「つくられたバカ殿様」 − 徳川家重評伝 


第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち

   第二節 実は「簒奪者の息子」だった武烈天皇

   日本の歴史、特に6世紀前半までの政治史について、古代の史書『日本書紀』や『古事記』の記述、いわば神話や伝承が、そのまま史実でないことは、言うまでもありません。
   その神話や伝承の中で、特に暴君として名高いのが、5世紀末に比定される武烈天皇です。
   『日本書紀』に記述されている武烈天皇は、暴君の典型です。妊産婦の腹を割く、人を木に登らせて射殺する、女性を裸にして馬と交尾させるなど、中国の史書に描かれた暴君の代表「桀」や「紂」をそのまま日本に輸入したようなものです。
   多くの史学者が、これは応神天皇の子孫とされる、次の継体天皇の即位を正当化するための捏造だと見なしています。これには私も賛成です。
   ところが、『古事記』にはこの武烈天皇の暴悪な行為が全く記述されていません。
   この落差をどう説明したら良いのでしょうか?

   まず、武烈天皇は仁賢天皇の息子とされています。仁賢天皇は弟の(兄より先に即位した)顕宗天皇とともに、市辺押磐皇子の子息であり、父が従兄弟の雄略天皇に殺害された後、丹波の与謝郡、さらに播磨へ移って身を隠し、雄略天皇の次の清寧天皇のとき兄弟で身分を明かして名乗り出て、清寧の後を継いで顕宗、仁賢の順に即位したことになっています。
   能坂利雄(1922-91)は『佐々木源氏の謎』の中でこの伝承を考察して、顕宗・仁賢は当時の天皇家(いわゆる「応神王朝」)とは全く別系統の異種であり、丹波与謝郡から播磨へ南下した騎馬系氏族であるとの仮説を立てました。そして、無力な清寧天皇の皇位を奪った、いわば「簒奪者」であったと論断しています。
   したがって、武烈天皇は「簒奪者の息子」となりますので、応神天皇の血統を引くと称していた継体天皇にとってみれば、否定すべき存在でした。しかし、おそらく継体天皇自身、応神王朝と何らかの関連はあったにせよ、応神天皇の子孫ではなかったものと思われます。つまり、自称「正統な継承者」である継体王朝から見れば、武烈天皇の悪行を数え立てることによって、本来の応神王朝が再生したことを強調する必要があったわけですね。もし本当に継体天皇が応神天皇の子孫だったのであれば、顕宗・仁賢・武烈の三人を「賊」として追罰すれば済むことで、「武烈の悪行」は不要だったでしょうから。
   
   次に『古事記』です。先日他界した梅原猛(1925-2019)は一代の碩学でしたが、その大著『葬られた王朝−古代出雲の謎を解く』の中で、『古事記』の伝承者とされた稗田阿礼が、藤原不比等であったことを看破しています。すなわち、『古事記』は中臣氏・藤原氏の先祖神とされる神々の功績を持ち上げ、同氏を賛美する私的な史書であったのです。
   これに対して『日本書紀』は官撰史書です。と言っても、こちらにも不比等の意向が強く反映されていることを、梅原は解説しています。
   当時の政権は、持統天皇から文武天皇、元明天皇を経て、次回登場する称徳天皇に至る、いわば「持統−元明王朝」でしたが、これを事実上の「連立パートナー」として支えていたのが、藤原不比等とその子どもたちでした。したがって、『日本書紀』が持統−元明王朝の御用史書だとすれば、『古事記』は藤原氏の御用史書の位置付けになります。
   梅原によれば、中臣氏は鎌足の父・御食子(みけこ)のとき初めて中央政界に進出した常陸の地方氏族であり、それ以前『日本書紀』に登場する中臣氏を冠する何人かの人物は、すべて創作だとしています。つまり「ウソ」ですから、藤原氏の大切な御用史書である『古事記』には中臣氏の先祖らしい人たちは一切登場しません。ところが『日本書紀』は持統−元明王朝の正統性を主張するために作られた官撰史書であり、連立パートナーの藤原=中臣氏も古来ときどき脇役として登場しているんだよ、と示しておくほうが、両者にとって好都合です。
   こう考えると、『古事記』が武烈天皇の悪行をスルーした事情も理解できます。過去の皇位簒奪をめぐる騒動が、中臣氏の利害に何も関わりないことである以上、あえて書き立てる必要は全くないのであり、即位から死去までを淡々と無機質に記述すれば、それで十分だったのに違いありません。裏を返せば、この悪行が捏造であったことを、間接的ながら証明していると言えるかも知れませんね。。

   さて、次節では、道鏡との恋愛が取り沙汰された称徳天皇を取り上げてみましょう。...(つづく)

(2019.05.18 up)