「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝 


第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち

   第五節 運に見放された平宗盛

   平家一門の頭でありながら、壇ノ浦で一族滅亡した後に捕えられ、処刑された平宗盛(1147-85)。
   武士らしくない見苦しい最期を遂げたバカ殿様と評されているのですが、それがすべてだったのでしょうか。

   宗盛(平清盛の三男)の不運は、兄の重盛・基盛が若くして亡くなったために、三男でありながら平氏の棟梁を継がなければならなくなったこと、また、平氏政権を樹立した父・清盛(1118-81)が健在のうちに、政権の凋落が始まってしまったことでしょう。その凋落の主たる原因は、全国の武士団(在地領主層)の支持を固められなかったことによるものと考えられます。
   重盛か基盛のいずれかが長命であれば、宗盛はその補佐役、あるいは有力な支流として力を発揮していたかも知れません。また、もし清盛が「創業の君主」として政権の体制を固めた後に、宗盛が「守成の君主」として登板していたとしても、優れた政治力で治績を上げていただろうと推測されます。しかし、残念なことに、歴史はそう展開しませんでした。

   清盛が出家した(1168)後、短期間ながら平氏の棟梁となった重盛は、これまで西国中心の勢力だった平氏の支持基盤を見直し、源氏の配下にあった東国の武士たちとの間にも主従関係を結び、全国区の政権確立を目指した人物です。ところが「鹿ケ谷の陰謀(1176)」の煽りを受けて失脚し、失意のまま死去(1179)。事実上、平氏一門の表舞台に立っていた宗盛は、棟梁の地位を継承しますが、直後に清盛と後白河上皇との対立が決定的になり、その板挟みに苦しむことになります。
   重盛が早世してしまったことは、別の意味で平氏にとって不運でもありました。重盛が父・清盛の方針を転換してまで推進した東国武士団との関係強化は、彼の早世によって中断してしまいました。宗盛は清盛と後白河上皇との軋轢の解消や、以仁王・源頼政らの反乱(1180)の鎮定に追われ、東国にテコ入れする時間的余裕もないまま、源頼朝の反乱が勃発してしまいます。決断力に欠けていたことは否定できないものの、富士川の敗戦の報に接して、宗盛は遅ればせながら東国追討体制を整えるのですが、その直後に清盛が没して出陣が延期になるなど、対策はことごとく後手後手に回りました。弟・平重衡の活躍でいったんは往時の勢力を盛り返しましたが、北陸から源義仲も挙兵するに至り、もっぱら守勢に立たされることになりました。

   そのあとの経過は、よく知られている通りです。源氏側に源義経という不世出の天才戦略家がいたことも災いして、平氏は壇ノ浦で滅亡、宗盛は息子の清宗とともに捕えられ、勢田で斬首されました。海で死に切れずに縄目の恥を受けたことは、当時の人たちから嘲笑されていますが、そのことをもって宗盛の評価を貶めるのは失当でしょう。
   『玉葉』『愚管抄』などの同時代史料を参照すると、宗盛は政治的な見識を持ち、朝廷との共存についても自分なりの構想を持っていた人物だけに、平穏な時代であれば、それなりの実績を残したのではないかとも考えられます。「運に見放された」との表現が最も当てはまる類型の殿様なのかも知れません。

   次節では、鎌倉幕府の第二代執権・北条義時を取り上げます。...(つづく)

(2019.06.09 up)