趣味人の部屋


中国史に出てくる諡(おくりな)について(14)−−−宋 (南朝)

   しばらく間が空いてしまいましたが、今回は南朝宋の時代の諡号です。宋は江南のみを領有した王朝でしたが、前半の安定期とは対照的に、後半は皇帝・宗室や軍閥の抗争が絶えませんでした。

   ここでの諡については他の称号や諱(実名)と区別して、〔  〕内に示し、〔襄公〕〔宣侯〕のように表記します。系譜中で罫線−のあとに続柄を記載していないものは、実子(男子)による襲爵です。また、それぞれの王侯の家の系譜は、主流とおもな傍流を除き省略しますので、封爵を与えられた子孫をすべて掲載するわけではありません。
 

*皇帝の在位年です。

・高祖武帝 劉裕 420-422
・少帝営陽王 劉義苻 422-424
・太祖文帝 劉義隆 424-453
・世祖孝武帝 劉駿 453-464
・前廃帝 劉子業 464-465
・太宗明帝 劉彧 465-472
・後廃帝蒼梧王 劉c 472-477
・順帝 劉準 477-479

*封爵について; 宋の時代、宗室には原則として郡王爵が授けられ、推恩として王の庶子には県侯の爵位が与えられました。一般の臣将には公・侯・伯・子・男の五等爵が設けられ、さらに公は郡公と県公とに区分されており、侯・伯・子・男は県爵のみ、また男爵の下に虚封である五等侯・五等子・五等男の爵位があり、その下には郷侯・亭侯・関内侯・関中侯などの爵位がありました。


★劉氏の宗室王侯


   武帝劉裕の父、劉翹(孝皇帝と追尊)には三人の男子がありました。長男が武帝。二男の劉道憐と三男の劉道規とは、いずれも武帝の覇業を補佐しました。また、武帝の族弟に劉遵考がいます。

◆長沙王〔景王〕劉道憐−長沙王〔成王〕義欣−長沙王〔悼王〕瑾(Z)−長沙王 纂(没後に斉受禅、廃絶)
    また、道憐の子に、桂陽県侯〔恭侯〕義融−桂陽県侯〔孝侯〕覬(Z)−(弟・襲の子)桂陽県侯 晃(謀反、誅殺)
       また、義融の子に、臨澧県侯〔忠侯〕襲−東昌県侯 旻(謀反、誅殺)
    また、道憐の子に、新渝県侯〔恵侯〕義宗−新渝県侯〔懐侯〕玠−(弟・秉の子)承(謀反、誅殺)
       また、義宗の子に、当陽県侯 秉(謀反、誅殺)
◆臨川王〔烈武王〕劉道規−(道憐の子)臨川王〔康王〕義慶−臨川王〔哀王〕Y(Z)−臨川王 綽(謀反、誅殺)
◆営浦県侯〔元公〕劉遵考−営浦県侯 澄之

   劉道規の「烈武」は、兄の武帝が宋の建国前に没した弟を悼んだ諡です。その養子になった「康王」劉義慶は当時の臣将・高官たちのエピソード集『世説新語』の著者として有名。劉遵考はさほど能才ではなかったようですが、孝武帝時代の宰相の一人でした。劉秉は後廃帝のとき宰相の一人になりましたが、順帝期になって蕭道成を排除しようと図って、誅殺されています。
   なお、文帝後期以降の宋の宗室諸王には、政府に反逆したわけでもないのに、ときの皇帝から「邪魔者」とされて殺害された者が少なくありません。本稿では、皇太子劉劭に殺された者をZ、孝武帝に殺された者をX、前廃帝に殺された者をQ、明帝に殺された者をM、後廃帝に殺された者をHで表記します。

★佐命の功臣

   武帝は一代で宋王朝を建設しましたが、幕僚から宰相として、あるいは将軍として宋の建国に参画した人たちです。全部で18名が掲げられていますが、うち2人は武帝の弟、劉道憐と劉道規です。

◆南康郡公〔文宣公〕劉穆之−南康郡公 慮之−南康郡公 邕−南康郡公 肜(有罪、奪爵)−南康郡公 彪(斉代、県公に降封)
◆南昌県公 徐羨之(有罪、誅殺)
◆華容県公〔文昭公〕王弘−華容県公 錫−華容県公 僧亮(斉代、県侯に降封)
◆永脩県公 檀道済(有罪、誅殺)
◆建城県公 傅亮(有罪、誅殺)
◆武昌県公 謝晦(反逆、誅殺)
◆宜陽県侯 檀韶−宜陽県侯 緒−(韶の弟・檀祗の子)宜陽県侯 臻−宜陽県侯 遐
◆霄城県侯 趙倫之−霄城県侯〔粛侯〕伯符−霄城県侯 某−霄城県侯 勗
◆南城県侯〔粛侯〕劉懐慎−南城県侯 徳願(有罪、誅殺)
◆新淦県侯〔桓侯〕王懿−新淦県侯 正脩(被殺、廃絶)
◆竜陽県侯〔壮侯〕王鎮悪−竜陽県侯 霊福−竜陽県侯 述祖−竜陽県侯 叡
◆曲江県侯 向靖−曲江県侯 植(有罪、奪爵)−(弟)曲江県侯 驕i有罪、廃絶)
◆建安県侯 劉粋−建安県侯 曠之−建安県侯 琛(無嗣、廃絶)
◆建昌県公〔忠公〕到彦之−建昌県公 仲度−建昌県公 撝
◆臨沮県伯〔簡伯〕張邵−臨沮県伯 柬−臨沮県伯 式
◆漢寿県伯〔懐伯〕沈林子−漢寿県伯 邵−漢寿県伯 侃

   劉穆之(東莞出身)は武帝劉裕がまだ東晉の臣下であった時代の補佐役で、内外多難な時代に直面して政務に精励し、劉裕政権の確立に貢献しました。しかし、晩年には必ずしも劉裕のやりかたに全面的に翼賛したくなかったようです。王朝側からすれば〔文宣公〕の諡はオマージュでしょう。
   宰相として武帝・少帝を補佐したのは、徐羨之から謝晦までの五人。謝晦(陳郡)・王弘(琅邪)・傅亮(北地)がいわゆる士族(=貴族)、徐羨之(東海)は家柄が少し下がり、檀道済は将家の出身です。当初は五人体制でしたが、少帝のとき王弘が外されて四宰相になりました。そのまま文帝時代に入りますが、文帝は檀道済を抱き込んで徐羨之と傅亮とを誅殺。反乱を起こした謝晦も討滅されました。その後は王弘と檀道須とが軸になり、準宰相格の到彦之らの宿将を連ね、新たな官僚陣を加えて「元嘉の治」へ移行していきます。王弘の諡〔文昭〕も平和な時代の反映でしょうか。その後、北から来襲する北魏軍を迎え撃つ最中に、こんどは檀道済が謀反の疑いで誅殺されてしまうのですが・・・。
   天寿を全うした臣将にも、諡を贈られなかった者が何人か見られます。諡には〔粛〕〔桓〕〔壮〕など武張った文字が多いのですが、沈林子は特段悲劇的な事件に巻き込まれたわけではないのに、〔懐〕と諡されたのにはいささか違和感があります。


★武帝時代の諸将たち

   上記、佐命の功臣以外に、武帝時代には多くの将軍が活動し、宋王朝の建国・基盤確立のために奮闘しました。

◆東興県侯 劉懐粛−(弟・劉懐慎の子)東興県侯 蔚祖−東興県侯 道存(獄死)
◆鄱陽県侯 孟懐玉−鄱陽県侯 元(無嗣、廃絶)
◆西昌県侯〔威侯〕檀祗−西昌県侯 献(無嗣)−(弟)西昌県侯 朗−西昌県侯 宣明−西昌県侯 逸(斉受禅、廃絶)
◆豊城県侯 朱齢石(夏国に捕われ殺害)−豊城県侯 景符−豊城県侯 祖宣(有罪、奪爵)−(弟)豊城県侯 隆(斉受禅、廃絶)
◆候官県侯 孫処−候官県侯 宗世−候官県侯 欽公−候官県侯 彦祖(斉受禅、廃絶)
◆竜編県侯 杜慧度−竜編県侯 弘文
◆新寧県男 蒯恩(夏国に捕われ死亡)−新寧県男 国才−新寧県男 慧度(無嗣、廃絶)
◆永新県男 劉鍾−永新県男 敬義−永新県男 国重(斉受禅、廃絶)
◆望蔡県子 虞丘進−望蔡県子 耕−望蔡県子 襲祖−望蔡県子 世宝(斉受禅、廃絶)
◆陽山県男〔壮侯〕胡藩−陽山県男 隆世−陽山県男 乾秀(一族の反乱に連座、廃絶)

   武帝に随従して出世した将軍の多くは、権門と無縁の低い階層の出身でした。檀祗や胡藩を例外として、爵位はありながらも諡を与えられなかった者が少なくありません。各家の二代目以降も、特別な功績がなければ地方官程度にとどまっています。


★武帝〜文帝前期の高官(士族・文臣)たち

   武帝時代の政府高官、その多くは東晉王朝からの士族が要職を占め、宋の時代になっても、官僚の人事は士族が掌握して、将家とは一線を画していました。文帝の初期までの、宰相に準じる高官を掲げておきます。

◆(無封爵)謝裕=景仁−恂
◆晉寧県五等男〔敬公〕袁湛−淳
◆番禺県男 褚裕之−番禺県男 恬之−番禺県男 昭−番禺県男 瑄(斉受禅、廃絶)
◆(無封爵)〔恭子〕張裕−永(後出)
◆(無封爵)謝方明−恵連
◆(無封爵)〔文貞公〕王裕之=敬弘−恢之
◆竜陽県五等子 鄭鮮之−愔
◆州陵県五等侯 江夷−湛(後出)
◆(無封爵)孔靖−山士
◆(無封爵)孔琳之−邈−覬(反逆、誅殺)
◆(無封爵)蔡廓−興宗(後出)
◆(無封爵)王恵
◆陽遂郷侯〔宣侯〕范泰−暠(爵位継承未詳。子の一人に曄=後出)
◆都亭侯 王淮之−興之(爵位継承未詳)
◆(無封爵)王韶之−曄
◆(無封爵)〔憲子〕顔延之−竣(後出)
◆康楽県侯 謝霊運(反逆、誅殺)

   琅邪の王氏、陳郡の謝氏、また江南では呉郡の張氏、会稽の孔氏などが士族として幅を利かせていました。門地そのものがステータスでしたから、爵位にはあまりこだわらず、辞退して受けなかった者もかなり見られます。諡とはあまり関係ないのですが。また同じ氏族の中でも、王韶之と王弘のように、房(系統)が異なれば互いに反目していた例もありました。力の均衡により、高級官僚の人選がなされていたのです。しかし、その中には文人として名高い謝霊運のように、自分自身を時節に合わせられず、非業の死を遂げた者もありました。


★武帝の諸子

   武帝には七人の男子があり、長子が少帝、第三子が文帝でした。( )内数字は兄弟順です。

◆(2)廬陵王〔孝献王〕劉義真(被殺、無嗣)−(文帝第五子)廬陵王〔昭王〕紹(無嗣)−(南平王劉鑠の子)廬陵王〔恭王〕敬先(Q、無嗣)−(孝武帝第二十一子)廬陵王 子輿(M、無嗣)−(桂陽王劉休範の子)廬陵王 徳嗣(H、廃絶)−(再興、臨澧侯劉襲子)廬陵王〔元王〕暠(無嗣、廃絶)
◆(4)彭城王 劉義康(謀反、被殺)−泉陵県侯 允(奪爵→Z、無嗣)
◆(5)江夏王〔文献王〕劉義恭(Q)−江夏王(世子/追封)〔宣王〕叡(Z、無嗣)−(孝武帝第四子)江夏王 子綏(反逆、賜死)−(明帝第八子)江夏王 躋(斉受禅、降封沙陽県公、賜死)
◆(6)南郡王 劉義宣(反逆、誅殺)−世子 恢(反逆、誅殺)
◆(7)衡陽王〔文王〕劉義季−衡陽王〔恭王〕嶷−衡陽王 伯道(没後に斉受禅、廃絶)

   また、少帝の後嗣は、劉義恭の子が継承しています。

◆営陽王(=少帝)劉義符(被殺)−(江夏王劉義恭子)南豊王〔哀王〕元朗(Z、無嗣)−(長沙王劉義欣孫)南豊王 歆(廃位)−(劉義欣孫)南豊王 銑(父の劉韞に連座して誅殺)−(長沙王劉道憐の曽孫)南豊王 績(没後、斉受禅、廃絶)

   劉義真は武帝没後の政権抗争の犠牲者です。劉義康は文帝から宰相の任を託されましたが、劉湛や范曄など側近に持ち上げられたことで失脚に追い込まれ、廃位されて殺害されました。劉義恭は甥の孝武帝から宰相に任じられ、政権の中核を担いましたが、帝の没後、前廃帝から忌避されて殺害。劉義宣は孝武帝に呼応して劉劭討伐に参加したものの、後には孝武帝に反乱を起こして滅ぼされています。七人の兄弟のうち、末弟の劉義季だけが天寿を全うしたことになります。


★文帝(元嘉)時代の宰相・輔臣たち

   文帝は南朝の皇帝のうちでも二番目、29年の長い在位を誇りました。前期から中期にかけては有能な宰相が輩出して盛世を実現しましたが、後期には政争と外寇(北魏による)を招き、最後には自身も皇太子の劉劭に殺害されます。ここでは文帝の「元嘉の治」を支えた宰相や、それに準じる地位だった輔臣たちを列挙してみます。なお、王弘・檀道済・到彦之・劉義康は既出のため、再掲しません。

◆新建県侯〔宣侯〕王華−新建県侯〔定侯〕嗣−新建県侯 長(斉受禅、廃絶)
◆予寧県侯〔文侯〕王曇首−予寧県侯〔愍侯〕僧綽−予寧県侯 
◆(無封爵)〔文成公〕殷景仁−道矜−恒
◆安衆県五等男 劉湛(謀反、誅殺)
◆武興県五等侯 范曄(謀反、誅殺)
◆建昌県五等侯 謝密=弘微−荘(後出)
◆(武岡県侯?)王球−(従孫)奐
◆吉陽県五等侯〔貞侯〕沈演之−睦
◆都郷侯〔簡穆公〕何尚之−偃(後出)
◆枝江県侯〔忠烈公〕徐湛之−枝江県侯 恒之(無嗣)−(兄の子)枝江県侯 孝嗣(斉受禅、一時廃絶)
◆(無封爵)〔忠簡公〕江湛−恁
◆(無封爵)〔忠憲公〕袁淑−敳


   王華・王曇首・殷景仁らが「元嘉の治」の中心人物であり、謝密や王球などとともに士族政治を推進しており、諡も〔文〕〔宣〕と良諡を贈られています。他方、劉湛は劉義康の暴走を助長して粛清され、『後漢書』の著者として有名な范曄は宰相に至らぬまま、不平から劉義康擁立を図って誅殺されました。その後、文帝の政権は北魏の侵攻に悩まされ、領土がかなり南へ後退することになります。徐湛之・江湛・王僧綽らは元嘉末期の宰相であり、皇太子劉劭の騒乱に際して、文帝とともに殺害されました。諡は〔忠烈〕〔忠簡〕〔愍〕など、非業の死を遂げた人物への追贈になっています。このとき劉劭の側近であり、彼を諌めて殺害された袁淑も宰相格と〔忠憲〕の諡を追贈されています。


★文帝の諸子

   文帝には19人の男子がありました。長男は皇太子劉劭であり、父の文帝を殺害し、孝武帝に討伐されています。孝武帝は三男、明帝は十一男に当たります。

◆(2)始興王 劉濬(兄の劉劭とともに反逆、誅殺)
◆(4)南平王〔穆王〕劉鑠(X)−南平王〔懐王〕敬猷(Q、無嗣)−(孝武帝第十八子)南平王 子産(M、無嗣)−(晉平王劉休祐の子)南平王 宣曜(父に坐して廃位)−(劉嶷子)南平王 伯玉(謀反、誅殺)
◆(6)竟陵王 劉誕(反逆、誅殺)
◆(7)建平王〔宣簡王〕劉宏−建平王 景素(反乱、誅殺)−(長沙王劉義欣の子)秭帰県侯 恬(没後に斉受禅、廃絶)
◆(8)廬江王 劉褘(奪爵、賜死)
◆(9)晉煕王 劉昶(北魏へ亡命) −(明帝第六子)晉煕王 燮(斉受禅後に賜死)
◆(10)武昌県侯 劉渾(武昌王→有罪自殺→降封)
◆(12)始安王 劉休仁(M)−始安県王 伯融(H)
◆(13)晉平王〔剌王〕劉休祐(M)−宣翊(襲封前に廃位)
◆(14)海陵王 劉休茂(反乱、誅殺)
◆(15)鄱陽王〔哀王〕劉休業(無嗣)−(晉平王劉休祐の子)鄱陽王 士弘(実父に連座、奪爵)
◆(16)臨慶王〔沖王〕劉休倩(無嗣)−(明帝第八子)臨慶王 躋(江夏王の後嗣に転じ、廃絶)
◆(17)新野王〔懐王〕劉夷父(追封。無嗣)
◆(18)桂陽王 劉休範(反逆、誅殺)
◆(19)巴陵王〔哀王〕劉休若(M)−巴陵王 冲始(没後に斉受禅、廃絶)

   文帝の諸子には、幼少で夭折して〔沖〕〔懐〕などと諡された者を除くと、終わりを全うした者があまりいません。劉誕は兄・孝武帝に加勢して劉義宣討伐に功がありましたが、罪を着せられて討ち滅ぼされました。劉宏は孝武帝を補佐して宰相になりましたが、若くして病死し、〔宣簡〕と諡されました。劉褘・劉休仁・劉休祐・劉休若の四人は、兄・明帝の補佐役となって政権を輔翼していたのですが、帝の猜疑心のために相次いで死に追いやられています。最後に残った大物宗室の劉休範は、後廃帝のとき反乱を起こして蕭道成に敗死。劉氏は同類相食む惨状を呈し、この繰り返しが宋王朝が短命に終わる原因となりました。


★孝武帝期の臣将

   孝武帝の12年の治世は、兄の劉劭を討伐したところから始まります。劉遵考・劉義宣・劉義恭・劉誕・劉宏らはすでに宗室のところで言及しました。

◆封陽県侯〔穆侯〕蕭思話−封陽県侯 恵開−封陽県侯 叡(斉受禅、廃絶)
◆始興郡公 臧質(反逆、誅殺)
◆巴東郡公〔忠烈公〕柳元景−嗣宗(被殺)−纂(爵位継承未詳)
◆広興郡公〔襄公〕沈慶之−文叔(自殺)−昭明(自殺)−広興郡公 曇亮(斉受禅、廃絶)
◆洮陽県侯〔粛侯〕宗愨−洮陽県侯 羅雲−洮陽県侯 元宝
◆(夷道県侯→奪爵)〔宣子〕張暢−広晉県子 淹(反逆、誅殺)
◆東昌県侯〔文穆公〕劉延孫−東昌県侯 質(有罪、廃絶)
◆寧陵県五等侯 王僧達(王弘の子。有罪、賜死)
◆建城県侯 顔竣(有罪、獄死)
◆(無封爵)〔靖子〕何偃(何尚之の子)−戢
◆南昌県侯〔貞侯〕朱脩之−南昌県侯 雍
◆曲江県侯〔荘公〕王玄謨−深(早世)−曲江県侯 繢
◆益陽県侯〔壮侯〕垣護之−益陽県侯 承祖−益陽県侯 顕宗(斉受禅、廃絶)
◆康楽県侯〔忠成公〕劉秀之−康楽県侯 景遠−康楽県侯 儁(斉受禅、廃絶)
◆平都県子〔荒子〕顔師伯−(弟の子)平都県子 幹(斉受禅、廃絶)

   臧質は同志の魯爽らとともに劉義宣に加担して挙兵、討滅されました。一連の内乱を経て、孝武帝政権が確立すると、王玄謨・沈慶之・柳元景・顔師伯らが中核となり、北魏と対峙しながらも、軍政下の安定期を招来します。玄謨は厳格で恩愛が少なく、慶之は派手で豪快、元景は度量が広く品格に優れ、師伯は文人肌の道楽者でしたが、諡の〔荘〕〔襄〕〔忠烈〕〔荒〕はそれぞれの特性を良く表現しています。孝武帝の没後、四人は劉義恭とともに命を受けて前廃帝の宰相となりましたが、誅殺を免れたのは玄謨のみであり、他はことごとく暴君の犠牲になりました。愨は清廉かつ果敢、典型的な武将であり、この人も〔粛〕という似合いの諡を贈られています。


★孝武帝・明帝の諸子

   孝武帝には28人の男子がありました。長男が前廃帝です。また夭折して封号がない者が7人いました。出て他家を継いだ者が3人です。

◆(2)予章王 劉子尚(M)
◆(3)晉安王 劉子勛(反逆、賜死)
◆(6)松滋県侯 劉子房(尋陽王から降格、M)
◆(7)臨海王 劉子頊(反逆、賜死)
◆(8)始平王〔孝敬王〕劉子鸞(Q、無嗣)−(建平王劉景素の子)始平王〔沖王〕延年(無嗣)−(長沙王劉纂の子)始平王 延之(没後に斉受禅、廃絶)
◆(9)永嘉王 劉子仁(M)
◆(11)始安王 劉子真(M)
◆(13)邵陵王 劉子元(反逆、賜死)
◆(14)斉王〔敬王〕劉子羽(追封)
◆(16)淮南王 劉子孟(M)
◆(19)晉陵王〔孝王〕劉子雲(無嗣、廃絶)
◆(22)南海王〔哀王〕劉子師(Q)
◆(23)淮陽王〔思王〕劉子霄(追封)
◆(27)東平王 劉子嗣(M)

   一言で言えば、孝武帝の子孫(男系)は全滅してしまったということです。劉子鸞〔孝敬王〕・子師〔哀王〕らのの同母兄弟は前廃帝に殺され(諡を贈られただけでも、救われたと言うべきか?)、明帝が即位すると反逆した諸王が殺され、生き残った者も明帝の指示で殺されるという、酸鼻極まる殺戮の嵐が吹き荒れました。

   明帝には8人の男子がありました。そもそも明帝は性的な障害があり、実子を儲けることができませんでした。したがって、皇子となっている者たちは、すべて他の男性の子どもを何らかの作為で自分の皇子として養育した形です。長男が後廃帝、三男が順帝です。夭折して封号がない者が2人、出て他家を継いだ者が3人です。

◆(7)邵陵王〔殤王〕劉友(無嗣、廃絶)
◆(9)武陵王 劉賛(孝武帝を継ぐ。無嗣、廃絶)
◆(10)随陽王 劉翽(斉受禅後、舞陰県公に降格。謀反、賜死)
◆(11)新興王 劉嵩(斉受禅後、定襄県公に降格。謀反、賜死)
◆(12)始建王 劉禧(斉受禅後、茘浦県公に降格。謀反、賜死)

   南斉王朝になってから「謀反、賜死」というのは、もちろんでっち上げの粛清です。これ以外に、上記各宗室諸王のところで、「没後、斉受禅」とある者は、ほとんどが南斉成立前の「粛清」と見て良いでしょう。一族の殺し合いによって自らの力を失ってしまった劉氏の悲惨な末路でした。


★明帝期以降の宰相・臣将たち

   明帝は、まれに見る狂暴な君主であった甥の前廃帝を殺害し、宗室からも群臣からも期待されて即位しました。その7年の短い治世の間に、弟4人を宰相・高官に起用しながら、相次いで死に追いやったことは、すでに言及した通りです。他方、帝は北魏の南伐により淮北などの領土を失い、その影響を受けて政情も不安定化しました。帝の没後即位した後廃帝・順帝には、もはや宋王朝を守る力はありませんでした。

◆楽安県伯 蔡興宗(蔡廓の子)−順(襲爵辞退)
◆(無封爵)〔憲子〕謝荘(謝密の子)−颺
◆江安県侯〔懿侯〕王彧=景文−江安県世子〔恭世子〕絢(早世)−江安県侯 婼(斉受禅、廃絶)
◆建安県侯〔忠侯〕殷孝祖−(従弟の子)建安県侯 慧達(斉受禅、廃絶)
◆興平県子 袁粲(蕭道成に反して敗死)
◆雩都県侯 褚淵
◆鄱陽県侯〔忠昭公〕劉勔−鄱陽県侯 悛(斉受禅、廃絶)
◆貞陽県公 沈攸之(蕭道成に反して敗死)
◆斉王 蕭道成(→皇帝即位)

   蔡興宗・謝荘・王景文はいずれも名門の出身で、明帝時代の庶政に努めていますが、何人かの武将が北魏の捕虜になり、加えて内乱で殷孝祖が戦死するなど、人材の喪失が続きます。後廃帝が即位すると、劉休範の乱を平定した蕭道成の権力が肥大化し、彼を除こうとした帝は返り討ちに遭います。蕭道成が自らの傀儡である順帝を即位させた後、劉秉(前述)・袁粲・沈攸之などが反乱を起こしますが、ことごとく鎮圧されました。褚淵らの協力者を得た道成は、一気に王朝簒奪へと突っ走りました。道成の部下として働いた人たちについては、斉の部で掲載します。


(2013.12.31 up)