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中国史に出てくる諡(おくりな)について(13)−−−晉 2(東晉時代)

   今回は、前回の西晉に続いて、東晉の時代の諡号です。(前回同様、晉については当方も会員として加入している『解體晉書』に今後詳細な人物の伝記が掲載される予定ですので、当ページにおいての解説は最低限のものにとどめます)。

   ここでの諡については他の称号や諱(実名)と区別して、〔  〕内に示し、〔襄公〕〔宣侯〕のように表記します。系譜中で罫線−のあとに続柄を記載していないものは、実子(男子)による襲爵です。また、それぞれの王侯の家の系譜は、主流とおもな傍流を除き省略しますので、封爵を与えられた子孫をすべて掲載するわけではありません。
 

*皇帝の在位年です。再掲します(東晉のみ)。

・中宗元帝 司馬睿 317-322
・粛祖明帝 司馬紹 322-325
・顕宗成帝 司馬衍 325-342
・康帝 司馬岳 342-344
・孝宗穆帝 司馬聃 344-361
・哀帝 司馬丕 361-365
・廃帝海西公 司馬奕 365-371
・太宗簡文帝 司馬c 371-372
・烈宗孝武帝 司馬曜 372-396
・安帝 司馬徳宗 396-418
・恭帝 司馬徳文 418-420

*封爵について; 晉の時代、宗室には原則として王爵が授けられ、郡王・県王の二等がありましたが、推恩として王の庶子には県公の爵位が与えられました。一般の臣将には公・侯・伯・子・男の五等爵が設けられ、さらに公は郡公と県公、侯は郡侯と県侯とに区分されており、伯・子・男は県爵のみ、また男爵の下に従前の列侯である県侯・郷侯・亭侯、さらに下位には関内侯・関中侯などの爵位がありました。


★東晉中興に至る政権運営スタッフ


   元帝司馬睿は琅邪王の三代目でしたが、華北の混乱から逃れ、317年に建康を都として即位しました。これ以降を東晉と称します。東晉政権では宗室司馬氏の一族の力は相対的に弱く、華北から南渡した名族に、江南の一部有力氏族を加えた人々が政権の中枢を担うことになりました。

   まずは流寓政権の指導者たちです。

◆西陽王 司馬羕(再掲。汝南王・司馬亮の子。反乱誅殺)
◆臨潁県公〔元公〕荀組−臨潁県公〔定公〕奕
◆藍田県侯 王承−藍田県侯〔簡侯〕述−藍田県侯 坦之(後出)
◆漢安県侯 王敦(=王導の従兄。反乱中死亡、追罰)
◆始興郡公〔文献公〕王導−始興世子〔貞世子〕悦(早世)−(弟の子)始興郡公 琨−始興郡公 嘏−始興郡公 恢(宋代、県公に降封)
◆成武県侯〔康侯〕周顗−成武県侯〔烈侯〕閔−(弟の子)成武県侯 琳
◆(無封爵)刁協
◆都郷侯 劉隗(出奔)−綏−都郷侯 波−都郷侯 淡
◆平楽県伯〔敬伯〕荀崧−平楽県伯 蕤−平楽県伯 籍
◆秣陵県侯〔簡侯〕戴淵−(後嗣未詳)
◆(無封爵)鄧攸

   以下は華北に残って、領土回復をめざした人たちです。

◆広武県侯〔愍侯〕劉琨−広武県侯 羣(後趙に降伏)
◆(無封爵)祖逖

   以下は地元・江南側の代表者たちです。

◆嘉興県公〔元公〕顧栄−嘉興県公 毗−(子孫、世代未詳)嘉興県公 胤
◆(封爵辞退)〔穆子〕賀循
◆華容県子〔穆子〕紀瞻−景(早世)−華容県子 友
◆安陽郷侯 薛兼(無嗣絶家)

   王導は巧みな処世術で東晉初期の政局を主導し、江南の名族の上層部を味方につけていきました。「文献」とは最上級の複諡ですが、西晉ではほとんど見られなかった(宗室以外の)一般臣将に対し、東晉では複諡が贈られることが目立つようになります。

★東晉成立後の有力臣将

   元帝から明帝を経て成帝に至る時代には、王敦・蘇峻と反乱が相次ぎました。その中で政治的、軍事的な有力者が中心となって、東晉の政局を動かし、王朝を安定期に導きました。

   まずは宰相として政務に参画した人たちです。

◆王導(前出)
◆始安郡公〔忠武公〕温嶠−始安郡公 放之
◆都亭侯〔文康侯〕庾亮−羲(嗣爵?)
◆建興県公〔忠貞公〕卞壼−眕−建興県公 誕
◆南昌県公〔文成公〕郗鑒−南昌県公 愔(後出)
◆江陵県伯〔穆伯〕陸曄−諶(嗣爵?)

   以下はおもに政府高官として活動した人たちです。

◆零陵県伯〔忠伯〕劉超−零陵県伯 訥
◆(無封爵)鍾雅
◆(無封爵)陳頵
◆彭沢県侯〔穆侯〕王舒−晏之(父に先立って被殺)−彭沢県侯 崐之−彭沢県侯 陋之(宋受禅、廃絶)
◆苑陵県侯〔敬侯〕華恒(=華廙の子)−苑陵県侯 俊
◆万寧県男〔簡男〕桓彝−南郡公 温(後出)
◆南安県侯 阮孚−(従孫)南安県侯 広
◆(無封爵?)羊曼−賁
◆九原県公〔穆公〕王嶠−九原県公 淡
◆関内侯〔粛侯〕王彬−関内侯 彭之
◆武昌県侯〔孝烈侯〕虞潭−武昌県侯 仡−武昌県侯 嘯父(有罪廃絶)
◆豊城県子 劉胤−豊城県子 赤松

   以下はおもに地方の軍権を司る武将、または地方官として活動した人たちです。

◆武陵県侯〔康侯〕王廙−武陵県侯 頤之
◆褒中県公〔壮公〕王遜−褒中県公 堅−(兄)褒中県公 澄
◆邵陵県公 蘇峻(反乱誅殺)
◆泉陵県公 劉遐−泉陵県公 肇−泉陵県公 挙−泉陵県公 遵之−泉陵県公 伯齢(宋受禅、廃絶)
◆咸亭侯〔康侯〕謝鯤−咸亭侯 尚(後出)
◆長沙郡公〔桓公〕陶侃−長沙世子〔愍悼世子〕瞻−(弟)長沙郡公 弘−長沙郡公 綽之−長沙郡公 延寿(宋代、呉昌県侯に降封)
◆尋陽県侯〔壮侯〕周訪−建城県公〔襄公〕撫−建城県公〔定公〕楚−建城県公 瓊−建城県公 虓(前秦に降伏)
◆観陽県侯〔烈侯〕応詹−観陽県侯 玄
◆于湖県侯〔敬侯〕甘卓(無嗣)
◆益陽県侯〔敬侯〕卞敦−益陽県侯 滔
◆(無封爵)阮放
◆夏陽県侯〔戴侯〕滕含(継嗣未詳)
◆州陵県侯 毛宝−建安県侯〔烈侯〕穆之−建安県侯 珍
◆宜城県伯 ケ岳−宜城県伯 遐
◆広饒県男〔簡男〕庾懌−広饒県男 統
◆西平県侯〔靖侯〕顔含−髦(嗣爵?)

   宰相級では複諡が頻発され、「文」「武」「忠」などと他の文字との組み合わせが多くなりました。蘇峻の乱の平定に大功があった温嶠に贈られた「忠武」は蜀漢の諸葛亮と同じですが、これ以降、「(滅びかけた、転覆しそうになった)政権を復興させた」臣将に贈られる諡の定番となっていきます。単諡では前代に引き続き、「穆」「簡」「敬」あたりが比較的多い時代でした。


★西府・北府均衡時代の臣将

   成帝から簡文帝に至る時代には、荊州を統括する西府軍団と、徐州・兗州を統括する北府軍団とが、東晉政権を支える二大軍閥であり、その均衡のもとに政局が展開されていきました。

   まず宰相として中央の政局を担当した人たちです。

◆興平県伯〔康伯〕陸玩−興平県伯 始
◆余不亭侯〔貞侯〕孔愉−余不亭侯 誾−靖(嗣爵?)
◆都郷侯〔文穆侯〕何充−(弟の子)都郷侯 放−(充の兄の孫)都郷侯 松
◆都郷侯〔忠成侯〕庾冰−希(嗣爵? 反乱誅殺)
◆都亭侯〔粛侯〕庾翼−爰之(嗣爵?)
◆長平県伯〔穆伯〕褚翜−長平県伯 希
◆済陽県男→削爵〔文穆子〕蔡謨
◆建安県伯〔敬伯〕諸葛恢−建安県伯 甝
◆(無封爵)〔穆子〕顧和
◆武陵王〔威王〕司馬晞(前出)
◆会稽王 司馬c(→簡文帝として即位)
◆南郡公〔宣武公〕桓温(=桓彝の子)−南郡公 玄(後出)
◆(無封爵)殷浩
◆咸亭侯〔簡侯〕謝尚(=謝鯤の子)−(従弟の子)咸亭侯 康−(弟の子)咸亭侯 粛−(弟の子)咸亭侯 霊祐

   北府をはじめ地方軍団の統治者には、下記のような人物がありました。

◆竟陵県男 桓宣−戎(嗣爵?)
◆都郷亭侯〔元穆侯〕褚裒−歆(嗣爵?)
◆(無封爵)荀羨(=荀崧の子)
◆東安県伯〔簡伯〕郗曇(=郗鑒の子)−東安県伯 恢−東安県伯 循
◆武興県侯〔穆侯〕范汪−武興県侯 康−武興県侯 弘之
◆南昌県公〔文穆公〕郗愔−超−(従弟の子)南昌県公 僧施(有罪誅殺)
◆(無封爵)刁彝(=刁協の子)
◆(無封爵)〔敬子〕桓豁(=桓彝の子)−作唐県侯 石虔−作唐県侯 誕

   以下は政府高官たちです。

◆鄱陽県伯〔靖伯〕顧衆−鄱陽県伯 昌
◆晉陵県男〔簡男〕孔坦−晉陵県男 混
◆宜陽県伯 張闓−宜陽県伯 混
◆長合郷侯〔恭侯〕袁瓌−湘西県伯〔簡伯〕喬−湘西県伯 方平−湘西県伯 山松
◆永安県伯〔簡伯〕丁潭(継嗣未詳)
◆康楽県伯〔威伯〕陶回−康楽県伯 汪
◆(無封爵)江虨
◆(無封爵)高崧
◆(無封爵)韓伯
◆呉昌県侯 孫盛(継嗣未詳)
◆(無封爵)江灌
◆聞喜県侯 伏滔−系之(嗣爵?)
◆(無封爵)羅含

   以下はおもに地方官として活動した人たちです。

◆番禺県侯〔忠侯〕王允之(王舒の子)−番禺県侯 晞之−番禺県侯 肇之
◆(無封爵)山遐
◆(無封爵)劉惔

   政権の中心になったのは桓温であり、皇帝の廃立を敢行するまでの権力を保ちましたが、諡の「宣武」も晉の初期皇帝のものを組み合わせた特別版のような感があります。全体として武張った諡号が減少しています。


★孝武帝から桓玄までの時期

   孝武帝は個人的には平凡な皇帝でしたが、淝水の戦いで東晉王朝が勢力を回復した時期に当たります。この時期には名臣名将が輩出しましたが、次の安帝時代には政治が退廃し、東晉王朝は急速に傾いていきます。

   まずは宰相として政局に当たった人物です。

◆廬陵郡公〔文靖公〕謝安−廬陵郡公 瑤−廬陵郡公 該−(弟の子)廬陵郡公 承伯(有罪廃絶)−(該の弟)廬陵郡公 澹(宋代、柴桑県侯に降封)
◆藍田県侯〔献侯〕王坦之−藍田県侯 愷
      また、坦之の子に王国宝(無封爵。有罪賜死)
◆豊城県公〔宣穆公〕桓沖(=桓彝の子)−豊城県公〔靖公〕嗣−豊城県公 胤(反乱誅殺)
◆(封爵辞退)王蘊−(無封爵)〔忠簡子〕恭(誅殺、後追贈)
◆(無封爵)〔簡子〕王彪之(=王彬の子)
◆南康郡公〔襄公〕謝石−南康郡公 汪−(汪の従兄の子)南康郡公 明慧−(明慧の従兄の子)南康郡公 暠(宋受禅、廃絶)
◆会稽王〔文孝王〕司馬道子(=簡文帝の皇子)−会稽王〔忠王〕元顕(攻殺中絶)−(再興。従弟)会稽王〔悼王〕脩之(無嗣廃絶)
◆(無封爵)〔憲子〕王献之
◆東亭侯〔献穆侯〕王珣(=王導の孫)−華容県侯
◆(無封爵)陸納−(無封爵、弟の子)道隆
◆(無封爵)王珉(王珣の弟)
◆武岡県侯〔文恭侯〕王謐(=王導の孫。武岡県侯・王協の甥)−瓘(嗣爵?)
◆南郡公 桓玄(簒奪、誅殺)

   以下は政府高官です。

◆臨湘県侯 車胤(有罪自殺、廃絶)
◆(無封爵)王雅
◆(無封爵)庾楷

   地方の軍権を管轄した人たちです。

◆康楽県公〔献武公〕謝玄−康楽県公 瑍−康楽県公 霊運(宋代、県侯に降封)
◆永脩県侯〔烈侯〕桓伊−永脩県侯 粛之−永脩県侯 陵(宋受禅、廃絶)
◆(無封爵)朱序
◆(無封爵)桓石民(=桓豁の子)
◆望蔡県公〔忠粛公〕謝琰−望蔡県公 混(有罪誅殺)
◆(無封爵)殷仲堪
◆(無封爵)楊佺期
◆(無封爵)呉隠之
◆武岡県男 劉牢之(自殺、中絶)−武岡県男 敬宣−武岡県男 光祖(宋受禅、廃絶)

   謝安・王坦之・桓沖(桓温の弟)は東晉後期の屋台骨を支えた名臣であり、諡もそれぞれ「文靖」「献」「宣穆」という美諡を贈られました。司馬道子・元顕の父子は諡こそ立派ですが、内政を混乱させて東晉滅亡のきっかけを作った人たちです。この父子を打倒した桓玄はついに安帝を廃位し、皇帝位の簒奪に踏み切りますが、直後に劉裕らのクーデタを許してしまい、桓氏は滅亡するに至りました。


★末期の宰相・臣将たち

   劉裕は桓玄を滅ぼして政権を掌握すると、劉穆之らの協力者を得て、政敵を次々に討滅して独裁権力を築き、ついに420年、晉の恭帝から禅譲を受けて宋王朝を建国しました。

◆宋王 劉裕(→皇帝即位)
◆南平郡公 劉毅(被討誅殺)
◆安成郡公〔忠粛公〕何無忌−安成郡公 勗
◆南郡公〔烈武公〕劉道規−(兄の子)南郡公 義慶
◆曲阿県公 檀憑之(継嗣未詳)
◆新淦県公 諸葛長民(被討誅殺)
◆江陵県公〔桓公〕魏詠之(継嗣未詳)
◆帰郷県公 毛璩−帰郷県公 弘之
◆臨汝県公 孟昶−臨汝県公 霊休
◆南陽郡公 魯宗之(出奔)
◆竟陵県公 劉道憐
◆南昌県侯 劉穆之

   この時期の臣将たちは、劉裕の与党として顕彰された人物と、反対派となって粛清・追放された人物とに二分されてしまいました。劉裕の部下として働いた人たちについては、宋の部で掲載します。


(2011.07.09 up)