北海道は古くは蝦夷の居住地であり、8世紀頃から12世紀頃までは擦文文化の地域でした。13世紀以降はアイヌ人の文化圏であり、日の本(太平洋側)、唐子(日本海側)、渡党(津軽海峡周辺)の三部に分かれており、鎌倉期には北条家の被官である安藤家が実質的な蝦夷管領として統治に当たりました。南北朝期〜室町期にも安東(下国)家が「日の本将軍」を公称して支配を続けましたが、1456年に配下の道南十二館を松前・下之国・上之国に三分して守護を設置しました。これを契機にコシャマインの戦、それに続くアイヌ人と日本人との抗争が発生し、1514年に蠣崎家が松前へ進出して勢力を拡大、1550年には安東家の仲介で日の本・唐子・蠣崎家(≒渡党)の三者の和議が成立しました。蠣崎慶広は1590年に豊臣秀吉から正式に独立大名と認められ、名実ともに安東家の支配を脱し、松前家と改称して秀吉から蝦夷地の交易調整を命じられました。江戸期に入ると慶広は徳川家康から交易統制権を部分的に承認され、松前藩として東蝦夷地(旧・日の本)・西蝦夷地(旧・唐子)を含めた実質的なアイヌ人居住地域の支配を進めました。1799年に幕府は東蝦夷地を仮上知、1802年には正式に直轄地とし、1807年には蝦夷地一円を幕領としましたが、1821年に松前藩を復活させ、1855年には松前地域を除く東西蝦夷地を再び幕領としました。1867年には蝦夷地に箱館裁判所(のち箱館府)が置かれ、1869年に箱館県、同年に開拓使が設置されました。1871年の廃藩置県により館藩(松前藩)は館県となり、同年、青森県の松前出張所とされ、翌年開拓使が六支庁に分割されると、松前支庁に編入されました。1875年に樺太がロシアの領土となり、北千島がロシア領から開拓使に編入されました。各支庁は1882年までに札幌・函館・根室の三県に統合され、1886年に単一の行政単位としての北海道が成立しました。
蠣崎家→松前藩 有珠郡支配伊達家 空知郡→当別支配伊達家 幌別郡支配片倉家 静内郡支配稲田家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | ||||
1 | 蠣崎 季繁 | 修理大夫 | 「渡党」蝦夷系統 出自未詳 |
?-1457 | 1460 | 花沢館(蝦夷地) | |||||||
2 | 蠣崎 信広 | 若狭守 | 凉真 清岩 |
信純? 蔵人? |
田名部一族? 季繁養子 |
1457-94 | 1494(64) | 安東政季女 | ↓ 勝山館(蝦夷地) |
||||
3 | 蠣崎 光広 | 若狭守 | 寥青 | 彦太郎 宮内少輔 |
信広長男 | 1494-1518 | 1518((63) | ↓ 1513大館(蝦夷地) |
|||||
4 | 蠣崎 義広 | 民部大輔 | 宗全 正岩 |
良広 新三郎 若狭守 |
光広長男 | 1518-45 | 1545(67) | 薦槌季直女 | ↓ | ||||
5 | 蠣崎 季広 | 若狭守 | 永安 | 卯鶴丸 彦太郎 |
義広長男 | 1545-83 | 1595(89) | 河野季通女 | ↓ | ||||
6 | 松前 慶広 | 従五位下 伊豆守 |
慶広院 海翁永泉 |
天才丸 新三郎 民部大輔 志摩守 |
季広三男 | 1583-1600 | 1616(69) | 村上季儀女 | ↓ 1592蝦夷地一円 本領安堵 |
||||
7 | 松前 盛広 | 従五位下 若狭守 |
正心院 月浦宗円 |
守広 松房丸 甚五郎 |
慶広長男 | 1600-08 | 1608(38) | 下国直季女 | ↓ 1606福山館(蝦夷地)に移転 |
||||
8 | 松前 公広 | 従五位下 志摩守 |
公広院 渓雲宗愚 |
茂広 武広 |
盛広長男 | 1608-41 | 1641(44) | 紅 (大炊御門資賢女) 藤(蠣崎守広女) |
↓ | ||||
9 | 松前 氏広 | 弁之助 | 氏広院 直心宗性 |
主殿 | 公広二男 | 1641-48 | 1648(25) | 是(蠣崎友広女) | ↓ | ||||
10 | 松前 高広 | 志摩 | 松前院 漢臣利永 |
千勝 | 氏広長男 | 1648-65 | 1665(24) | 蠣崎利広女 | ↓ | ||||
11 | 松前 矩広 | 従五位下 志摩守 |
矩広院 機三曹玄 |
吉広 竹松丸 兵庫 |
高広長男 | 1665-1720 | 1720(62) | 華(唐橋在勝女) 安(米津才兵衛女) |
↓ 1719格式10,000石以上 |
||||
12 | 松前 邦広 | 従五位下 志摩守 |
邦広院 俊巌常英 |
広国 伝吉 |
松前本広 (慶広曽孫)六男 |
1721-43 | 1743(39) | 房(高野保光女) 梅好(土橋武則女) |
↓ | ||||
13 | 松前 資広 | 従五位下 若狭守 |
祥雲院 瑞岳英麟 |
里広 完広 栄吉 |
邦広長男 | 1743-65 | 1765(40) | 弁(八条隆英女) | ↓ | ||||
14 | 松前 道広 | 従五位下 志摩守 |
松吟院 竜道広起 |
章広 幸広 源助 外記 (致仕後) 大炊介 美作守 |
資広長男 | 1765-92 | 1832(79) | 敬(花山院常雅女) | ↓ | ||||
15 | 松前 章広 | 従五位下 志摩守 |
零照院 復州宗馨 維岳 |
敷広 勇之助 若狭守 |
道広長男 | 1792-1807 1821-33 |
1833(59) | − | ↓ 1799東蝦夷地上知、 代替埼玉郡内(武蔵) 5,000石 1802埼玉郡内上知 代替年3,500両下付金 1807蝦夷地全領上知 梁川(陸奥)+常陸・上野国内 9,002石(込高18,626石) 1821福山館復帰 1831格式10,000石以上 |
||||
松前 見広 | 従五位下 主計頭 |
見広院 円応誠光 |
誠之助 | 章広二男 | (早世) | 1827(23) | − | ||||||
16 | 松前 良広 | 隆之助 | 謙徳院 実温良広 |
見広長男 | 1834-39 | 1839(17) | − | ↓ | |||||
17 | 松前 昌広 | 従五位下 志摩守 |
寛量院 文俊耆徳 |
準次郎 均斎 |
見広二男 | 1839-49 | 1853(29) | − | ↓ | ||||
18 | 松前 崇広 | 従四位下 侍従 伊豆守 |
崇業院 英烈靖貞 |
盈之助 為吉 存斎 |
章広六男 | 1849-66 | 1866(38) | 維子(相馬益胤女) | ↓ 1849城主 1855松前地方以外上知 代替梁川(陸奥)・東根(出羽) 30,000石(三地域の合計) |
老中 | |||
19 | 松前 徳広 | 従五位下 志摩守 |
寛裕院 竜興忠靖 |
準之助 | 昌広長男 | 1866-68 | 1868(25) | 光子(内藤正縄女) | ↓ 1868館城を新築 同年、旧幕府軍により 松前占領、津軽に避難 |
||||
20 | 松前 修広 | 館藩知事 | 兼広 勝千代 |
徳広長男 | 1869-71 | 1905(41) | 藤子(本多助実女) 瑩子(南部利剛女) |
1869領地奪還 1871廃藩置県 |
伊達邦成(仙台伊達家家臣・伊達邦実養子。1859陸奥亘理24,353石継承。1869失領。同年北海道有珠郡を支配・開拓。1871廃藩 置県により、所領は開拓使に所属。のち有珠紋鼈学校長、男爵) |
伊達邦直(仙台伊達家家臣・伊達義監男。1846陸奥岩出山14,643石継承。1869失領。同年北海道空知郡を支配・開拓。1871石狩郡 当別へ移る。同年廃藩置県により、所領は開拓使に所属。後、准陸軍少尉。孫・正人のとき男爵) |
片倉邦憲(仙台伊達家家臣・片倉宗景男。1864陸奥白石城18,000石継承。1869失領。同年北海道幌別郡を支配・開拓。1871廃藩 置県により、所領は開拓使に所属。孫・景光のとき男爵) |
稲田邦植(徳島蜂須賀家家臣・稲田植誠養子。1865淡路洲本城代14,361石継承。1870兵庫県貫属となり、北海道静内郡を支配・ 開拓。1871廃藩置県により、所領は開拓使に所属。のち拓務政務次官、男爵) |
(2011.08.22up)
史料好きの倉庫へ戻る