滋賀県は古く、近淡海・安の国造が支配していましたが、大化の改新で近江国となり、天智天皇のとき大津宮が置かれました。『延喜式』では12郡。平安朝期には江南を中心に荘園が混在しました。鎌倉期には土着武士の佐々木家が守護に任じられ、南北朝期に入って六角・京極の二家に分かれ、室町期には江南は守護六角家、江北は京極家(一時守護)の勢力下にありました。戦国期に入ると、六角家が江南を維持したのに対し、江北では国人勢力に推された浅井家が京極家を凌いで領国を形成しました。織田信長は六角家・浅井家を滅ぼして近江を領有し、安土に築城して覇を唱えましたが、豊臣秀吉は近江に石田三成など中小大名を分置しました。また戦国末から近江商人が全国に進出して都市の商業発展を担いました。徳川家康は旧石田領の佐和山に井伊直政を封じるなど諸大名を配し、江戸中期以降は彦根藩(井伊家)・膳所藩(本多家)・水口藩(加藤家)など8藩が分立しました。1871年の廃藩置県により、江南は大津県、江北は長浜県となり、翌年それぞれ滋賀県、犬上県と改称され、その年に滋賀県に統一されました。1876年に福井県の一部を統合しましたが、1881年に再び分離し、現在の県域が確定しました。
六角(佐々木)家=近江守護 京極家=江北三郡守護 朽木家 多賀家 蒲生家 浅井家 小堀家→小室藩 石田家 水口藩 長浜藩 彦根藩=井伊家 膳所藩 大溝藩=分部家 仁正寺藩=市橋家 宮川藩=堀田家 堅田藩 山上藩=稲垣家 三上藩 朝日山藩=水野家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
佐々木 経方 | 従五位下 兵庫助 |
源章経の男 | 蒲生郡佐々木荘(近江) | |||||||||
佐々木 秀定 | 従五位下 式部丞 |
為俊 | 経方長男 | ↓ | ||||||||
佐々木 秀義 | 兵部丞 | 三郎 | 秀定長男 | 1184(73) | 宇都宮某の女 渋谷重国女 |
↓ | ||||||
佐々木 定綱 | 従五位下 左衛門尉 |
太郎 | 秀義長男 | 1205(64) | 北条時政女 | ↓ | 近江守護 | |||||
佐々木 広綱 | 従五位下 山城守 |
小太郎 左衛門尉 |
定綱長男 | ?-1221 | 1221 | ↓ | 近江守護 | |||||
佐々木 信綱 | 従五位上 近江守 |
虚仮阿元 経仏 |
四郎右衛門尉 | 定綱四男 | 1221-34 | 1242(62) | 北条泰時女 | ↓ | 近江守護 | |||
佐々木 泰綱 | 従五位上 壱岐守 |
西光寺 生西 |
三郎 | 信綱四男 | 1234-63 | 1276(64) | ↓ | 近江守護 | ||||
佐々木 頼綱 | 従五位上 備中守 |
崇光寺 崇西 |
三郎左衛門尉 | 泰綱二男 | 1263-? | 1310(69) | ↓ | 近江守護 | ||||
六角 時信 | 従五位上 三郎左衛門尉 |
玄派 | 頼綱六男 | 1346(41) | 長井時守女 | ↓ | 近江守護 | |||||
六角 氏頼 | 従五位下 三郎左衛門尉 |
大慈恩寺 雪江崇永 |
千寿丸 | 時信長男 | ?-1351 (1365-70) |
1370(45) | 京極高氏女 | ↓ 近江南半一帯 を勢力圏 |
1335前-38 1338後-51 1354-70 近江守護 |
|||
六角 義信 | 三郎 | 崇綱 | 千手丸 | 氏頼長男 | 1351-65 | 1365(16) | ↓ | 1352-54 近江守護 |
||||
六角 高詮 | 四郎左衛門尉 | 高経 | 京極高秀長男 | 1370-77 | 1401(50) | ↓ | 近江守護 | |||||
六角 満高 | 従五位下 備中守 |
大慈院 椿荘崇寿 |
亀寿丸 大夫判官 右兵衛射 |
氏頼三男 | 1377-1416 | 1416(48) | ↓ | 1377-1410 1412-16 近江守護 |
||||
六角 満綱 | 大膳大夫 | 竜雲寺 宗岱 |
四郎 右兵衛射 |
満高長男 | 1416-41? | 1445 | ↓ | 近江守護 | ||||
六角 持綱 | 兵部大輔 | 西蓮寺 瑞岳宗勝 |
四郎 右兵衛射 |
満綱長男 | 1441?-45 | 1445 | ↓ | 近江守護 | ||||
六角 時綱 | 民部少輔 | 円満寺 義空常勝 |
五郎 | 満綱三男 | (不承認) | 1446 | ↓ | |||||
六角 久頼 | 従五位下 近江守 |
祥光寺 周恩源忠 |
四郎 | 満綱四男 | 1445-56 | 1456 | ↓ | 近江守護 | ||||
六角 高頼 | 大膳大夫 | 竜光院 仙翁宗椿 |
行高 亀寿丸 四郎 |
久頼長男 | 1456-58 | ↓ 観音寺城を 拠点とする |
近江守護 | |||||
六角 政堯 | 治部少輔 | 政高 四郎 |
時綱長男 | 1458-60 1467-71 (対立) |
1471 | ↓ | 1458-60 1467-69 近江守護 |
|||||
六角 高頼 (再承) |
1460-67 1469-1507? |
1520(59) | ↓ | 1460-68 1478-87 1495-1507? 近江守護 |
||||||||
六角 氏綱 | 近江守 | 雲光寺 江岳宗佐 |
亀寿丸 四郎 |
高頼長男 | 1507?-18 | 1518(27) | ↓ | 近江守護 | ||||
六角 定頼 | 従四位下 弾正忠 |
霊光寺 光室亀公 江雲 |
吉侍者 四郎 |
高頼二男 | 1518-52 | 1552(58) | ↓ | 近江守護 | ||||
六角 義賢 | 従四位下 左京大夫 |
梅心院 承禎 |
四郎 | 定頼長男 | 1552-59 | 1598(78) | 畠山左馬助女 | ↓ | ||||
六角 義治 | 右衛門督 | 鴎菴玄雄 | 義弼 四郎 |
義賢長男 | 1559-68 | 1612(68) | ↓ 1568失領 |
|||||
佐々木高定(義賢二男)が1600年以降、幕府より2,000石を与えられて旗本となり、子孫・定賢のとき1681年に絶家。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
京極 氏信 | 従五位上 近江守 |
清滝寺 導善 |
四郎 左衛門尉 大夫判官 対馬守 |
佐々木信綱五男 | ?-1284 | 1295(76?) | 鎌倉某の女 | 近江北部三郡内 | 評定衆 | |||
京極 宗綱 | 従五位下 能登守 |
道光 | 四郎 左衛門尉 |
氏信四男 | 1284-97 | 1297(50) | 佐伯頼綱女 | ↓ | 引付衆 | |||
京極 貞宗 | 正六位上 三郎左衛門尉 |
春窓道夢 | 孫寿丸 | 宗綱三男 | 1297-1305 | 1305(19) | 佐々木行綱女 | ↓ | ||||
京極 宗氏 (家督代行) |
従五位下 佐渡守 |
光明院 賢観道法 |
宗信 三郎 左衛門尉 |
京極満信 (氏信三男) 長男 |
1331(61) | 宗綱女 | 引付衆 | |||||
京極 高氏 | 従五位下 佐渡守 |
勝楽寺 徳翁導誉 |
四郎 大夫判官 |
宗氏三男 (貞宗養子) |
1305-67前 | 1373(78) | 三河守時綱女 | ↓ | 政所執事 1338近江守護 1343-51,66-68 出雲守護 1355-56上総守護 1359-65飛騨守護 |
|||
京極 高秀 | 従五位下 大膳大夫 |
仙林寺 岳雲道高 |
五郎左衛門尉 治部少輔 |
高氏三男 | 1367前-91 | 1391(64) | ↓ | 侍所頭人 1353前-91 江北三郡守護 1368-79出雲守護 ?-1379,81前-91 飛騨守護 |
||||
京極 高詮 | 従五位上 治部少輔 |
能仁寺 乾嶺浄高 |
高経 四郎左衛門尉 |
高秀長男 (一時、 六角家継嗣) |
1391-1401 | 1401(50) | ↓ | 侍所頭人 江北三郡・飛騨守護 1395-1401 出雲・隠岐守護 |
||||
京極 高光 | 従五位上 大膳大夫 |
勝願寺 大円道通 |
三郎左衛門尉 民部少輔 |
高詮長男 | 1401-13 | 1413(39) | ↓ | 侍所頭人 江北三郡・飛騨・ 出雲・隠岐守護 |
||||
京極 持高 | 従五位上 治部少輔 |
興雲寺 松岩覚秀 |
持光 吉童子 三郎 |
高光長男 | 1413-39 | 1439(39) | ↓ | 侍所頭人 江北三郡・飛騨・ 出雲・隠岐守護 |
||||
京極 高数 | 従五位下 加賀守 |
満願寺 幼心 道統 |
四郎左衛門 | 高詮二男 | 1439-41 | 1441(66) | ↓ | 侍所頭人 江北三郡・飛騨・ 出雲・隠岐守護 |
||||
京極 持清 | 大膳大夫 | 宝生寺 月林生観 |
六郎 中務少輔 |
高光三男 | 1441-64? | 1470(64) | ↓ | 侍所頭人 1441-70 江北三郡・飛騨・ 出雲・隠岐守護 |
||||
京極 勝秀 | 従五位下 中務大輔 |
正覚院 賢隠常誉 |
三郎 | 持清長男 | 1464?-68 | 1468(36) | ↓ | |||||
京極 孫童子丸 | 勝秀長男 | 1468-71 | 1471(6) | ↓ | 1470-71 江北三郡・飛騨・ 出雲・隠岐守護 |
|||||||
京極 政経 | 従五位下 大膳大夫 |
栖雲寺 巨川宗済 |
政高 六郎 治部少輔 |
持清二男 | 1471-92 (一時対立) |
1508(56) | ↓ | 侍所頭人 1471-73 江北三郡・飛騨守護 1471-1508 出雲・隠岐守護 1473-75後 近江守護 |
||||
京極 高清 | 従五位下 中務少輔 |
環山寺 梅叟宗意 |
秀綱 乙童子 六郎 |
勝秀二男 | 1478-1523 | 1538(79?) | ↓ 1573出奔 |
1478前-1523 江北三郡守護 1573-85後 飛騨守護 |
||||
京極 高広 | 従五位下 武蔵守 |
台嶺院 道也 |
高延 高峯 六郎 |
高清長男 | 1523-46 | 1546 | 1573苅安尾城(近江) | |||||
京極 高慶 | 従五位下 長門守 |
禅林寺 心寂道安 |
高佳 高吉 中務少輔 |
高清二男 | 1546-70 | 1581(78) | 浅井久政女 | ↓ 後 上平寺城(近江) |
||||
京極 高次 | 従三位 参議 若狭守 |
小法師 小兵衛 |
高慶長男 | 1570-1609 | 1609(47) | 初 (浅井長政女) |
↓ 1573奥島(近江) 1582失領 1584高島郡内(近江) 1587大溝(近江) 10,000石 1590八幡山城(近江) 28,000石 1595大津城(近江) 60,000石 1600小浜城 (若狭)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
朽木 義綱 | 従五位下 出羽守 |
源公 種義 |
五郎 左衛門尉 |
高島頼綱三男 | 14C初頭 | 朽木荘(近江) | |||||
朽木 時経 | 左兵衛尉 | 道勲 | 出羽四郎 | 義綱男 | ↓ | ||||||
朽木 義氏 | 出羽四郎 | 寛渡 | 時経男 | ↓ | |||||||
朽木 経氏 | 従五位下 出羽守 |
貞仁 | 頼氏 万寿丸 出羽四郎 四郎兵衛尉 |
義氏男 | 1333前-63 | ↓ | |||||
朽木 氏綱 | 出羽五郎左衛門尉 | 照公 | 万寿丸 | 経氏男 | 1363-1407 | ↓ | |||||
朽木 能綱 | 従五位下 出羽守 |
浄印 | 五郎 | 氏綱男 | 1407-31 | ↓ | |||||
朽木 時綱 | 出羽五郎左衛門尉 | 勲公 | 能綱男 | 1431-58 | ↓ | ||||||
朽木 貞高 | 従五位下 信濃守 |
観喜 忠公 |
高親 満若丸 弥五郎 |
時綱男 | 1458-71 | 1471 | ↓ | ||||
朽木 貞綱 | 従五位下 刑部大輔 |
雄機 | 貞武 弥五郎 |
貞高男 | 1471-90? | ↓ | |||||
朽木 材秀 | 従五位下 信濃守 |
和公 | 直親 弥五郎 |
貞綱男 | 1490?-1517前 | ↓ | |||||
朽木 稙綱 | 従五位下 民部少輔 |
宏公 | 稙広 竹松丸 弥五郎 信濃守 出羽守 |
材秀男 | 1517前-46後 | ↓ | |||||
朽木 晴綱 | 従五位下 宮内大輔 |
建公 | 貞綱 弥五郎 |
稙綱長男 | 1546後-50 | 1550(33) | ↓ | ||||
朽木 元綱 | 従五位下 河内守 |
長久院 福峯宗徳 |
竹松丸 弥五郎 信濃守 (致仕後) 牧斎 |
晴綱長男 | 1550-1616 | 1632(84) | ↓ 1568本領安堵 20,000石? 1600旧領安堵? 9,590石 |
||||
朽木宣綱(元綱長男、従五位下・兵部少輔)が朽木6,470石を襲封(他は分知)、交替寄合として存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
多賀 秀貞 | 孫三郎 | 多賀神社宮司裔 | 13C後半 | 犬上郡多賀(近江) | |||||||
多賀 信光 | 又四郎 | 秀貞男 | ↓ | ||||||||
多賀 信定 | 新左衛門尉 | 信光男 | ↓ | ||||||||
多賀 性忠 | 与一 | 信定男 | ↓ | ||||||||
多賀 高信 | 兵庫介 | 性忠男 | ↓ | ||||||||
多賀 高長 | 豊後守 | 高信男 | ↓ | ||||||||
多賀 高忠 | 豊後守 | 京極高数男 | 1467前-81後 | 1487? | ↓ 京都に在住 |
||||||
多賀 経家 | 豊後守 | 高家 | 高忠男 | ↓ | |||||||
多賀 秀忠 | 美作守 | 新左衛門尉 | 経家男 | ↓ | |||||||
多賀 貞澄 | 豊後守 | 貞隆 | 秀忠男 | ↓ | |||||||
多賀 貞能 | 信濃守 | 新左衛門 | 貞澄男 | ?-1582 | 1587 | ↓ 高島郡内(近江) 1582失領 |
明智家臣 後、豊臣家臣 |
||||
多賀 秀種 | 従五位下 出雲守 |
鴎庵 | 秀家 政藤 源千代 源助 |
堀秀政二男 | 1582-1616 | 1616(53) | 1582堀家内にて復家 後、豊臣秀長領内 1595宇陀郡内(大和) 20,659石 1600関が原の戦で 石田方に属し改易 1615前田家領内にて 6,000石 |
||||
多賀秀識(秀種男)が改易された後、その子・直定が1631年に復家、子孫は加賀前田家臣として5,000石を知行。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
蒲生 秀朝 | 左衛門尉 | 秀戒 | 藤原惟俊(秀郷流)裔 | 1336頃 | 蒲生郡内(近江) | ||||||
蒲生 高秀 | 左衛門尉 | 道全 | 秀朝男 | ↓ | |||||||
蒲生 秀胤 | 左衛門尉 | 常椿 | 高秀男 | ↓ | |||||||
蒲生 秀兼 | 左衛門尉 | 宝松 | 弾正忠 | 秀胤男 | ↓ | ||||||
蒲生 秀貞 | 下野守 | 信正 | 左衛門大夫 | 秀兼男 | ↓ | ||||||
蒲生 秀綱 | 下野守 | 正綱 | 秀貞長男 | ↓ | |||||||
蒲生 貞秀 | 刑部大夫 | 信楽院 智閑 |
和田秀憲 (秀貞三男)男 |
↓ 日野に居城 |
|||||||
蒲生 秀行 | 刑部大夫 | 宗福 | 太郎 | 貞秀長男 | ↓ | ||||||
蒲生 秀紀 | 刑部大夫 | 宗閑 | 藤兵衛尉 | 秀行長男 | ?-1523? | ↓ | |||||
蒲生 高郷 | 左衛門大夫 | 接取院 真清 |
高江 小二郎 |
貞秀二男 | 1523?-? | 1530? | ↓ | ||||
蒲生 定秀 | 下野守 | 定秀院 宗智 快幹軒 |
藤十郎 左兵衛大夫 |
高郷長男 | 1579 | ↓ | |||||
蒲生 賢秀 | 左兵衛大夫 | 恵倫寺 | 藤太郎 | 定秀長男 | ?-1584 | 1584 | ↓ | ||||
蒲生 氏郷 | 飛騨守 | 賦秀 鶴千代 忠三郎 |
賢秀長男 | 1584-95 | 1595(40) | ↓ 1584松ケ島城(伊勢)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
浅井 直政 | 井三郎 | 浅井郡司裔? | 1540 | 浅井郡内(近江) | ||||||||
浅井 亮政 | 備前守 | 救外宗護 | 浅井直種男 | ?-1542 | 1542 | 蔵屋(直政女) | ↓ 1523小谷城(近江) |
|||||
浅井 久政 | 下野守 | 久岳良春 | 猿夜叉 新九郎 |
亮政二男 | 1542-60 | 1573(48) | 阿古 (井口経元女) |
↓ | ||||
浅井 長政 | 備前守 贈従二位・ 権中納言 |
徳勝寺 天英宗清 |
賢政 新九郎 |
久政長男 | 1560-73 | 1573(29) | 平井定武女 市(織田信秀女) |
↓ 1573滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
小堀 光道 | 左近将監 | 藤原秀郷流 | 15C後半? | 坂田郡小堀(近江) | |||||||
小堀 善光 | 将監 | 新藤五 | 光道男 | ↓ | |||||||
小堀 直隆 | 藤左衛門 | 善光男 | ↓ | ||||||||
小堀 直房 | 宗次郎 | 直隆男 | ↓ | ||||||||
小堀 正房 | 勘解由左衛門 | 宗次郎 | 直房男 | ↓ | |||||||
小堀 正次 | 新助 | 正房男 | ?-1604 | 1604(65) | ↓ 1585羽柴秀長家臣 葛上・宇知二郡内(大和) 3,000石 1594豊臣家直参 大和・和泉二国内 5,000石 1600備中代官=松山在城 14,460石 |
||||||
小堀 政一 | 従五位下 遠江守 |
孤蓬庵 大有宗甫 |
作助 | 正次長男 | 1604-47 | 1647(69) | ↓ 1604分知 12,460石 1619浅井郡内(近江) |
伏見奉行 | |||
小堀 正之 | 従五位下 備中守 |
興雲院 喜蓬宗慶 |
雅楽 大膳 |
政一二男 | 1647-74 | 1674(55) | ↓ 1647分知 11,460石 1648小室に居所 |
||||
小堀 政恒 | 従五位下 和泉守 |
法源院 真甫宗実 |
政延 主膳 大膳 |
正之長男 | 1674-94 | 1694(46) | ↓ | ||||
小堀 政房 | 従五位下 遠江守 |
松巌院 天覚宗瑞 |
源左衛門 大膳 |
政恒四男 | 1694-1713 | 1713(29) | ↓ 1694分知 10,630石 |
||||
小堀 政峯 | 従五位下 和泉守 |
泰清院 梅巌宗香 |
重次郎 備中守 |
政恒六男 | 1713-60 | 1760(72) | ↓ | 若年寄 | |||
小堀 政方 | 従五位下 和泉守 |
修善庵 宗友 |
政弥 金次郎 備中守 |
政峯六男 | 1761-88 | 1803(62) | ↓ 1788不正、改易 |
伏見奉行 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
石田 蔵人 | 祐快 | 因成? | 坂田郡土豪? | 坂田郡石田郷(近江) | ||||||||
石田 陸奥守 | 清心 | 仲成? | 蔵人男 | ↓ | ||||||||
石田 正継 | 従五位下 隠岐守 |
梅岩道囲 | 晴成? 政成? 為成? 藤右衛門 左吾右衛門 |
陸奥守男 | 1600 | 岩田氏? | ↓ | |||||
石田 三成 | 従四位下 治部少輔 |
江東院 正岫因公 |
三也 | 正継二男 | ?-1600 | 1600(41) | 宇多頼忠女 | 1584?水口城(近江) 40,000石? 1595佐和山城(近江) 194,000石 1600関ヶ原の戦に 敗れ、改易、斬首 |
奉行 (豊臣政権) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔長束家〕 |
||||||||||||
長束 正家 | 従四位下 侍従 大蔵少輔 |
大心院 速成 |
新三郎 | 長束盛里 (水口家庶流) の男 |
1585-1600 | 1600 | 栄(本田忠高女) | 栗太郡長束(近江)領有 1585近江(豊臣家領)内 10,000石 1595水口城(近江) 50,000石 1597加増 120,000石 1600関ヶ原の戦で石田方 となり、自殺、廃絶 |
奉行 (豊臣政権) |
|||
〔加藤家(前期)〕 |
||||||||||||
加藤 明友 | 従五位下 内蔵助 |
教義斎 皆足院 了知 芝山 |
義之助 孫三郎 勿斎 |
加藤明成長男 | 1682-83 | 1683(63) | - | 1643父・会津藩主明成 改易後復家、吉永(石見) 10,000石 1682水口城 20,000石 |
詰衆 | |||
加藤 明英 | 従五位下 佐渡守 |
孫太郎 | 明友長男 | 1684-95 | 1712(61) | 本多康長女 | ↓ 1695壬生城(下野)転封 |
寺社奉行 | ||||
〔鳥居家〕 |
||||||||||||
鳥居 忠英 | 従五位下 伊賀守 |
忠救 采女 播磨守 |
鳥居忠則二男 | 1695-1712 | 1716(52) | 勝(島津綱久女) | 1689信濃高遠藩主 忠則(父)改易後復家 下村(能登) 10,000石 1695水口城 20,000石 1712壬生城(下野)転封 |
若年寄 | ||||
〔加藤家(後期)〕 |
||||||||||||
加藤 嘉矩 | 従五位下 和泉守 |
覚音院 宗コウ 〔王+黄〕 |
左膳 | 加藤明治長男 (明英嫡孫) |
1712-24 | 1724(31) | 松浦棟の養女 | 1712壬生城襲封 25,000石 1712水口城 |
||||
加藤 明経 | 従五位下 伊勢守 |
通入院 宗甫 |
明通 孫三郎 |
嘉矩長男 | 1724-46 | 1746(24) | 内藤信輝女 | ↓ | ||||
加藤 明煕 | 従五位下 相模守 |
興真院 宗覚 |
一学 豊後守 佐渡守 |
加藤明教二男 | 1746-67 | 1767(44) | 松平資訓女 | ↓ | ||||
加藤 明堯 | 従五位下 伊勢守 |
大光院 宗演 |
忠徹 仙菊 万助 主計 孫太郎 能登守 |
松平忠名二男 | 1767-78 | 1785(46) | 明煕養女 (明経女) |
↓ | ||||
加藤 明陳 | 従五位下 佐渡守 |
皆遵院 宗徳 |
駒吉 孫太郎 能登守 |
明煕三男 | 1778-99 | 1808(51) | 伊与 (水野忠見女) 菊(森忠興女) |
↓ | ||||
加藤 明允 | 従五位下 越中守 |
了義院 宗成 蜃洲 |
亀吉 孫太郎 能登守 |
明陳長男 | 1799-1815 | 1815(33) | 銕(松平忠告女) | ↓ | 京都般舟院 勤番 |
|||
加藤 明邦 | 従五位下 能登守 |
天光院 宗薫 |
亮之助 孫太郎 佐渡守 (致仕後) 紫艶 |
明允長男 | 1815-45 | 1856(49) | 起 (大久保忠真女) |
↓ | ||||
加藤 明軌 | 左京大夫 | 湘江 | 経之助 和泉守 越中守 |
明邦二男 | 1845-66 | 1883(56) | 泰(松平直寛女) | ↓ | ||||
加藤 明実 | 水口藩知事 | 安之助 孫太郎 能登守 |
明邦七男 | 1866-71 | 1906(59) | 繁(加藤泰幹女) 民(有馬頼咸女) 董子 (南部信順女) |
↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔山内家〕 |
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山内 一豊 | 対馬守 | 辰之助 猪右衛門 |
山内盛豊三男 | 1584-85 1585-90 |
1605(61) | 若宮友興女 | 1584長浜城(近江) 5,000石 1585高浜城(若狭) 19,800石 同年、長浜城 20,000石 1590掛川城(遠江)転封 |
|||||
〔内藤家〕 |
||||||||||||
内藤 信成 | 従五位下 豊前守 |
法善院 大誉陽竹 宗賢 |
三左衛門 | 嶋田景信二男 内藤清長養子 |
1606-12 | 1612(68) | 粟生長勝女 | 1601駿河府中城 40,000石 1606長浜城 |
||||
内藤 信正 | 従五位下 紀伊守 |
弥七郎 | 信成長男 | 1612-15 | 1626(59) | 石川康通女 | ↓ 1612高槻城(摂津)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
井伊 直政 | 従四位下 侍従 兵部少輔 |
祥寿院 清涼泰安 |
虎松 万千代 |
井伊直親長男 井伊直虎養子 |
1600-02 | 1602(42) | 花 (松平康親女) |
1590箕輪城(上野) 120,000石 1598高崎城に移る 1600佐和山城(近江) 180,000石 |
加判 | |||
井伊 直継 | 従四位下 右近大夫 |
直勝 万千代 右近大夫 兵部少輔 |
直政長男 | 1602-15 | 1662(73) | 鳥居忠政女 | ↓ 1604彦根城に移る 1615分家して安中 (上野)城主へ転出 |
|||||
井伊 直孝 | 正四位上 左中将 掃部頭 |
久昌院 豪徳天英 |
弁之介 掃部助 |
直政二男 | 1615-59 | 1659(70) | 阿喜 (蜂須賀家政女) |
1610白井領内(上野) 10,000石 1615家督、彦根城 150,000石 同年、加増 200,000石 1619加増 250,000石 1633加増 300,000石 |
将軍補佐 | |||
井伊 直澄 | 従四位下 左少将 掃部頭 |
玉竜院 忠山源功 |
亀之介 玄蕃頭 |
直孝五男 | 1659-76 | 1676(52) | - | ↓ | 大老 | |||
井伊 直興 | 正四位下 左中将 掃部頭 |
長寿院 覚翁知性 |
吉十郎 玄蕃頭 (致仕後) 直治 右衛門大夫 (再致仕後) 右衛門督 |
井伊直縄 (直孝四男) 長男 |
1676-1701 | ↓ | 大老 | |||||
井伊 直通 | 従四位下 左少将 掃部頭 |
光照院 天真義空 |
亀十郎 兵助 |
直興八男 | 1701-10 | 1710(23) | 三条実治女 | ↓ | ||||
井伊 直恒 | 従四位下 侍従 掃部頭 |
円成院 徳巌道隣 |
安之介 | 直興十男 | 1710 | 1710(18) | - | ↓ | ||||
井伊 直該 (直興再承) |
1710-14 | 1717(62) | - | ↓ | 大老 | |||||||
井伊 直惟 | 従四位下 左中将 掃部頭 |
泰源院 海印指光 |
金蔵 備中守 (致仕後) 左兵衛督 |
直該十三男 | 1714-35 | 1736(37) | 紀伊 (蜂須賀綱矩女) |
↓ | ||||
井伊 直定 | 従四位下 左中将 掃部頭 |
天祥院 泰山定公 |
又五郎 因幡守 (致仕後) 主殿頭 (再致仕後) 大監物 |
直該十四男 | 1735-54 | ↓ | ||||||
井伊 直ヨシ 〔示+是〕 |
従四位下 侍従 掃部頭 |
見性院 観刹了因 |
金之介 備中守 |
直惟二男 | 1754 | 1754(28) | 酒井忠恭女 | ↓ | ||||
井伊 直定 (再承) |
1754-55 | 1760(59) | - | ↓ | ||||||||
井伊 直幸 | 正四位上 左中将 掃部頭 |
大魏院 弥高文山 |
直英 民部 玄蕃頭 |
直惟三男 | 1755-89 | 1789(59) | 井伊直存女 | ↓ | 大老 | |||
井伊 直中 | 従四位下 左中将 掃部頭 |
観徳院 天寧宏輝 |
庭五郎 玄蕃頭 (致仕後) 修理大夫 左兵衛督 |
直幸七男 | 1789-1812 | 1831(66) | 親子 (南部利正女) |
↓ | ||||
井伊 直亮 | 正四位上 左中将 掃部頭 |
天徳院 真竜郭性 |
弁之介 玄蕃頭 |
直中三男 | 1812-50 | 1850(57) | 餐子 (松平頼儀女) 粲 (井伊直朗女) |
↓ | 大老 | |||
井伊 直弼 | 正四位上 左中将 掃部頭 |
宗観院 柳暁覚翁 |
鉄之介 鉄三郎 玄蕃頭 柳王舎 |
直中十四男 | 1850-60 | 1860(46) | 昌子 (松平信豪女) |
↓ | 大老 | |||
井伊 直憲 | 彦根藩知事 (廃藩後) 貴族院議員 |
愛麻呂 | 直弼二男 | 1860-71 | 1904(57) | 宜子 (有栖川宮幟仁親王女) 常子(鍋島直彬養女) |
↓ 1862父の罪で減封 200,000石 1865預地を加上 公称250,000石 1871廃藩置県 |
伯爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔戸田家〕 |
||||||||||||
戸田 一西 | 従五位下 左門 |
正眼院 法誉道心 |
政成 信世 康次 新二郎 十兵衛 采女正 |
戸田氏光長男 | 1601-02 | 1602(62) | 真木氏常女 | 1590新封 鯨井(武蔵) 5,000石 1601大津城(近江) 30,000石 1602膳所城に移る |
||||
戸田 氏銕 | 従五位下 左門 |
重氏 新二郎 采女正 |
一西長男 | 1602-16 | 1655(80) | 松平康長女 | ↓ 1616尼崎城(摂津)転封 |
|||||
〔本多家(前期)〕 |
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本多 康俊 | 従五位下 縫殿助 |
梅香院 輝巌縁崇 |
九十郎 隼人 彦八郎 |
酒井忠次二男 本多忠次養子 |
1617-21 | 1621(53) | 菅沼定盈女 | 1601西尾城(三河) 20,000石 1617膳所城 30,000石 |
||||
本多 俊次 | (下段参照) | 1621 | ||||||||||
〔菅沼家〕 |
||||||||||||
菅沼 定芳 | 従五位下 織部正 |
定好 向丸 左近 |
菅沼定盈六男 菅沼定仍 (兄)継嗣 |
1621-34 | 1643(57) | 松平康元女 三宅一任養女 |
1606長島城(伊勢)襲封 20,000石 1617膳所城 31,100石 1634亀山城(丹波)転封 |
|||||
〔石川家〕 |
||||||||||||
石川 忠総 | 従四位下 主殿頭 |
忠総院 日観 |
宗十郎 | 大久保忠隣二男 石川家成 (外祖父)養子 |
1634-50 | 1650(69) | 堀尾可晴女 | 1633佐倉城(下総) 70,000石 1634膳所城 |
||||
石川 廉勝 | 従五位下 弾正大弼 |
寂智院 日俊 |
千勝 宗十郎 |
忠総長男 | (早世) | 1650(47) | 堀尾忠晴女 | |||||
石川 憲之 | 従五位下 主殿頭 |
昌勝 千勝 宗十郎 |
廉勝長男 | 1651 | 1707(74) | 梅園実清女 | ↓ 1651分知 50,000石 亀山城(伊勢)転封 |
|||||
〔本多家(後期)〕 |
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本多 俊次 | 従五位下 下総守 |
専光院 俊白浄有 |
下総 | 本多康俊長男 | 1651-64 | 1668(74) | 立花宗茂養女 | 1621膳所城襲封 同年西尾城(三河) 35,000石 1636亀山城(伊勢) 50,000石 1651膳所城 70,000石 |
||||
本多 康将 | 従五位下 兵部少輔 |
了義院 覚翁 |
兵部 | 俊次二男 | 1664-79 | 1691(70) | - | ↓ | ||||
本多 康慶 | 従五位下 隠岐守 |
暁雲院 泰源真英 |
千之助 | 本多康長 (俊次長男)長男 |
1679-1714 | 1718(72) | 康将女 | ↓ 1679分知 60,000石 |
||||
本多 康命 | 従五位下 下総守 |
通性院 心巌雄山 |
康明 康程 万次郎 |
康慶長男 | 1714-19 | 1719(48) | 綺羅 (伊達綱村養女) |
↓ | ||||
本多 康敏 | 従五位下 主膳正 |
天籟院 晴光了然 |
俊普 大助 主膳 |
康慶五男 | 1719-47 | 1747(55) | - | ↓ | ||||
本多 康桓 | 従五位下 隠岐守 |
謙徳院 退翁宗温 |
忠邦 恒弥 兵部 丹後守 下総守 |
本多忠統 (康将孫)長男 |
1747-65 | 1769(56) | 八千 (牧野忠寿女) |
↓ | ||||
本多 康政 | 従五位下 下総守 |
徳性院 心覚自然 |
忠節 菊弥 将監 |
本多忠統九男 | 1765 | 1765(21) | - | ↓ | ||||
本多 康伴 | 従五位下 隠岐守 |
通香院 道峯宗感 |
忠矩 万之助 |
酒井忠寄五男 | 1765-71 | 1771(32) | 康政養女 | ↓ | ||||
本多 康匡 | 従五位下 主膳正 |
翻香院 端心正道 |
政吉 | 康伴長男 | 1771-81 | 1781(25) | - | ↓ | ||||
本多 康完 | 従五位下 隠岐守 |
玄諦院 勇哲義梁 |
千吉 | 本多忠薫 (康桓長男)長男 |
1782-1806 | 1806(38) | きや (秋元永朝女) |
↓ | ||||
本多 康禎 | 従四位下 兵部大輔 |
又玄院 至徳賢翁 |
忠貞 定吉 |
本多忠薫三男 | 1806-47 | 1848(62) | 操 (島津斉宣女) |
↓ | 奏者番 | |||
本多 康融 | 従五位下 隠岐守 |
令徳院 湛然達道 |
隼人正 | 康禎長男 | 1847-56 | 1858(47) | 順 (島津斉興女) |
↓ | ||||
本多 康穣 | 膳所藩知事 | 下総守 主膳正 |
康禎四男 | 1856-71 | 1912(78) | チョウ〔金+長〕子 (酒井忠発女) |
↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
分部 光信 | 従五位下 左京亮 |
泰雲院 順翁宗曲 |
竜之助 | 長野正勝長男 分部光嘉 (外祖父)養子 |
1619-43 | 1643(53) | 1601上野城(伊勢)襲封 20,000石 1619大溝(近江) |
||||
分部 嘉治 | 従五位下 伊賀守 |
永泰院 竜谷慈雲 |
光郷 徳千代 与三兵衛 |
光信三男 | 1643-58 | 1658(32) | ↓ | ||||
分部 嘉高 | 従五位下 若狭守 |
江雲院 三峯宗関 |
万千代 式部 |
嘉治長男 | 1658-67 | 1667(20) | ↓ | ||||
分部 信政 | 従五位下 若狭守 |
太清院 雪渓浄猷 |
甚三郎 隼人正 |
池田長信三男 | 1667-1714 | 1714(63) | ↓ | ||||
分部 光忠 | 従五位下 左京亮 |
通霄院 鶴山浄滄 |
光重 熊之助 隼人 |
信政三男 | 1714-31 | 1731(34) | ↓ | ||||
分部 光命 | 従五位下 若狭守 |
直心院 円空慶算 |
熊之助 隼人 和泉守 (致仕後) 風斎 |
光忠長男 | 1731-54 | 1783(70) | ↓ | ||||
分部 光庸 | 従五位下 若狭守 |
自徳院 静好義正 |
甚三郎 隼人 隼人正 |
光命長男 | 1754-85 | 1790(57) | ↓ | ||||
分部 光実 | 従五位下 左京亮 |
泰寛院 仁峯宗イン 〔竹+均〕 |
善次郎 左京 |
光庸長男 | 1785-1808 | 1808(53) | ↓ | ||||
分部 光邦 | 従五位下 若狭守 |
霊感院 賢巌道哲 |
武吉 米吉 |
光実二男 | 1808-10 | 1810(25) | ↓ | ||||
分部 光寧 | 従五位下 左京亮 |
正眼院 真宗義諦 (致仕後) 楽斎 |
武吉 米吉 |
光邦長男 | 1810-31 | 1858(50) | ↓ | ||||
分部 光貞 | 従五位下 大溝藩知事 |
大亮院 樗嶺道俊 |
虎之助 若狭守 |
板倉勝尚二男 | 1831-70 | 1870(56) | ↓ | ||||
分部 光謙 | 大溝藩知事 | 光明 作之進 掃部助 |
光貞長男 | 1870-71 | 1944(83) | ↓ 1871藩を返上 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
市橋 長政 | 従五位下 下総守 |
凌霄院 桂林玄香 |
左京 伊豆守 |
林右衛門左衛門男 市橋長勝 (叔父)養子 |
1620-48 | 1648(74) | 1615新封 下総国内 1,000石 1616三条領内(越後) 4,000石 1620長勝継嗣 仁正寺(近江) 20,000石 1622分知 18,000石 |
||||
市橋 政信 | 従五位下 下総守 |
竜源院 覚潭玄澄 |
兵吉 | 長政長男 | 1648-1704 | 1704(82) | ↓ 1648分知 17,004石 |
||||
市橋 信直 | 従五位下 下総守 |
永昌院 浚山玄英 |
三左衛門 伝左衛門 外記 |
市橋政直 (長政二男)長男 |
1704-20 | 1720(65) | ↓ | ||||
市橋 直方 | 従五位下 壱岐守 |
恭安院 元徳亨山 |
主計 兵部 |
溝口重雄三男 | 1720-36 | 1750(62) | ↓ | 大番頭 | |||
市橋 直挙 | 従五位下 下総守 |
金剛寺 体山一無 |
万次郎 友太郎 主計 兵部 |
立花種盈 (長政外曽孫)の男 |
1736-58 | 1802(91) | ↓ | ||||
市橋 長璉 | 従五位下 伊豆守 |
嶺雲院 徹翁浄閑 |
豊三郎 安之丞 民部 |
稲葉董通二男 | 1758-85 | 1785(53) | ↓ | ||||
市橋 長昭 | 従五位下 下総守 |
泰雲院 文翁竜章 |
韶之助 | 長璉長男 | 1785-1814 | 1814(42) | ↓ | ||||
市橋 長発 | 従五位下 伊豆守 |
大乗院 海光宗印 |
シン〔金+心〕 次郎 |
長昭二男 | 1814-22 | 1822(18) | ↓ | ||||
市橋 長富 | 従五位下 主殿頭 |
性善院 円山道覚 |
主殿 | 酒井忠徳四男 | 1822-44 | 1859(55) | ↓ | ||||
市橋 長和 | 西大路藩知事 | 長義 鋼三郎 下総守 壱岐守 |
酒井忠器四男 | 1844-71 | 1882(62) | ↓ 1869西大路藩と改称 1871廃藩置県 |
子・長寿の とき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
堀田 正休 | 従五位下 豊前守 |
悠静院 夢梯残石 |
正清 正職 正昌 正国 帯刀 |
堀田正信長男 | 1698-1715 | 1731(77) | 1682吉井(上野) 10,000石 1698宮川(近江) |
||||
堀田 正朝 | 従五位下 駿河守 |
正朝院 月桂台光 |
国潘 正甫 |
正休三男 | 1715-19 | 1719(40) | ↓ | ||||
堀田 正陳 | 従五位下 加賀守 |
真現院 銘残常敬 |
正附 小太郎 三四郎 出羽守 |
正朝長男 | 1719-53 | 1753(45) | ↓ 1748加増 13,000石 |
若年寄 | |||
堀田 正邦 | 従五位下 出羽守 |
諦了院 実円常性 |
三四郎 | 正陳長男 | 1753-72 | 1772(39) | ↓ | 大番頭 | |||
堀田 正穀 | 従五位下 豊前守 |
元方院 叟与了達 |
門次郎 三四郎 |
正邦長男 | 1772-1815 | 1819(58) | ↓ | 奏者番 | |||
堀田 正民 | 従五位下 加賀守 |
采真院 仁窓了義 |
友次郎 三四郎 美濃守 豊前守 |
正穀長男 | 1815-38 | 1838(58) | ↓ | ||||
堀田 正義 | 従五位下 豊前守 |
随仙院 天岳浄真 |
豊前 | 戸田氏庸三男 | 1838-41 | 1841(26) | ↓ | ||||
堀田 正誠 | 従五位下 加賀守 |
豊前守 | 本多助信二男 (正穀外孫) |
1841-63 | 1863(40) | ↓ | |||||
堀田 正養 | 宮川藩知事 (廃藩後) 逓信大臣 |
三四郎 駒之助 豊前守 出羽守 |
岩城隆喜八男 | 1863-71 | 1911(64) | ↓ | 子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
堀田 正高 | 従五位下 備後守 |
建功院 慈山元海 |
正有 正在 俊兼 正輔 茂俊 俊季 俊秀 俊実 俊普 正茂 正参 内匠 宮内 兵部 大学 |
堀田正俊三男 | 1698-1722 | 1728(62) | 1684佐野(下野) 10,000石 1698堅田(近江) |
||||
堀田 正峯 | 従五位下 信濃守 |
豊松院 泰峯元久 |
正浄 正清 正美 正范 正範 鍋之助 斧三郎 刑部 |
正高七男 | 1722-26 | 1726(23) | ↓ | ||||
堀田 正永 | 従五位下 大和守 |
嶺松院 多楽宗永 |
俊尾 正良 岩吉 徳十郎 宮内 大学 民部 |
正高九男 | 1726-35 | 1735(27) | ↓ | ||||
堀田 正実 | 従五位下 若狭守 |
覚海院 天宝元仲 |
岩之助 丹宮 |
脇坂安利二男 | 1735-58 | 1758(43) | ↓ | 大番頭 | |||
堀田 正富 | 従五位下 若狭守 |
義雲院 沢応元潤 |
梅之丞 左京亮 |
正実長男 | 1758-87 | 1791(42) | ↓ | ||||
堀田 正敦 | 従五位下 摂津守 |
村由 藤八郎 摂津 |
伊達宗村八男 | 1787-1826 | 1832(75) | ↓ 1806加増 13,000石 1825城主格 1826佐野(下野)転封 |
若年寄 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
稲垣 重定 | 従五位下 安芸守 |
泰昌院 的応政端 |
蔵人 備後守 |
稲垣重大長男 | 1698-1707 | 1707(60) | 1658上総国内襲封 6,000石 1682加増 8,000石 1685加増 13,043石 1698山上(近江) |
若年寄 | |||
稲垣 重房 | 従五位下 長門守 |
芳巌院 歓宗良喜 |
主水 | 重定長男 | 1708-20 | 1720(51) | ↓ | 大番頭 | |||
稲垣 定享 | 従五位下 安芸守 |
翠峯院 傑叟良英 |
熊次郎 | 重房長男 | 1720-40 | 1740(31) | ↓ | ||||
稲垣 定計 | 従五位下 長門守 |
香林院 梅栄南岳 |
鎌吉 若狭守 周防守 |
稲垣昭倫二男 | 1740-92 | 1804(77) | ↓ | 大坂定番 | |||
稲垣 定淳 | 従五位下 安芸守 |
桃石院 如蘭鉄筆 |
藤五郎 若狭守 |
定計長男 | 1792-1823 | 1832(71) | ↓ | ||||
稲垣 定成 | 従五位下 長門守 |
楳翁院 蒼海傅竜 |
熊次郎 藤五郎 備後守 (致仕後) 穆斎 |
定淳長男 | 1823-34 | 1843(60) | ↓ | ||||
稲垣 太篤 | 従五位下 長門守 |
泰仙院 柔一誠心 |
定国 太和 藤五郎 若狭守 安芸守 |
定成長男 | 1834-60 | 1862(53) | ↓ | 若年寄 | |||
稲垣 太清 | 山上藩知事 | 若狭守 | 本多忠考六男 | 1860-71 | 1888(48) | ↓ 1871廃藩置県 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
遠藤 胤親 | 従五位下 但馬守 |
宝池院 素吟 |
数馬 主膳 下野守 |
白須政休長男 戸田氏成養子 遠藤常久継嗣 |
1698-1733 | 1735(53) | 酒井忠予女 増山正弥女 |
1692郡上(美濃) 藩主常久の継嗣 10,000石 1698三上(近江) |
||||
遠藤 胤将 | 従五位下 備前守 |
大心院 素江 |
胤和 吉之助 主膳 |
胤親長男 | 1733-71 | 1771(60) | 植村政広女 戸田氏定養女 |
↓ | 奏者番 | |||
遠藤 胤忠 | 従五位下 下野守 |
東覲院 素秋 |
竹之助 兵庫 |
胤親三男 | 1771-90 | 1791(60) | - | ↓ | 大番頭 | |||
遠藤 胤富 | 従五位下 備前守 |
自得院 素行 |
陽五郎 主膳 |
松平信復五男 | 1790-1811 | 1814(54) | 堀親長女 | ↓ | 大番頭 | |||
遠藤 胤統 | 従四位下 中務大輔 |
敬武徳院 素中 |
胤緒 直之進 但馬守 民部大輔 |
戸田氏教三男 | 1811-63 | 1870(78) | 胤富女 聯 (藤堂高嶷女) |
↓ 1852加増 12,000石 1860城主格 |
軍制用掛 | |||
遠藤 胤昌 | 従五位下 式部少輔 |
直諒院 素温 |
邦之丞 | 松平義和三男 | (早世) | 1856(53) | 胤統女 | |||||
遠藤 胤城 | 三上藩知事 | 廸吉 美濃守 備前守 但馬守 |
胤統二男 | 1863-70 | 1909(72) | 教子 (堀親寚女) |
↓ 1870吉見(和泉)に 藩庁を移転 |
陸軍奉行並 廃藩後、 東に改姓 子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
水野 忠弘 | 朝日山藩知事 | 忠篤 真次郎 和泉守 山形藩知事 |
水野忠精長男 | 1870-71 | 1905(49) | 1866山形城(出羽)襲封 50,000石 1870朝日山(近江) 1871廃藩置県 |
子爵 |
(2015.12.31up)
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