「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝 


第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち

   コラム 「宿老」とは?

   第一書の最後、足利義教のところで「宿老」なる言葉が登場しました。多くの人たちにとって聞き慣れない言葉かも知れません。
   これは、後々に本題の「家重」のところでも重要な概念になりますので、少し解説を加えます。

   
「宿老」の原義は、「宿徳老成の人」の意味です。組織の中でも、ものごとの経験を積んでいる老巧な人を指す言葉です。そこから転じて、君主制組織(幕府や諸大名)の重職を「宿老」と表現するようになりました。とは言え前近代ですから、重職に選任されるためには必然的に「家柄」が重視されます。必ずしも老巧な人ではなく、若くても家柄が高ければ「宿老」になることができましたので、能力にも個人差が生じ、必ずしも有能な人物が「宿老」に就任したわけではありません。

   君主が平凡だったり幼少だったりした場合、宿老がその君主を補佐して組織の政務を主導しなければなりませんが、その宿老たちの中に傑出した人物がいない限り、「合議制」を採ることになります。「組織を代表するこの家柄の連中が集まってこう決めましたので、この通りにまいりましょう」といった具合です。その決定に対して君主が「そうせい」と承認を与え、ことは執行されます。この「宿老合議制」が常態化すれば、君主が政務を執行するのに自分の意思を通したいと思っても、容易ではありません。

   政治能力に優れた君主は、しばしばこの「宿老合議制」を破ろうとします。足利義教は宿老たちを次々と解任、粛清して専制君主を目指しましたが、ツメを誤って謀殺されました。その後に到来した戦国時代は、下剋上の時代だとされますが、それでも低い身分から一国一城の主までのし上がった者は、松永久秀など数えるほどしかありません。東北や九州などでは、身分の厚い壁に阻まれて、有能な人物が力を発揮できる状況ではなかったのです。毛利、北条、武田、上杉といった戦国列強においても、重職を担った者の多くは由緒ある家柄の門閥であり、低い身分の者が政治や軍事に参画できる道は限られていました。君主側から信頼できるのは何と言っても「譜代の家系」の連中であったからです。

   唯一の例外は、織田信長です。信長は当初、柴田勝家や佐久間信盛らの有力豪族出身者を家老としていましたが、その後、明智光秀、滝川一益、羽柴(豊臣)秀吉らの出自が怪しい人物たちを、次々と登用していきます。家柄よりも能力本位の人事でした。光秀(もと朝倉家臣)や秀吉(もと今川被官の松下家臣)は、他の大名家に仕えても芽が出なかったのですから、まさに信長あってこその両人だったと言えます。しかしながら、この人材登用策が裏目に出てしまいました。信長は光秀に宿舎の本能寺を襲われて自殺し、織田家は秀吉に乗っ取られたのです。その秀吉も政権を掌握する過程で、低い身分からの人材登用に積極的でしたが、地盤や看板に乏しい「成り上がり」の豊臣大名たちは、多くが関ヶ原の戦で石田方に参戦し、敗戦によって没落してしまいました。

   これらを反面教師としたのでしょうか。徳川家康は天下を取ると、「家柄家老」による宿老制を尊重する方向へ路線を戻します。三代将軍・徳川家光以降は、幕府も諸藩も家柄家老により構成される「宿老合議」による意思決定が一般的になりました。裏を返せば、徳川綱吉や徳川家重は、この状況を打破して君主専制を目指したため、後世の反動勢力により否定され、貶められてしまったと考えることができます。

   少々話が先へ走りました。
   この家柄家老の存在を理解する手引きとして、近世大名の身分階層制、それに応じた官僚制と政治的意思決定について論述された、読者の皆さんにぜひ参照いただきたい書籍があります。
   笠谷和比古氏の著書、『主君「押込(おしこめ)」の構造』(平凡社選書、のち講談社学術文庫)です。
   特に、第四章「近世の国制」のところで、家柄を背景にした「宿老」たちには身分序列に応じた「配分」が与えられ、それが君主権力を掣肘する性格を持っていたことが詳述されています。

   さて、本編は次回から徳川時代=第二章に入っていきましょう。

   (つづく)

(2019.11.10 up)