「つくられたバカ殿様」 - 徳川家重評伝 


第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち

   第三節 道鏡を「敬愛」していた称徳天皇

   「持統-元明王朝」の最後を飾る女帝・孝謙天皇、復位後は称徳天皇(718-770、在位749-758、764-770)。
   日本史の天皇の中でも、とりわけ異彩を放つ人物です。単に女性政治家であったのみならず、その皇位を他人である道鏡(?-772)に譲ろうとしたのです。
   そのため、称徳天皇は、東洋の女帝として「先輩」に当たる唐の則天皇帝(624-705、在位690-705)との類似性から、「男狂い」だった暴君とされています。

   さて、称徳天皇については、すでに井沢元彦氏が『逆説の日本史3 古代言霊編』の中で、天皇をめぐる政治状況について詳しく分析し、後世の悪評が捏造であったことを論証しています。以下、氏の見解を私なりに要約してみます。

・そもそも、称徳天皇が出家して尼になった以上、戒律がたいへん重視されていた当時の仏教界で、僧の道鏡との間に性的な男女関係は考えられなかった。仏教史の専門家も、あり得なかったと断じている。
・道鏡「巨根」説は、中国の古典に登場する「嫪毐(ろうあい)」を念頭に、何らかの意図を持つ人たちによって捏造された。
・光明皇后(称徳の母)→藤原仲麻呂の政治路線は、大国・唐との全面戦争を招きかねない危険をはらんでおり、それを阻止したのが称徳であった。
・もし皇位が称徳から道鏡に「禅譲」されていたら、僧である道鏡自身にも子どもがいないのだから、次も「禅譲」となり、中国でさえできない理想の君主継承が実現するはずだった。
・逆に、天皇家が存続することで最大の利益を得たのが藤原氏である。その藤原氏の目的は、全国の荘園を拡大して公地公民制を崩壊させることであった。称徳・道鏡のコンビは、765年の墾田開発禁止令により、藤原氏の経済基盤の拡大を阻止した。
・宇佐八幡神託事件では、道鏡の皇位継承を妨げた和気清麻呂の背後に藤原氏が存在し、その後に称徳は藤原氏の謀略により暗殺された可能性が強い。
・藤原氏の支配の原理に「逆らった」称徳天皇は、没後、「男狂いの女帝」だとデッチあげられ、現在に至っている。

   総括すれば、称徳天皇も道鏡も、「政治的敗者」だったとの見解であり、私も井沢氏の見解には全面的に賛成です。氏の議論で、称徳天皇の名誉回復は言い尽くされた感があり、基本部分にはほとんど付け加えることはありません。詳しくは上記、氏のご著書をお読みください。

   ただし、一点だけ私が踏み込んでみたい点があります。
   それは、称徳天皇と道鏡とは、性的な愛欲の関係では決してなかったとしても、互いに「敬愛」し合っていたのではないか? との推論です。
   そもそも二人の交流は、称徳天皇が一時退位した後、45歳で保良宮に滞在中、病気がちになったときからです。看病に当たって称徳を快癒させた道鏡は、このとき推定60歳ぐらいであり、そもそも性的な行為を一切していなかった当時の僧が、その年齢になって、自分より地位の高い女性をいきなりセックスの対象として見なしたとの設定には、そもそも無理があります。称徳の側も、〔当時としては〕高齢のお坊さんと交流して、いまさら「女」に目覚めたわけでもないでしょう。
   しかし、道鏡が称徳天皇を「凛として信念を貫く女性」として、また称徳天皇が道鏡を「気持ちが弱くなっていた自分を癒してくれた包容力のある男性」として、互いに敬愛する関係になったとしても、決しておかしくはありません。単なる「ビジネス(称徳は統治者として、道鏡は宗教者として)」の都合だけで手を結んだと考えるのは、むしろ不自然です。現在でも、性的な関係より心の絆を求めて愛し合う年輩同士のパートナーがいるのと同様に、この二人もプラトニックな「愛」を交わす関係だったのではないかと、私は推測します。
   その象徴が「由義宮(ゆげのみや)」と「西大寺」ではないかと私は考えていますが、いまのところ深入りする材料を持ち合わせていません。
   これ以上は小説になってしまうので、控えておきますが(笑)。

   さて、次節では、15歳で廃位された陽成天皇を取り上げてみましょう。...(つづく)

(※画像は孝謙=称徳天皇。パブリックドメインのものを借用しました)

(2019.05.25 up)