「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝
第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち
第十節 強権政治が裏目に出た足利義教(1)
多用のため、だいぶ間が空いてしまいました。なにとぞご容赦のほどを。
足利義教(1394-1441)。室町幕府の六代将軍。この人も暗いイメージが強い人物です。
有力守護大名を次々と討伐、粛清して「恐怖政治」とまで称される強権政治を敷いた将軍。そして最期は守護大名である赤松満祐の反逆によって謀殺され、あっけない生涯を閉じました。応仁の乱を待たずして、戦国時代は実質的にここから始まったとも言うことができます。その意味でも「失徳の君主」の代表であるかのように論じられる場合が多いです。
しかし、現実の義教は決してこの評価に甘んじる人物ではありませんでした。確かに自らの横死によってこれまでの成果を一気に失ってしまったことは事実ですが、むしろ、父・「日本国王」足利義満(1358-1408)の路線を別の形で復活させようとした有能な将軍でした。その業績を再評価すべきなのです。
それでは、義満とはどのような人物だったのでしょうか?
一言で言えば、義満は「天皇家を乗っ取ろうとした男」でした。
その経緯の詳細は、今谷明氏の『室町の王権(1990中公新書)』の詳密な研究があるので、ここでは要旨のみ略述します。義満は人臣として初めて「治天の君(いわゆる院政を行う人)」の地位に就き、権力のみならず儀礼などの権威においても、実質的に天皇家を凌ぐことに成功しました。そして、さらに一歩を進めて天皇家を何らかの形で終了させ、名実ともに足利家が日本を代表する地位に到達させることを目指しましたが、その一歩手前で死去したため、実現に至りませんでした。
この今谷氏の見解は、学会で少数派となっているようですが、私は紛れもなく義満が「天皇家の超克」を目指していたに違いないと考えています。それを象徴するのが「金閣」。これはまさに「日本国王の宮殿」以外の何物でもありません。そして同様なことをした人物が歴史上もう一人います。安土城を築いた織田信長です。とは言え、「天皇家の超克」計画の経過については、本稿の本旨ではありませんので、詳述しません。
さて、義満の父親は、室松幕府の二代将軍・足利義詮です。
それでは、義満の母親は誰だったでしょうか?
紀良子(きのよしこ)、義詮の側室です。その妹・仲子(崇賢門院)が後光厳天皇の典侍となって後円融天皇の母になったため、歴史を語る人たちからは、義満と天皇家との姻族関係が強調されていますが、もっと大切なのは良子の出自です。父親は紀通清(きのみちきよ。善法寺通清ともいう)、「石清水八幡宮別当検校」が世襲の役職!
そうです。あの「清和源氏の大株主」八幡大菩薩のご本家、石清水の「マネジャー」だったのです。
つまり、義満以降の足利将軍は、大株主である氏神「八幡神」のマネジャー紀氏を外戚としてバックに控えた存在でした。裏を返せば、義満が前例のない「天皇家の超克」を計画できたのは、この「八幡大菩薩の権威」を背負った時点からスタートできたからこそのことだったと言えます。
四代将軍となった義教の同母兄・足利義持(1386-1428)は、「天皇家の超克」路線を踏襲せず、穏当な「武家の棟梁」の段階まで後退させました。ところが彼の政治力は義満よりかなり劣っており、これまで義満の強権に服していた有力守護大名や公家勢力・寺社勢力を思うままに統括していくことができず(肝心の大株主・石清水八幡宮=紀氏ともあまり良好な関係ではなかったとされています)、政治的には合議制意思決定の第一人者として振舞うに過ぎませんでした。若くして引退し、息子の義量(1407-25)に将軍職を譲ったのですが、義量は何ら政治的に見るべき仕事もしないまま若死にしてしまいます。そのあと暫定的に、義持が有力守護と合議の上、事実上の将軍職務を代行しますが、病に冒されても後継者を定めないまま、あとは八幡宮の神意によって決めるようにとの言葉を遺し、危篤状態に...
そして、まさに大株主・八幡神の「神意」を受けた「籤引き将軍」足利義教が登場するのです。
(つづく)
(2019.08.31 up)