「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝 


第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち

   第七節 前代未聞のことをしてしまった北条義時(2)

   (前節より続く)

   このように急速な出世を果たした北条義時(1163-1224)ですが、彼は草創間もない鎌倉幕府の運営について、明確なグランド‐デザインを持っていました。
   それは「在地領主の利害を代表する」武家政権の確立と、それに伴う王朝政治の残滓の除去です。

   平清盛(1118-81)は初めて(前駆的な)武家政権を樹立しましたが、後白河上皇(1127-92)に代表される勢力、天皇家や摂家や寺社などの荘園支配を認めたまま、朝廷と協働する形を採りました。そのため、重盛が手掛けた東国武士との関係強化を始め、地方武士の地位向上には着手するに至らず、課題として残ってしまいました。
   源頼朝(1147-99)は鎌倉を拠点に定め朝廷と距離を置き、在地領主たちを地頭に任命することを朝廷に認めさせたことによって、御家人となった地方武士の地位向上に寄与し、二元的な体制を構築するところまでは成功しましたが、武士の土地所有権を一元管理するところ(後代の「大田文」)までは至りませんでした。
   前回述べた通り、清盛も頼朝も朝廷に対して武力を背景に交渉を進めながらも、「妥協」する姿勢を余儀なくされました。そこには、朝廷の外戚となって栄華を極めた藤原氏の政権形態から脱し切れなかった精神的風土があったと考えられます。具体的に、清盛は娘の徳子を高倉天皇(1161-81)に入内させ、頼朝は娘の大姫や三幡姫を後鳥羽天皇(1180-1239)に入内させようと図り、藤原氏同様に「外戚」になることを試みました。しかし平氏の場合は清盛の「外孫」安徳天皇を即位させることに成功しましたが、没後に政権自体が倒されてしまいました。源氏の場合は頼朝の娘二人がいずれも入内の前に病死し(頼朝自身も三幡姫に先立って死去)、天皇家との姻戚関係を築くまでに至りませんでした。

   この点に着目したのが、義時の父・北条時政(1138-1215)です。時政は娘・政子(1157-1225)の夫・頼朝を主君に担いで挙兵した時点(1180)から、すでに藤原氏方式の政治形態が「時代遅れ」であることを看破していたと考えられます。したがって、平氏政権を打倒するための急先鋒となり、嫡子・宗時を戦死させる犠牲まで払って、鎌倉幕府の創設という成果を獲得しました。ところが、頼朝は上述のように朝廷との妥協路線を採ったため、「脱・藤原流」はきわめて不完全な段階にとどまらざるを得ませんでした。そこで、時政は頼朝の没後、自身の外孫であるのにもかかわらず、在地領主の権益確保に消極的で主要御家人との対立を繰り返していた将軍・源頼家(1182-1204)を廃して(1203。翌年に殺害)、その弟・実朝を将軍として就位させました。さらに有力御家人であった畠山重忠を滅ぼし、幕府内で不動の地位を固めました。

   義時は父・時政の振る舞いを冷徹に眺めながら、自分の出番を窺っていたようです。時政が後妻・牧の方と共謀して、有力御家人である娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと図ったとき(1205)、義時は姉・政子と結託して朝雅を攻殺、時政夫妻を伊豆の本籍地へ追放しています。この「逆クーデタ」の結果、執権に、翌年には政所別当にも就任して、鎌倉幕府の「総理」になった義時は、後に侍所別当であった和田義盛を挑発の末に攻め滅ぼし(1213)、幕府内で独裁権力を確立するに至りました。
   そして、彼が次に対峙する相手は、自分の甥に当たる将軍・源実朝(1192-1219)だったのです。
   実朝は自分の代で源氏の血統が絶えることを予言していたとされていますが、本当にそう考えていたのか真偽はわかりません。むしろ、後鳥羽上皇が進める鎌倉懐柔策に事実上参画し、朝廷との協調路線を推進する政治姿勢を顕著に見せるようになりましたから、地方武士の土地所有権の確立を目指す勢力の代表である義時から見れば、いずれは対決しなければならない相手でした。この意味では、義時は物理的に時政を追放しても、政策面では時政が築き上げてきた過程を継承する立場にあったと言えます。

   そのため、義時は鎌倉武士団を代表して、実朝を「排除」するのみならず、さらに進んで「清和源氏」王朝を終焉させることになります。そのために、彼はいかなる方法を用いたのでしょうか?
   現代に例えると、たとえばA株式会社の株を保有する株主たちがいます。株主の中で、30%とか40%とか、持ち株の比率がかなり多い個人や法人があったとして、それを仮にBとしましょう。敵対する人や勢力、仮にそれをCとしますが、CがA社をツブしたいと考えたとしたら、あの手この手を使ってA社の株の多くを買い占めて、Bの持ち株比率を減らしてしまうのが一つの方法です。しかし、もしCが能力的に可能であれば、Bの権威や信用を暴落させて、Aの経済基盤を失墜させ、A社が立ち行かなくなるように仕向ける方法もあります。
   義時が清和源氏政権に対して採った方策は、まさに後者でした。

   では、清和源氏の「最大株主」とは誰だったのでしょうか?

   それは、「人」や「組織」ではありません

   (つづく)

(2019.06.30 up)