丸 |
結城秀康六男 | 1635-44 | 1678(75) | 豊 (本多成重女) |
1624新封 木本(越前) 25,000石 1635勝山城(越前) 35,000石 1644大野城(越前)転封 |
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〔小笠原家〕 |
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小笠原 貞信 | 従五位下 土佐守 |
真光院 銕梁一玄 |
伊勢松 新五郎 主膳 |
高木貞勝長男 小笠原政信養子 (政信甥) |
1691-1702 | 1714(84) | 政信女 遠藤慶利女 |
1640高須(美濃) 22,777石 1691勝山 |
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小笠原 信秀 | 大膳 | 高照院 秋覚月清 日法 |
半次郎 | 貞信二男 | (早世) | 1693(33) | 井伊直武女 | |||||
小笠原 信辰 | 従五位下 駿河守 |
法専院 一祐愚入 |
大学 (致仕後) 河内入道 |
信秀長男 | 1702-21 | 1736(51) | 水野忠直女 | ↓ 1708城主 |
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小笠原 信成 | 従五位下 能登守 |
承徳院 仁叟量寛 |
菊次郎 弾正 斎宮 |
酒井忠隆四男 | 1721-30 | 1730(26) | 信辰女 | ↓ | ||||
小笠原 信胤 | 従五位下 左衛門佐 |
竜台院 賢巌義哲 |
源十郎 | 本多忠統二男 | 1730-45 | 1745(31) | 久 (永井直陳女) |
↓ | ||||
小笠原 信房 | 従五位下 飛騨守 |
清巌院 潔山玄皎 |
源弥 | 信辰二男 | 1745-80 | 1794(62) | 伊達村候養女 | ↓ | ||||
小笠原 長教 | 従五位下 相模守 |
長教院 一恵愚伯 |
信愛 伊勢松 |
信房二男 | 1780-99 | 1799(40) | 充 (中川久貞女) |
↓ | ||||
小笠原 長貴 | 従五位下 相模守 |
瑞竜院 春沢宗仁 |
土用犬丸 | 長教長男 | 1799-1840 | 1840(48) | 妙 (酒井忠道女) |
↓ | ||||
小笠原 長守 | 勝山藩知事 | 土用犬丸 左衛門佐 化堂 古菱 |
長貴六男 | 1840-71 | 1891(57) | 今鶴 (出自未詳) |
↓ 1871廃藩置県 |
長男・長育 のとき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | ||||
〔松平(紀伊)家〕 |
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松平 頼職 | 従四位下 左少将 内蔵頭 |
長七 | 徳川光貞三男 | 1697-1705 | 1705(26) | 1697新封 高森(越前) 30,000石 1705紀伊藩主を 継承、封地収公 |
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〔松平(本庄)家〕 |
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松平 宗長 | 従五位下 内膳正 |
円教院 実誉高岳 義天 |
宗春 豊五郎 兵庫 兵庫頭 |
松平資俊三男 | 1705-09 | 1709(23) | 1705新封 高森 20,000石 |
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松平 宗胡 | 三四郎 | 澄元院 性誉円水 覚泡 |
資俊六男 | 1709-11 | 1711(8) | ↓ 1711無嗣、絶家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | ||||
間部 詮言 | 従五位下 下総守 |
瑞昌院 極誉恵光 利道 |
主馬 | 西田清貞五男 間部詮房 (長兄)養子 |
1720-24 | 1724(35) | 滝 (阿部正喬女) |
1720村上城 (越後)襲封 50,000石 同年、鯖江(越前) |
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間部 詮方 | 従五位下 若狭守 |
寛広院 還誉到岸 亮本 |
多門 (致仕後) 丹後守 |
間部詮貞 (詮言二兄) 長男 |
1724-61 | 1785(77) | 見部 (詮言女) 有馬一準女 |
↓ | |||||
間部 詮央 | 従五位下 主膳正 |
究竟院 乗誉政昊 勇玄 |
多門 | 詮方二男 | 1761-71 | 1771(34) | 民 (朽木玄綱女) |
↓ | |||||
間部 詮茂 | 従五位下 下総守 |
栖蓮院 廓誉善禎 凉然 |
詮堅 八次郎 若狭守 |
詮方三男 | 1771-86 | 1786(48) | 堀田正亮女 喜 (丹羽高庸女) |
↓ | |||||
間部 詮煕 | 従五位下 若狭守 |
真霊院 宝山慧鏡 |
内蔵 主膳 主膳正 |
詮茂長男 | 1786-1811 | 1811(42) | 牧野貞長女 | ↓ | |||||
間部 詮允 | 従五位下 主膳正 |
馨光院 顕道懿勲 |
直之助 | 詮煕長男 | 1812-14 | 1814(25) | 載 (亀井矩賢女) |
↓ | |||||
間部 詮勝 | 侍従 下総守 |
常足斎 | 詮良 鉞之進 (致仕後) 松堂 |
詮煕三男 | 1814-62 | 1884(81) | 簾子 (松平康任女) |
↓ 1840城主 (実際には築城 に至らず) 1862謹慎 |
老中 | ||||
間部 詮実 | 従五位下 安房守 |
修和院 恭温譲順 |
岩次郎 | 詮勝二男 | 1862-63 | 1863(37) | 徽美子 (伊東祐相女) |
1862父の失策 により減封 40,000石 |
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間部 詮道 | 鯖江藩知事 | 卍治 下総守 |
詮勝八男 | 1864-71 | 1892(40) | 貴子 (大河内正和女) |
↓ 1871廃藩置県 |
長男・詮信 のとき子爵 |
(2017.08.01up)
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