山口県は古くは周防・大島・都怒・与之岐・阿武・穴門などの国造が支配していましたが、大化の改新により周芳(→周防)・穴門(→長門)の二国に統合されました。『延喜式』では、周防は6郡、長門は5郡(のち6郡)。平安朝期の荘園では、周防に東大寺が椹野荘・宮野荘などを置いて支配を拡大、長門では大嶺荘(石清水八幡宮)などがありました。鎌倉期は、長門では中期以後北条一門が守護に任ぜられましたが、周防は東大寺造営料園となって武家の守護職は形式のみであり、在庁官人の大内家が次第に勢力を増して東大寺と対立しました。南北朝期に大内家は周防の守護となり、のち長門守護厚東家を駆逐、室町期を通して防長二国を支配し、戦国期に至りました。1551年に大内義隆が陶晴賢に殺害されると、大内家は急速に没落し、1557年、安芸の毛利元就に滅ぼされました。毛利家は豊臣秀吉の天下経略に従って、これに服属しましたが、1600年の関ヶ原の戦で石田方として参戦したため、徳川家康によって防長二国のみに押し込められました。江戸期には毛利家が長州藩(萩藩、幕末には山口藩)として領国支配を行い、長門府中など4つの支藩が分封されていました。1871年の廃藩置県により山口県となりました。
厚東家 大内家=周防守護職 鷲頭家 問田家 陶家 内藤家 仁保(三浦)家 毛利家→長州藩 毛利(伊予守)家→長門府中藩/豊浦藩 清末藩=毛利家 徳山藩=毛利家 岩国藩=吉川家 三丘邑主宍戸家 右田邑主毛利家 吉敷邑主毛利家 須佐邑主益田家 宇部邑主福原家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
厚東 武忠 | 道雲 | 厚東郡本主 | 10世紀後半? | 厚狭棚井(長門) | |||||||
厚東 武基 | 厚東大夫 | 武忠男 | ↓ | ||||||||
厚東 武通 | 武基男 | ↓ | |||||||||
厚東 武綱 | 白松大夫 | 武通男 | ↓ | ||||||||
厚東 武仁 | 武綱男 | ↓ | |||||||||
厚東 武晴 | 厚東小大夫 | 武仁男 | ↓ | ||||||||
厚東 武光 | 厚東郡司 | 念西 | 武晴男 | 12世紀末 | ↓ 霜降城を築く |
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厚東 武景 | 厚東郡司 | 寂尊 | 武光男 | 13世紀初頭 | 1219/21 | ↓ | |||||
厚東 武能 | 左衛門尉 | 見西 | 厚東小大夫 | 武景男 | 13世紀中葉 | ↓ | |||||
厚東 武朝 | 新左衛門尉 | 照山 | 武能長男 | ↓ | |||||||
厚東 武時 | 覚西 | 武朝長男 | ↓ | ||||||||
厚東 武政 | 道西 | 武時長男 | ↓ | ||||||||
厚東 武仲 | 覚道 | 西賀入道 | 武政長男 | ↓ | |||||||
厚東 武実 | 太郎左衛門尉 | 崇西 | 武仲長男 | ?-1348 | 1348 | ↓ | 1334〜長門守護 | ||||
厚東 武村 | 駿河権守 | 武実長男 | 1348-51 | 1351 | ↓ | 長門守護 | |||||
厚東 武直 | 長門守 | 駿河太郎 | 武村長男 | 1351-53 | 1353 | ↓ | 長門守護 | ||||
厚東 義武 | 越後守 | 長門守 左衛門尉 |
武直長男 | 1353-58 | ? | ↓ 1358失領 |
長門守護 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
多々良 正恒 | 10世紀? | 吉敷郡大内(周防) | ||||||||||
多々良 藤根 | 正恒男 | ↓ | ||||||||||
多々良 宗範 | 藤根男 | ↓ | ||||||||||
多々良 茂村 | 宗範男 | ↓ | ||||||||||
多々良 保盛 | 茂村男 | ↓ | ||||||||||
多々良 弘真 | 宮野郷本主 | 保盛男 | ↓ | |||||||||
多々良 貞長 | 弘真男 | ↓ | ||||||||||
多々良 貞成 | 貞盛 | 貞長長男 | ↓ | |||||||||
大内 盛房 | 周防権介 (大内介) |
貞成長男 | 12世紀後半 | ↓ | ||||||||
大内 弘盛 | 周防権介 | 盛房長男 | 1200前後 | ↓ | ||||||||
大内 満盛 | 周防権介 | 弘盛長男 | ↓ | |||||||||
大内 弘成 | 従五位下 長門守 |
大内介 周防介 |
満盛長男 | ↓ | ||||||||
大内 弘貞 | 従五位下 周防介 |
覚浄 | 弘盛長男 | 1286? | ↓ | |||||||
大内 弘家 | 正六位上 周防介 |
大宮寺 円浄 |
矢田太郎 大宮太郎 大内介 |
弘貞長男 | ?-1300 | 1300 | ↓ | |||||
大内 重弘 | 正六位上 周防権介 |
乗福寺 道山浄恵 |
弘家長男 | 1300-20 | 1320 | ↓ | ||||||
大内 弘幸 | 正六位上 周防権介 |
永興寺 寒巌妙厳 |
重弘長男 | 1320-52 | 1352 | ↓ | ||||||
大内 弘世 | 従五位上 修理大夫 |
正寿院 玄峯道階 |
孫太郎 大内介 |
弘幸長男 | 1352-80 | 1380 | ↓ 1360山口を拠点 |
1358〜長門守護 1363〜周防守護 1366-76石見守護 | ||||
大内 義弘 | 従四位上 左京大夫 |
香積寺 秀山仏実 梅窓道実 |
孫太郎 周防介 有繁 |
弘世長男 | 1380-99 | 1399(44) | 周防・長門一円 | 周防・長門・石見 ・豊前守護 1392〜紀伊・ 和泉守護 | ||||
大内 弘茂 (対立当主) |
大内介 | 真休院 日菴浄永 |
新介 | 弘世七男 | 1399-1401 (対立) |
1401 | 1400〜 周防・長門守護 | |||||
大内 盛見 | 従四位上 左京大夫 |
国清寺 大先徳雄 |
六郎 大内介 周防守 古覚 道雄 |
弘世六男 | 1399-1431 | 1431(56) | ↓ | 1402〜 周防・長門守護 1408〜 豊前・筑前守護 | ||||
大内 持世 | 従四位上 修理大夫 |
澄清寺 道巌正弘 |
九郎 大内介 刑部少輔 左京大夫 |
義弘長男 | 1431-41 | 1441(48) | 周防・長門・ 筑前一円 |
周防・長門・ 豊前・筑前守護 | ||||
大内 教弘 | 従四位下 大膳大夫 贈従三位 |
闢雲寺 大基教弘 |
六郎 大内介 周防介 周防権守 左京大夫 |
盛見二男 | 1441-65 | 1465(46) | ↓ | 周防・長門・ 豊前・筑前守護 | ||||
大内 政弘 | 従四位上 左京大夫 贈従三位 |
法泉寺 直翁真正 |
亀童丸 太郎 大内介 周防権守 |
教弘長男 | 1465-94 | 1495(50) | ↓ | 周防・長門・ 豊前・筑前守護 | ||||
大内 義興 | 従三位 左京大夫 |
凌雲寺 傑叟義秀 |
亀童丸 六郎 大内介 |
政弘長男 | 1494-1528 | 1528(52) | ↓ | 周防・長門・ 筑前守護 1495?〜安芸守護 1509〜豊前守護 1517〜石見守護 | ||||
大内 義隆 | 従二位 兵部卿 侍従 大宰大弐 |
竜福寺 瑞雲珠天 |
亀童丸 大内介 左京大夫 左兵衛権佐 兵部権大輔 伊予介 |
義興長男 | 1528-51 | 1551(45) | 貞子 (万里小路 季房女) |
↓ | 周防・長門・ 豊前・筑前・ 安芸・備後・ 石見守護 | |||
大内 義長 | 従四位下 左京大夫 |
幻性院 真海珠珍 |
晴英 塩乙丸 八郎 大内介 |
大友義鑑二男 (義興外孫) |
1551-57 | 1557 | ↓ 1557滅亡 |
周防・長門守護 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
鷲頭 盛保 | 但馬守 | 三郎 | 大内盛房三男 | 13世紀初頭 | 都濃郡鷲頭荘(周防) | ||||||
鷲頭 親盛 | 筑前守 | 盛保男 | ↓ | ||||||||
鷲頭 禅恵 (尼) |
親盛女 | ↓ 中絶 |
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大内 長弘 | 豊前守 | 大内弘家二男 | ?-1351/2 | 1351/2 | 再興 鷲頭荘 | 1333〜周防守護 | |||||
大内 弘直 | 民部大輔 | 美作守 | 長弘二男 | 1351/2-? | ? | ↓ | 周防守護〜1354 | ||||
鷲頭 弘為 | 刑部少輔 | 鷲頭盛継 (長弘四男)の男 |
? | 1401? | 不明 | ||||||
鷲頭 弘忠 | 治部少輔 | 護国寺 宗翁宗忠 |
盛範 孫三郎 肥前守 |
弘為男 | ?-1448 | 1448 | 不明 1448大内家により誅殺 |
長門守護代 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
問田 長房 | 三郎 | 平大夫 | 大内盛房二男 | 13世紀初頭 | 吉敷郡問田(周防) | 大内家被官 (以下同) |
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問田 弘経 | 長房男 | ↓ | |||||||||
問田 成経 | 太郎 | 弘経男 | ↓ | ||||||||
問田 経貞 | 成経男 | ↓ | |||||||||
問田 重成 | 五郎 | 覚性 | 経貞男 | ↓ | |||||||
問田 貞世 | 備中守 | 太郎 掃部助 |
重成男 | ↓ | |||||||
問田 盛成 | 備中守 | 貞世男 | ↓ | ||||||||
問田 弘綱 | 備中守 | 盛成男 | ↓ | 石見守護代 | |||||||
問田 弘胤 | 大蔵少輔 | 掃部助 備中守 |
弘綱男 | 1507 | ↓ | ||||||
問田 興之 | 備中守 | 掃部助 | 弘胤男 | ↓ | |||||||
問田 隆盛 | 備中守 | 十郎 丹後守 |
興之男 | ?-1555 | 1555 | ↓ | 石見守護代 | ||||
問田 弘胤 | 民部少輔 | 隆盛男 | ? | ↓ | |||||||
問田 房胤 | 備中守 | 弘胤 (民部少輔)男 |
?-1557 | 1557 | ↓ 1557滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
陶 弘賢 | 六郎 | 海印寺 道意 |
弘景 | 右田弘俊二男 | 13世紀後半 | 陶(周防) | 大内家被官 (以下同) | |||||
陶 弘政 | 越前守 | 春林道栄 | 五郎 | 弘賢長男 | 富田若山城(周防) | |||||||
陶 弘長 | 尾張守 | 道琳 | 三郎 | 弘政長男 | ↓ | 長門守護代 | ||||||
陶 盛長 | 中務少輔 | 三郎 治部少輔 |
陶弘綱 (弘賢四男)男 |
↓ | ||||||||
陶 盛政 | 越前守 | 竜文寺 大造釣公 |
徳房 五郎 |
盛長長男 | ?-1445 | 1445 | ↓ | 周防守護代 | ||||
陶 弘正 | 越前太郎 | 盛政長男 | 1445-65 | 1465(21) | ↓ | |||||||
陶 弘房 | 越前守 | 泉福院 瑠璃光寺 文月道周 |
三郎五郎 中務少輔 |
盛政二男 | 1465-68 | 1468 | 仁保盛郷女 | ↓ | ||||
陶 弘護 | 尾張守 | 昌竜院 建忠孝勲 |
鶴寿丸 五郎 越前守 |
弘房長男 | 1468-82 | 1482(28) | 益田兼堯女 | ↓ | 周防守護代 | |||
陶 弘詮 | 従五位下 安房守 |
中務 兵庫頭 |
弘房二男 | (番代) | ||||||||
陶 興房 | 尾張守 | 大幻院 透麟道麒 |
三郎 中務少輔 |
弘護三男 | 1482-1539 | 1539 | 弘詮女 | ↓ | 周防守護代 | |||
陶 晴賢 | 従五位上 尾張守 |
卓錐軒 呂翁全薑 |
隆房 五郎 中務大輔 |
興房二男 | 1539-55 | 1555(35) | 内藤隆時女 | ↓ | 周防守護代 | |||
陶 長房 | 兵部少輔 | 龐英洪公 | 鶴寿丸 四郎 右馬助 |
晴賢長男 | 1555 | 1555 | ↓ 1555父とともに 敗戦、失領、自殺 |
|||||
陶 鶴寿丸 | 長房長男 | 1555-57 | 1557 | 1557滅亡 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
内藤 盛遠 | 従五位下 筑前守 |
藤原祐覚男 | 12世紀中葉 | 末武(周防) | ||||||||
内藤 盛定 | 左衛門尉 | 盛遠男 | ↓ | |||||||||
内藤 盛家 | 左衛門尉 | 盛定男 | 1231(73) | 摂津守師茂女 | ↓ | |||||||
内藤 盛時 | 従五位上 肥後守 |
盛家男 | 1254(65) | ↓ | ||||||||
内藤 有盛 | 岩国小二郎 | 覚阿 | 徳正丸 七郎 |
盛時男 | ↓ | |||||||
内藤 時信 | 肥後守 | 生西 | 孫六郎 | 有盛男 | 弘中兼綱女 | ↓ | ||||||
内藤 盛兼 | 肥後守 | 良覚 | 弥六郎 | 時信長男 | ↓ | |||||||
内藤 盛秀 | 肥後守 | 俊阿 | 徳若丸 | 盛兼男 | ↓ | |||||||
内藤 盛信 | 肥後守 | 知覚 | 忠盛 孫六 左近将監 |
時信二男 | 1350 | 勝間田忠保女 | ↓ | |||||
内藤 盛世 | 遠江守 | 智陽 | 徳益丸 肥後太郎 |
盛信長男 | 1391 | ↓ | ||||||
内藤 盛貞 | 肥後守 | 智得清叟 | 盛世長男 | 1438(81) | ↓ | 大内家被官 (以下同) 長門守護代 | ||||||
内藤 盛貞 | 美濃守 | 有貞実仲 | 蔵人允 | 盛貞(肥後守) 二男 |
1454(69) | 沓屋某の女 | ↓ | 長門守護代 | ||||
内藤 盛世 | 肥後守 | 統宥寛岩 | 大炊助 下野守 |
盛貞(美濃守) 長男 |
1468(54) | ↓ | 長門守護代 | |||||
内藤 武盛 | 中務丞 | 盛世長男 | ↓ | |||||||||
内藤 弘矩 | 肥後守 | 常珍玉湲 | 弥七 弾正忠 |
盛世二男 | ?-1495 | 1495(50) | ↓ | 長門守護代 | ||||
内藤 弘春 | 掃部頭 | 統昌桂蔭 | 盛世三男 | 1497-1502 | 1502 | ↓ | 長門守護代 | |||||
内藤 興盛 | 従五位下 下野守 |
西方寺 法誉知覚 |
彦太郎 弾正忠 左衛門尉 |
弘春長男 | 1503-51? | 1553(63) | 弘矩女 | ↓ | 長門守護代 | |||
内藤 隆時 | 左京大進 | 興盛長男 | (早世) | 1541 | 益田宗兼女 | |||||||
内藤 隆世 | 弾正忠 | 彦太郎 修理進 下野守 |
隆時長男 | 1551?-57 | 1557(22) | ↓ 1557自殺 |
長門守護代 | |||||
内藤 隆春 | 従五位下 左衛門大夫 |
澄月院 照山浄光 周竹 |
隆通 亦二郎 |
興盛八男 | 1557-91後 | 1600(83) | 吉見隆頼女 原田某の女 阿座上盛豊女 |
1557宗家継承 荒滝山城(長門)駐在 |
毛利家被官 長門守護代 | |||
内藤 元盛 | 修理大夫 | 称揚院 亨山元貞 |
佐野道可 | 宍戸元秀二男 | 1591後-1600 | 1615(50) | 隆春女 | ↓ 1600後退去 1615自殺 |
毛利家臣 | |||
志道元宣(元盛孫)が長州毛利家に再出仕、その子・隆昌のとき内藤に復し、子孫は1,300余石の寄組(重臣)として存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
三浦 重経 | 太郎 | 西仁 | 木工助 | 三浦通継男 | 吉敷郡仁保郷(周防) | ||||||
平子 重資 | 左衛門尉 | 念阿 | 重経男 | ↓ | |||||||
平子 重貞 | 太郎兵衛尉 | 重貞 | 重資男 | ↓ | |||||||
平子 重親 | 兵衛三郎 | 唯如 | 重貞男 | 1298 | ↓ | ||||||
平子 重有 | 彦六郎 | 覚本 | 重親男 | ↓ | |||||||
平子 重嗣 | 彦三郎 | 帰覚 | 重有男 | ↓ | |||||||
平子 氏重 | 小三郎 | 嗣源 | 重嗣男 | 1357(30) | ↓ | ||||||
平子 重世 | 出羽守 | 愛山仁公 | 氏重男 | 1372(23) | ↓ | ||||||
平子 貞重 | 因幡守 | 徳翁民公 | 氏重男 | 1386? | ↓ | ||||||
平子 重房 | 因幡守 | 悟山省公 | 修理亮 | 貞重男 | ↓ | ||||||
仁保 重頼 | 因幡守 | 桃隠仙公 | 次郎 | 貞重男 | ↓ | ||||||
仁保 盛郷 | 上総介 | 春林栄公 | 平子重郷男 | ↓ | 大内家被官 (以下同) |
||||||
仁保 弘有 | 上総介 | 実渓誠公 | 宮内少輔 | 盛郷男 | ?-1470 | 1499 | ↓ | ||||
仁保 護郷 | 左近将監 | 篤岩信公 | 弘有男 | 1470-1501 | 1501 | ↓ | |||||
仁保 興棟 | 宮内少輔 | 大竜勲公 | 護郷男 | 1501-19 | 1519 | ↓ | |||||
仁保 長光丸 | 玉光 | 興棟男 | 1519 | 1519 | ↓ | ||||||
仁保 左衛門尉 | 勝翁祥英 | 興貞? 二郎? |
護郷男? | 1519? | ↓ | ||||||
仁保 興奉 | 上総介 | 雲峰道暁 | 興棟男 | ?-1539 | 1539(23) | ↓ | |||||
仁保 隆在 | 上総介 | 養徳院 梅岩浄春 |
吉田元種二男 | 1539-66 | 1566 | ↓ | 毛利家被官 | ||||
仁保 元氏 | 宮内少輔 | 蓮光院 無外宗本 |
元棟 宮松 少輔三郎 |
吉川元春二男 | 1567-87 | 1631(76) | ↓ | 毛利家臣 | |||
三浦 元忠 | 従五位下 兵庫頭 |
性乾院 竜徳乾大 |
惣四郎 | 神田某の男 | 1587-96 | 1596(42) | ↓ 1591亀山城(周防) 16,688石 |
毛利家臣 | |||
三浦 虎法師 | 世良元精男 | 1596-? | ? | ↓ 早世、中絶 |
毛利家臣 | ||||||
三浦元精(世良美作守男、虎法師の実父)が1600年に813石で再興、長州毛利家臣として存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | ||||
1 | 毛利 季光 | 従五位下 左近将監 蔵人 |
浄阿 西阿 |
四郎 豊後守 |
大江広元四男 | ?-1247 | 1247(46) | 三浦義村女 | 毛利荘(相模)・ 佐橋荘(越後)・ 吉田荘(安芸) など |
||||
2 | 毛利 経光 | 従五位下 右近将監 |
寂仏 | 蔵人 | 季光四男 | 1247-86 | ? | 佐橋荘・吉田荘 | |||||
3 | 毛利 時親 | 従五位下 刑部少輔 |
了禅 | 四郎 修理亮 |
経光四男 | 1286-1333 | 1341 | 亀谷局 (長崎泰綱女) |
吉田荘 | (庶子家) | |||
4 | 毛利 貞親 | 従五位下 右近将監 |
朗乗 | 次郎 | 時親長男 | − | 1351 | ↓ | (南朝方) | ||||
5 | 毛利 親衡 | 従五位下 陸奥守 |
宝乗 | 親茂 孫太郎 備中守 |
貞親長男 | − | 1375 | 三田某の女 | ↓ (一時、元春と対立) |
(南朝方) | |||
6 | 毛利 元春 | 従五位下 右馬頭 |
元阿 | 師親 少輔太郎 左近将監 権大丞 |
親衡長男 | 1333-81 | ? | ↓ | |||||
7 | 毛利 広房 | 治部大輔 | 亀若丸 | 元春長男 | 1381-85 | 1385 | ↓ | ||||||
8 | 毛利 光房 | 右馬頭 | 浄済 | 之房 備中守 |
広房長男 | 1386-1436 | 1436(51) | ↓ | |||||
9 | 毛利 煕元 | 備中守 | 大通院 大樹光茂 |
煕房 少輔太郎 治部少輔 |
光房長男 | 1436-64 | 1464 | ↓ | |||||
10 | 毛利 豊元 | 治部少輔 | 広修寺 月江常澄 |
松寿丸 少輔太郎 |
煕元長男 | 1464-76 | 1476(33) | ↓ | |||||
11 | 毛利 弘元 | 備中守 | 悦叟常喜 | 千代寿丸 少輔太郎 治部少輔 |
豊元長男 | 1476-1506 | 1506(39) | 福原広俊女 | ↓ | ||||
12 | 毛利 興元 | 治部少輔 | 秀岳院 常松 |
幸千代丸 少輔太郎 |
弘元長男 | 1506-16 | 1516(24) | 高橋某の女 | ↓ | ||||
13 | 毛利 幸松丸 | 明巌紹光 | 興元二男 | 1516-23 | 1523(9) | ↓ | |||||||
14 | 毛利 元就 | 従四位上 陸奥守 贈従三位 |
洞春寺 日頼洞春 |
少輔次郎 治部少輔 右馬頭 |
弘元三男 | 1523-46 | 1571(75) | 妙玖 (吉川国経女) 三吉某の女 乃美弘平女 小幡某の女 |
↓ (1541安芸国衆 を傘下に) |
||||
15 | 毛利 隆元 | 従四位下 大膳大夫 |
常栄寺 華渓常栄 |
少輔太郎 備中守 |
元就長男 | 1546-63 | 1563(41) | 大内義隆養女 (内藤興盛女) |
↓ (1554までに 安芸・備後 一円制圧 1557周防・長門・ 石見三国を領有) |
1560安芸守護 1562備後・ 長門守護 | |||
16 | 毛利 輝元 | 従三位 権中納言 |
天樹院 雲巌宗瑞 幻庵 |
幸鶴丸 少輔太郎 右衛門督 右馬頭 |
隆元長男 | 1563-1600 | 1625(73) | 宍戸隆家三女 | ↓ (1566出雲・隠岐を 征服、七国支配) 1585本領安堵 1591広島(安芸)に居城 1,120,000石 1600失脚 |
1597-1600 大老(豊臣家) | |||
17 | 毛利 秀就 | 従四位下 右少将 長門守 |
大照院 月礀紹澄 |
松寿丸 藤七郎 |
輝元長男 | 1600-51 | 1651(57) | 喜佐 (結城秀康女) |
1600周防・長門 二国に減封 萩(長門)に居城 369,411石 |
1608 公称松平姓 | |||
18 | 毛利 綱広 | 従四位下 侍従 大膳大夫 |
泰巌院 清高亮安 |
千代熊丸 | 秀就四男 | 1651-82 | 1689(51) | 千(松平忠昌女) 房(梨木永祐女) |
↓ | ||||
19 | 毛利 吉就 | 従四位下 侍従 長門守 |
寿徳院 大光元栄 |
元千代丸 | 綱広長男 | 1682-94 | 1694(27) | 亀(酒井忠隆女) | ↓ | ||||
20 | 毛利 吉広 | 従四位下 侍従 大膳大夫 |
青雲院 徹山道照 |
就勝 千之助 主膳 |
綱広二男 | 1694-1707 | 1707(35) | 小石 (鷹司兼煕養女) |
↓ | ||||
21 | 毛利 吉元 | 従四位下 侍従 長門守 |
泰桓院 仰岳浄高 |
元倚 又四郎 右京大夫 民部大輔 |
毛利綱元長男 | 1707-31 | 1731(55) | 品 (池田綱政女) |
↓ | ||||
22 | 毛利 宗広 | 従四位下 侍従 大膳大夫 |
観光院 天倫常沢 |
維広 百合助 大膳 |
吉元五男 | 1731-51 | 1751(35) | 勝 (松平宗昌女) |
↓ | ||||
23 | 毛利 重就 | 従四位下 左少将 大膳大夫 |
英雲院 祐山如靖 |
元房 匡敬 岩之允 甲斐守 (致仕後) 式部大輔 |
毛利匡広十男 | 1751-82 | 1789(65) | 登代 (立花貞俶女) |
↓ | ||||
24 | 毛利 治親 | 従四位下 侍従 大膳大夫 |
容徳院 仁山応寿 |
徳元 治元 岩之允 壱岐守 |
重就四男 | 1782-91 | 1791(38) | 節 (田安宗武女) |
↓ | ||||
25 | 毛利 斉房 | 従四位下 侍従 大膳大夫 |
靖恭院 澹雲如祥 佳暁 西山 其水 |
維房 義二郎 |
治親長男 | 1791-1809 | 1809(28) | 幸子(=栄宮。 有栖川宮織仁 親王王女) |
↓ | ||||
26 | 毛利 斉煕 | 従四位下 左少将 大膳大夫 |
清徳院 天安道寧 蘭斎 柏堂 |
煕成 憲煕 保三郎 |
治親四男 | 1809-24 | 1836(54) | 三津子 (松平治道女) |
↓ | ||||
27 | 毛利 斉元 | 従四位下 左少将 大膳大夫 |
邦憲院 慈峰真秀 柳桜亭 |
房昌 教元 豊之允 弾正 式部大輔 宮内大輔 |
毛利親著 (重就六男) 長男 |
1824-36 | 1836(43) | 由美子 (斉煕女) |
↓ | ||||
28 | 毛利 斉広 | 従四位下 左少将 大膳大夫 |
崇文院 天常端誠 泰斎 |
崇広 保三郎 修理大夫 |
斉煕三男 | 1836 | 1836(23) | 操子(=和。 徳川家斉女) |
↓ | ||||
29 | 毛利 敬親 | 従二位 権大納言 |
忠正公 | 教明 慶親 猷之進 大膳大夫 |
斉元長男 | 1837-69 | 1871(53) | 都美子 (毛利親安養女。 斉広女) |
↓ 1863山口(周防) 藩庁移転 |
1864毛利姓に 復す | |||
30 | 毛利 元徳 | 山口藩知事 | 広封 定広 騄尉 長門守 |
毛利広鎮十男 | 1869-71 | 1896(58) | 安子 (敬親養女) |
↓ 1871廃藩置県 |
公爵 貴族院議員 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
毛利 元清 | 従五位下 伊予守 |
洞雲寺 笑山常快 |
少輔四郎 治部大輔 |
毛利元就四男 | ?-1597 | 1597(47) | 来島通康女 | 1570以前 桜尾城(安芸) 1575 猿掛城(備中) 1597没後、一時中絶 |
はじめ穂田 を称し、後 毛利に復す |
|||
毛利 秀元 | 正三位 参議 甲斐守 |
智門寺 功山玄誉 |
宮松丸 右京大夫 伊予守 |
元清長男 | 1599-1650 | 1650(72) | 羽柴秀長女 松平康元女 |
1585宗家・輝元養子 1599再分家 山口城(周防) 178,000石 1600長門府中城 =豊浦郡一円 47,802石 1615城を破却 (家格は城主・准国持) 後、高直し 60,000石 |
||||
毛利 光広 | 従四位下 和泉守 |
雲光院 不山宗安 |
又四郎 | 秀元二男 | 1650-53 | 1653(38) | 本多忠義女 | ↓ | ||||
毛利 綱元 | 従四位下 侍従 甲斐守 |
竜沢院 道正瑞霖 |
又四郎 右京 |
光広長男 | 1653-1709 | 1709(60) | 房 (池田光政女) |
↓ | ||||
毛利 吉元 | 従四位下 右京大夫 |
元倚 又四郎 |
綱元長男 | (長州藩主と なり継承せず) |
1731(55) | 品子 (池田綱政女) |
||||||
毛利 元朝 | 又四郎 | 祐巌院 賢良浄雄 |
(宗家にて) 元太郎 従四位下 佐渡守 宗元 |
吉元長男 | 1709-13 (後、長州藩 世子となるも 早世) |
1721(19) | − | ↓ | ||||
毛利 元矩 | 右京 | 玄隆院 道聡徳融 |
仁八郎 | 綱元四男 | 1713-18 | 1718(15) | − | ↓ 1718無嗣、絶家 |
||||
〔毛利元知系〕 |
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毛利 匡広 | 従五位下 甲斐守 |
瑞泉寺 浄恬湛然 |
元平 権三郎 内膳 讃岐守 |
毛利元知二男 | 1683-1729 | 1729(55) | 幸子 (毛利綱広女) |
1683清末(長門)襲封 1718長門府中藩再興 (家格は陣屋大名) 47,000石 |
||||
毛利 師就 | 従五位下 主水正 |
聖諦院 廓心勇然 |
元明 親就 財之丞 百介 主水 |
匡広長男 | 1729-35 | 1735(30) | 寧子 (毛利吉元女) |
↓ | ||||
毛利 匡敬 | 従五位下 甲斐守 |
− | 元房 岩之允 |
匡広十男 | 1735-51 (長州藩主継承 =毛利重就) |
1789(65) | − | ↓ | ||||
毛利 匡満 | 従五位下 能登守 |
浄山院 宝山有道 |
文之助 | 匡敬長男 | 1751-69 | 1769(22) | 民 (溝口直温女) |
↓ | ||||
毛利 匡芳 | 従五位下 甲斐守 |
功篤院 哲ー良籌 |
匡豊 政次郎 |
毛利重就 (匡敬)五男 |
1769-92 | 1792(32) | 多喜子 (西園寺賞季女) |
↓ 1783城主格 50,000石 |
||||
毛利 元義 | 従四位下 甲斐守 |
顕明寺 好文間翁 |
元敬 直次郎 |
匡芳長男 | 1792-1841 | 1843(59) | 細川利庸女 | ↓ | ||||
毛利 元運 | 従五位下 甲斐守 |
賢徳院 荷覚観汀 |
雅之助 左京亮 |
元義三男 | 1841-52 | 1852(36) | 欽子 (土屋彦直女) |
↓ | ||||
毛利 元周 | 従五位下 左京亮 |
諦信院 梅菴道機 |
万次郎 | 毛利元寛 (元義長男) 二男 |
1852-68 | 1868(42) | 千賀 (加藤泰幹女) |
↓ | ||||
毛利 元敏 | 豊浦藩知事 | 元懋 宗五郎 左京亮 |
元運六男 | 1868-71 | 1908(60) | 保子 (敬親養女・ 嵯峨実愛女) |
↓ 1869豊浦藩と改称 1871廃藩置県 |
子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
〔毛利元知系本家〕 |
|||||||||||
毛利 元知 | 従五位下 刑部少輔 |
高林院 涼岸常清 |
権三郎 刑部 |
毛利秀元三男 | 1653-83 | 1683(53) | 1653長門府中藩 毛利家より分家 豊浦郡内(長門) 10,000石 1659清末(長門) |
||||
毛利 匡広 | 従五位下 讃岐守 |
元平 権三郎 内膳 |
元知二男 | 1683-1718 | 1729(55) | ↓ 1718長門府中藩 を継承、中絶 |
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〔毛利元知系末家〕 |
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毛利 政苗 | 従五位下 讃岐守 |
大原院 覚翁了照 |
匡平 竹之助 刑部少輔 |
毛利匡広七男 | 1729-75 | 1781(64) | 1729父・匡広の 家より分家 清末 10,000石 |
||||
毛利 匡邦 | 従五位下 伊予守 |
常明院 少翁如林 |
匡訓 政美 清平 政時 寅之進 讃岐守 (致仕後) 刑部少輔 |
政苗七男 | 1775-1818 | 1832(72) | ↓ | ||||
毛利 政明 | 帯刀 | 幽峯院 雪洞蓉仙 |
正明 | 増山正賢二男 | 1818 | 1818(30) | ↓ | ||||
毛利 元世 | 従五位下 讃岐守 |
善徳院 賢巌良哲 |
正名 紀七郎 |
堀田正敦六男 | 1818-45 | 1845(50) | ↓ | ||||
毛利 元承 | 従五位下 出雲守 |
慈徳院 実巌良英 |
健之助 | 毛利元義十一男 | 1845-49 | 1849(17) | ↓ | ||||
毛利 元純 | 清末藩知事 | 銀三郎 | 木下俊敦四男 | 1849-71 | 1875(44) | ↓ 1871廃藩置県 |
息子・元忠 のとき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
毛利 就隆 | 従五位下 日向守 |
発性院 忽生本然 |
百助 三次郎 |
毛利輝元二男 | 1617-79 | 1679(78) | 松菊子 (毛利秀元女) 中川重政女 |
1617長州藩 毛利家より分家 都濃郡内(周防) 31,473石 1622下松に居住 1634大名に列し 45,000石 1648徳山(周防) |
||||
毛利 元賢 | 従五位下 日向守 |
大陽院 玉峰澄和 |
元丸 元隆 式部 |
就隆五男 | 1679-90 | 1690(21) | 酒井忠直女 | ↓ | ||||
毛利 元次 | 従五位下 飛騨守 |
曹源院 性海滴水 |
賢富 賢充 亀之助 主計 |
就隆四男 | 1690-1716 | 1719(53) | 関長政女 松平頼隆女 |
↓ 1716改易、配流 |
||||
毛利 元堯 | 従五位下 日向守 |
豪徳院 家山紹運 |
元国 就久 就清 亀松 亀次郎 百次郎 |
元次二男 | 1719-21 | 1721(20) | − | 1719再興、徳山 30,000石 |
||||
毛利 広豊 | 従五位下 山城守 |
天了院 廓翁湛然 茅山 |
広房 三次郎 但馬守 |
元次三男 | 1721-58 | 1773(65) | 松平忠喬女 | ↓ | ||||
毛利 広寛 | 従五位下 志摩守 |
泰崇院 俊巌亮逸 |
豊長 久米三郎 求馬 |
広豊二男 | 1758-64 | 1764(32) | 浅野長賢女 | ↓ | ||||
毛利 就馴 | 従五位下 石見守 |
隆興院 徳運全功 政翁 泰翁 |
専之助 大和守 (致仕後) 就友 左兵衛佐 |
広豊十一男 | 1764-97 | 1828(79) | 増 (関政富女) |
↓ | ||||
毛利 広鎮 | 従五位下 日向守 |
承天院 広州鎮裔 |
就寿 徳太郎 兵庫 (致仕後) 兵庫頭 |
就馴二男 | 1797-1837 | 1865(89) | 種子 (伊達村賢女) 喜哉 (秋元永朝女) |
↓ 1836高直し 40,010石 城主格 |
||||
毛利 元蕃 | 徳山藩知事 | 就軌 広篤 徳太郎 山城守 淡路守 |
広鎮七男 | 1837-71 | 1884(69) | 八重子 (毛利斉煕女) |
↓ 1871廃藩置県 |
息子・元功 のとき子爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 藩主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
吉川 広家 | 従四位下 侍従 民部少輔 |
全光院 中巌如兼 |
経言 才寿丸 次郎五郎 又次郎 蔵人頭 |
吉川元春三男 | 1587-1614 | 1625(65) | 宇喜多直家女 | 1587大朝城(安芸) 1591富田城(出雲) 142,000石 1600岩国城(周防) =玖珂郡一円 37,129石 |
||||
吉川 広正 | 内蔵助 | 浄性院 鉄堂宗閑 |
長熊 又次郎 左介 美濃守 |
広家二男 | 1614-63 | 1666(66) | 竹 (毛利輝元女) |
↓ 1615城を破却 (実質的に城主格、 ただし代々非大名 =陪臣格にて継続) 1634公称 60,000石 |
||||
吉川 広嘉 | 監物 | 玄真院 快巌如心 |
広佳 広純 長松丸 左馬助 |
広正長男 | 1663-79 | 1679(59) | 鷲尾隆量女 | ↓ | ||||
吉川 広紀 | 内蔵助 | 普恩院 徳峯祖天 |
広猶 広尚 長熊 |
広嘉長男 | 1679-96 | 1696(39) | 矢津 (毛利綱広女) 喜井 (石川義当女) |
↓ | ||||
吉川 広逵 | 勝之助 | 涼雲院 玉顔元鮮 |
− | 広紀三男 | 1696-1715 | 1715(21) | − | ↓ | ||||
吉川 経永 | 左京 | 偏照院 蓮光花岸 |
亀次郎 | 広逵長男 | 1715-64 | 1764(51) | 中条信実女 | ↓ | ||||
吉川 経倫 | 監物 | 大乗院 即心円通 衡山 |
豊房 永貞 吉五郎 |
毛利広豊九男 | 1764-92 | 1803(58) | 多芽 (一柳末栄女) |
↓ | ||||
吉川 経忠 | 和三郎 | 紹徳院 孝雲祖沢 |
倫継 経通 金璽 |
経倫長男 | 1792-1803 | 1803(38) | 悌 (織田信憑女) |
↓ | ||||
吉川 経賢 | 寛三郎 | 文巌院 徳巌道馨 |
忠進 | 経忠長男 | 1803-07 | 1807(17) | − | ↓ | ||||
吉川 経礼 | 監物 | 謙光院 慈雲藤蔭 |
賢好 幸之助 |
経忠二男 | 1807-36 | 1836(45) | 隆 (木下俊懋女) 豊子 (毛利就馴女) |
↓ | ||||
吉川 経章 | 尚五郎 | 亮功院 英山道雄 |
賢章 寅五郎 |
経忠三男 | 1837-43 | 1843(50) | 梅子 (長井元簡女) |
↓ | ||||
吉川 経幹 | 従五位下 駿河守 |
有恪院 春山玄静 |
章貞 亀之進 監物 |
経章長男 | 1844-67 | 1867(39) | 延子 (木下俊愛女) |
↓ 1868(実は本人没後) 大名に列す |
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吉川 経健 | 岩国藩知事 | 芳之助 駿河守 |
経幹二男 | 1868-71 | 1909(55) | 磯子 (毛利元純女) 松子 (堤功長女) 真佐子 (千家尊澄女) 直子 (加藤泰秋女) |
↓ 1871廃藩置県 |
子爵 |
宍戸元続(従五位下・備前守。安芸五竜城主宍戸隆家の孫、毛利元就外曽孫。毛利家臣として襲封、後に備中鬼身城25,124石、1600 毛利家の防長移転に従い9,766石、1603周防右田)−広匡(1625周防三尾、後代11,329石)−就尚⇒就附⇒就延⇒広隆⇒広周−就年 −親朝⇒元礼−親基(養孫・乙彦のとき男爵) |
天野/毛利元政(従五位下・讃岐守。毛利元就七男、安芸志芳城主天野元定養子。毛利家臣として襲封15,489石。1600毛利家の防長 移転に従い周防三尾11,322石)−元倶(1625周防右田13,000余石、後代16,023石)−元法−就信⇒広政−広信⇒広定−就任−房良 ⇒房顕⇒元統(山口藩大参事)⇒親信(第百十国立銀行頭取。養子・祥久のとき男爵) |
毛利元鎮(筑後久留米藩主・小早川秀包男=毛利元就孫。1600以後長州藩毛利家臣として長門阿川。1625長門吉敷、後代10,855石) −元包⇒就直−広包−元直−就将⇒就兼⇒房直⇒包詮⇒房裕⇒房謙−元一(山口藩大参事)⇒親直(義弟・重輔のとき男爵) |
益田元祥(従五位下・玄蕃頭。石見益田七尾城主益田藤兼の男。毛利家臣として襲封12,501石。1600毛利家の防長移転に従い、1601 長門須佐10,893石。後代12,063石)−広兼(早世)−元堯−就宣−兼長⇒久之允⇒就恒⇒就賢−元道⇒広堯−就祥−就恭⇒房清⇒ 元宣−親施⇒親祥⇒精祥(男爵) |
福原広俊(従四位下・越後守。福原元俊の男。はじめ毛利家臣として福原鈴尾城。1600毛利家の防長移転に従い、1601長門吉敷 10,428石)−元俊(祖父と同名。1625長門宇部、後代11,314石)−広俊−広頼⇒広泰⇒元貞−広門−就清⇒房純−煕貴(早世)− 親俊⇒元|⇒芳山(息子・俊丸のとき男爵) |
(2004.01.11 up)
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