「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝 


第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち

   第十一節 強権政治が裏目に出た足利義教(2)

   前将軍(事実上の将軍職執務者)足利義持が没したとき、青蓮院の僧であった義教は「義円(ぎえん)」と名乗っており、天台座主でした。すなわち比叡山延暦寺の筆頭位であり、当時の日本の政界における一大勢力であった「寺社勢力」の最高峰に位置していたのです。室町幕府成立前には、おもに皇族が門跡とし入室していたのですが、「天皇家の超克」を目指した足利義満は、自分の子どもたちを門跡として入室させ、より高い権威から「寺社勢力」を統制しようと試みました。現実には比叡山の山門使節などの実力者である僧たちが天台宗の宗務を執行していたと思われますので、義円はいわば象徴的存在だったのでしょう。
   その義円が1428(正長元)年、「石清水八幡宮」の「神意(籤引きの結果)」によって選出され、翌年には室町幕府の征夷大将軍に就任しました。最初の名は「義宣(よしのぶ)」。現代に例えれば、巨大企業A社の代表取締役が、別の巨大企業B社の「最大株主」の意向で退任し、B社の代表取締役に就任したのです。

   そして、B社の「取締役会」に当たる「宿老(管領・相伴衆・侍所所司に就任する守護大名。斯波・畠山・細川・山名・赤松・京極・一色・土岐・大内の諸氏を指す)」たちの側では、義宣が義持や義量同様、単なる「代表取締役社長」になるものとばかり考えていました。ところが、義宣の意思は「代表取締役CEO」になることでした。ここから、権力確立へ向けた義宣の奮闘が始まります。
   まず、将軍就任早々、名乗りを「義教」と改めます。「よしのぶ」は「世を忍ぶ」に通じるので、自分の政治姿勢にそぐわないとの意欲的な改名です。

   続いて、将軍の直属軍というべき「奉公衆」を強化して、自らの足元を固めました。本来、軍権を掌握しているのは将軍であるはずなのですが、義持・義量の時代にはいつしか上記の「宿老」たちの手に移ってしまい、将軍の軍事基盤が弱まっていました。義教の改革はまずここから始まりました。

   その上で、義教は将軍権力に敵対している各勢力の制圧に乗り出します。
   まず九州征討。九州では探題渋川氏の力が弱く、少弐・大友・島津ら諸氏が覇権を競う乱世になっていました。義教は周防守護の大内持世を巧みに使って少弐・大友両氏を討たせ、九州を統治させることに成功しました。また、島津氏に迫って、義教に不満を抱いて京都から出奔した義昭(ぎしょう)を追討させ、将軍の威権が全国に及ぶことを示しました。今川了俊を重用して九州を鎮定させた父・義満の政策の再現です。
   次に比叡山制圧。延暦寺には幕府への強訴を批判した三井寺を焼き払うなどの所業があったため、義教は兵を率いて比叡山を包囲しましたが、「宿老」たちの総意により、やむを得ず和睦しました。しかし翌年には決裂して、義教は再度比叡山を包囲、麓の坂本の集落を焼き払ったため、延暦寺側は降伏を申し出て、また「宿老」たちの懇請により和睦することになりました。しかし、いまは「巨大企業B社=室町幕府の代表取締役」だとは言え、かつては「巨大企業A社=比叡山の代表取締役」であった、いわば敵のやり口を知り尽くした義教が、ここから本領を発揮します。1437(永享7)年、寺を代表して幕府へ出頭した山門使節の4人の僧を捕縛して斬首したのです。この「だまし討ち」に怒った延暦寺側は、抗議のため、加えて義教相手には駆け引きが通用しないことに失望したため、24人の僧が根本中堂に火をかけて焼身自殺しました。青蓮院に在籍していた当時、比叡山が信仰の場としての地位を隠れ蓑にして国権の統一を妨げる「武装した寺社勢力」の代表になっていたことを、見抜いていた義教ならではの、強引なやりかただと言えましょう。

   そして、義教は室町幕府の最大の課題であった関東平定に踏み出します。
   鎌倉公方・足利持氏は、幕府から独立した関東の仕切りを目指していた祖父・氏満や父・満兼の方針を受け、義持・義量時代にしばしば幕府と対立してきました。義教の将軍就位後はその正当性を認めず、永享改元後に正長の年号を使い続け、1438(永享8)年にはついに嫡子の元服の際に、本家と同等の「義」を上の字として「義久」と名乗らせ、事実上、幕府権力からの離脱を宣言したのです。そして持氏は、彼の行動を批判して本領・上野国に逃れた関東管領・上杉憲実を討伐したので、義教は持氏征伐の大義名分を得た形になりました。
   すでに義教は駿河守護・今川範政が統治する富士山麓まで遊覧する(1432年。ちなみに、このとき義教が浜松で宴会を開いた際に、「はま松の音はざざんざ」と唄ったのが、『ざざんざ織』の語源だとされています)など、将来の鎌倉討伐を見越して、自ら関東の情勢を視察していました。十分な事前準備のもとに、東海道と東山道から兵力を投じて持氏に総攻撃を仕掛けたので、大敗した持氏は鎌倉で出家して助命を嘆願しましたが、義教は許さず、持氏と義久とは自害しました。
   ここに義満以来の宿願であった、幕府による関東平定が実現しました。

   ところで、義教が一つだけ、父・義満より「後退させてしまった」ことがあるのです。それは...

   (つづく)

(2019.09.29 up)