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中国史に出てくる諡(おくりな)について(15)---斉(=南斉)

   長らくご無沙汰していましたが、今回は南朝の斉=南斉時代の諡号です。短い王朝の前半はまだ安定していたものの、後半は皇帝・宗室の殺し合いに終始しました。

   ここでの諡については他の称号や諱(実名)と区別して、〔  〕内に示し、〔襄公〕〔宣侯〕のように表記します。系譜中で罫線-のあとに続柄を記載していないものは、実子(男子)による襲爵です。また、それぞれの王侯の家の系譜は、主流とおもな傍流を除き省略しますので、封爵を与えられた子孫をすべて掲載するわけではありません。
 

*皇帝の在位年です。

・太祖高帝 蕭道成 479-482
・世祖武帝 蕭賾 482-493
(世宗文帝=文恵皇太子 蕭長懋 即位せず)
・廃帝鬱林王 蕭昭業 493-494
・廃帝海陵恭王 蕭昭文 494
・高宗明帝 蕭鸞 494-498
・廃帝東昏侯 蕭宝巻 498-501
・和帝 蕭宝融 501-502

*封爵について; 南斉の時代、宗室には原則として郡王爵が授けられ、推恩として王の庶子には県侯の爵位が与えられました。一般の臣将には公・侯・伯・子・男の五等爵が設けられ、さらに公は郡公と県公とに区分されており、侯・伯・子・男は県爵のみ、また男爵の下には郷侯・亭侯・関中侯などの爵位がありましたが、詳細がわからない部分もあります。


★蕭氏の宗室王侯


   高帝蕭道成の父、蕭承之(宣皇帝と追尊)には三人の男子がありました。長男が蕭道度、二男が蕭道生で、いずれも宋の時代に没しています。三男が高帝です。また、高帝の族弟であった蕭順之・蕭赤斧や、族子の蕭景先などが取り立てられています。

◆*衡陽王〔元王〕蕭道度(無嗣)-(高帝十一男)衡陽王 鈞(明帝により殺害)-(武帝二十男)永陽王 子珉(明帝により殺害)-(武陵王蕭曄の子)衡陽王 子坦(梁受禅後は未詳)
◆*始安王〔貞王〕蕭道生-*始安王〔靖王〕鳳-始安王 遥光(反逆、誅殺)-(安陸王緬の子)始安王 宝覧(兄に坐して誅殺)
       また、鳳の子に曲江公〔康公〕遥欣-曲江公 幾
    また、道生の子に明帝
    また、道生の子に、安陸県王〔昭王〕緬-湘東王 宝晊(謀反、誅殺)
◆臨湘県侯 蕭順之-臨湘県侯 
    また、順之の子に、梁王 (→皇帝即位)
◆南豊県伯〔懿泊〕蕭赤斧-巴東郡公〔献武公〕穎冑-巴東郡公 靡
◆新呉県侯〔忠侯〕蕭景先-毅(嗣爵? 有罪、誅殺)

   蕭道生は明帝の実父でしたから、明帝の即位後、「景皇」と追尊されています。蕭遥光は叔父の明帝が重篤に陥ったとき、後難を恐れて本家である高帝や武帝の諸子をことごとく殺害する暴挙に出ましたが、自分も東昏侯と対立して反逆を起こし、滅ぼされました。蕭順之は『南史』によると諡が「懿」となっていますが、長男の名と同じなので、何かの間違いかと思われます。蕭景先・蕭赤斧は武帝の信任を受けて首都の統治を任され、蕭穎冑は荊州の軍権を掌握しており、蕭衍(梁の武帝)に同調して東昏侯に背反、和帝のとき病死して美諡を贈られましたが、南斉王朝の終焉が早まりました。


★配饗された功臣

   高帝・蕭道成は一代で南斉王朝を建設しました。宰相、将軍として建国に与った者のうち6名が、武帝のときに元勲とされ、高帝の太祖廟庭に配饗されました。

◆南康郡公〔文簡公〕褚淵-巴東郡公 蓁(後、霽に譲位。〔穆子〕)-(兄の子)巴東郡公 霽
◆南昌県公〔文憲公〕王倹-南昌県公 (梁代、県侯に降封)
◆貞陽県公〔忠武公〕柳世隆-貞陽県公?〔恭公〕悦-(子孫未詳)
◆尋陽郡公 王敬則(反逆、誅殺)
◆鄱陽郡公 陳顕達(反逆、誅殺)
◆康楽県侯〔粛侯〕李安民-元履(嗣爵?)

   褚淵(河南の褚氏)、王倹(琅邪の王氏)はいずれも名門士族の出身で、かつ宋帝室の公主(姫)の夫でもあったのですが、斉の天下取りに与力して、宰輔の地位に至りました。〔文簡〕〔文憲〕はまずまず穏当な諡といったところでしょうか。柳世隆(河東の柳氏)は宋代の対照的に将家の出身で、宋代の柳元景の甥に当たり、宋末の反対勢力掃討や北魏との戦いに功績がありました。王敬則、陳顕達は高帝が台頭する時期から武将として活躍しましたが、敬則は明帝、顕達は東昏侯に反旗を翻して討滅されています。李安民も将家であり、北魏と最前線で対峙して攻防を繰り広げ、武帝の一時期に宰相を務めました。〔忠武〕〔粛〕は武官に多い諡です。
   南斉の元勲たちは、これまでの諸王朝の臣将たちと比較すると知名度が低く、長い中国史の中では小物の感を否めません。おそらく、中国史に関心の薄い方がこのページをご覧になっても、初めて見る名前ばかりが羅列してあることと思われますが・・・。


★将軍・政府高官

   上記、佐命の功臣以外に、高帝・武帝時代には多くの将軍たちが活動しました。

◆襄陽県公 張敬児(謀反、誅殺)
◆平都県侯 張瓌(敗戦、奪爵)
◆望蔡県侯 垣崇祖(有罪、誅殺)
◆霄城県侯〔敬侯〕劉懐珍-□-霄城県侯 景煥
◆鄂県子〔烈子〕王玄載(継嗣未詳)
◆河陽県侯〔壮侯〕王玄邈(継嗣未詳)
◆湘郷県侯〔粛侯〕呂安国(継嗣未詳)
◆広晉県男 周山図(継嗣未詳)
◆沌陽県侯 周盤竜-曲江県男 奉叔(有罪、誅殺)
◆応城県公〔荘公〕王広之-珍国(嗣爵?)
◆竟陵県侯 薛淵(継嗣未詳)
◆建昌県侯〔壮侯〕戴僧静(継嗣未詳)
◆呉平県伯 桓康(継嗣未詳)
◆東昌県子 焦度-世栄(嗣爵?)
◆監利県侯 曹虎(東昏侯により殺害)-監利県侯?世宗(復封?)

◆新淦県伯〔烈伯〕劉善明-新淦県伯 滌
◆新建県侯〔質侯〕蘇侃(継嗣未詳)
◆将楽県子 垣栄祖(継嗣未詳)
◆永新県伯 江謐(有罪、賜死)
◆南豊県子 荀伯玉(有罪、誅殺)

   高帝に随従して出世した将軍の多くは、張敬児や垣崇祖を筆頭として低い将家階層の出身でした。『南斉書』では編者・蕭子顕のスタイルもあって、爵位の後継者を明示していない場合が多いのですが、諡は「粛」「壮」など武張ったものが多いようです。また、劉善明や蘇侃は寒門の出身ながら、文官として活躍した人たちです。
諡だけを見るとあまりパッとしませんが。


★尚書省を占有した士族


   尚書省の大官の多くは、宋王朝からの士族が要職を押さえていました。いわゆる官僚機構の頂点です。

◆(無封爵)王奐(有罪、誅殺)
◆(無封爵)〔貞子〕張岱
◆(無封爵)〔貞子〕褚炫
◆(無封爵)〔懿子〕何戢
◆(無封爵)〔簡子〕王延之
◆(無封爵)〔簡穆公〕王僧虔
◆(無封爵)〔簡子〕張緒
◆(無封爵)〔靖子〕陸澄
◆(無封爵)〔敬子〕江斅
◆(無封爵)〔簡子〕何昌㝢
◆(無封爵)〔簡子〕謝𤅢
◆(無封爵)〔貞子〕王思遠

   士族を代表する高級官僚たちです。この階層は軍事・政治上の功績で爵位を授かることがなくても、交代で吏部尚書に任命されて文官の人事権を握り、将家の台頭とは無関係に王朝の中枢部分で特権を維持していました。王奐のように罪名を受けて殺されたものは例外的であり、多くは政治抗争とは縁の薄い場に位置を占めていたのです。諡も〔貞〕〔簡〕など定番のものが与えられるようになりました。


★高帝の諸子

   高帝には十九人の男子があり、長子が武帝でした。( )内の数字は兄弟順です。

◆(2)予章王〔文献王〕蕭嶷-予章世子〔哀世子〕子廉-予章王 元琳(梁受禅、降封新淦県侯)
      また、嶷の子に南康県侯 子恪、祁陽県侯 子範、寧都県侯 子顕、新浦県侯 子雲(梁受禅、それぞれ子爵に降封)
◆(3)臨川王〔献王〕蕭映-臨川王 子晉(梁代に入って有罪、誅殺)
◆(4)長沙王〔威王〕蕭晃(継嗣未詳)
◆(5)武陵王〔昭王〕蕭曅(継嗣未詳)
◆(6)安成王〔恭王〕蕭暠(継嗣未詳)
◆(7)鄱陽王 蕭鏘(明帝により殺害)
◆(8)桂陽王 蕭鑠(明帝により殺害)
◆(10)始興王〔簡王〕蕭鑑(継嗣未詳)
◆(12)江夏王 蕭鋒(明帝により殺害)
◆(15)南平王 蕭鋭(明帝により殺害)
◆(16)宜都王 蕭鏗(明帝により殺害)
◆(18)晉煕王 蕭銶(明帝により殺害)
◆(19)河東王 蕭鉉(明帝により殺害)

   蕭嶷は宰相として父の高帝、兄の武帝を補佐し、内政に大きな業績を上げ、たいへん良い諡〔文献〕を贈られています。ただし、『南斉書』の編者・蕭子顕の実父であったため、同書の人物評には褒め過ぎの面も見られるようです。蕭晃も宰相になりましたが、武張った気性で知られ、諡もそれにふさわしく、魏の皇弟・曹彰と同じく〔威〕となりました。同じく宰相に就任した蕭鏘と蕭鑠は、「鄱桂」と並称される逸材であったにもかかわらず、いわば分家から皇帝の位を奪った形の明帝によって殺害されています。明帝はこれを皮切りに、高帝・武帝の諸子を抹殺しています。


★武帝の諸子

   武帝には23人の男子がありました。長男は文恵太子蕭長懋であり、父に先立って没しています。

◆(2)竟陵王〔文宣王〕蕭子良-竟陵王 昭冑(謀反、誅殺。後、名誉回復)-竟陵王 同(梁受禅、降封監利県侯)
◆(3)廬陵王 蕭子卿(明帝により殺害)
◆(4)魚復県侯 蕭子響(巴東王→有罪、賜死、没後降封)
◆(5)安陸王 蕭子敬(明帝により殺害)
◆(7)晉安王 蕭子懋(反逆、誅殺)
◆(8)随郡王 蕭子隆(明帝により殺害)
◆(9)建安王 蕭子真、(10)西陽王 蕭子明、(11)南海王 蕭子罕、(13)巴陵王 蕭子倫、(14)邵陵王 蕭子貞、(15)臨賀王 蕭子岳、(17)西陽王 蕭子文、(18)衡陽王 蕭子峻、(19)南康王 蕭子琳、(21)湘東王 蕭子建、(23)南郡王 蕭子夏(以上、十一人とも明帝により殺害)

   蕭子良は宰相として父の武帝を補佐しましたが、他方で孔子と同じ〔文宣〕の諡にふさわしく、一流の文化人でした。多くの人士を招いてサロンを開きましたが、蕭衍(梁の武帝)をはじめ、范雲・沈約・任昉など、梁代に活躍した代表的な政治家や文人たちが、このサロン出身だったのです。蕭子響は父の武帝に対し、荊州で反乱を起こして殺されましたが、鎮定に当たった当事者が蕭順之で、彼もまた武帝から婉曲に咎められて憤死しました。蕭子隆は蕭鏘とともに明帝に殺害され、次いで宰相になった蕭子卿も殺されたため、危機感を持った蕭子懋は江州で反乱を起こしましたが、鎮圧されています。その後、武帝の子どもたちはすべて明帝によって根絶やしにされてしまいました。


★後期の臣将たち

   明帝の在位は短期間でしたが、次の東昏侯に至る時代に自分の腹心を登用して、一応の統治体制を構築しました。

◆曲江県公 王晏(有罪、誅殺)
◆衡陽郡公 蕭諶(有罪、誅殺)
◆臨汝県公 蕭坦之(東昏侯により殺害)
◆安陸県侯 江祏(東昏侯により殺害)
◆余干県公〔文忠公〕徐孝嗣(東昏侯により殺害)-緄(嗣爵?)
◆西豊県侯〔忠憲公〕沈文季(東昏侯により殺害)-(継嗣未詳)
◆定襄県侯 張沖-孜(嗣爵?)
◆武昌県伯 裴叔業(北魏に降伏、死亡)
◆楽安県子 崔慧景(反逆、誅殺)
◆(無封爵)張欣泰(反逆、誅殺)

   王晏から沈文季までは、明帝期から東昏侯期を支えた宰相たちであり、うち蕭諶と蕭坦之は宗室の一族でもありましたが、父親以上に猜疑心が強かった東昏侯は大臣たちを次々と殺害し、結局、蕭衍の反乱軍が都に迫ったのを機会に、重臣の裏切りに遭って自分自身が殺害されることになりました。徐孝嗣と沈文季には諡が贈られています。


★明帝の諸子

   明帝には十一人の男子がありました。二男が東昏侯、八男が和帝になります。

◆(1)巴陵王〔隠王〕蕭宝義(梁代に斉の祭祀継承)
◆(3)江夏王 蕭宝玄(反逆、誅殺)
◆(5)廬陵王 蕭宝源(病死)
◆(6)鄱陽王 蕭宝夤(北魏へ亡命)
◆(9)邵陵王 蕭宝攸(謀反、誅殺)
◆(10)晉煕王 蕭宝嵩(謀反、誅殺)
◆(11)桂陽王 蕭宝貞(謀反、誅殺)

   蕭宝義は梁代になってから、南斉王朝の祭祀を継承するため巴陵王に封じられ、没後〔隠王〕と諡されました。蕭宝夤は北魏へ逃走して官爵を与えられましたが、他の兄弟は非業の死を遂げました。「謀反、誅殺」というのは、お定まりのでっち上げです。南斉蕭氏の場合、あとを簒奪したのが遠族の蕭衍だっただけに、何系統かが存続したのはまだ救いだったのかも知れません。


(2015.07.04 up)