「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝
第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち
第九節 琉球史の「三バカ」そろい踏み
予告した人物に筆を進める前に、ちょっと琉球=沖縄の歴史を覗いてみます。
琉球では12世紀末にはじめて「舜天」なる人物が(源為朝の子と伝えられています)浦添を都として琉球中心部の王になったとされていますが、この王統は伝説的色彩が強く、「英祖」(13世紀後半)の王統が、実在した最初の王家だと考えられています。英祖王統が五代続き、適格な後継者を欠いたために終焉を迎えると、浦添城には察度(さっと)が推戴されて中山王(在位1349-95)となりました。これと前後して、今帰仁城では岶尼芝(はにし/はねじ)が王となって北山王(在位
?-1395頃)を称し、南山城では承察度(うふさと)が王となって南山王(在位 ?-1398頃)を称していたため、琉球は三国並立時代となりました。
この三国時代を統一したのが、数十年後に登場した尚巴志(しょうはし。在位1422-29)です。彼が創設した王家は「第一尚氏」と言われますが、実は初代(尚巴志の父)尚思紹(しょうししょう。在位1406-21)は息子に推戴されただけの君主で、実権は15世紀になった頃から尚巴志が掌握していたと考えられています。小領主に過ぎなかった尚巴志は、輸入した鉄で農具や武器を量産して生産力や軍事力を増強、周囲の勢力への攻伐戦争を開始しました。
中山国王は武寧(ぶねい。察度の子。在位1395-1406)でしたが、徳が無く政治が乱れていたので、人々の支持を失い、尚巴志に取って代わられました。浦添落城の後、その最期は伝えられていません。
北山国王は攀安知(はねじ。岶尼芝の孫。在位1400頃-16)でしたが、軽率にも裏切り者の甘言に乗せられて策を誤り、尚巴志の軍に完敗し、自殺して果てました。
南山国王は他魯海(たるみい。承察度のいとこの子。在位1413-29)でしたが、酒色にふけり政治を省みなかったため、尚巴志の計略によって民心を失い、攻め込まれて滅亡しました。
こうして明君・尚巴志は、愚かな三人の王を淘汰して三国を統一し、沖縄全島の王になりました。めでたし、めでたし・・・
・・・ではなかったのでしょうね、本当は。滅ぼされた三人の王についての記述は、『中山世譜』や『球陽』などの官撰史書に基づいていますが、これは勝った側(正確に言えば、そのあとを承けた第二尚氏)の記録であり、敗者側の記録は残されていません。武寧も攀安知も他魯海も、尚巴志に比べれば器局の劣っていた面はあったのかも知れませんが、少なくとも「バカ殿」であった証拠が第三者の史料から確認できるものではありません。むしろ隋の煬帝同様、勝者である尚氏の側から貶められた可能性が強いと推測されます。三国はそれぞれ明との貿易も行っており、民衆を統治する国家として機能していました。これらを富国強兵策によって次々と併合したのが尚巴志であり、彼以降の琉球王国は全島が単一国家として近世に至るのです。
「三バカ」は時代の転換期に巡り合わせてしまった、不運な人々だったと言えましょう。
それでは、次こそは予告した人物の番です。
(つづく)
(2019.07.28 up)