「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝
第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち
第十二節 強権政治が裏目に出た足利義教(3)
「天皇家の超克」に関しては、義満時代より一歩後退したのが義教です。彼は鎌倉公方・足利持氏を討伐するとき、後花園天皇に「治罰の綸旨」を要請しました。もちろん、持氏が上杉憲実を攻めたことが、「天皇の統治に背いた」わけではありません。持氏が京都の年号を使わなかったことを「朝敵」に当たるものと解したわけです。こうして、義教は天皇の権威を借りることによって、諸大名を動員する大義名分を得、関東平定に成功します。今谷明氏の複数の著書には、この経緯が詳しく記述されていますので、ご参照ください。
ところが、この「後退」は義教の「諸刃の剣」になってしまいます。将軍が「絶対的権威」ではなく、「八幡神」を株主とする皇胤諸氏の一つに過ぎず、宿老たちの最上位にある相対的存在であることを、改めて露呈してしまったのです。義教に屈服しなかったただ一人の男は、「神がかり」専制君主に内在するこの弱点を、冷静に眺めていました。
その一人の男とは赤松満祐です。
満祐は播磨の守護大名であり、将軍・義持と対立して一度反旗を翻した前歴を持ちます。宿老の長老的な人物として、義教にとっても煙たい存在でした。そのため義教は、庶流・春日部赤松家の当主であった貞村に、赤松家の惣領を取り替えようと試みます。満祐は義教の勘気を恐れる風を装って出仕を控えました。
鎌倉討伐に成功した義教は、翌1440(永享12)年、大和出陣中に丹後守護・一色義貫と美濃守護・土岐持頼の罪を問うて、両名を誅殺しました。これを聞いた満祐は「次は自分の番だ」と思う一方で、自分に従わない宿老連中を「権威」や「道理」によって屈服させるのではなく、殺害の手段に出た=「力」に頼らざるを得ない義教の、いわば「アキレス腱」を見抜いたことでしょう。
ならば、義教の「力」が手薄なときに、こちらから先手を打つのが、粛清を免れる唯一の道であると。
満祐は翌1441(嘉吉元)年、義教からさほど憎まれていなかった息子の赤松教康を通して、前年の合戦の勝利を祝い、自邸に鴨の親子が泳ぐさまをご高覧ください、と招待させました。義教は満祐の策謀に全く気が付かないまま、少数の近臣たちを引き連れて赤松邸へ出掛けて行きました。ところが宴たけなわのとき、万全の準備を整えていた満祐は、手勢を一気に乱入させ、義教を討ち果たしたのです。享年48歳。
義教の落命は絶頂期に達した専制君主の油断以外の何物でもなく、加えて彼の没後には、その路線を継承する後継者を欠いたこともあり(将軍位を継いだ長男・義勝は幼少のまま夭折。二男の義政は成長後に優柔不断だったことにより、応仁の乱を招きました)、義教は強権政治のために失敗した失徳の君主として、汚名を残す形になってしまいました。
しかし、確かに「詰めを誤った」不運な君主には違いありませんが、その12年の治世の間に、寺社勢力や守護大名を制圧して、国内の政治的な安定をもたらした功績は、決して小さいものではありません。
義教は父・義満が生涯を懸けて達成しようとしていた目標を、別の形で実現させようと、最大限の努力をした人物でした。関東平定はその最大の成果であり、義教が暗殺されてからも、鎌倉公方が復活するまでには相当な時間を要しています。
同じく、「死後、国が分裂してしまった」君主、シャルルマーニュやチンギス‐ハンと比較すれば、足利政権の最盛期をもたらした義教には、もっと高い評価が与えられてしかるべきだと、私は考えます。
さて、ここまでの第一章は、徳川時代から見ると「前史」に当たる部分を長々と続けて記述してきました。この章はそろそろ切り上げて、本題である江戸時代に入っていきましょう。
(つづく)
(2019.10.20 up)