千葉県は古く総国(ふさのくに)と称し、下海上・印波・武佐・千葉・菊麻・上海上・須恵・馬来田・伊甚・長狭・安房の各国造が支配していましたが、大化の改新の際に下総・上総の二国に統合され、718年に上総国南部が安房国として分立、740年に上総国に編入されましたが、757年には再び安房国が分置されました。『延喜式』では下総は11郡(後代12郡)、上総は11郡(後代9郡)、安房は4郡。937-939年には三国とも朝廷に反乱を起こした平将門の支配下に入っています。平安朝期には院(皇室)や摂家・興福寺・熊野社・香取社などの荘園が存在、中期以降は桓武平氏の諸流が在地領主として勢力を拡大し、1028-31年にかけて平忠常が房総を占領しました。鎌倉初期には在庁官人であった千葉家・上総家が強盛でしたが、上総家は源頼朝のとき没落し、下総では千葉家が守護に任じられました(安房の守護は不明)。南北朝期から室町期にかけて、下総では千葉家が守護職を維持しましたが、庶流や有力被官が独自性を強め、上総・安房では上杉家が守護を務めましたが、実体としては諸豪族分立の情勢でした。戦国期に入ると千葉家は両上杉家の抗争に巻き込まれて弱体化し、安房では里見家が台頭して上総へ進出、両総は東進をめざす北条家と里見・佐竹の反北条勢力との角逐の場となりました。豊臣秀吉は1590年に北条家を滅ぼし、里見家から上総を没収して安房一国を与え、下総・上総を徳川家康の領国の一部としました。江戸期の房総は幕領や譜代中小大名・旗本の所領となり、中期以降は下総(猿島・結城・北相馬地方を除く)に佐倉藩(堀田家)・関宿藩(久世家)など6藩、上総に久留里藩(黒田家)・大多喜藩(大河内松平家)・佐貫藩(阿部家)など6藩、安房に3藩が配置されました。1868年に旧徳川将軍家が江戸から駿府(静岡)へ移転した際に、駿河・遠江から7藩が上総・安房に代地を与えられて入封しています。1871年の廃藩置県により木更津県と印旛県とが成立、1873年に両県が合併して千葉県となり、1875年に茨城県から旧下総国の3郡を編入、一方旧下総国の猿島・結城・北相馬地方を茨城県へ編入し、県域が確定しました。
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
斯波 家長 | 陸奥守 | ?-1337 | ||
南 宗継 | 遠江守 | -1352- | ||
鵤木 某 | 式部少輔 | -1352- | ||
上杉 憲顕 | 民部大輔入道 | 道昌 | 1363-68 | |
結城 直光 | 中務大輔入道 | 聖朝 | 1369前-1385後 | |
木戸 某 | 左近将監入道 | 法季 | 1388前-1390後 | |
木戸 満範 | 将監 | ?-1416 | ||
上杉 定頼 | 三郎 | -1423- |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
高 師直 | 武蔵守 | 1336-37以後 | ||
京極 秀綱 | 近江守 | -1351- | ||
千葉 氏胤 | 千葉介 | 1352前-53後 | ||
京極 高氏 | 佐渡大夫判官入道 | 導誉 | 1355-56後 | |
千葉 氏胤 | 千葉介 | -1362- | ||
岩松 義政 | 伊予守 | -1364 | ||
岩松 直明 | 遠江彦五郎 | 1364 | ||
上杉 朝房 | 左馬助 | 1364-65後 | ||
上杉 朝宗 | 中務少輔入道 | 禅助 | 1376前-97後 | |
宇都宮 持綱 | 右馬頭 | 1418前-20後 | ||
上杉 定頼 | 三郎 | -1420- | ||
千葉 胤直 | 千葉介 | 常瑞 | -1448- |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
平 常将 | 下総介 | 恒将 経政 |
平忠常男 | 下総国内 | ||||||||
平 常長 | 下総介 | 常永 恒長 次郎大夫 |
常将男 | ↓ | ||||||||
平 常兼 | 従五位下 下総介 |
経兼 次郎大夫 |
常長長男 | ↓ | ||||||||
千葉 常重 | 従五位下 千葉介 (=下総介) |
常繁 経繁 |
常兼男 | 常陸大掾政幹女 | 千葉荘(下総) | |||||||
千葉 常胤 | 従五位下 千葉介 |
浄春貞見 | 常重長男 | 1201(84) | 秩父重弘女 | 千葉城・ 小城郡内(肥前) |
1180以後 下総守護 |
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千葉 胤正 | 千葉介 | 常仙観宿 | 胤政 | 常胤長男 | ↓ | |||||||
千葉 成胤 | 千葉介 | 正阿弥陀仏 | 胤正長男 | 1218(63) | ↓ | 下総守護 | ||||||
千葉 胤綱 | 千葉介 | 成胤長男 | 1228(21) | ↓ | ||||||||
千葉 時胤 | 千葉介 | 成胤三男 | 1241(24) | ↓ | ||||||||
千葉 頼胤 | 千葉介 | 長春常善 | 時胤長男 | 1275(37) | ↓ | 下総守護 | ||||||
千葉 宗胤 | 大隅守 千葉新介 |
頼胤長男 | ?-1294 | 1294(30) | ↓ | |||||||
千葉 胤宗 | 千葉介 | 頼胤二男 | 1294-1312 | 1312(45) | 千葉城を継承 | |||||||
千葉 貞胤 | 従四位下 千葉介 |
善珍浄徳 法阿弥陀仏 |
胤宗長男 | 1312-51 | 1351(61) | ↓ | 下総守護 1346頃 遠江守護 1339,42/3頃 伊賀守護 |
|||||
千葉 氏胤 | 従五位下 千葉介 |
貴運常徹 其阿弥陀仏 |
貞胤二男 | 1351-65 | 1365(29) | 新田義貞女 | ↓ | 下総守護 1352/3,62頃 上総守護 1350?-51 伊賀守護 |
||||
千葉 満胤 | 従五位下 千葉介 |
常安寺 道山常尊 |
竹寿丸 | 氏胤長男 | 1365-1425/6 | 1425/6(66?) | ↓ | 下総守護 | ||||
千葉 兼胤 | 正五位下 修理大夫 |
輝山常光 眼阿弥陀仏 |
満胤長男 | 1425/6-30 | 1430(39) | 上杉氏憲女 | ↓ | 下総守護 | ||||
千葉 胤直 | 従五位下 千葉介 |
常瑞 臨阿弥陀仏 |
兼胤長男 | 1430-41? | 1455(43) | ↓ | 下総守護 1448頃- 上総守護 |
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千葉 胤将 | 従五位下 千葉介 |
高山常賢 厳阿弥陀仏 |
胤直長男 | 1441?-54 | 1454(22) | ↓ | 下総・上総 守護 |
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千葉 胤宣 | 千葉介 | 照山常流 重阿弥陀仏 |
胤直二男 | 1454-55 | 1455 | ↓ 1455自殺 一時滅亡 |
1456まで 馬加康胤父子 が千葉占拠 |
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千葉 実胤 | 千葉介 | 七郎 | 千葉賢胤 (兼胤二男) 長男 |
1456-62 | 上杉顕房女 | 1456室町幕府に 公認され嫡流継承 石浜城(武蔵) |
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千葉 自胤 | 千葉介 | 松月院 | 二郎 | 賢胤二男 | 1462-93 | 1493(48) | ↓ 1479臼井城(下総) 後年、撤退して 石浜城主に戻る |
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千葉 盛胤 | 千葉介 | 守胤 | 自胤男 | 1493-? | ↓ (備考欄を参照) |
下総での支配権 を事実上放棄 曽孫・直胤を 最後に、石浜城 千葉家の動向 は不明となる |
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【馬加/岩橋系千葉家】 |
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馬加 康胤 | 陸奥守 | 法相常応 | 満胤二男 | 1456 | 千葉郡馬加(下総) | |||||||
馬加 胤持 | 千葉介 | 大覚 与阿弥陀仏 |
康胤男 | ?-1456 | 1456 | ↓ 1456滅亡 |
1455奪嫡家 | |||||
岩橋 輔胤 | 千葉介 | 竹墅常公 常阿弥陀仏 |
万 | 康胤男または 馬場胤依 (氏胤男)の男 |
1457-71頃 | 1492 | 1457胤持を継承 佐倉(下総)を拠点 |
石浜千葉家に対抗 して宗家を自称 |
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千葉 孝胤 | 千葉介 | 全孝常輝 眼阿弥陀仏 |
輔胤長男 | 1471頃-92 | 1505? | ↓ 1473長崎城(下総) 1478臼井城(下総) 1479佐倉城 |
自称千葉宗家 | |||||
千葉 勝胤 | 従五位上 千葉介 |
月峯歳奯 常巌 其阿弥陀仏 |
孝胤長男 | 1492-1532 | 1532(62) | ↓ | 1493後 事実上 千葉宗家となる |
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千葉 昌胤 | 千葉介 | 真英常天 法阿弥陀仏 |
勝胤長男 | 1532-46 | 1546(52) | ↓ | ||||||
千葉 利胤 | 千葉介 | 慶岩常賀 覚阿弥陀仏 |
昌胤長男 | 1546-47 | 1547(33) | 北条氏康女 | ↓ | |||||
千葉 親胤 | 千葉介 | 月窓常円 眼阿弥陀仏 |
利胤長男 | 1547-57 | 1557(11) | ↓ | ||||||
千葉 胤冨 | 千葉介 | 真岩常源 祖阿弥陀仏 |
昌胤二男 | 1557-79 | 1579(53) | ↓ | ||||||
千葉 邦胤 | 千葉介 | 傑心常俊 法阿弥陀仏 |
胤冨長男 | 1579-85 | 1585(29) | 北条氏政女 岩松守純女 |
↓ | (一時、兄・良胤が 相続した説がある) |
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千葉 重胤 | 千葉介 | 仁性院 光常真覚 |
邦胤長男 | 1585-90 | 1633(58) | ↓ 1590失領 |
(一時、北条氏政の 五男・千葉直重が 相続した説がある) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
原 胤高 | 四郎 | 高胤 | 千葉胤貞 (肥前千葉家)男 |
14C中葉 | 香取郡原郷(下総) | (千葉家に従属。 以下同) |
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原 胤親 | 甲斐守 | 胤高男 | ↓ | ||||||||
原 胤房 | 越後守 | 胤親男 | ↓ 1456失領 |
||||||||
原 胤隆 | 越後守 | 胤房男 | 再興(年不明) 小弓城(下総) |
||||||||
原 朝胤 | 胤房男? | ↓ | |||||||||
原 基胤 | 朝胤男? | 1517敗死 | |||||||||
原 胤清 | 式部少輔 | 胤隆男?(孫?) | 1538-56 | 1556 | 1538再興 生実(=小弓)新城 |
(千葉家重臣の立場で 事実上、北条家に服属) |
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原 胤貞 | 上総介 | 胤清男 | 1556-69 | ↓ 1557臼井城(下総) 1561失領 1564復帰 |
(〃) | ||||||
原 胤栄 | 式部大輔 | 十郎 | 胤貞男 | 1569-90 | ↓ | (〃) | |||||
原 胤義 | 刑部少輔 | 胤成 | 胤栄男 | 1590 | 1590? | ↓ 1590失領(自殺?) |
(〃) | ||||
原 胤信 | 主水佐 | ジョアン (霊名) |
吉丸 福者 (2008ローマ 教皇より列福) |
胤義男 | 1603-12 | 1623(37?) | 1600前 徳川家に仕え 家を再興 1603知行1,500石(地未詳) 1612信仰のために出奔 1614捕縛、追放 1623キリシタンとして殉教 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
高城 越前守 | 千葉一族または 二階堂一族 |
1365頃 | 未詳 | (千葉家に従属) | |||||||
(途中未詳) | |||||||||||
高城 胤雅 | 越前守 | 越前守の裔 | 下総国内 | (千葉家に従属) | |||||||
高城 胤充 | 越前守 | 胤雅男 | 1462栗ヶ沢城(下総) | (〃) | |||||||
高城 胤行 | 越前守 | 輝叟玄楊 | 胤充男 | 1517 | ↓ 1517敗死 |
(〃) | |||||
高城 胤吉 | 従五位下 下野守 |
伝昭玄心 | 胤忠? | 胤行男 | 1565 | 1518再興 小金=根木内城(下総) |
北条家被官 (一時、上杉家被官) |
||||
高城 胤辰 | 下野守 | 関相玄酬 | 胤吉男 | 1582(46) | ↓ | 北条家被官 | |||||
高城 胤則 | 源次郎 | 庭室玄栢 | 竜千世 | 胤辰男 | ?-1590 | 1604(33) | ↓ 1590失領 |
北条家被官 | |||
高木重胤(胤則長男)が1616年、幕府に仕え、江戸期には700石の旗本として代々存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
平 義助 | 平家助男 | 12C中葉 | 簗田郷(下野) | ||||||||
簗田 氏助 | 勘解由左衛門尉 | 義助男 | ↓ | ||||||||
簗田 俊助 | 氏助裔 | ↓ | (途中、系譜に脱落あるか) | ||||||||
簗田 経助 | 俊助男 | ↓ | |||||||||
簗田 良助 | 河内守 | 経助男 | 15C前半 | ↓ | |||||||
簗田 直助 | 長門守 | 良助男 | ↓ | ||||||||
簗田 満助 | 河内守 | 直助男 | 1439 | ↓ 関宿城(下総) |
|||||||
簗田 持助 | 河内守 | 寿祥院 勝岩利公 |
中務少輔 | 満助男 | 1482(61) | ↓ | |||||
簗田 成助 | 河内守 | 中務大輔 | 持助男 | 1512 | ↓ | ||||||
簗田 高助 | 河内守 | 富春斎 道珊 |
八郎 | 成助男 | ?-1546 | 1550(58) | ↓ | ||||
簗田 晴助 | 河内守 | 洗心斎 道忠 |
八郎 中務大輔 |
高助男 | 1546-67 | 1594(71) | ↓ | ||||
簗田 政信 | 中務少輔 | 持助 | 晴助男 | 1567-87 | 1587(39) | 1574水海城(下総) | |||||
簗田 貞助 | 平七郎 | 熊千代丸 助利 |
政信男 | 1587-90 | 1615 | 1590失領 徳川家に仕官 |
外孫・助政が旗本 として100石を知行 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
武田 信長 | 右馬助 | 竜山道興 | 武田信満 (甲斐守護)の男 |
真里谷城・庁南城(下総) | |||||||
武田 信高 | 六郎 | 道喜宝山 | 信定 信友 |
信長二男 | ↓ | ||||||
【真里谷家】 |
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真里谷 信興 | 三河守 | 真如寺 照堂道鑑 |
清嗣 八郎五郎 三河守 |
信高二男 | 1511(79) | 真里谷城 | |||||
真里谷 信勝 | 和泉守 | 天叟全舜 | 信嗣? 八郎五郎 式部大夫 三河守 |
信興男 | ?-1523 | 1523 | ↓ | ||||
真里谷 信保 | 三河守 | 東長寺 円邦恕鑑 寿星庵 |
信清? 八郎五郎 式部大夫 三河守 |
信勝男 | 1523-34 | 1534 | ↓ | ||||
真里谷 信隆 | 八郎太郎 | 祥山全吉 | 信保男 | 1534-37 | 1551(56?) | ↓ | |||||
真里谷 信応 | 八郎五郎 | 深岳長源 | 信保男 | 1537-52 | 1552(38) | ↓ | |||||
真里谷 信高 | 上総介 | 清雲信胤 | 信応男 | 1552-90 | ? | ↓ 1590失領 |
|||||
【庁南家】 |
|||||||||||
庁南 道信 | 上総介 | 興竜院 乾山道卜 |
信高長男 | 1481(47) | 庁南城 | ||||||
庁南 宗信 | 従五位下 上総介 |
長谷院 音山道観 |
道信男 | 1551(93) | ↓ | ||||||
庁南 吉信 | 兵部大輔 | 瑞陽院 億年祖庭 |
上総介 | 宗信男 | 1568 | ↓ | |||||
庁南 清信 | 信濃守 | 慶雲院 道屋玄旨 |
信胤 信照 |
吉信男 | ?-1551 | 1551(32) | ↓ | ||||
庁南 豊信 | 兵部大輔 | 大林寺 祝峰全松 |
信栄 | 武田晴信男? | 1551-90 | 1590(47) | ↓ 1590滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
里見 義通 | 上総介 | 天笑院 高山正皓 |
里見成義男? | ?-1518? | 1518? | 稲村城(安房) | ||||||
里見 実堯 | 左衛門大夫 | 延命寺 一翁正源 |
義通弟 | 1518?-26? | 1533 | ↓ | ||||||
里見 義豊 | 太郎 | 高厳院 長義 |
竹若丸 | 義通長男 | 1526?-34 | 1534 | ↓ | |||||
里見 義堯 | 刑部少輔 | 東陽院 岱叟正五 |
権七郎 | 実堯長男 | 1534-62 | 1574(68) | ↓ 1538後 久留里城(上総) |
|||||
里見 義弘 | 左馬頭 | 瑞竜院 在天高存 |
太郎 上野介 陸奥守 |
義堯長男 | 1562-78 | 1578(54) | 足利義明女 足利晴氏女 |
↓ (安房・上総二国支配) |
||||
里見 義頼 | 左馬頭 | 大勢院 勝岩泰英 |
太郎 刑部大輔 安房守 |
義堯男 | 1578-87 | 1587(45) | 正木時茂女 | 1578岡本城(安房) | ||||
里見 義康 | 従四位下 侍従 安房守 |
竜潜院 傑山芳英 |
千寿丸 | 義頼長男 | 1587-1603 | 1603(31) | 織田信長姪? | ↓ 1590館山城(安房 一国のみ安堵) 92,000石 1600加増 123,000石 |
||||
里見 忠義 | 従四位下 侍従 安房守 |
梅鶴丸 | 義康長男 | 1603-14 | 1622(29) | 大久保忠常女 | ↓ 1614倉吉(伯耆)へ配流 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
正木 通綱 | 大膳大夫 | 古山正範 | 時綱 | ?-1533 | 1533 | 山之城(安房) | |||||
正木 時茂 | 大膳亮 | 長安寺 武山正文 |
弥九郎 | 通綱二男 | 1533-73 | 1573 | ↓ 1544大多喜城(上総) |
||||
正木 憲時 | 大膳亮 | 知叟道種 | 正木弘季 (通綱男)の男? |
1573-81 | 1581 | ↓ | |||||
正木 時茂 | 大膳 | 時堯 弥九郎 |
里見義頼二男 時茂外孫 |
1581-90 | 1632 | ↓ 1590失領 以後、里見家臣 |
|||||
【勝浦正木家】 |
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正木 時忠 | 左近大夫 | 威武殿 正文日出 |
通綱三男 | 1542-? | 1576 | 1542勝浦城(上総) | |||||
正木 時通 | 左近将監 | 日運 | 十郎 | 時忠長男 | ?-1575 | 1575 | ↓ | ||||
正木 頼忠 | 左近大夫 | 了法院 日正 環斎 |
時長 邦時 権五郎 |
時忠五男 | 1575-90 | 1622(72) | ↓ 1590失領 息子・為春は紀伊徳川家臣 となり、貴志(紀伊)を領知 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔本多家〕 |
||||||||||||
本多 忠勝 | 従五位下 中務大輔 |
西岸寺 長誉良信 |
鍋之助 平八郎 |
本多忠高長男 | 1590-1601 | 1610(63) | 阿知和右衛門女 | 1590大多喜城(上総) 100,000石 1601桑名城(伊勢)転封 |
||||
本多 忠朝 | 従五位下 出雲守 |
岸誉良玄 三光院 |
内記 | 忠勝二男 | 1601-15 | 1615(34) | 一柳直盛女 | 1601別家 大多喜城 50,000石 |
||||
本多 政朝 | 従五位下 甲斐守 |
忠氏 忠郷 鍋之助 |
本多忠政 (忠勝長男) 二男 |
1615-17 | 1638(39) | 千代(忠朝女) | ↓ 1617竜野城(播磨)転封 |
|||||
〔阿部家(前期)〕 |
||||||||||||
阿部 正次 | 従五位下 備中守 |
正成 徳千代 善九郎 |
阿部正勝長男 | 1617-19 | 1647(79) | 佐原義成女 | 1610鹿沼(下野) 1616加増 22,000石 1617大多喜城 30,000石 1619小田原城 (相模)転封 |
奏者番 | ||||
〔青山家〕 |
||||||||||||
青山 忠俊 | 従五位下 伯耆守 |
泰雲院 春室宗信 |
伊勢千代 藤蔵 藤五郎 |
青山忠成二男 | 1623 | 1643(66) | 大久保忠佐女 | 1620岩槻城(武蔵) 45,000石 1623減封 大多喜城 20,000石 同年勘気 改易 (長男・宗俊が 1648小諸藩主) |
老中 | |||
〔阿部家(後期)〕 |
||||||||||||
阿部 正令 | 市正 | 徳千代 | 阿部政澄 (正次長男) 長男 |
1638-52 | 1685(59) | 牧野信成女 | 1638岩槻(武蔵)藩主 阿部家から分家 大多喜領内 10,000石 1651従弟定高 より新田分与 計16,000石 1652忍藩主 阿部忠秋養子 正能 |
|||||
阿部 正春 | 従五位下 伊予守 |
利重 正長 長松 吉兵衛 因幡守 |
阿部重次二男 | 1651-59 1671-1709 |
1716(80) | 烏丸資吉女 | 1651岩槻藩主 阿部家から分家 大多喜領内 16,000石 1659兄・定高を 継ぎ岩槻城 115,000石 1671甥・正邦に譲る 大多喜城 16,000石 1702刈谷城(三河)転封 |
|||||
〔稲垣家〕 |
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稲垣 重富 | 従五位下 対馬守 |
大蔵 和泉守 |
稲垣重昭長男 | 1709 | 1710(38) | 木下俊長女 | 1688刈谷城(三河)襲封 20,000石 1709大多喜城 25,000石 1709烏山城(下野)転封 |
若年寄 | ||||
〔松平(大河内)家〕 |
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松平 正久 | 従五位下 備前守 |
円光院 通玄道機 |
則綱 一学 弾正忠 |
松平正信二男 | 1703-20 | 1720(62) | 織田長頼女 | 1690玉縄(相模)襲封 20,000石 1703大多喜城 |
奏者番 | |||
松平 正貞 | 従五位下 備前守 |
雲興院 竜峯玄門 |
主膳 織部正 河内守 備中守 |
正久長男 | 1720-49 | 1749(68) | 戸田忠真女 | ↓ | 奏者番 | |||
松平 正温 | 従五位下 備前守 |
円理院 頓誉寿齢 |
祝盈 巳之助 金弥 信濃守 (致仕後) 弾正忠 |
松平信祝三男 | 1749-67 | 1782(58) | 正貞養女 (松平久端女) |
↓ | ||||
松平 正升 | 従五位下 備前守 |
潤徳院 一機宗伝 |
元吉 織部正 |
正温長男 | 1767-1803 | 1803(62) | 恭 (松平資訓養女) |
↓ | ||||
松平 正路 | 従五位下 弾正忠 |
全性院 賦゙宗濬 |
岩次郎 正道 備中守 兵部少輔 |
正升長男 | 1803-08 | 1808(44) | 宣 (中川久徳女) |
↓ | ||||
松平 正敬 | 従五位下 織部正 |
竜雲院 天路心斎 |
元吉 | 正路長男 | 1808-26 | 1832(39) | 厚 (松平信明女) |
↓ | ||||
松平 正義 | 従五位下 備中守 |
与之助 備前守 |
正路四男 | 1826-37 | 1837(32) | 英 (松平頼慎女) 尚 (本多忠升女) |
↓ | |||||
松平 正和 | 従五位下 織部正 |
亀次郎 主膳 備前守 備中守 |
正敬二男 | 1837-62 | 1862(40) | 加納久儔女 | ↓ | |||||
大河内 正質 | 大多喜藩知事 (廃藩後) 陸軍歩兵少佐 麹町区長 |
飽徳 備前守 弾正忠 豊前守 |
間部詮勝五男 | 1862-71 | 1901(58) | ミネ〔金+丘〕子 (正和女) |
↓ 1868高直し 27,294石 1871廃藩置県 |
老中格 1868大河内 姓に復す 子爵 貴族院議員 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
鳥居 元忠 | 彦右衛門 | 長源院 淵室 |
鳥居忠吉三男 | 1590-1600 | 1600(62) | 1590矢作城(下総) 40,000石 |
|||||
鳥居 忠政 | 従五位下 左京亮 |
新太郎 | 元忠二男 | 1600-02 | 1628(63) | ↓ 1602磐城平城(陸奥)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
酒井 家次 | 従五位下 宮内大輔 |
小五郎 | 酒井忠次長男 | 1590-1604 | 1618(55) | 1590臼井城(下総) 30,000石 1604高崎城(上野)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔松平(大須賀)家〕 |
||||||||||||
松平 忠政 | 従五位下 出羽守 |
国千代 五郎左衛門 |
榊原康政長男 大須賀康高養子 |
1590-1601 | 1607(27) | 松平康元女 =徳川家康養女 |
1589横須賀城 (遠江)襲封 1590久留里城(上総) 30,000石 1601横須賀城 |
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〔土屋家〕 |
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土屋 忠直 | 従五位下 民部少輔 |
円覚寺 琴窓静閑 |
惣蔵 平三郎 |
土屋昌恒長男 飯田須知= 阿茶局(徳川 家康妾)養子 |
1602-12 | 1612(35) | 森川氏俊女 | 1591新封 禰宜打(相模) 後、相馬郡内(下総) 1,000石 1602久留里城 20,000石 |
||||
土屋 利直 | 従五位下 民部少輔 |
普乾院 俊林道英 |
平八郎 | 忠直長男 | 1612-75 | 1675(69) | 永井直勝女 松平正綱養女 |
↓ 1625高直し 21,000石 |
||||
土屋 直樹 | 従五位下 伊予守 |
定林院 本岩宗哲 |
平八郎 | 利直長男 | 1675-79 | 1681(48) | 松平正信女 | ↓ 1675分知 20,000石 1679精神疾患を 理由に改易 |
||||
〔黒田家〕 |
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黒田 直純 | 従四位下 大和守 |
春晃院 勝融直純 |
三五郎 | 本多正矩四男 黒田直邦養子 |
1742-75 | 1775(71) | 三千子 (黒田直邦女) |
1735沼田城(上野)襲封 30,000石 1742久留里城 |
奏者番 | |||
黒田 直亨 | 従五位下 豊前守 |
松樹院 元栄直亨 |
十五郎 | 直純四男 | 1776-84 | 1784(56) | 為子 (有馬氏久女) |
↓ | ||||
黒田 直英 | 従五位下 和泉守 |
泰崇院 雄山直英 |
三五郎 大和守 |
直亨二男 | 1784-86 | 1786(29) | 品子 (松平信礼女) |
↓ | ||||
黒田 直温 | 従五位下 大和守 |
賢良院 潤徳 |
直義 鶴松 |
直英二男 | 1786-1801 | 1801(18) | − | ↓ | ||||
黒田 直方 | 従五位下 豊前守 |
観樹院 正眼 |
直服 十五郎 (致仕後) 左兵衛佐 |
直亨三男 | 1801-12 | 1832(55) | 久子 (牧野宣成女) 悦子 (京極高備女) |
↓ | ||||
黒田 直侯 | 従五位下 対馬守 |
喬松院 道濡 |
力之助 豊前守 (致仕後) 伊勢守 |
酒井忠徳四男 | 1812-23 | 1850(58) | 参子 (松浦清女) |
↓ | 奏者番 | |||
黒田 直静 | 従五位下 豊前守 |
天倫院 専徳 |
鏻也 三五郎 |
直方二男 | 1823-54 | 1854(45) | 鎮子 (秋田孝季女) |
↓ | ||||
黒田 直和 | 伊勢守 | 直質 森之丞 大和守 淡路守 豊前守 和泉守 (致仕後) 松閣 |
直侯二男 | 1854-66 | 1876(58) | 矩子 (太田資始女) 楽子 (板倉勝明女) |
↓ | |||||
黒田 直養 | 久留里藩知事 | 鋥之助 | 黒田直古 (直方七男) 長男 |
1866-71 | 1919(71) | 清子 (堀直央女) |
↓ 1871廃藩置県 |
義妹の夫・ 和志のとき 子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔内藤家〕 |
||||||||||||
内藤 家長 | 弥次右衛門 | 義松院 善昌 |
金一郎 | 内藤清長長男 | 1590-1600 | 1600(55) | 松平忠長女 | 1590佐貫城(上総) 20,000石 |
||||
内藤 政長 | 従五位下 左馬助 |
金一郎 | 家長長男 | 1600-22 | 1634(67) | 三宅康貞女 | ↓ 1602-19累増 45,000石 1622磐城平城(陸奥)転封 |
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〔松平(桜井)家〕 |
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松平 忠重 | 従五位下 大膳亮 |
松平忠頼長男 | 1622-33 | 1639(39) | 木下延俊女 | 1609父・浜松城(遠江)主 忠頼の横死後、 深谷(武蔵)領内 8,000石にて復家 1622佐貫城 15,000石 1633田中城(駿河)転封 |
||||||
〔松平(能見)家〕 |
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松平 勝隆 | 従五位下 出雲守 |
本誓院 然誉覚雲 |
忠左衛門 市正 |
松平重勝五男 | 1639-62 | 1666(78) | 九鬼守隆女 | 1633新封 10,500石(所領未詳) 1639佐貫城 15,000石 |
奏者番・ 寺社奉行 |
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松平 重治 | 従五位下 修理亮 |
忠勝 宮内 伝三郎 宮内大輔 出雲守 山城守 |
品川高如長男 (重勝外曽孫) |
1662-84 | 1685(44) | 久世広之女 | ↓ 1684不行跡により改易 |
奏者番・ 寺社奉行 |
||||
〔阿部家〕 |
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阿部 正鎮 | 従五位下 因幡守 |
了義院 即峯玄性 |
正良 清八郎 民部 民部少輔 |
阿部正春六男 | 1710-51 | 1751(53) | 造酒 (松平乗紀女) |
1709刈谷城(三河)襲封 16,000石 1710佐貫城 |
||||
阿部 正興 | 従五位下 因幡守 |
浄恵院 覚峯理玄 |
正之 増五郎 山城守 |
阿部正福四男 | 1751-64 | 1764(32) | 雄(正鎮女) 状 (大久保忠胤女) |
↓ | ||||
阿部 正賀 | 従五位下 駿河守 |
大空院 円岸自性 |
惣太郎 | 正鎮四男 | 1764-80 | 1780(35) | 只 (松平近貞女) 貞 (内藤信興女) |
↓ | ||||
阿部 正実 | 従五位下 兵部少輔 |
義徳院 覚心道性 |
正脩 房五郎 因幡守 |
阿部正允五男 | 1780-92 | 1831(68) | − | ↓ | ||||
阿部 正簡 | 従五位下 駿河守 |
盛徳允 治容中正 |
正常 予三郎 継太郎 |
阿部正保 (正春孫)長男 |
1792-1825 | 1825(54) | 石谷清定女 安屋 (松平光悌女) |
↓ | ||||
阿部 正ロ | 従五位下 山城守 |
明徳院 厭離真実 |
鋼五郎 | 正簡長男 | 1825-36 | 1853(48) | − | ↓ | ||||
阿部 正身 | 従五位下 駿河守 |
大成院 光誉菊山 |
正守 采女助 |
亀井茲尚二男 | 1836-54 | 1868(51) | − | ↓ | ||||
阿部 正恒 | 佐貫藩知事 | 倫三郎 | 正身長男 | 1854-71 | 1899(61) | 朝子 (五島盛成女) |
↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔松平(久松)家〕 |
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松平 康元 | 従五位下 因幡守 |
大興院 傑伝宗英 |
勝元 三郎太郎 |
久松俊勝二男 徳川家康の 異父同母弟 |
1590-1603 | 1603(52) | − | 1590関宿城(下総) 20,000石 1591加増 40,000石 |
||||
松平 忠良 | 従五位下 甲斐守 |
五郎 三郎太郎 |
康元長男 | 1603-16 | 1624(43) | 酒井家次女 | ↓ 1616大垣城(美濃)転封 |
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〔松平(能見)家〕 |
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松平 重勝 | 従五位下 大隅守 |
伝三郎 次郎右衛門 越前守 |
松平重吉四男 | 1617-19 | 1620(72) | 鳥居忠吉女 | 1612高田(越後)藩主・ 松平忠輝に付属 三条城(越後) 20,000石 1616連座改易 1617関宿城 26,000石 1619横須賀城(遠江)転封 |
|||||
〔小笠原家〕 |
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小笠原 政信 | 従五位下 左衛門佐 |
圭山瑞雲 | 忠貴 伊勢次郎 若狭 |
小笠原信之長男 | 1619-40 | 1640((34) | 板倉重昌女 | 1614古河城(下総)襲封 20,000石 1619関宿城 22,777石 |
||||
小笠原 貞信 | 主膳 | 伊勢松 新五郎 |
高木貞勝長男 (政信姉の男) |
1640 | 1714(84) | ↓ 1640高須(美濃)転封 |
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〔北条家〕 |
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北条 氏重 | 従五位下 出羽守 |
久太郎 | 保科正直四男 北条氏勝養子 |
1640-44 | 1658(64) | 杉原長房女 | 1619久野城(遠江) 10,000石 1640関宿城 20,000石 1644田中城(駿河)転封 |
|||||
〔牧野(内匠頭)家〕 |
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牧野 信成 | 従四位下 内匠頭 |
知見院 性誉哲心 |
千鍋 九右衛門 豊前守 |
牧野康成 (讃岐守)三男 |
1644-47 | 1650(73) | 土岐定政女 生駒親正女 |
1599石戸(武蔵)襲封 5,000石 1633加増 11,000石 1644関宿城 17,000石 |
||||
牧野 親成 | 従四位下 侍従 佐渡守 |
半右衛門 | 信成二男 | 1647-56 | 1677(71) | 酒井忠勝養女 | ↓ 1654加増 27,000石 1656摂津・河内二国内転封 |
京都所司代 | ||||
〔板倉家〕 |
||||||||||||
板倉 重宗 | 従四位上 右少将 周防守 |
松雲院 秀峯源俊 |
重統 十三郎 五郎八 又右衛門 |
板倉勝重二男 | 1656 | 1656(71) | 成瀬正成女 戸田氏鉄女 |
1633山城等五国内 50,000石 1656関宿城 |
京都所司代 | |||
板倉 重郷 | 従五位下 阿波守 |
恵日院 徳峯源清 |
新十郎 長門守 |
重宗長男 | 1657-61 | 1661(43) | 酒井忠吉女 | ↓ | 奏者番・ 寺社奉行 |
|||
板倉 重常 | 従五位下 隠岐守 |
新十郎 | 重郷長男 | 1662-69 | 1688(46) | 戸田氏信女 | ↓ 1669亀山城(伊勢)転封 |
|||||
〔久世家(第一期)〕 |
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久世 広之 | 従四位下 侍従 大和守 |
自証院 心光日悟 |
三之丞 | 久世広宣三男 | 1669-79 | 1679(71) | 戸田忠能養女 | 1648新封 下総等四国内 10,000石 1659-64累増 40,000石 1669関宿城 50,000石 |
老中 | |||
久世 重之 | 1679-83 | (下段参照) | ||||||||||
〔牧野(備後守)家〕 |
||||||||||||
牧野 成貞 | 従四位下 侍従 備後守 |
東光院 長威虎雪 |
成恒 蔵人 兵部 (致仕後) 大夢 |
牧野儀成四男 | 1683-95 | 1712(79) | 大戸吉勝女 | 1680新封 常陸国内 13,000石 1682加増 33,000石 1683関宿城 53,000石 1688加増 73,000石 |
側用人 | |||
牧野 成春 | 従四位下 備前守 |
秀寿丸 式部 |
大戸吉房男 | 1695-1705 | 1707(26) | 松平清照女 | ↓ 1705吉田城(三河)転封 |
|||||
〔久世家(第二・第三期)〕 |
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久世 重之 | 従四位下 侍従 大和守 |
真如院 消残露月 日成 |
勝之助 出雲守 讃岐守 |
久世広之三男 | 1705-20 | 1720(61) | 土井利房女 | 1679関宿城襲封 50,000石 1683庭瀬(備中) 1686亀山城(丹波) 1697吉田城(三河) 1705関宿城復封 1718加増 60,000石 |
老中 | |||
久世 暉之 | 従五位下 讃岐守 |
実相院 教海常照 日住 |
源五郎 隠岐守 |
重之四男 | 1720-48 | 1749(51) | 於染 (津軽信寿女) |
↓ 1720分知 58,000石 |
||||
久世 広明 | 従四位下 侍従 大和守 |
常霊院 照門日明 |
熊太郎 出雲守 |
久世広武長男 | 1748-69 1774-85 |
1785(55) | 岡部長著女 | ↓ 1769河内・美作二国内 (大坂城代) 1774関宿城復封 |
老中 | |||
久世 広誉 | 従五位下 大和守 |
隆光院 昌徳日統 |
広敦 勝之助 隠岐守 |
広明長男 | 1785-1817 | 1821(71) | 泰 (松平武元女) |
↓ | ||||
久世 綏之 | 従五位下 出雲守 |
観理院 恵光照岳 日囲 |
広ト 雄之助 |
広誉長男 | (廃嫡) | 1839(69) | 孝 (西尾忠移女) |
|||||
久世 広運 | 従五位下 長門守 |
泰領院 海山英意 日照 |
吉九郎 | 綏之長男 | 1817-30 | 1830(32) | 八智 (伊達村芳女) |
↓ | ||||
久世 広周 | 従四位下 侍従 大和守 |
自護院 倹徳忠山 日秀 |
謙吉 隠岐守 出雲守 |
大草高好二男 | 1830-62 | 1864(46) | テ (阿部正精女) |
↓ 1860加増 68,000石 1862不正、減封 58,000石 |
老中 | |||
久世 広文 | 隠岐守 | 謙吉 出雲守 |
広周長男 | 1862-68 | 1899(47) | − | ↓ 1862減封 48,000石 |
|||||
久世 広業 | 関宿藩知事 | 順吉 | 広周二男 | 1868-71 | 1911(54) | 由 (松平信宝女) 直子 (有馬道純女) |
↓ 1868減封 43,000石 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔武田家〕 |
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武田 信吉 | 七郎 | 万千代 | 徳川家康五男 | 1592-1602 | 1603(21) | 1587穴山家の 名跡を継ぐ 1590新封 小金(下総) 30,000石 1592佐倉城(下総) 30,000石 1602水戸城(常陸)転封 |
||||||
〔松平(長沢)家〕 |
||||||||||||
松平 忠輝 | 従五位下 上総介 |
辰千代 | 徳川家康六男 | 1602-03 | 1683(92) | 1599深谷(武蔵)襲封 10,000石 1602佐倉城 50,000石 1603川中島城 (信濃)転封 |
||||||
〔小笠原家〕 |
||||||||||||
小笠原 吉次 | 従五位下 和泉守 |
小笠原長隆長男 | 1607-08 | 1616(69) | 1600犬山城(尾張) 30,000石 松平忠吉附属 忠吉没後に解職 1607佐倉城 28,000石 1608笠間城(常陸)転封 |
|||||||
〔土井家〕 |
||||||||||||
土井 利勝 | 従四位下 侍従 大炊頭 |
松千代 甚三郎 大炊助 |
土井利昌長男 | 1610-33 | 1644(72) | 松平近清女 | 1602新封 小見川(下総) 10,000石 1610佐倉城 32,400石 1612-25累増 142,000石 1633古河城(下総)転封 |
|||||
〔石川家〕 |
||||||||||||
石川 忠総 | 従五位下 主殿頭 |
宗十郎 | 大久保忠隣二男 石川家成養子 (家成外孫) |
1633-34 | 1650(69) | 堀尾可晴女 | 1609大垣城(美濃)襲封 50,000石 1616日田(豊後) 60,000石 1633佐倉城 70,000石 1634膳所城(近江)転封 |
|||||
〔松平(形原)家〕 |
||||||||||||
松平 家信 | 従四位下 紀伊守 |
常立院 上誉露雪 |
家副 紀太郎 又七 |
松平家忠長男 | 1635-38 | 1638(74) | 太田輝資女 | 1619高槻城(摂津) 20,000石 1635佐倉城 40,000石 |
||||
松平 康信 | 従五位下 若狭守 |
又七郎 | 家信二男 | 1638-40 | 1682(83) | 水野重仲女 | ↓ 1638分知 36,000石 1640高槻城転封 |
|||||
〔堀田(嫡系)家〕 |
||||||||||||
堀田 正盛 | 従四位下 侍従 加賀守 |
玄性院 心隠宗卜 |
三四郎 出羽守 |
堀田正吉長男 | 1642-51 | 1651(44) | 栗 (酒井忠勝女) |
1638松本城(信濃) 100,000石 1642佐倉城 110,000石 |
老中 | |||
堀田 正信 | 従五位下 上野介 |
正信院 直心忠三 |
与一郎 | 正盛長男 | 1651-60 | 1680(50) | 松平定行女 | ↓ 1660違令 改易 (子・正休が 蔵米にて復家) |
||||
〔松平(大給)家(前期)〕 |
||||||||||||
松平 乗久 | 従五位下 和泉守 |
源次郎 宮内少輔 |
松平乗寿長男 | 1661-78 | 1686(54) | 水野忠善女 | 1654館林城(上野)襲封 55,000石 1661佐倉城 60,000石 1678唐津城(肥前)転封 |
|||||
〔大久保家〕 |
||||||||||||
大久保 忠朝 | 従四位下 侍従 加賀守 |
教広 木工 杢之助 出羽守 |
大久保教隆二男 大久保忠職養子 |
1678-86 | 1712(81) | − | 1670唐津城(肥前)襲封 83,000石 1678佐倉城 1680加増 93,000石 1686小田原城 (相模)転封 |
老中 | ||||
〔戸田家〕 |
||||||||||||
戸田 忠昌 | 従四位下 侍従 山城守 |
松源寺 法雲竜沢 |
忠治 主膳 伊賀守 越前守 |
戸田忠次長男 戸田忠能養子 |
1686-99 | 1699(68) | 秋元富朝女 | 1682岩槻城(武蔵) 51,000石 1686佐倉城 61,000石 1694加増 71,000石 |
老中 | |||
戸田 忠真 | 従五位下 能登守 |
甚十郎 主膳 日向守 |
忠昌二男 | 1699-1701 | 1729(79) | 毛利高直女 | ↓ 1699分知 67,850石 1701高田城(越後)転封 |
奏者番・ 寺社奉行 |
||||
〔稲葉家〕 |
||||||||||||
稲葉 正往 | 従四位下 侍従 丹後守 |
高徳院 仁裕竜沢 |
義雅 正通 宇右衛門 (致仕後) 内匠頭 |
稲葉正則長男 | 1701-07 | 1716(77) | 石 (保科正之女) 持明院基定女 田辺某女 |
1685高田城(越後) 102,000石 1701佐倉城 |
老中 | |||
稲葉 正知 | 従四位下 丹後守 |
宇右衛門 長門守 美濃守 |
正往二男 | 1707-23 | 1729(45) | 小笠原忠雄女 今村某女 |
↓ 1723淀城(山城)転封 |
|||||
〔松平(大給)家(後期)〕 |
||||||||||||
松平 乗邑 | 従四位下 侍従 左近将監 |
源寿院 月心英忠 |
乗益 源次郎 和泉守 |
松平乗春長男 | 1723-45 | 1746(61) | 土屋政直女 | 1717淀城(山城) 60,000石 1723佐倉城 1745加増 70,000石 同年有罪 蟄居 |
老中 | |||
松平 乗佑 | 従五位下 和泉守 |
源次郎 主水正 |
乗邑二男 | 1745-46 | 1769(55) | ミヨ (土屋陳直女) |
↓ 1745減封 60,000石 1746山形城(出羽)転封 |
|||||
〔堀田(正俊系)家〕 |
||||||||||||
堀田 正亮 | 従四位下 侍従 相模守 |
青雲院 陵阿松山 月渓惟心 |
左源治 | 堀田正武二男 堀田正春養子 |
1746-61 | 1761(50) | 千賀 (松平定儀女) |
1731山形城(出羽)襲封 100,000石 1746佐倉城 1760加増 110,000石 |
老中 | |||
堀田 正順 | 従四位下 侍従 大蔵大輔 |
唯心院 定阿観月 義稔 |
銕蔵 相模守 |
正亮六男 | 1761-1805 | 1805(57) | 能 (松平頼恭女) |
↓ | 京都所司代 | |||
堀田 正時 | 従五位下 相模守 |
自性院 恭阿法山 謙良 |
徳次郎 大膳 梅湖 |
正亮十男 | 1805-11 | 1811(51) | − | ↓ | ||||
堀田 正愛 | 従五位下 相模守 |
謙良院 信阿伯行 蓬丘 |
鍋太郎 雄之丞 |
堀田正功 (正順長男) 長男 |
1811-24 | 1824(26) | 鈴 (小笠原忠固女) 幾千 (松平治郷女) |
↓ | ||||
堀田 正睦 | 従四位下 侍従 備中守 |
文明院 見山静心 哲恵 |
正篤 左源治 相模守 |
正時二男 | 1825-59 | 1864(55) | 節子 (榊原政令四女) |
↓ | 老中 | |||
堀田 正倫 | 佐倉藩知事 | 鴻之丞 相模守 |
正睦四男 | 1859-71 | 1911(61) | 幾知子 (松平斉斎女) 伴子 (万里小路通房女) |
↓ 1871廃藩置県 |
伯爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔保科家〕 |
|||||||||||
保科 正光 | 従五位下 肥後守 |
甚四郎 | 保科正直長男 | 1590-1600 | 1631(71) | 1590高遠城(信濃)襲封 同年 多古(下総) 10,000石 1600高遠城転封 |
|||||
〔松平(久松)家〕 |
|||||||||||
松平 勝義 | 従五位下 豊前守 |
英雄院 節山道雄 |
源三郎 因幡守 |
松平勝政長男 | 1635-70 | 1670(69) | 1635有渡・安倍二郡内 (駿河)襲封 8,000石 同年、多古 |
||||
松平 勝忠 | 従五位下 豊前守 |
持明院 梅室道爾 |
勝易 兵部 半左衛門 |
勝義二男 | 1670-80 | 1680(58) | ↓ 1670分知 7,000石 1676加増 9,000石 |
駿府城代 | |||
松平 勝以 | 従五位下 大蔵少輔 |
徳芳院 興岩道盛 |
権之助 半左衛門 甲斐守 豊前守 |
勝義九男 | 1680-28 | 1728(68) | ↓ 1713加増 12,000石 |
大坂定番 | |||
松平 勝房 | 従五位下 美濃守 |
徳光院 随巌道喜 |
源三郎 | 勝以二男 | 1728-36 | 1746(45) | ↓ | ||||
松平 勝尹 | 従五位下 豊前守 |
徳現院 禅巌道悦 |
勝延 権七郎 源三郎 玄蕃頭 大蔵少輔 |
松平勝久 (勝義孫)長男 |
1736-68 | 1768(56) | ↓ | 大番頭 | |||
松平 勝全 | 従五位下 豊前守 |
徳彰院 維隣道栄 |
源三郎 | 勝尹長男 | 1768-94 | 1796(47) | ↓ | ||||
松平 勝升 | 従五位下 中務少輔 |
徳誠院 泰山道光 |
辰次郎 源三郎 |
勝全二男 | 1794-1818 | 1818(41) | ↓ | ||||
松平 勝権 | 従五位下 相模守 |
至徳院 厚仁恵相 心清 |
源三郎 | 井伊直中九男 | 1818-48 | 1868(62) | ↓ | ||||
久松 勝行 | 従五位下 多古藩知事 |
徳善院 慈隣城山 |
源三郎 豊後守 大蔵少輔 |
勝権長男 | 1848-69 | 1869(38) | ↓ | 1868復称 久松姓 |
|||
久松 勝慈 | 多古藩知事 | 源三郎 豊前守 |
勝行長男 | 1869-71 | 1904(50) | ↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
北条 氏勝 | 従五位下 左衛門大夫 |
上岳寺 角翁良牛 |
北条氏繁二男 | 1590-1611 | 1611(53) | 1582?玉縄城(相模)襲封 1590北条宗家とともに改易 同年、新封 岩富(下総) 10,000石 |
|||||
北条 氏重 | 従五位下 出羽守 |
久太郎 | 保科正直四男 | 1611-13 | 1658(64) | ↓ 1613富田(下野)転封 1619久野城(遠江)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔松平(深溝)家〕 |
|||||||||||
松平 家忠 | 主殿助 | 慈雲院 賀屋源慶 |
又八郎 | 松平伊忠長男 | 1594-1600 | 1600(46) | 1590忍城代(武蔵) 10,000石 1592上代(下総) 1594小見川城(下総) |
||||
松平 忠利 | 又八郎 | 忠俊 猿(幼名) |
家忠長男 | 1600-01 | 1632(51) | ↓ 1601深溝(三河)転封 |
|||||
〔土井家〕 |
|||||||||||
土井 利勝 | 従五位下 大炊助 |
松千代 甚三郎 |
土井利昌長男 | 1602-10 | 1644(72) | 1602新封 小見川 10,000石 1610佐倉城(下総)転封 |
|||||
〔安藤家〕 |
|||||||||||
安藤 重信 | 従五位下 対馬守 |
彦十郎 五左衛門 |
安藤基能二男 | 1612-19 | 1621(65) | 1612新封 小見川 16,600石 1615加増 36,600石 1619高崎城(上野)転封 |
加判 | ||||
〔内田家〕 |
|||||||||||
内田 正親 | 従五位下 出羽守 |
法聚院 義俊篤崇 |
千松 靱負 |
内田正偏長男 | 1724-46 | 1746(37) | 1724父の精神疾患に より、鹿沼(下野)より減封 小見川 10,000石 |
||||
内田 正美 | 従五位下 出羽守 |
純徳院 清白節貞 |
卯之助 | 正親長男 | 1746-53 | 1753(19) | ↓ | ||||
内田 正良 | 従五位下 近江守 |
竜光院 徳誉泰山 止水 |
主殿 主殿頭 |
内田正記二男 | 1753-82 | 1807(78) | ↓ | ||||
内田 正純 | 従五位下 伊勢守 |
峻光院 明誉徳山 長雲 |
長十郎 和泉守 |
正良長男 | 1782-1806 | 1825(70) | ↓ | ||||
内田 正肥 | 従五位下 近江守 |
猷光院 玄誉聖雲 徹道 |
長十郎 | 正純長男 | 1806-16 | 1816(27) | ↓ | 大番頭 | |||
内田 正容 | 従五位下 伊勢守 |
貞吉 豊録 |
石河貞通三男 | 1816-37 | 1870(71) | ↓ | |||||
内田 正道 | 従五位下 豊後守 |
豊録 | 正容長男 | 1837-51 | 1851(24) | ↓ | |||||
内田 正徳 | 従五位下 主殿頭 |
求馬 喜内 |
正容二男 | 1851-63 | 1863(34) | ↓ | 軍艦奉行 | ||||
内田 正縄 | 従五位下 加賀守 |
峻次郎 | 正容三男 | 1863-64 | 1864(31) | ↓ | |||||
内田 正学 | 小見川藩知事 (廃藩後) 陸軍大尉 |
騎一郎 主殿頭 |
内田正路二男 | 1864-71 | 1910(64) | ↓ 1871廃藩置県 |
子爵 貴族院議員 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔内藤家(※勝山入封以前も含む)〕 |
|||||||||||
内藤 清成 | 従五位下 修理亮 |
孤光院 照誉峯月 |
弥三郎 | 竹田宗仲男 内藤忠政養子 |
1601-08 | 1608(54) | 1590新封 相模国内 5,000石 1601上総等四国内加増 21,000石 |
加判 | |||
内藤 清次 | 従五位下 若狭守 |
宝林院 天暁覚清 |
宗太郎 | 清成長男 | 1606-17 | 1617(41) | ↓ 1606自らの前封を併せ 26,000石 |
加判 | |||
内藤 清政 | 従五位下 修理亮 |
岑巌院 泰雄休安 |
万千代 万二郎 |
清成二男 | 1617-23 | 1623(21) | ↓ 1622勝山(安房) 30,000石 1623無嗣 |
||||
内藤 正勝 | 百介 | 本覚院 聴屋源秋 |
清成三男 | 1626-29 | 1629(22) | 1626再興 勝山 20,000石 |
|||||
内藤 重頼 | 従五位下 若狭守 |
弥三郎 | 正勝長男 | − | 1690(63) | 1630幼少減封 長狭郡内(安房) 5,000石 1677下野・常陸二国内 1685摂津等五国内転封 |
大番頭 | ||||
〔酒井家(若狭小浜支藩)〕 |
|||||||||||
酒井 忠国 | 従五位下 大和守 |
静修院 厚安忠国 |
忠栄 勝之助 越前守 |
酒井忠朝四男 | 1668-83 | 1683(33) | 1668若狭小浜藩 酒井家より分家 勝山 10,000石 1682加増 15,000石 |
奏者番・ 寺社奉行 |
|||
酒井 忠胤 | 従五位下 備後守 |
耀巌院 巨山浄琳 |
忠純 勝之助 隼人 |
忠国長男 | 1683-1712 | 1712(34) | ↓ 1683分知 12,000石 |
||||
酒井 忠篤 | 従五位下 越前守 |
潜竜院 洞雲覚睡 |
右近 | 忠胤長男 | 1712-37 | 1737(35) | ↓ | ||||
酒井 忠大 | 従五位下 大和守 |
紹隆院 雄山興英 |
忠昭 大助 |
忠篤長男 | 1737-56 | 1756(31) | ↓ | 大番頭 | |||
酒井 忠鄰 | 従五位下 越前守 |
柏樹院 勝山元景 |
勝次郎 大和守 |
忠大二男 | 1756-93 | 1809(63) | ↓ | ||||
酒井 忠和 | 従五位下 大和守 |
寂光院 浄運元性 |
熊次郎 隼人 |
忠鄰長男 | 1793-1810 | 1810(36) | ↓ | ||||
酒井 忠嗣 | 従五位下 越前守 |
安之助 与十郎 大和守 安芸守 |
忠和二男 | 1810-51 | 1851(57) | ↓ | 奏者番 | ||||
酒井 忠一 | 従五位下 安芸守 |
忠嗣二男 | 1851-60 | 1860(38) | ↓ | ||||||
酒井 忠美 | 加知山藩知事 | ヌ次郎 大和守 |
忠一長男 | 1860-71 | 1923(66) | ↓ 1869加知山藩と改称 1871廃藩置県 |
息子・忠勇 のとき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
成瀬 正成 | 従五位下 隼人正 |
小吉 | 成瀬正一長男 | ?-1616 | 1625(59) | 1590新封 栗原(下総) 4,000石 後、累増 34,000石 1616犬山城(尾張)転封 |
加判 | ||||
成瀬 之成 | 従五位下 伊豆守 |
見性院 伝翁直心 |
於竹 藤蔵 |
正成二男 | 1616-34 | 1634(39) | 1616父の旧封にて分家 栗原 15,000石 1623加増 16,000石 |
||||
成瀬 之虎 | 藤蔵 | 松露院 幻滴 |
之成二男 | 1634-38 | 1638(5) | ↓ 1638無嗣絶家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
本多 正重 | 三弥左衛門 | 正重院 道喜 |
本多俊正四男 | 1616 | 1617(73) | 1602新封 坂田郡内(近江) 1,000石 1616相馬郡内(下総) 10,000石 |
|||||
本多 正貫 | 従五位下 豊前守 |
樹心院 休山 |
源十郎 三弥 |
長坂重吉長男 (正重外孫) |
1616-64 | 1672(80) | ↓ 1616減封 8,000石 |
大番頭 | |||
本多 正直 | 従五位下 伯耆守 |
慈行院 浄閑 |
三弥 | 正貫長男 | 1664-77 | 1677(60) | ↓ | 大番頭 | |||
本多 正永 | 従五位下 伯耆守 |
武兵衛 三弥 豊前守 紀伊守 |
正直長男 | 1677-1703 | 1711(67) | ↓ 1677分知 7,000石 1688までに累増 10,000石 舟戸(下総)に陣屋設置 1701加増 15,000石 1703沼田城(上野)転封 |
若年寄 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
西郷 正員 | 従五位下 若狭守 |
円通院 恵明宗達 |
孫六郎 | 西郷家員四男 西郷康員養子 |
1620-38 | 1638(46) | 1613生実(下総)襲封 5,000石 1620東条(安房) 10,000石 |
||||
西郷 延員 | 従五位下 若狭守 |
通明院 日実退休 |
孫六郎 | 正員長男 | 1638-90 | 1697(84) | ↓ | ||||
西郷 寿員 | 従五位下 越中守 |
重員 治員 万之丞 靱負 |
大村純長五男 | 1690-92 | 1741(69) | ↓ 1694上田(下野)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
森川 重俊 | 従五位下 出羽守 |
重俊院 活国正英 |
長十郎 内膳正 |
森川氏俊三男 | 1627/8-32 | 1632(49) | 1609新封 下野国内 3,000石 1614落度 改易 1627/8再封 生実(下総) 10,000石 |
加判 | |||
森川 重政 | 従五位下 伊賀守 |
一鑑院 円徹全照 |
半弥 | 重俊長男 | 1632-63 | 1663(56) | ↓ | ||||
森川 重信 | 従五位下 出羽守 |
覚林院 月窓知閑 |
次郎八 | 重政二男 | 1663-92 | 1706(62) | ↓ | ||||
森川 俊胤 | 従五位下 出羽守 |
英雄院 一之顕光 |
重範 重興 重令 半弥 内膳 紀伊守 |
重信長男 | 1692-32 | 1746(77) | ↓ | 若年寄 | |||
森川 俊常 | 従五位下 内膳正 |
功全院 忠林玄心 |
重紹 重基 又三郎 右衛門 |
俊胤二男 | 1732-34 | 1734(38) | ↓ | 大番頭 | |||
森川 俊令 | 従五位下 内膳正 |
不二院 無関善応 |
俊方 源之丞 兵部少輔 |
森川重良二男 | 1734-64 | 1787(70) | ↓ | 奏者番 | |||
森川 俊孝 | 従五位下 紀伊守 |
泰崇院 貫元隆道 |
大之丞 半弥 |
俊令長男 (俊常孫) |
1764-88 | 1788(45) | ↓ | 奏者番 | |||
森川 俊知 | 従五位下 内膳正 |
徳隣院 謙忠宗恭 |
俊敏 源之丞 兵部少輔 |
森川俊輝 (俊令二男)長男 (俊常曽孫) |
1788-1838 | 1838(60) | ↓ | 若年寄 | |||
森川 俊民 | 従五位下 出羽守 |
雄月院 徳山含章 |
万亀之助 弾正忠 紀伊守 |
松平忠馮七男 (氏俊八世孫) |
1838-56 | 1856(52) | ↓ | 若年寄 | |||
森川 俊位 | 従五位下 出羽守 |
謙恭院 儀山公賢 |
万亀之助 | 俊民三男 | 1856-59 | 1859(18) | ↓ | ||||
森川 俊徳 | 従五位下 出羽守 |
玉応院 真室静繁 |
禎三郎 | 石川総知二男 | 1859-62 | 1862(19) | ↓ | ||||
森川 俊方 | 生実藩知事 | 伝吉郎 内膳正 |
酒井忠方六男 | 1862-71 | 1877(29) | ↓ 1871廃藩置県 |
息子・恒の とき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔屋代家〕 |
|||||||||||
屋代 忠正 | 従五位下 越中守 |
雲輝院 梁岩玄棟 |
甚三郎 志摩 越中 |
屋代秀正長男 | 1638-62 | 1662(69) | 1623巨摩郡内(甲斐)襲封 自身の前封と併せ 10,000石 徳川忠長付属 1632忠長に連座改易 1638復封 北条(安房) 10,000石 |
百人組頭 | |||
屋代 忠興 | 甚三郎 | 春光院 性澄海雲 |
朝倉宣正四男 | 1662-63 | 1663(45) | ↓ | |||||
屋代 忠位 | 従五位下 越中守 |
瑞光院 明暁一円 |
忠至 五右衛門 甚三郎 |
朝倉宣季長男 | 1663-1712 | 1714(68) | ↓ 1712改易 蔵米3,000俵 |
大番頭 | |||
〔水野家〕 |
|||||||||||
水野 忠定 | 従五位下 壱岐守 |
大円院 鏡誉智天定光 |
吉之助 伊織 |
松平定重十男 水野忠位養子 |
1725-48 | 1748(64) | 1713信濃・丹波二国内襲封 12,000石 1725北条 1735加増 15,000石 |
若年寄 | |||
水野 忠見 | 従五位下 壱岐守 |
法従院 本誉常自寂湛 |
吉次郎 肥前守 |
忠定二男 | 1748-75 | 1775(46) | ↓ | 若年寄 | |||
水野 忠韶 | 従五位下 壱岐守 |
尚三郎 | 忠見長男 | 1775-1827 | 1828(68) | ↓ 1825城主格 1827鶴牧(上総)転封 |
若年寄 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
井上 政重 | 従五位下 筑後守 |
玄高院 幽山日性 |
清兵衛 | 井上清秀四男 | 1640-60 | 1661(77) | 1618新封(地未詳) 500石 後、累増 4,000石 1640下総・上総二国内 10,000石 1643加増 13,000石 |
大目付 | |||
井上 政次 | 清兵衛 | 心性院 宗桂日悟 |
政重長男 | (早世) | 1650(49) | ||||||
井上 政清 | 従五位下 筑後守 |
玄性院 清山日浄 |
内記 | 政次長男 | 1660-75 | 1675(48) | ↓ 1660分知 11,500石 |
||||
井上 政蔽 | 従五位下 筑後守 |
玄悟院 義山日登 |
虎之助 宮内 |
政清二男 | 1675-1716 | 1716(56) | ↓ 1675分知 10,000石 1676高岡(下総)に陣屋 |
||||
井上 正鄰 | 従五位下 筑後守 |
玄峰院 俊山日頂 |
監物 | 政蔽長男 | 1716-31 | 1743(51) | ↓ | ||||
井上 正森 | 従五位下 山城守 |
玄智院 周山日輝 |
六之助 宮内 |
政蔽六男 | 1731-60 | 1800(91) | ↓ | ||||
井上 正国 | 従五位下 筑後守 |
玄津院 普山日徳 |
直之丞 | 徳川宗勝十男 | 1760-91 | 1791(53) | ↓ | 奏者番 | |||
井上 正紀 | 従五位下 壱岐守 |
玄隆院 堯山日体 |
芳次郎 | 竹腰勝起二男 | 1791-1806 | 1806(37) | ↓ | ||||
井上 正瀧 | 従五位下 筑後守 |
玄陽院 逢山日治 |
瀧吉 如水 |
正紀二男 | 1806-41 | 1862 | ↓ | ||||
井上 正域 | 従五位下 筑後守 |
玄静院 秀山日仁 |
安房守 山城守 |
正瀧長男 | 1841-46 | 1846 | ↓ | ||||
井上 正和 | 筑後守 | 正瀧二男 | 1846-67 | 1871 | ↓ | ||||||
井上 正順 | 高岡藩知事 | 宮内少輔 | 正和長男 | 1867-71 | 1904(51) | ↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
堀 直之 | 従五位下 式部少輔 |
本光院 円成宗覚 |
佐太郎 主計助 三右衛門 |
堀直政五男 | − | 1642(58) | 1619新封 児玉郡内(武蔵) 1,000石 1620椎谷(越後) 5,500石 1633苅谷(上総) 9,500石 |
||||
堀 直景 | 従五位下 式部少輔 |
竜華院 級翁宗三 |
右衛門太郎 三右衛門 |
直之長男 | 1642-68 | 1675(72) | ↓ 1642自身の前封と併せ 10,000石 |
||||
堀 直良 | 従五位下 飛騨守 |
総持院 等岳宗与 |
三郎四郎 三右衛門 |
直景長男 | 1668-91 | 1691(49) | ↓ 1668八幡(上総)へ移転 |
||||
堀 直宥 | 式部 | 直虎 直勝 三四郎 三右衛門 |
直良長男 | 1691-98 | 1711(47) | ↓ 1698椎谷転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
保科 正貞 | 従五位下 弾正忠 |
源松院 天英高本 |
甚四郎 | 保科正直三男 | 1648-61 | 1661(74) | 1629新封 飯野(上総) 3,000石 1633加増 7,000石 1648加増 17,000石 |
大坂定番 | |||
保科 正景 | 従五位下 弾正忠 |
泰岳院 真誉帰元 |
太郎 権兵衛 甚四郎 越前守 |
正貞長男 | 1661-86 | 1700(85) | ↓ 1661分知 15,000石 1677加増 20,000石 |
大坂定番 | |||
保科 正賢 | 従五位下 兵部少輔 |
保国院 雄巌昌英 |
正祥 喜三郎 弾正 兵部 |
正景四男 | 1686-1714 | 1714(49) | ↓ | ||||
保科 正殷 | 主膳 | 観了院 徹山宗悟 |
豊次郎 | 正賢長男 | 1715-18 | 1738(42) | ↓ | ||||
保科 正寿 | 従五位下 弾正忠 |
霊仙院 活参玄道 |
正昭 喜三郎 弾正 |
正賢三男 | 1718-39 | 1739(38) | ↓ | 大坂定番 | |||
保科 正富 | 従五位下 越前守 |
高勝院 義雄桂山 |
直次郎 (致仕後) 正宜 |
正寿二男 | 1739-70 | 1797(66) | ↓ | ||||
保科 正率 | 従五位下 越前守 |
安居院 偶住一光 |
秀太郎 式部 弾正忠 |
正富長男 | 1770-1802 | 1815(64) | ↓ | 大坂定番 | |||
保科 正徳 | 従五位下 下総守 |
寿山院 高照朗月 |
甚四郎 能登守 |
正率長男 | 1802-17 | 1844(70) | ↓ | ||||
保科 正丕 | 従五位下 能登守 |
高顕院 峯霞彩雲 |
徳五郎 | 正徳長男 | 1817-48 | 1848(48) | ↓ | ||||
保科 正益 | 飯野藩知事 | 咸六郎 弾正忠 |
正丕三男 | 1848-71 | 1888(56) | ↓ 1871廃藩置県 |
若年寄 子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔植村家〕 |
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植村泰忠(二位法印。1590上総勝浦。至5,000石)−泰勝(従五位下・帯刀。9,000石)−泰朝(従五位下・帯刀)− | |||||||||||
植村 忠朝 | 従五位下 土佐守 |
真覚院 清岸源澄 |
左京 帯刀 |
植村泰朝二男 | 1682-96 | 1696(67) | 1663勝浦襲封 9,000石 1682加増 11,000石 |
大番頭 | |||
植村 正朝 | 従五位下 土佐守 |
真容院 実誉道恵 |
大学 | 忠朝三男 | 1697-1729 | 1729(60) | ↓ 1697分知 10,000石 |
大坂定番 | |||
植村 恒朝 | 従五位下 土佐守 |
真操院 到誉覚岸連遊 |
小次郎 大学 長門守 |
正朝二男 | 1729-51 | 1755(55) | ↓ 1751虚偽により改易 (子・寿朝が 蔵米2,000俵) |
大坂定番 | |||
〔大岡家〕 |
|||||||||||
大岡 忠光 | 従四位下 出雲守 |
兵庫 主膳 |
大岡忠利長男 | 1751-56 | 1760(52) | 1725蔵米300俵 1733武蔵国内 800石 1748までに累増 5,000石 1751勝浦 10,000石 1754加増 15,000石 1756岩槻城(武蔵)転封 |
側用人 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
板倉 重宣 | 従五位下 越中守 |
安養院 泰翁源山 |
重相 三十郎 左京 |
板倉重良男 | 1683-84 | 1684(21) | 1683新封 高滝(上総) 20,000石 |
||||
板倉 重高 | 頼母 | 英清 重清 熊之丞 |
小出英知三男 | 1684-99 | 1713(48) | ↓ 1699庭瀬(備中)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
有馬 氏恕 | 従五位下 兵庫頭 |
孔昭院 徳英義音 |
恕吉 | 堀親長二男 有馬氏房養子 |
1781-83 | 1783(23) | 1773南林崎(伊勢)襲封 10,000石 1781五井(上総)へ移転 |
||||
有馬 氏保 | 従五位下 能登守 |
竜湫院 浄応義雲 |
忠義 直次郎 備後守 |
牧野忠寛二男 | 1783-90 | 1790(29) | ↓ | ||||
有馬 久保 | 従五位下 備後守 |
竜光院 宝岳義英 |
揚次郎 六左衛門 |
加納久周二男 | 1790-1814 | 1814(36) | ↓ | ||||
有馬 氏貞 | 従五位下 兵庫頭 |
本源院 心海義性 |
鶴之助 六左衛門 |
久保長男 | 1814-33 | 1833(22) | ↓ | ||||
有馬 氏郁 | 満丸 | 氏貞長男 | 1833-42 | 1862(32) | ↓ 1842吹上(下野)転封 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
稲葉 正明 | 従五位下 越前守 |
証行院 良仙衍寿 |
留之助 越中守 |
稲葉正親三男 稲葉正福養子 |
1781-89 | 1793(71) | 1735常陸・下野二国内襲封 3,000石 1769-77累増 7,000石 1781加増 安房等四国内 10,000石 1785加増 13,000石 1786減封 10,000石 |
側用取次 | |||
稲葉 正武 | 従五位下 播磨守 |
大光院 謙徳円明 |
本三郎 | 正明四男 | 1789-1812 | 1840(72) | ↓ 1791館山(安房) に陣屋設置 |
||||
稲葉 正盛 | 従五位下 播磨守 |
滄浪院 清鑑道輝 |
本三郎 外記 |
正武長男 | 1812-19 | 1819(29) | ↓ | ||||
稲葉 正巳 | 兵部大輔 | 四郎 兵部少輔 (致仕後) 幾余翁 江隠 |
正盛長男 | 1820-64 | 1879(65) | ↓ | 老中格・ 海軍総裁 |
||||
稲葉 正善 | 館山藩知事 | 備後守 | 大岡忠恕二男 | 1864-71 | 1902(55) | ↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
林 忠英 | 従五位下 肥後守 |
檪叟 | 忠勝 藤助 出羽守 筑前守 |
林忠篤長男 | 1825-41 | 1845(81) | 1796上総等三国内襲封 3,000石 1813-22累増 7,000石 1825加増 貝淵(上総) 10,000石 1834-39累増 18,000石 1841減封 10,000石 |
若年寄 | |||
林 忠旭 | 従五位下 播磨守 |
一道 | _次郎 | 忠英二男 | 1841-54 | 1867(63) | ↓ 1850請西(上総)に 陣屋を移転 |
||||
林 忠交 | 従五位下 肥後守 |
武三郎 | 忠英四男 | 1854-67 | 1867(23) | ↓ | 伏見奉行 | ||||
林 忠崇 | 昌之助 | 忠旭五男 | 1867-68 | 1941(94) | ↓ 1868改易 |
義弟・忠弘 のとき男爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
加納 久儔 | 従五位下 遠江守 |
荘厳院 温恭日敬 |
英太郎 備中守 寛山 |
加納久慎長男 | 1826-42 | 1847(51) | 1821東阿倉川(伊勢)襲封 13,000石 1826一宮(上総) |
奏者番 | |||
加納 久徴 | 従五位下 備中守 |
徳性院 勇達日徴 |
玖次郎 大和守 駿河守 遠江守 |
久儔長男 | 1842-64 | 1864(52) | ↓ | 若年寄 | |||
加納 久恒 | 従五位下 大和守 |
志篤院 純実日悟 |
官一郎 | 黒田直静四男 | 1864-67 | 1867(22) | ↓ | ||||
加納 久宜 | 一宮藩知事 (廃藩後) 鹿児島県知事 一宮町長 |
嘉治郎 遠江守 |
立花種道二男 | 1867-71 | 1919(72) | ↓ 1871廃藩置県 |
子爵 貴族院議員 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
水野 忠韶 | 従五位下 壱岐守 |
大梁院 仙誉智覚 宝ー |
尚三郎 | 水野忠見長男 | 1827-28 | 1828(68) | 大岡忠喜女 八重 (溝口直養女) |
1775北条(安房)襲封 15,000石 1827鶴牧(上総) 城主格 |
||||
水野 忠実 | 従五位下 壱岐守 |
盛徳院 諦誉至真 実翁 |
乙次郎 甲斐守 |
酒井忠徳三男 | 1828-42 | 1842(51) | 並 (島津重豪養女) 釧(牧野忠精女) |
↓ | 西丸若年寄 | |||
水野 忠順 | 鶴牧藩知事 | 山城守 壱岐守 周防守 肥前守 |
忠実二男 | 1842-71 | 1884(61) | 建子 (前田利之女) |
↓ 1871廃藩置県 |
奏者番 子爵 |
平岡道弘(従五位下・丹波守。藤沢次和男・平岡道忠養子。1837襲封500石。後累増、1864安房船形10,000石。1868領地返上、 1869静岡藩大参事、1871廃職) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
井上 正直 | 鶴舞藩知事 | 英之助 河内守 侍従 |
井上正春長男 | 1868-71 | 1904(68) | 1847浜松城(遠江)襲封 60,000石 1868上総国内 1869矢貫に仮藩庁設置 同年 鶴舞(上総)に藩庁を移転 1871廃藩置県 |
息子・正英の とき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
太田 資美 | 松尾藩知事 | 総次郎 備中守 |
太田資功長男 | 1868-71 | 1913(60) | 1862掛川城(遠江)襲封 50,037石 1868柴山(上総) 1871松尾(上総)に藩庁を移転 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
水野 忠敬 | 菊間藩知事 | 吉太郎 出羽守 羽後守 |
水野忠明二男 水野忠誠養子 |
1868-71 | 1907(57) | 1866沼津城(駿河)襲封 50,000石 1868菊間(上総) 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
本多 正訥 | 長尾藩知事 | 魯堂 | ニ五郎 伯耆守 紀伊守 |
本多正意七男 本多正寛養子 |
1868-70 | 1885(59) | 1860田中城(駿河)襲封 40,000石 1868長尾(安房) |
||||
本多 正憲 | 長尾藩知事 | 朝太郎 | 本多正貞 (正意二男)長男 |
1870-71 | 1937(89) | ↓ 1871廃藩置県 |
子爵 貴族院議員 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
西尾 忠篤 | 花房藩知事 | 藤十郎 鎰之助 隠岐守 |
西尾忠受長男 | 1868-71 | 1910(61) | 1861横須賀城(遠江)襲封 35,000石 1868花房(安房) 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
田沼 意尊 | 従五位下 小久保藩知事 |
寛隆院 曜徳自照 |
金弥 玄蕃頭 |
田沼意留長男 | 1868-69 | 1869(52) | 1840相良(遠江)襲封 10,000石 1868小久保(上総) |
||||
田沼 意斉 | 小久保藩知事 | 金弥 | 大岡忠恕五男 | 1870-71 | 未詳 | ↓ 1871廃藩置県 |
義妹の夫・ 望のとき 子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
滝脇 信敏 | 桜井藩知事 | 保吉 助十郎 丹後守 |
内藤頼寧四男 松平信書養子 |
1868-71 | 1887(37) | 1864小島(駿河)襲封 10,000石 1868金ヶ崎(上総) 1869桜井(上総)に藩庁を移転 1871廃藩置県 |
子爵 |
戸田忠綱(下野高徳藩主・戸田忠至長男。1869襲封11,139石。1870下総曽我野転封。1871廃藩置県。息子・忠義のとき子爵) |
(2005.11.09up)
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