「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝 


第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち

   第四節 政争の巻き添えになった陽成天皇

   百人一首にも名前が残っていますが、長い「隠居生活」を余儀なくされた陽成天皇(868-949、在位877-884)。
   日本史の中で「廃位された天皇」は何人か存在しますが、この人ほど長く「廃帝」として生きた人は例がありません。

   陽成天皇が884年、17歳で皇位を廃された原因は、表向きは乳兄弟であった源益(みなもとのまさる)の殺害に関与した疑いをかけられ、「幼少のころから精神状態が尋常ではなく、天皇にふさわしくない」と判断されたものとされています。武烈天皇のように、あとで捏造されたと推測される「悪行」も羅列されています。
   しかし、実際には関白・藤原基経の意思によるものであり、その背景には妹の皇太后(陽成の母)藤原高子(たかいこ)との政治的な抗争があったことは、多くの識者が指摘するところです。在原氏など他氏の重用を目論む高子・陽成側の路線を憂慮し、権力の確立を目指す基経は、自身の甥に当たる陽成天皇を引きずり下ろす奇策に出ました。
   なぜ「奇策」なのかと言えば、これまでも、この後も、藤原氏の基本方針は「天皇家に娘を嫁がせて、外戚として権力を掌握する」ことだったからであり、基経はむしろこの方針に背反してでも、自己の権力基盤の絶対化を目指しました。
   そこには「藤原ファースト」を旨とする基経の長期戦略があったと考えるべきでしょう。高子・陽成側の路線をそのまま放置すれば、上記藤原氏の基本方針と異なった方向へ進む可能性が強かった。そのため基経は一時的に「藤原流」を中断させても、この路線の芽を摘んでおこうと企図したものと考えられます。
   では、基経の奇策「天皇の廃立」は具体的にどう進められたのでしょうか? それは、次の天皇が選出される過程に明らかです。
   候補者になった人たちは、以下の通りです。

・恒貞親王(つねさだ しんのう。60歳。淳和天皇皇子)→基経サイドから打診するも、本人が辞退。
・源融(みなもとのとおる。63歳。嵯峨天皇皇子)→自薦するも、基経サイドから反対され落選。
・時康親王(ときやす しんのう。55歳。仁明天皇皇子)→基経が推薦して受諾し、光孝天皇として即位。

   まず、この候補者たちの年齢に注目してください。60歳前後と言えば、現代なら80歳前後だと考えて差し支えないでしょう。対する基経は49歳ですから、現代だと65歳ぐらいの感覚。つまり、候補者がその年代ならば、遠からず「その次」を決めなければならないので、基経は二代にわたる「キングメーカー」となり、再び権力を確立することができます。
   最初の候補者・恒貞親王は、仁明天皇の皇太子を廃され、仁和寺へ入り出家して「恒寂」と称していました。基経の養父(叔父)藤原良房が「承和の変」で追い落とした相手なので、いわば敵同士なのですが、基経が第一候補に挙げた理由は、「支持勢力が(みな凋落してしまって)ない」「子どもがない」の二点でしょう。「御しやすい」天皇候補だったのですが、さすがに親王のほうは今更皇位を継ぐ気にならず、辞退しました。
   そこで基経は、次の候補を時康親王に定めます。その理由は君徳を備えた人物だとのこと。ところがこの「君徳」ですが、かつて良房の宴に親王が招かれていたときに取った行動によるものでした。「尊者である良房の膳にメインディッシュである雉の足が乗っていなかった。そこで配膳係は時康親王の膳からそっと雉の足を取って良房の膳に回した。親王は配膳係の無礼を咎めずに、自分の前にある灯りの火を吹き消して、双方の恥を隠したので、それを見ていた基経が『君主にふさわしい』と思った」。つまり、藤原氏の傀儡になっても甘受してくれる人物だということなのですね。
   人をバカにした話ですが、ともかく基経は強硬に時康親王を推薦したので、その前後(?)に自薦した源融も、抗するわけにはいかずに引き下がっています。ちなみに融の自薦が却下されたのは、表向き「臣籍に下った(現代で言えば竹田恒和氏のパターン)者が即位した例がない」とのことだったのですが、この直後に、次の宇多天皇がその「前例」になっているのですから、この理由は名目に過ぎません。左大臣にもなった政治家である融が基経の意図に沿わないのは当然のこと。基経に言わせれば「オレが天皇にさせたい人が天皇になるのだ」ぐらいの気持ちだったのではないでしょうか。

   そして、時康親王が即位して光孝天皇となり、陽成天皇は廃位されました。他の国であればここで「消され」てもおかしくないところですが、そこは「和」を重んじる日本、陽成天皇は「上皇」として遇されました。三年後には光孝天皇が没し、かつて臣籍に下って「源定省(みなもとの さだみ)」となり、皇族に復していた定省親王が、宇多天皇として即位しました。宮廷に影響力を持っていた基経の妹・藤原淑子が、かつて宇多天皇を猶子(養子にしないが、子ども同様に保護するもの)としていたので、その意向を尊重したと言われていますが、宇多はすでに基経の従弟・藤原高藤の娘・胤子との間に敦仁(後の醍醐天皇)を儲けていたので、藤原氏が再び外戚であり続けるため「保険」を掛けたとも考えられます。基経は己れの権力基盤が十全ではないと思い、この直後に「阿衡の紛議」を起こします。宇多天皇に自分の権力を思い知らせようとしたわけです。
   陽成上皇は特に幽閉されることはなかったものの、もちろん政治的な活動は封じられ、近臣に対して宇多天皇のことを「彼はもともと私の臣下だったのに」と愚痴をこぼしたと伝えられています。65年もの間、文化人として生きることを強いられた形ですが、しきりに歌合(うたあわせ)を開くなどして無聊を慰めていました。妻の一人・綏子内親王(宇多天皇の妹)に宛てた有名な「筑波嶺の...」の歌は「百人一首」にも採られていますので、古代・中世における外国の廃帝・廃王に比べれば、まだしも平穏な人生を送ることができたと言えるのかも知れません。

   さて、次節からは、武家政権の「暴君」「暗君」「バカ殿」に移ります。...(つづく)

(2019.06.02 up)