神奈川県は古く、相武・師長の国造が支配していましたが、大化の改新のとき相模国となりました。『延喜式』では8郡(後世9郡)。平安朝期の荘園は摂家(近衛)領や皇室領などがあり、後期には坂東平氏の活動の場となりました。1180年に源頼朝が鎌倉へ入り、1185年に幕府を開設、相模は将軍家の知行国となり、はじめ三浦家が守護に任じられましたが、1247年の三浦家滅亡後、守護は設置されませんでした。南北朝期には鎌倉府が置かれて鎌倉公方の本拠地となり、三浦家が守護に復帰しました。室町期に入り、1439年に鎌倉公方が没落し、相模は上杉(扇谷)家の勢力圏になりました。戦国期に入ると伊豆から伊勢盛時(=北条早雲)が進攻、1516年には相模の大部分と武蔵の南三郡を支配、北条氏綱は小田原を拠点として関東各地へ進出し、氏康は上杉輝虎(=謙信)や武田晴信(=信玄)の侵攻を退けて領国を保持しました。豊臣秀吉は1590年に大挙して小田原を攻略、北条家を滅ぼし、相模・武蔵南三郡は関東諸国とともに徳川家康の所領となりました。江戸期には譜代大名が封じられ、中期以降は、相模に小田原藩(大久保家)・荻野山中藩(大久保分家)・浦賀奉行、武蔵南三郡には金沢藩(米倉家)、幕末期に神奈川奉行が配置されました。1871年の廃藩置県により、相模の東三郡と武蔵の南四郡(多摩郡を含む)は神奈川県、相模の中・西六郡は伊豆と合併して足柄県となりました。1876年に神奈川県が足柄県の旧相模国部分を合併、1893年に多摩郡は東京都へ編入され、現在の県域が確定しました。
鎌倉公方足利家 相模守護職 三浦家 大森家 上杉(犬懸)家 北条(小田原)家 北条(玉縄)家 玉縄藩 小田原藩 荻野山中藩=大久保家 金沢藩/六浦藩=米倉家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
足利 基氏 | 従三位 左兵衛督 |
瑞泉寺 玉岩道昕 |
亀若丸 光王丸 左馬頭 |
足利尊氏三男 | 1349-67 | 1367(28) | 1349鎌倉府を統治 | 関東公方 | ||||
足利 氏満 | 従三位 左兵衛督 |
永安寺 壁山道全 |
金王丸 左馬頭 |
基氏長男 | 1367-98 | 1398(40) | ↓ | 関東公方 | ||||
足利 満兼 | 従四位下 左馬頭 |
勝光院 泰岳道安 |
寿王丸 左兵衛佐 |
氏満長男 | 1398-1409 | 1409(32) | 一色某の女 | ↓ | 関東公方 | |||
足利 持氏 | 従三位 左兵衛督 |
長春院 陽山道継 |
幸王丸 左馬頭 |
満兼長男 | 1409-39 | 1439(42) | ↓ 1439滅亡、中絶 |
関東公方 | ||||
足利 成氏 | 従四位下 左馬頭 |
永寿王丸 | 持氏四男 | 1447-97 | 1497(64?) | 1447再興 1455古河城(下総)移転 |
関東公方 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
佐竹 和泉前司 | ?-1351 | |||
三浦 高通 | 三浦介 | 聖林 | 1351-52? | |
武田 三河守 | 1352 | |||
河越 直重 | 弾正少弼 | 1353前-63 | ||
三浦 高通 | 三浦介 | 聖林 | 1364前-67後 | |
三浦 高連 | 三浦介 | 徳柔 | 1377前-1402後 | |
三浦 高明 | 三浦介 | 1407前-16後 | ||
上杉(小山田)定頼 | 三郎 | 1421前後 | ||
一色 持家 | 刑部少輔 | 1426前-27後 | ||
武田 信長 | 右馬助 | 1442前後 | ||
上杉(越後)清方 | 兵庫頭 | ?-1446 | ||
上杉(扇谷)持朝 | 修理大夫 | 道朝 | 1448前-67 | |
上杉(扇谷)政真 | 修理大夫 | ?-1473 | ||
上杉(扇谷)定正 | 修理大夫 | 範亨 | 1477前-94 | |
上杉(扇谷)朝良 | 治部少輔 | 1494-1505 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
三浦 為継 | 平太郎 | 為次? | 平為通男? | 1087頃 | 御浦郡三浦荘(相模) | |||||||
三浦 義継 | 荘司介 | 六郎 | 為継男 | ↓ | ||||||||
三浦 義明 | 相模大介 | 義継男 | 1180(89) | ↓ | ||||||||
三浦 義澄 | 三浦介 | 荒次郎 | 義明二男 | 1200(74) | 伊東祐親女 | ↓ | ||||||
三浦 義村 | 従四位下 駿河守 |
平六 右兵衛尉 左衛門尉 |
義澄長男 | 1239 | ↓ | |||||||
三浦 泰村 | 正五位下 若狭守 |
駿河次郎 | 義村二男 | 1247 | ↓ 1247自殺、滅亡 |
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【佐原系三浦家】 |
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佐原 義連 | 十郎左衛門尉 | 義明十男 | 武田信光女 | 御浦郡佐原 | ||||||||
佐原 盛連 | 従五位下 遠江守 |
義連四男 | 1233 | 義村女 | ↓ | |||||||
三浦 盛時 | 従五位下 五郎左衛門尉 |
浄蓮 | 盛連五男 | 1247-56 | ↓ 1247三浦宗家継承 |
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三浦 頼盛 | 従五位下 三浦介 |
道法 | 盛時二男 | 大曽禰上総介女 | ↓ | |||||||
三浦 時明 | 従五位下 安芸守 |
道朝 | 三浦介 | 頼盛長男 | ↓ | |||||||
三浦 時継 | 従五位下 三浦介 |
道海 | 右兵衛尉 | 時明四男 | 1335 | ↓ | ||||||
三浦 高継 | 従五位上 土佐守 |
徳紹 | 三浦介 | 時継長男 | ?-1351 | 1351 | ↓ | |||||
三浦 高通 | 従五位下 左衛門尉 |
聖林 道紹 |
三浦介 | 高継長男 | 1351-67後 | ↓ | 1351-52? 1364前-67後 相模守護 |
|||||
三浦 高連 | 従五位下 左衛門尉 |
徳柔 | 三浦介 | 高通長男 | 1377前-1402後 | ↓ | 相模守護 | |||||
三浦 高明 | 左衛門尉 | 建紹 | 三浦介 | 高連長男 | 1407前-26後 | ↓ | 1407前-16後 相模守護 |
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三浦 時高 | 三浦介 | 聖亀 | 高明二男 | 1438前-94 | 1494(79) | ↓ 新井城を築く |
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三浦 義同 | 従五位下 陸奥守 |
瑞雲庵 道寸 |
三浦介 | 上杉高救男 | 1494-1516 | 1516(53) | ↓ 1516滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
大森 親家 | 信濃権守 | 与一 | 高橋親康男 | 12C末 | 駿河郡鮎沢荘大森(駿河) | ||||||
大森 頼忠 | 次郎大夫 | 親家男 | ↓ | (鎌倉期の系譜 には混乱あり) |
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大森 行頼 | 六郎兵衛尉 | 行阿弥陀仏 | 頼忠男 | ↓ | |||||||
大森 頼盛 | 新二郎 | 行頼男(甥?) | ↓ | ||||||||
大森 経頼 | 信濃守 | 傑山直勝 | 六郎右衛門尉 | 頼盛男 | ↓ | ||||||
大森 惟時 | 信濃守 | 天翁清勝 | 与一 | 経頼男 | ↓ | ||||||
大森 頼顕 | 信濃守 | 大円薀誥 | 与一 | 惟時男 | 14C中葉 | ↓ 小田原城(相模) |
|||||
大森 藤頼 | 式部大夫 | 古標信格 | 与一 | 頼顕男 | ↓ | ||||||
大森 頼明 | 信濃守 | 光岩信誥 | 与一 | 藤頼男 | ↓ | ||||||
大森 頼春 | 信濃守 | 玉山光公 | 朝頼 与一 |
頼明男 | 1406前-26後 | ↓ | |||||
大森 憲頼 | 伊豆守 | 信祐 | 民部大輔 | 頼春長男 | 1440前-? | ↓ | |||||
大森 氏頼 | 信濃守 | 明昇 日昇 寄栖庵 |
与一 左衛門佐 |
頼春三男 | ?-1477後 | 1494 | ↓ | ||||
大森 実頼 | 隠岐守 | 淳翁明厚 | 大膳大夫 筑前守 |
氏頼長男 | ↓ | ||||||
大森 藤頼 | 筑前守 | 心紅道存 | 信濃守 | 氏頼二男 | ?-1498 | 1498 | ↓ 1495?小田原を北条家に 乗っ取られ、後の消息未詳 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
上杉 憲藤 | 中務少輔 | 古岩道淳 | 上杉憲房二男 | ?-1338 | 1338(21) | 犬懸(相模) | 1336-38 関東執事 |
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上杉 朝房 | 弾正少弼 | 常真得元 | 幸松丸 三郎 左馬助 中務少輔 |
憲藤長男 | 1338-77 | 1391? | ↓ 上総国内にも所領 |
1364-65後 上総守護 1366前-77後 信濃守護 1368-70 関東管領 |
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上杉 朝宗 | 中務少輔 | 徳泉寺 道元禅助 |
幸若丸 上総介 修理亮 |
憲藤二男 | 1377-1409 | 1414(78) | ↓ | 1376前-97後 上総守護 1397前-1404後 武蔵守護 1395-1405 関東管領 |
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上杉 氏憲 | 右衛門佐 | 月山禅秀 | 朝宗長男 | 1409-17 | 1417 | ↓ 1417自殺 中絶 |
?-1417 武蔵守護 1411-15 関東管領 |
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上杉 教朝 | 治部少輔 | 氏憲男 | ?-1461 | 1461 | 再興 後、堀越公方の執事 |
||||||
上杉 政憲 | 治部少輔 | 教朝男 | (動向未詳) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
伊勢 盛時 | 新九郎 | 早雲寺 天岳宗瑞 |
長氏 氏茂 |
伊勢盛定男 伊勢貞道養子 |
?-1518 | 1519(88) | 小笠原持清女 葛山備中守女 |
宇治近傍?(山城) 1487興国寺城(駿河) 1491韮山城(伊豆一国) |
1483-87 幕府申次衆 後、今川家被官 (1491以降は 事実上自立) |
|||
北条 氏綱 | 従五位下 左京大夫 |
春松院 快翁活公 |
伊豆千代丸 新九郎 |
盛時長男 | 1518-41 | 1541(55) | 養珠院 (横江相模守女?) 近衛尚通女 |
↓ 1519小田原城(相模) (相模・伊豆を支配) |
1524称北条 1537形式上も 今川家より独立 |
|||
北条 氏康 | 従五位下 左京大夫 |
大聖寺 東陽岱公 |
伊豆千代丸 新九郎 相模守 |
氏綱長男 | 1541-59 | 1571(57) | 今川氏親女 | ↓ (相模・伊豆・武蔵を支配) |
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北条 氏政 | 従四位下 相模守 |
慈雲院 勝巌傑公 截流斎 |
乙千代丸 左京大夫 |
氏康二男 | 1559-80 | 1590(53) | 武田晴信女 | ↓ (相模・伊豆・武蔵 ・下総を支配) |
||||
北条 氏直 | 従五位下 左京大夫 |
松巌院 大円徹公 |
国王丸 新九郎 |
氏政長男 | 1580-91 | 1591(30) | 督(徳川家康女) | ↓ 1590改易 1591復封 下野・近江二国内 4,000石 同年没 所領は従弟・氏盛が継承 1600狭山(河内)継承 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
北条 氏時 | 左馬助 | 大虚院 了翁宗達 |
新六郎 | 伊勢盛時二男 | 1529前-31 | 1531 | 玉縄城(相模) 無嗣、絶家 |
北条家臣 | |||
北条 為昌 | 彦九郎 | 本光寺 竜淵宗鉄 |
北条氏綱二男 | ?-1542 | 1542(23) | 新規立家 玉縄城 |
北条家臣 | ||||
北条 綱成 | 上総介 | 瑞光院 実州宗心 覚眩道感 |
孫九郎 左衛門大夫 |
福島正成男 | 1542-72 | 1587(73) | ↓ | 北条家臣 | |||
北条 氏繁 | 常陸介 | 竜宝院 大応栄公 一無 |
康成 左衛門大夫 |
綱成長男 (氏綱外孫) |
1572-78 | 1578(40) | ↓ | 北条家臣 | |||
北条 氏舜 | 左衛門大夫 | 氏繁長男 | 1578-81? | ↓ | 北条家臣 | ||||||
北条 氏勝 | 左衛門大夫 | 氏繁二男 | 1581?-90 | 1611(53) | ↓ 1590北条宗家とともに改易 同年、復封 岩富(下総) |
北条家臣 後、徳川家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔本多家〕 |
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本多 正信 | 従五位下 佐渡守 |
納誨院 善徳 |
正保 正行 弥八郎 |
本多俊正二男 | 1590-1616 | 1616(79) | 1590新封、玉縄(相模) 10,000石 後、加増 22,000石 1616没 嫡子・正純は 小山(下野)に別封 所領収公 |
||||
〔松平(大河内)家〕 |
|||||||||||
松平 正綱 | 従五位下 右衛門大夫 |
高林院 俊庵宗徳 |
正久 長四郎 右衛門佐 |
大河内秀綱二男 | 1625-48 | 1648(73) | 1596新封、相模国内 380石 後、累増 4,660石 1625玉縄(相模) 22,100石 |
勘定奉行 | |||
松平 正信 | 従五位下 備前守 |
流芳院 月洲道雪 |
隆綱 主膳 |
正綱二男 | 1648-90 | 1692(72) | ↓ 1648分知 20,000石 |
||||
松平 正久 | 従五位下 弾正忠 |
則綱 一学 |
正信 | 1680-1703 | 1720(62) | ↓ 1703大多喜城(上総)転封 |
奏者番 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔大久保家(前期)〕 |
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大久保 忠世 | 七郎右衛門 | 了源院 日脱 |
新十郎 | 大久保忠員長男 | 1590-94 | 1594(63) | 近藤幸正女 | 1575二股城(遠江) 1590小田原城(相模) 45,000石 |
||||
大久保 忠隣 | 従五位下 相模守 |
涼地院 霊庭道白 |
千丸 新十郎 治部少輔 |
忠世長男 | 1594-1614 | 1628(79) | 石川家成女 | 1590羽生城(武蔵) 20,000石 1594父の継嗣 65,000石(含先封) 1614改易 (嫡孫・忠職の封地 騎西領は温存) |
加判 | |||
〔阿部家〕 |
||||||||||||
阿部 正次 | 従五位下 備中守 |
正成 徳千代 善九郎 |
阿部正勝長男 | 1619-23 | 1647(79) | 佐原義成女 | 1617大多喜城(上総) 30,000石 1619小田原城 50,000石 1623岩槻城(武蔵)転封 |
奏者番 | ||||
〔稲葉家〕 |
||||||||||||
稲葉 正勝 | 従五位下 丹後守 |
養源寺 古隠紹太 |
千熊 宇右衛門 |
稲葉正成二男 | 1632-34 | 1634(38) | 山田重利女 | 1628真岡(下野)襲封 40,000石 1632小田原城 85,000石 |
老中 | |||
稲葉 正則 | 従四位下 侍従 美濃守 |
潮信院 泰応元如 |
鶴千代 | 正勝二男 | 1634-83 | 1696((74) | 万菊子 (毛利秀元女) 堤長貞女 |
↓ 1663加増 95,000石 1680加増 110,000石 |
老中 | |||
稲葉 正往 | 従四位下 侍従 丹後守 |
義雅 正通 |
正則長男 | 1683-85 | 1716(77) | 石 (保科正之女) 持明院基定女 田辺某の女 |
↓ 1683分知 102,000石 1685高田城(越後)転封 |
京都所司代 | ||||
〔大久保家(後期)〕 |
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大久保 忠朝 | 従四位下 侍従 加賀守 |
松慶院 実邦了円 |
教広 木工 杢之助 出羽守 (致仕後) 木工頭 |
大久保教隆 (忠隣三男) 二男 大久保忠職養子 |
1686-98 | 1712(81) | − | 1678佐倉城(下総) 1680加増 93,000石 1686小田原城 103,000石 1694加増 113,000石 |
老中 | |||
大久保 忠増 | 従四位下 侍従 加賀守 |
心観院 大空了通 |
教忠 忠能 忠恒 大蔵 大内蔵 安芸守 隠岐守 |
忠朝長男 | 1698-1713 | 1713(58) | 松平忠弘女 | ↓ | 老中 | |||
大久保 忠方 | 従四位下 加賀守 |
現成院 円山了智 |
忠英 忠郁 伝吉郎 大蔵少輔 |
忠増六男 | 1713-32 | 1732(41) | 柳沢吉保養女 | ↓ | ||||
大久保 忠興 | 従四位下 大蔵大輔 |
大雲院 仙巌了洞 |
忠数 伝吉郎 出羽守 (致仕後) 大炊頭 |
忠方長男 | 1732-63 | 1764(51) | 柳沢吉里女 | ↓ | ||||
大久保 忠由 | 従五位下 加賀守 |
光輪院 霊岳了空 |
忠清 万次郎 半次郎 大蔵少輔 安芸守 |
忠興長男 | 1763-69 | 1769(34) | 榊原政岑女 | ↓ | ||||
大久保 忠顕 | 従五位下 加賀守 |
亨泰院 慎常了善 |
直次郎 七郎右衛門 (致仕後) 上総介 |
忠由長男 | 1769-96 | 1803(44) | 充 (中川久貞女) |
↓ | ||||
大久保 忠真 | 従四位下 侍従 加賀守 |
彰道院 欽承良顕 |
秀次郎 新十郎 出羽守 |
忠顕長男 | 1796-1837 | 1837(57) | 典 (蜂須賀治昭女) |
↓ | 老中 | |||
大久保 忠脩 | 従五位下 安芸守 |
敬順院 慎行了性 |
賢二郎 | 忠真長男 | (早世) | 1831(22) | 須美 (小笠原忠固女) |
|||||
大久保 忠愨 | 従四位下 加賀守 |
伝吉郎 | 忠脩長男 | 1837-59 | 1859(31) | 寵 (島津斉宣女) |
↓ | |||||
大久保 忠礼 | 加賀守 | 隼之助 | 松平頼恕七男 | 1859-68 | 1897(57) | 幸 (大久保教義女) 幸子 (阿部正備女) |
↓ 1868新政府に抗し 後、恭順、隠居謹慎 |
後、再承 子爵 |
||||
大久保 忠良 | 小田原藩知事 | 岩丸 相模守 |
大久保教義長男 | 1868-71 | 1877(21) | − | 1868減封 75,000石 1871廃藩置県 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
大久保 教寛 | 従五位下 長門守 |
虎山院 武林崇勇 |
教武 教重 唐之助 久太郎 団之助 右近 外記 帯刀 |
大久保忠朝二男 | 1698-1730 | 1737(81) | 1697長狭郡内(安房) 2,000石 1698小田原藩主、 兄・忠増より分知 相模・駿河国内 6,000石(先封収公) 1706加増 11,000石 1718加増 16,000石 (居所なく、陣屋のみ 駿河松長に設営) |
若年寄 | |||
大久保 教端 | 従五位下 筑後守 |
真常院 智性相空 |
団之助 帯刀 |
教寛長男 | 1730-42 | 1742(56) | ↓ 1730分知 13,000石 |
||||
大久保 教起 | 従五位下 長門守 |
高峻院 仁栄義敦 |
万吉 直之丞 |
教端三男 | 1742-55 | 1755(23) | ↓ | ||||
大久保 教倫 | 従五位下 長門守 |
観達院 本宗一相 |
吉之丞 | 教起長男 | 1755-73 | 1773(23) | ↓ | ||||
大久保 教翅 | 従五位下 長門守 |
体全院 崇岳光円 |
金蔵 中務少輔 |
大久保教近 (教寛孫)長男 |
1773-96 | 1796(32) | ↓ 1783中荻野(相模)に 居所を築く |
||||
大久保 教孝 | 従五位下 出雲守 |
岩丸 帯刀 |
教翅長男 | 1796-1845 | 1860(74) | ↓ | 奏者番 | ||||
大久保 教義 | 荻野山中藩知事 | 金五郎 長門守 出雲守 中務少輔 |
教孝長男 | 1845-71 | 1885(61) | ↓ 1868荻野山中藩と改称 1871廃藩置県 |
子・教正の とき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
米倉 忠仰 | 従五位下 主計頭 |
諦了院 雄巌忠英 |
保教 大膳 主計 丹後守 |
柳沢吉保六男 米倉昌照養子 |
1722-35 | 1735(30) | 1712皆川(下野)襲封 12,000石 1722金沢(武蔵) に居所を移転 |
||||
米倉 里矩 | 鍋三郎 | 真髻院 桃雲元珠 |
忠仰長男 | 1735-49 | 1749(17) | ↓ | |||||
米倉 昌晴 | 従五位下 丹後守 |
義徳院 政運道香 |
長之助 大学 民部 |
米倉昌倫二男 | 1749-85 | 1785(58) | ↓ | 若年寄 | |||
米倉 昌賢 | 従五位下 長門守 |
高運院 法山道輪 |
総五郎 長之助 |
昌晴二男 | 1786-98 | 1798(40) | ↓ | 大番頭 | |||
米倉 昌由 | 従五位下 主計頭 |
陽徳院 入道栄寛斎 |
常菊 丹後守 |
米倉昌盈二男 | 1798-1803 | 1816(40) | ↓ | ||||
米倉 昌後 | 従五位下 丹後守 |
峻量院 端道全義 |
昌俊 栄三郎 右京 |
水野忠鼎九男 | 1803-12 | 1812(29) | ↓ | ||||
米倉 昌寿 | 従五位下 丹後守 |
昌寿院 金陵竜渓 |
冶鋳太郎 | 朽木昌綱四男 | 1812-60 | 1863(71) | ↓ | ||||
米倉 昌言 | 六浦藩知事 | 直吉 下野守 丹後守 |
昌寿四男 | 1860-71 | 1909(73) | ↓ 1869六浦藩と改称 1871廃藩置県 |
子爵 |
(2014.12.30up)
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