「つくられたバカ殿様」 − 徳川家重評伝 


第一章 日本史を彩る「暴君」「暗君」「バカ殿」たち

   第一節 なぜ「悪い君主」にされたのか?

   私たちが歴史を語るとき、政権の創業者や、「明君」「賢君」とされた人たちの系譜をたどることは、ありふれた習慣になっています。
   しかし、これとは逆に、「暴君」「暗君」「バカ殿」の系譜をたどることは、あまり例がないのではないでしょうか?
   日本史の中で、いったいどんな君主が「悪い君主」とされたのか? これを探ってみるのは重要な作業です。実はそこに、「日本人」の民族的特性が隠されているのです。

   これは日本史に限らないのですが、「悪人」が文字通りの悪人だったとは限りません。
   世界史に登場する君主はどうでしょうか?
   二つの例を挙げてみましょう。

   ◆マクベス(スコットランド王。1005-57、在位1040-57)と、リチャード3世(イングランド王。1452-85、在位1483-85)
   シェイクスピアの戯曲で有名な二人です。「三人の魔女に惑わされて、前国王ダンカンや政敵バンクォウを次々に殺し、民衆を率いて反攻した正義派に滅ぼされた」マクベス。「甥のエドワード5世を殺害して王位を奪い、民心を失って滅亡した」リチャード3世。
   ところで、みなさんはご存知でしょうか?
   リチャード3世を破ってテューダ王朝を開始したヘンリ7世(在位1485-1509)は、確かにイングランド王家の一族ではありましたが、曽祖父の代に王位継承権を放棄しているので、本来なら国王になる資格がなかったことを。
   そして、そのヘンリ7世の孫が、シェイクスピア劇団が宮中に進出したときの女王エリザベス1世であり、その後を継いでシェイクスピアを保護したステュアート朝のジェイムズ1世は、マクベスに殺されたバンクォウの子孫であることを。
   これで、おわかりですね。
   リチャード3世の貶下(へんげ)はエリザベスを、マクベスの貶下はジェイムズを寿(ことほ)ぐための創作なのです。
   実際のマクベスは信仰心篤く、武勇に優れた君主でした。また、実際のリチャード3世は、税制改革を試みるなど、統治に努めた君主でした。しかし、シェイクスピアに歪められてしまった二人は、英国を代表する暴君であるかのように、多くの人から思われています。

   ◆煬帝(隋の皇帝。569-618、在位604-18)
   聖徳太子が使者を派遣したことで知られている統一中国の君主です。
   煬帝は父の側室たちと淫らな関係を持つ失徳の君主であり、土木事業や外征で民衆を苦しめた暴君であったので、国内が分裂し、混乱の中で殺害されてしまった。→そこで、親戚に当たる英雄の李淵=唐の神堯皇帝(高祖)が中国を再統一し、後継者の李世民=唐の文武皇帝(太宗)が理想的な時代「貞観の治」をもたらした...
...とされているのですが、史実は異なります。
   自分の母親を除く父親の妻や側室を、自分自身の妻や側室にすることは、レヴィレート婚と呼ばれています。草原やオアシスの遊牧民の支配層では一般的な慣習であり(経済的な必要性もあったのでしょう)、北族の系譜を引く魏(拓跋氏)王朝や北斉(高氏)王朝の帝室でも起こりました。隋帝室の楊氏も表向きは漢民族を自称していましたが、実は北族系でしたから、伝統的なやりかたを再現したものだと言えます。少なくとも、当時の基準で道徳的な非難が妥当であったかどうかは疑問です。
   王朝滅亡の原因とされている大運河の開削は、民衆にとって苦役には違いなかったのでしょうが、三百年近く分裂状態だった統一中国の物流輸送路を開くために必要な事業であり、その成果は後代の人々に活用されています。また、晩年に各地で反乱が勃発したことは事実ですが、先代の文帝が周(宇文氏)王朝の帝位を簒奪したのが581年、江南の陳(陳氏)王朝を滅ぼして中国を統一したのが589年、中央集権国家として未熟であったため、各地の山積する課題を解決する暇もなく、外征を契機にそれらが噴出したと考えるべきで、煬帝一人の責任に帰せられるものではないでしょう。むしろ、自分なりに努力した政策が裏目に出てしまった、ある意味、不運な君主の部類に入ります。
   そして、これに便乗したのが前述の李淵なのです。太原の留守(りゅうしゅ)という非常大権を行使できる立場を悪用し、煬帝が江南から北帰できなくなったのを好機とばかり、無断で煬帝の孫を「恭帝」として即位させ、自分が政権を掌握しました。そして李淵は煬帝が暗殺されると恭帝から帝位を奪い、息子の李世民が中心となって、中原の軍事力を背景に地方政権を圧伏させて、中国の再統一に成功したのです。
   つまり隋→唐は「正当な帝位の継承ではなかった」ので、唐王朝の側では、「失徳の煬帝→天下が分裂」したのを、「有徳の李世民→天下を統一」したとの図式が必要です。そのため、煬帝は中国史上屈指の暴君とされてしまいました。

   この二例は代表的なものですが、国際的にも、政治的な理由から悪行を塗り付けられた歴史上の君主は、あちらこちらで発見されます。もちろん、史上、ホンモノの「暴君」「暗君」「バカ殿」もたくさん存在したことは事実ですが、知名度の高い「暴君」「暗君」「バカ殿」の場合、必ずしもそうではなかった、むしろ逆に優れた君主であった場合が少なくありません。

   さて、次の節からは、日本史に登場する悪い君主を列挙してみましょう。...(つづく)


(2019.05.11 up)