島根県は古くは、東部は出雲臣、のち出雲国造が統治。西部は石見国造、隠岐島には意岐国造が置かれました。大化の改新以後は出雲・石見・隠岐国となります。『延喜式』では、出雲は10郡、石見は6郡、隠岐は4郡。平安朝期の荘園は出雲の福田荘・石見の益田荘などがありました。鎌倉期の守護は出雲・隠岐が佐々木一族、石見ははじめ佐々木家など、中期以後は不詳。南北朝期から室町期にかけ、出雲・隠岐で山名・京極両家が守護職を争い、石見では大内家の進出が見られました。戦国期に入ると尼子家が出雲を領有、隠岐にも支配を及ぼし、一方石見では大内家のもとに益田家・吉見家などの諸豪族が台頭しました。毛利元就は1557年に益田家・吉見家を降して石見を版図に入れ、1566年には出雲・隠岐を制圧して吉川家を山陰に配置、豊臣時代まで続きました。関が原の戦後、出雲・隠岐には堀尾家、のち京極家が入り、石見は中小大名に分割されました。江戸中期以後は出雲に松江藩(松平家)が置かれて隠岐を預り地とし、石見には津和野藩(亀井家)・浜田藩(本多→松井→松平家)などが存立しました。1871年の廃藩置県により出雲・隠岐は島根県、石見は浜田県となり、1876年に浜田県は島根県に統合されました。この年鳥取県を合併しましたが、1881年になって再び鳥取県を分置し、島根県の県域が確定しました。
出雲・隠岐守護職 石見守護職 益田家 三隅家 三刀屋家 隠岐家 吉見家 三沢家 尼子家 出雲国主 堀尾家・京極家 津和野藩 浜田藩 松江藩=松平(越前)家 広瀬藩=松平(越前)家 母里藩=松平(越前)家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
〔出雲守護職〕 |
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佐々木(塩冶)高貞 | 隠岐大夫判官 | 1336-1341 | ||
山名 時氏 | 伊豆守 | 1341-1343 | ||
佐々木(京極)高氏 | 佐渡大夫判官 | 導誉 | 1343-1351? | |
山名 時氏 | 伊豆守 | 1351 | ||
佐々木(京極)高氏 | 佐渡大夫判官 | 導誉 | 1366-1368 | |
京極 高秀 | 治部少輔・大膳大夫 | 1368-1379 | ||
山名 義幸 | 讃岐守 | 1379-1385 | ||
山名 満幸 | 弾正少弼・播磨守 | 1386-1391 | ||
〔隠岐守護職〕 |
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佐々木(塩冶)高貞 | 隠岐大夫判官 | 1336-1341 | ||
山名 時氏 | 伊豆守 | 1341-1351 | ||
佐々木 直貞 | 弾正少弼 | 1365? | ||
山名 時義 | 伊予守 | ?-1389 | ||
山名(時煕または氏之) | 1389-1390? | |||
山名 満幸 | 播磨守 | 1390?-1391 | ||
〔出雲・隠岐両国守護職〕 |
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京極 高詮 | 治部少輔 | 浄高 | 1392-1401 | |
京極 高光 | 民部少輔・大膳大夫 | 道通 | 1401-1413 | |
京極 持光(持高) | 治部少輔 | 1413-1439 | ||
京極 高数 | 加賀守 | 道統 | 1439-1441 | |
京極 持清 | 中務少輔・大膳大夫 | 生観 | 1441-1470 | |
京極 孫童子丸 | 1470-1471 | |||
京極 政高(政経) | 治部少輔・大膳大夫 | 1471-1508 | ||
京極 吉童子丸 | 1508? |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
上野 頼兼 | 左馬助 | 1336-1349 | ||
高 師泰 | 越後守 | 1350-1351 | ||
沙弥(苗字未詳) | 1352? | |||
荒川 詮頼 | 遠江守・弾正少弼 | 1352-1365 | ||
大内 弘世 | 大内介 | 道階 | 1365?-1376 | |
荒川 詮頼 | 道恵 | 1376-1379 | ||
大内 義弘 | 新介・左京権大夫 | 道実 | 1379-1399 | |
京極 高詮 | 治部少輔 | 浄高 | 1399-1402前 | |
山名 氏利 | 左京亮 | 1402-1405 | ||
山名 教清 | 左京大夫・修理大夫 | 常勝 | 1406-1429 | |
山名 時煕 | 右衛門督 | 常煕 | 1432頃 | |
山名 煕貴 | 中務大輔 | 1438前-1441 | ||
山名 教清 | 修理大夫 | 常勝 | 1441-1443 | |
山名 成清 | ? | |||
山名 政清 | 兵部少輔 | 1461-1477 | ||
山名 紀伊守 | ?-1517 | |||
大内 義興 | 周防権介・左京大夫 | 義秀 | 1517-1528 | |
大内 義隆 | 周防介・左京大夫・大宰大弐 | 珠天 | 1528-1551 | |
大内 義長(晴英) | 周防介・左京大夫 | 1552-1557 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
御神本 国兼 | 御神本権大夫 | 定通 | 藤原有隆男 | 石見国内 | ||||||||
御神本 兼真 | 按察使大夫 | 国兼男 | ↓ | |||||||||
御神本 兼栄 | 越中権守 | 兼真男 | ↓ | |||||||||
御神本(益田) 兼高 |
石見権介 | 兼恒 兼経 |
兼栄男 | 12C末 | 益田荘= 七尾城(石見。美濃郡 周辺一帯を支配) |
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益田 兼季 | 右衛門尉 | 兼高長男 | ↓ | |||||||||
益田 兼時 | 太郎左衛門尉 | 兼季長男 | ↓ | |||||||||
益田 兼久 | 左衛門大夫 | 次郎 | 兼時二男 | ↓ | ||||||||
益田 兼弼 | 左近将監 | 兼胤 兼衡 三郎 弥五郎 |
兼久長男 | 益田兼長女 | ↓ | |||||||
益田 兼弘 | 左衛門尉 | 道忍 | 孫太郎 弥三郎 |
兼弼長男 | ↓ | |||||||
益田 兼方 | 太郎 | 得生院 即阿 |
兼弘長男 | ↓ | ||||||||
益田 兼見 | 越中守 | 万福寺 祥兼 |
兼躬 孫次郎 |
兼方長男 | ?-1383 | 1391 | ↓ | |||||
益田 兼世 | 越中守 | 道兼 | 兼顕 次郎 左近将監 |
兼見長男 | 1407 | ↓ | ||||||
益田 秀兼 | 越中守 | 周兼 | 兼家 長寿丸 次郎 左近将監 |
兼世長男 | 1419 | ↓ | ||||||
益田 兼理 | 左近将監 | 正覚院 身光久兼 |
赤一丸 | 秀兼長男 | ?-1431 | 1431 | ↓ | |||||
益田 兼堯 | 越中守 | 大雄院 全国瑞兼 |
兼広 益一丸 松寿 孫次郎 左馬助 |
兼理二男 | 1431-62 | 1485 | ↓ | |||||
益田 貞兼 | 越中守 | 利勝斎 全田 |
又次郎 治部少輔 |
兼堯長男 | 1462-83 | 1526 | ↓ | |||||
益田 宗兼 | 越中守 | 医光寺 全久 |
熊童丸 孫次郎 治部少輔 不屋軒 |
貞兼長男 | 1483-? | 1544 | 陶某の女 | ↓ | ||||
益田 尹兼 | 越中守 | 桂香院 全屋 |
熊童 又次郎 |
宗兼長男 | ? | 1565 | ↓ | |||||
益田 藤兼 | 従四位下 侍従 右衛門佐 |
大薀全鼎 | 次郎 治部少輔 越中入道 |
尹兼長男 | 1551前-82 | 1596(68) | 杉興重女 石津経頼女 内藤隆春女 |
↓ 益田七尾城 12,501石 |
1555- 毛利家被官 |
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益田 元祥 | 従五位下 玄蕃頭 |
桃林院 全牛紹カ (囗+カ) |
次郎 又兵衛 右衛門佐 牛菴 |
藤兼長男 | 1582-1620 | 1640(83) | 吉川元春女 | ↓ 1600須佐(長門)移転 10,893石 |
毛利家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
三隅 兼信 | 左衛門尉 | 益田兼高二男 | 那賀郡三隅荘(石見) | ||||||||
三隅 兼村 | 左衛門太郎 | 兼信男 | ↓ | ||||||||
三隅 兼盛 | 孫太郎 | 信時 | 兼村男 | ↓ | |||||||
三隅 兼連 | 石見守 | 信性 | 二郎 | 兼盛男 | 1355 | ↓ | |||||
三隅 兼知 | 石見守 | 兼春 | 兼連男 | 1352 | ↓ | ||||||
三隅 直連 | 石見判官 | 兼知男 | ↓ | ||||||||
三隅 信世 | 越中守 | 三隅兼雄男 | ↓ | ||||||||
三隅 氏世 | 筑前守 | 信世男 | ↓ | ||||||||
三隅 信兼 | 能登守 | 氏世男 | ↓ | ||||||||
三隅 豊信 | 能登守 | 信兼男 | ↓ | ||||||||
三隅 貞信 | 中務少輔 | 豊信男 | ↓ | ||||||||
三隅 興兼 | 石見守 | 貞信男 | ↓ | ||||||||
三隅 兼隆 | 備前守 | 興兼男 | ↓ | ||||||||
三隅 隆繁 | 備前守 | 兼隆男 | ?-1570 | 1570 | ↓ 1570自殺、滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
諏訪部 助長 | 三郎 | 扶永 | 諏訪部幸扶 (信濃源氏)男 |
1221-? | 飯石郡三刀屋郷 (出雲) |
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諏訪部 扶盛 | 三郎 | 助長男 | ↓ | ||||||||
諏訪部 扶親 | 兵衛尉 | 助親 | 扶盛男 | ↓ | |||||||
諏訪部 扶光 | 兵衛三郎 | 扶満 | 扶親男 | ↓ | |||||||
諏訪部 扶重 | 悪三郎 | 扶光男 | 1336頃 | ↓ | |||||||
諏訪部 扶貞 | 彦十郎 | 扶直? 弥三郎 |
三刀屋彦三郎男 | ↓ | |||||||
諏訪部 義扶 | 扶貞男 | ↓ | |||||||||
諏訪部 詮扶 | 掃部助 | 菊松丸 | 義扶男 | 1392後-? | ↓ | ||||||
諏訪部 扶永 | 三郎 | 詮扶男 | ↓ | ||||||||
三刀屋 忠扶 | 左京亮 | 助五郎 | 扶永男 | 1467前-? | ↓ | 尼子家被官 | |||||
三刀屋 誠扶 | 対馬守 | 為扶? | 忠扶男 | ↓ | 尼子家被官 | ||||||
三刀屋 頼扶 | 対馬守 | 誠扶男 | ?-1528 | ↓ | 尼子家被官 | ||||||
三刀屋 久扶 | 弾正忠 | 久祐 新四郎 |
頼扶男 | 1528-88 | ↓ 1588失領 |
尼子家被官 後、毛利家被官 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
【前・隠岐家】 |
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佐々木 義清 | 隠岐守 | 五郎左衛門尉 出雲守 |
佐々木秀義五男 | ?-1227後 | 近江・隠岐国内 | 隠岐守護 | |||||
佐々木 政義 | 太郎左衛門尉 | 心願 | 義清長男 | 1232頃 | ↓ | 隠岐守護 | |||||
佐々木 泰清 | 信濃守 | 泰覚 | 次郎左衛門尉 | 義清二男 | ?-1276前 | ↓ | 隠岐守護 | ||||
佐々木 時清 | 隠岐守 | 阿清 | 次郎左衛門尉 | 泰清二男 | ?-1305 | 1305 | ↓ | 隠岐守護 | |||
佐々木 宗清 | 豊前守 | 時清長男 | 1305-25前 | ↓ | 隠岐守護? | ||||||
佐々木 清高 | 従五位下 隠岐守 |
左衛門尉 | 宗清長男 | 1325前-33 | 1333 | ↓ 1333滅亡 |
隠岐守護 | ||||
【後・隠岐家】 |
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隠岐 秀重 | 五郎左衛門尉 | 江沼七郎 | 京極高秀四男 | 1392後-? | 隠岐国内 | 隠岐守護代 | |||||
隠岐 清秀 | 従五位下 信濃守 |
秀清 | 秀重男 | ↓ | 隠岐守護代 | ||||||
隠岐 清綱 | 隠岐守 | 清秀男 | 甲ノ尾城を築く | 隠岐守護代 | |||||||
(途中未詳) | |||||||||||
隠岐 宗清 | 清綱の裔 | ?-1544 | 1544 | ↓ | 尼子家被官 | ||||||
隠岐 豊清 | 豊満? | 宗清男 | 1544-? | ↓ | 尼子家被官 | ||||||
隠岐 為清 | 隠岐守 | 豊清長男 | ?-1569 | 1569 | ↓ | 尼子家被官 後、背反 |
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隠岐 清家 | 隠岐守 | 豊清二男 | 1569-82 | 1582 | ↓ | 毛利家被官? | |||||
隠岐 経清 | 隠岐守 | 少輔五郎 | 為清男 | 1582 | 1582 | ↓ 1582滅亡 |
毛利家被官 後、背反 |
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隠岐 才太郎 | 清家男 | (吉川家臣となり その後は未詳) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
吉見 頼業 | 三河守 | 頼円 | 九郎 | 吉見為頼男? | 武蔵国内 | |||||||
吉見 為忠 | 式部大輔 | 三河守 | 頼業男 | ↓ | ||||||||
吉見 頼忠 | 従五位下 能登守 |
三郎 式部大輔 三河守 検非違使 |
為忠男 | ↓ | ||||||||
吉見 頼行 | 三河守 | 厚楽義全 | 式部四郎 | 頼忠長男 | 1309 | 西目広在女 | ↓ 津和野城(石見) |
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吉見 頼直 | 大蔵大輔 | 宝山 | 七郎 右兵衛権佐 |
頼行長男 | ↓ | |||||||
吉見 直頼 | 出羽守 | 英朝 | 三郎 大蔵大輔 |
頼直長男 | ↓ | |||||||
吉見 弘信 | 能登守 | 曹山 | 二郎 兵庫頭 |
直頼長男 | 上杉頼英女 | ↓ | ||||||
吉見 頼弘 | 三河守 | 大年道椿 | 二郎 兵庫頭 |
弘信長男 | 1446 | 高橋師光女 | ↓ (吉賀郡一円支配) |
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吉見 成頼 | 三河守 | 大定院 功岳 |
義宗 三郎 |
頼弘長男 | 1455 | 周布兼宗女 | ↓ | |||||
吉見 信頼 | 能登守 | 徹山 | 三郎 | 成頼長男 | ?-1482 | 1482 | ↓ | |||||
吉見 頼興 | 三河守 | 伝法寺 一来徳陽 |
頼利 彦三郎 式部少輔 |
成頼二男 | 1482-1532 | 1532 | 内藤弘矩女 | ↓ | 大内家被官 | |||
吉見 隆頼 | 三河守 | 栄林源春 | 三郎 | 頼興二男 | 1532-39 | 1539 | ↓ | 大内家被官 | ||||
吉見 正頼 | 出羽守 | 月佐周鷹 | 式部四郎 三河守 大蔵大輔 |
頼興四男 | 1540-82 | 1588(76) | 大宮姫 (大内義興女) |
↓ | 大内家被官 1555- 毛利家被官 |
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吉見 広頼 | 三河守 | 秀巌舸テツ (足+育+攵) |
亀王丸 次郎 大蔵大輔 |
正頼長男 | 1582-89? | 1613(72) | 毛利隆元女 内藤隆春女 |
↓ 15,450石 |
毛利家臣 | |||
吉見 元頼 | 次郎兵衛 | 巨柏舜庭 | 次郎 | 広頼長男 | 1589?-94 | 1594(20) | 吉川元春女 | ↓ | 毛利家臣 | |||
吉見 広長 | 大蔵大輔 | 月庭清秋 | 広行 長次郎 |
広頼二男 | 1594-1618 | 1618(38) | 児玉景唯女 | ↓ 1600大井浦(長門)移転 10,000余石 1604出奔 1613帰参 蔵米200人扶持 1618自殺 |
毛利家臣 | |||
毛利就頼(広頼養子)が再興、長州毛利家臣として江戸中期以降は大野(周防)8,618石を知行。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
三沢 為長 | 三沢六郎 | 片切家の族 | 14C初頭? | 仁多郡三沢郷(出雲) | |||||||
(途中未詳) | |||||||||||
三沢 為忠 | 尾張守 | ?-1391 | 1391 | ↓ | |||||||
三沢 為時 | 三河守 | 為忠男 | ↓ | ||||||||
三沢 為忠 | 遠江守 | 為時男 | 15C後半 | ↓ 1509藤ヶ瀬城(出雲) |
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三沢 為国 | 左衛門尉 | 為忠 (遠江守)男 |
↓ | ||||||||
三沢 為幸 | 備前守 | 越中守 | 為忠 (遠江守)男 |
1540 | ↓ | ||||||
三沢 為清 | 下野守 | 文壮院 忠峰義寛 |
才童子丸 左京亮 宗程 |
為幸男 | 1540-74 | 1588(53) | ↓ | 1561〜 毛利家被官 |
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三沢 為虎 | 摂津守 | 覚天院 雲叟覚天 |
少輔八郎 | 為清男 | 1574-? | ↓ 藤ヶ瀬城10,000石 1600長門国内へ移転 |
毛利家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
尼子 持久 | 上野介 | 正雲寺 | 尼子高久 (京極高秀三男) の男 |
出雲国内 | 出雲守護代 | |||||||
尼子 清定 | 刑部少輔 | 洞光寺 華山常金 |
持久男 | ?-1477? | 馬木上野介女 | 月山富田城(出雲) | 出雲守護代 | |||||
尼子 経久 | 伊予守 | 興国院 月叟省心 |
又四郎 民部少輔 |
清定長男 | 1477?-1537 | 1541(84) | 吉川経基女 | ↓ (出雲・隠岐・石見・ 伯耆・安芸・備後 6か国支配) |
出雲守護代 1508自立 |
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尼子 政久 | 民部少輔 | 不白院 花屋常栄 |
又四郎 | 経久長男 | (早世) | 1518(26) | 山名兵庫頭女 | |||||
尼子 晴久 | 修理大夫 | 月光院 愚渓宗見 天威心勢 |
詮久 三郎四郎 民部少輔 |
政久長男 | 1537-60 | 1560(47) | 尼子国久女 | ↓ (美作・備中へ 進出するも1540 以後は版図縮小) |
1552-60 出雲・隠岐等 8国守護 |
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尼子 義久 | 右衛門督 | 大円心覚 | 三郎四郎 友林 |
晴久長男 | 1560-66 | 1610(71) | − | ↓ 1566失領 |
1588- 毛利家臣 1,000余石 |
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【新宮尼子家】 |
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尼子 国久 | 紀伊守 | 松巌良吟 | 孫四郎 刑部少輔 |
経久二男 | ?-1554 | 1554(63) | 新宮谷(出雲) 1554滅亡 |
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尼子 誠久 | 式部少輔 | 孫四郎 | 国久長男 | (父ととも に死す) |
1554 | |||||||
尼子 勝久 | 孫四郎 | 天雲宗清 | 誠久五男 | 1569-78 | 1578(26) | 1569再興 1578上月城(播磨) 同年滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔堀尾家〕 |
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堀尾 忠氏 | 従四位下 出雲守 |
忠光院 天岫世球 |
弥介 信濃守 |
堀尾吉晴二男 | 1600-04 | 1604(28) | 前田玄以女 | 1599浜松城襲封 120,000石 1600富田城 (出雲・隠岐二国一円) 240,000石 |
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堀尾 忠晴 | 従四位下 侍従 山城守 |
円成院 高堅世肖 |
三之介 | 忠氏長男 | 1604-33 | 1633(35) | 奥平家昌女 | ↓ 1608松江城へ移転 1633無嗣廃絶 |
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〔京極家〕 |
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京極 忠高 | 従四位下 左少将 若狭守 |
玄要寺 天慶道長 |
熊麿 | 京極高次長男 | 1634-37 | 1637(45) | 初 (徳川秀忠二女) |
1609小浜城(若狭)襲封 92,000石 1624加増 113,500石 1634松江城 (出雲・隠岐二国一円) 264,200石 1637無嗣 甥・高和が継嗣 竜野城(播磨) |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔坂崎家〕 |
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坂崎 直盛 | 従五位 出羽守 |
一峰玄秀 | 知家 直行 重長 信顕 詮家 正親 正勝 貞盛 成政 左京亮 |
宇喜多忠家長男 | 1601-16 | 1616 | 戸川秀安女 | 1592富山城(備前) 24,079石 1599退去 1601津和野城(石見) 30,000石 1616被殺廃絶 |
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〔亀井家〕 |
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亀井 政矩 | 従五位下 豊前守 |
悟叟浄頓 | 幸高 新十郎 大小丸 右兵衛佐 |
亀井茲矩二男 | 1617-19 | 1619(30) | 林 (松平康重女) |
1612鹿野城 (因幡)襲封 38,000石 1617津和野城 43,000石 |
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亀井 茲政 | 従五位下 豊前守 |
聖諦院 廓山義然 |
大力 能登守 |
政矩二男 | 1619-80 | 1680(64) | 金森重頼女 | ↓ | ||||
亀井 茲親 | 従五位下 隠岐守 |
竺仙院 法山祖応 |
松之助 能登守 |
茲政三男 | 1681-1731 | 1731(63) | 於六 (宗義真女) |
↓ | ||||
亀井 茲満 | 従五位下 因幡守 |
養寿院 崇月源光 |
松之丞 | 茲親六男 | 1731-36 | 1736(24) | 板倉重泰女 | ↓ | ||||
亀井 茲延 | 従五位下 豊前守 |
寛量院 仁岳道智 |
八十郎 真昌 満高 |
亀井茲長 (茲親長男) 長男 |
1736-43 | 1756(35) | 有馬則維女 | ↓ | ||||
亀井 茲胤 | 従五位下 信濃守 |
陽昇院 徳巌賢昶 |
徳蔵 隠岐守 |
松平頼明五男 | 1743-52 | 1752(27) | 富子 (茲延従妹 =養女) |
↓ | ||||
亀井 矩貞 | 従五位下 能登守 |
徳祥院 浄雲了海 |
吉三郎 三松斎 千山老人 綾松軒 磐山 |
菅沼定好 (茲親二男) 二男 |
1752-83 | 1814(76) | 伊東祐隆女 | ↓ | ||||
亀井 矩賢 | 従五位下 隠岐守 |
賢体院 崇隆泰翁 |
吉三郎 | 矩貞長男 | 1783-1819 | 1821(56) | 千恵 (松平忠啓女) |
↓ | ||||
亀井 茲尚 | 従五位下 大隅守 |
荘敬院 義質道順 |
謙次郎 敬次郎 珪次郎 |
矩貞五男 | 1819-30 | 1830(45) | 明子=潔 (阿部正由養女) |
↓ | ||||
亀井 茲方 | 従五位下 能登守 |
豊鶴院 翺翔玄空 |
桂次郎 | 茲尚三男 | 1831-39 | 1846(30) | 達 (松平康任女) |
↓ | ||||
亀井 茲監 | 神祇副知事 津和野藩知事 |
格助 勤斎 |
有馬頼徳二男 | 1839-71 | 1885(61) | 貢 (松平頼恕女) |
↓ 1871廃藩置県 |
養子・茲明の とき伯爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
〔古田家〕 |
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古田 重治 | 従五位下 大膳大夫 |
江雲院 古山道輝 |
古田重則二男 古田重勝 (兄)継嗣 |
1619-23 | 1625(48) | 丹羽長秀女 | 1606松坂城(伊勢)襲封 50,000石 1619浜田城(石見) 50,412石 |
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古田 重恒 | 従五位下 兵部少輔 |
休岩寺 関雄宗三 |
希代丸 | 古田重勝長男 | 1623-48 | 1648(46) | 重治女 | ↓ 1648無嗣廃絶 |
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〔松平(松井)家(前期)〕 |
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松平 康映 | 従五位下 周防守 |
雲峰院 照誉浄閑 |
松千代丸 淡路守 |
松平康重二男 | 1649-74 | 1674(60) | 岡部宣勝女 | 1641山崎城(播磨) 50,422石 1649浜田城 |
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松平 康官 | 従五位下 周防守 |
泰嶺院 相誉寂道至閑 優山 |
康長 康賛 康程 松千代丸 主計頭 (致仕後) 弾正少弼 |
康映三男 | 1675-1705 | 1727(71) | 阿部正能女 | ↓ | ||||
松平 康員 | 従五位下 周防守 |
泰厳院 安誉智性春道 |
康博 康倫 仙次郎 源之助 采女正 和泉守 備中守 (致仕後) 伊勢守 |
康官長男 | 1705-09 | 1713(35) | 久世重之女 | ↓ | ||||
松平 康豊 | 従五位下 周防守 |
盛徳院 愍誉興仁游和 |
伝十郎 式部 丹下 |
松平康郷 (康重孫) 長男 |
1709-35 | 1735(51) | 亀井矩致養女 | ↓ | ||||
松平 康福 | 1736-59 | (下段参照) | ||||||||||
〔本多家〕 |
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本多 忠敞 | 従五位下 中務大輔 |
禅竜院 涼誉智海義蟠 |
従之助 美濃守 |
本多忠良二男 | 1759 | 1759(33) | 牧野貞通女 | 1751古河城(下総)襲封 50,000石 1759浜田城 |
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本多 忠盈 | 従五位下 中務大輔 |
元徳院 仁誉智興永崇 |
忠休 久米之助 平八郎 |
真田信弘六男 | 1759-67 | 1767(36) | 忠敞女 | ↓ | ||||
本多 忠粛 | 従五位下 中務大輔 |
忠丘 幾久松 平八郎 |
忠敞二男 | 1767-69 | 1777(19) | 牧野貞長女 | ↓ 1769岡崎城(三河)転封 |
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〔松平(松井)家(後期)〕 |
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松平 康福 | 従四位下 侍従 周防守 |
自通院 霊誉冲寂妙閑 |
弥三郎 団之助 |
松平康豊長男 | 1769-89 | 1789(71) | 土岐頼稔女 | 1736浜田城襲封 50,422石 1759古河城(下総) 1762岡崎城(三河) 1769浜田城 1785加増 60,422石 |
老中 | |||
松平 康定 | 従五位下 周防守 |
清崇院 順誉徳風民興 |
吉五郎 左京亮 |
前田房長三男 | 1789-1807 | 1807(61) | 峯(康福女) | ↓ | 寺社奉行 | |||
松平 康任 | 従四位下 侍従 周防守 |
寛裕院 譲誉温良惟徳 |
軍次郎 岩吉郎 |
松平康道長男 | 1807-35 | 1841(62) | 万喜(康定女) | ↓ | 老中 | |||
松平 康爵 | 従五位下 周防守 |
左近将監 | 康任長男 | 1835-36 | 1868(59) | 堅 (稲葉雍通女) |
↓ 1836棚倉城(陸奥)転封 |
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〔松平(越智)家〕 |
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松平 斉厚 | 従四位上 左少将 右近将監 |
大功院 昇山 |
武厚 久五郎 |
松平武寛長男 | 1836-39 | 1839(57) | 仲 (松浦清女) |
1784館林城(上野)襲封 61,000石 1836浜田城 |
寺社奉行 | |||
松平 武揚 | 従四位下 右近将監 |
大乗院 詣山 |
鋭之助 | 松平頼恕三男 | 1839-42 | 1842(16) | 斉厚女 | ↓ | ||||
松平 武成 | 従五位下 右近将監 |
大憲院 鋭岳 |
寧四郎 鎖之丞 |
松平義建三男 | 1842-47 | 1847(23) | 千重 (徳川斉匡女) |
↓ | ||||
松平 武聡 | 従四位下 侍従 右近将監 |
十郎麿 昭音 |
徳川斉昭十男 | 1847-67 | 1882(41) | 寿子 (堀田正睦女) |
↓ 1866長州藩に 敗れ浜田放棄 1867飛地鶴田 (美作)へ移転 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
松平 直政 | 従四位上 左少将 出羽守 |
高真院 一空歓誉 道喜 |
河内麿 国麿 出羽介 |
結城秀康三男 | 1638-66 | 1666(66) | 久(松平忠良女) | 1633松本城(信濃) 70,000石 1638松江城(出雲一国) 186,000石 |
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松平 綱隆 | 従四位下 侍従 出羽守 |
宝山院 高誉元真 道徹 |
久松丸 信濃守 |
直政長男 | 1666-75 | 1675(45) | 亀(松平忠昌女) | ↓ | ||||
松平 綱近 | 従四位下 侍従 出羽守 |
隆元院 光誉円真 道祐 |
綱周 万助 甲斐守 (致仕後) 外記 |
綱隆四男 | 1675-1704 | 1709(51) | 松平良尚女 | ↓ | ||||
松平 吉透 | 従四位下 侍従 出羽守 |
源林院 真誉覚道 俊巌 |
近憲 幸松丸 頼母 民部少輔 |
綱隆五男 | 1704-05 | 1705(38) | 菅(松平昌勝女) | ↓ | ||||
松平 宣維 | 従四位下 左少将 出羽守 |
善隆院 大誉寛海 澄心 |
直郷 宣澄 荘五郎 |
吉透二男 | 1705-31 | 1731(34) | 順(佐竹義処女) 光子 (伏見宮邦永親王王女) |
↓ | ||||
松平 宗衍 | 従四位下 左少将 出羽守 |
天隆院 仁誉義蘊 |
幸千代 (致仕後) 主計頭 南海 |
宣維長男 | 1731-67 | 1782(54) | 常(松平明矩女) | ↓ | ||||
松平 治郷 | 従四位下 左少将 出羽守 |
大円院 不昧宗納 |
治好 鶴太郎 佐渡守 蘭室 笠沢 一々斎 |
宗衍二男 | 1767-1806 | 1818(68) | 方子(伊達宗村女) | ↓ | ||||
松平 斉恒 | 従四位下 侍従 出羽守 |
月潭院 露滴宗潔 |
鶴太郎 出雲守 瓢庵 |
治郷長男 | 1806-22 | 1822(32) | 芳(細川斉茲女) 英(酒井忠道女) |
↓ | ||||
松平 斉貴 | 従四位上 左少将 出羽守 |
直指庵 竹林瑶光 |
直貴 鶴太郎 (致仕後) 斉斎 |
斉恒長男 | 1822-53 | 1863(49) | 光(鍋島斉直女) | ↓ | ||||
松平 定安 | 松江藩知事 | 徳広 直利 済三郎 出羽守 出雲守 |
松平斉孝七男 | 1853-71 | 1882(48) | 煕(斉貴女) | ↓ 1871廃藩置県 |
息子・直亮 のとき伯爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在任 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
松平 近栄 | 従五位下 上野介 |
法雲院 松蔭宗長 |
大助 | 松平直政二男 | 1666-1702 | 1717(86) | 1666松江藩 松平家より分家 広瀬(出雲)30,000石 1682落度減封15,000石 1686加増20,000石 1694加増30,000石 |
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松平 近時 | 従五位下 式部少輔 |
瑞岸院 覚誉正徹了道 |
大助 | 近栄長男 | 1702 | 1702(44) | ↓ | ||||
松平 近朝 | 従五位下 飛騨守 |
円徳院 然誉宗閑廓翁 |
近信 安次郎 大助 兵庫 隼人正 |
近時長男 | 1702-28 | 1728(48) | ↓ | ||||
松平 近明 | 従五位下 近江守 |
瑞雲院 峰誉猪寛了仁 |
近房 亀之助 玄蕃 大蔵 肥前守 式部少輔 |
近時四男 | 1728-49 | 1755(54) | ↓ | ||||
松平 近輝 | 従五位下 式部少輔 |
成覚院 寛誉奇雲映岳 |
多一郎 式部 |
近明長男 | 1749-57 | 1757(28) | ↓ | ||||
松平 近貞 | 従五位下 淡路守 |
本源院 体誉理門寿楽 |
近峰 麟三郎 大蔵 (致仕後) 大内記 |
近明三男 | 1757-73 | 1785(53) | ↓ | ||||
松平 直義 | 従五位下 上野介 |
本覚院 真誉諦還浄空 |
長善 近義 久松 主税 淡路守 |
松平長孝二男 | 1773-1803 | 1803(50) | ↓ | ||||
松平 直寛 | 従四位下 宮内大輔 |
徳寿院 仁誉義風冷然 |
麟三郎 掃部助 主税助 大蔵少輔 佐渡守 |
近貞長男 | 1803-50 | 1850(68) | ↓ 1850城主格 |
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松平 直諒 | 従五位下 佐渡守 |
成徳院 賢道文哲 |
大助 沾嶺 玉峯 浩斎 |
直寛長男 | 1850-61 | 1861(45) | ↓ | ||||
松平 直巳 | 広瀬藩知事 | 盛吉 佐渡守 |
直寛十一男 | 1861-71 | 1917(86) | ↓ 1871廃藩置県 |
養子・直平 のとき子爵 |
松平隆政(従五位下・右近大夫。松江藩主松平直政三男。1666分家、蔵米10,000石。1673無嗣)⇒直丘(従五位下・志摩守。 松江藩主松平直政四男。1673再興、蔵米10,000石、1684出雲母里)⇒直員(従五位下・志摩守)−直道(従五位下・大隅守)⇒ 直行(従五位下・兵庫頭)⇒直ロ(従五位下・美作守)⇒直方(従五位下・志摩守)−直興(従五位下・志摩守)⇒直温 (従五位下・志摩守)−直哉(母里藩知事。1871廃藩。のち子爵) |
(2007.12.10up)
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