「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝 


第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち

   第六節 前代未聞のことをしてしまった北条義時(1)

   北条義時(1163-1224)。この名前にはなぜか、暗い、陰険なイメージが付きまとっています。歴史上の評価は芳しくなく、将軍家(清和源氏、九条氏)を蔑ろにした権臣、朝廷を蹂躙した成り上がり者の印象が強く、多くの日本人にとってはあまり好みのキャラではないことは確かです。
   しかし、義時は前代未聞のことを成し遂げています。日本で初めて、「天皇家」を完全に凌駕した政権を確立したことです。

   それまでの政権は、常に天皇家との二元関係に基づいて存続していました。蘇我氏は大王家(当時)の「共同統治者」でした。藤原氏は天皇家の外戚かつ「連立相手」でした。桓武平氏は後白河院政の協働政権担当者でした。清和源氏は後白河・後鳥羽院政の東国におけるパートナーでした(以上の位置付けは、あくまでも筆者の個人的見解によります)。これらの諸氏はときには天皇家と利害を共有し、ときには反目しながら、自らの政権を維持してきました。距離の取りかたはさまざまでしたが、天皇家と適切な「役割分担」をしながら共存する形を採ってきました。
   ところが、北条義時は承久の乱(1221年)に勝利すると、後鳥羽院政を廃止させたのみならず、後鳥羽上皇・順徳上皇を配流し、仲恭天皇を廃位して傍系の後堀河天皇を即位させ、さらにその父で出家していた行助法親王に名前だけの「院政」を行わせたのです。いわば天皇家を完全に圧伏して、天皇・治天(=院政を行う上皇)さえ自前の「人事」で決定しました。そして、次の北条泰時の代には、「御成敗式目」なる国の新たな「基本法」まで制定しました(従前の律令や公家法も一応併存しましたが...)。

   多くの国では、この状態であれば通常「皇帝」や「国王」に登極します。中国では武力で実権を握った宰相などが、インドでは地方で軍事力を伸ばした封臣などが、西アジアでは奴隷や少数民族からのし上がった将軍などが、ヨーロッパでは党与の支持基盤を固めた貴族などが、力ずくでこれまでの王朝に取って代わり、自ら「皇帝」「国王」となって新しい王朝を建設するのが一般的な形でした。
   ところが、日本の北条義時は違いました。「天皇」どころか「将軍」にもならず、鎌倉幕府の「執権」にとどまり、官位は「従四位下・陸奥守兼右京権大夫」で終わっています。国際的に比較すれば、登極する条件が整っていなかったとは考えられません。承久の乱で幕府軍の主力を率いたのは、義時の息子・泰時や朝時、弟の時房であり、軍権は北条一門が掌握していました。北条家に次ぐ有力武士は、相模の国司を兼ねる三浦氏(三浦義村)でしたが、すでにその実力差は大きく開いており、義村は後鳥羽上皇から味方するよう誘いを受けたときに峻拒しています。さらに他の、安達氏(安達景盛)以下の御家人は、北条家との力の差が懸絶していましたから、義時に弓を引くことなど考えられませんでした。にもかかわらず、北条家は高時が滅亡するまで7代112年間、上記同様な地位のままで日本国の「政権」を運営したのです。
   それでは、なぜ義時は登極しなかった(できなかった)のか?   ここに日本の歴史の面白さがあります。

   その話をする前に、義時が政治的立場を強めていく過程をたどってみましょう。
   伊豆の豪族であった父・北条時政が平氏政権の動揺を的確に読み取り、娘・政子の夫となった源頼朝を「主君」に推戴して挙兵したのは1180年。石橋山の戦いで平氏側に敗れ、嫡子・宗時も戦死しています。その後、時政は甲斐源氏の勢力を頼り、房総半島から勢力を盛り返した頼朝と駿河で合流、頼朝が鎌倉に居所を定めると、幕府の有力御家人となりました。
   義時は北条時政の二男であったため、庶流(?)の江間氏の継承者となり、「江間小四郎」と呼ばれていました。したがって宗時が戦死した後、自動的に北条氏の後継者になったわけではありません。むしろ時政が鎌倉府の重鎮になった後に、後妻の牧の方との間に生まれた政範が嫡子に擬せられていました。そのためか義時は折々の戦で武功を上げながらも目立たない存在であり、頼朝・政子・時政の間を巧みに立ち回りながら自分の政治的地位を固めていきました。
   1199年、頼朝が没して源頼家が後を継ぐと、義時は執権であった父・時政とともに御家人13人の合議制に参画し、幕府の「閣僚」となりました。1203年に時政・義時は、二代将軍となった頼家の外戚として実権を掌握しつつあった比企氏(比企能員)らをクーデタで滅ぼし、頼家を廃位に追い込みます。翌1204年に政範が若死にしたため、義時が名実ともに時政の後継者になり、この5年間で彼の地位は飛躍的に向上しました。現代に例えれば、上級公務員の一人に過ぎなかった人が「副総理」になったのです。

   (つづく)

(2019.06.23 up)