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中国史に出てくる諡(おくりな)について(12)−−−晉 1(西晉時代)

   今回は、晉の時代の諡号です。晉は三国時代の後を受けて、中国の統一政権でしたが、少数民族の離反に遭って朝廷が滅亡する羽目になり、残った統治階層が江南に移って政権を継続させました。以下、回を分けて晉代の人たちの諡について述べてみます(なお、晉については当方も会員として加入している『解體晉書』に今後詳細な人物の伝記が掲載される予定ですので、当ページにおいての解説は最低限のものにとどめます)。

   ここでの諡については他の称号や諱(実名)と区別して、〔  〕内に示し、〔襄公〕〔宣侯〕のように表記します。系譜中で罫線−のあとに続柄を記載していないものは、実子(男子)による襲爵です。また、それぞれの王侯の家の系譜は、主流とおもな傍流を除き省略しますので、封爵を与えられた子孫をすべて掲載するわけではありません。
 

*皇帝の在位年です。晉は王朝成立前の助走期間が長かったので、実質的な初代である司馬懿が魏の朝廷で実権を掌握(249年)してから、王朝成立まで16年が経過していました。

・高祖宣帝 司馬懿 皇帝登位せず、舞陽侯として251年に死去
・世宗景帝 司馬師 皇帝登位せず、舞陽侯として255年に死去
・太祖文帝 司馬昭 皇帝登位せず、晉王として265年に死去
・世祖武帝 司馬炎 265-290
・恵帝 司馬衷 290-306
・懐帝 司馬熾 306-313
・愍帝 司馬鄴 313-316
(以下は東晉)
・中宗元帝 司馬睿 317-322
・粛祖明帝 司馬紹 322-325
・顕宗成帝 司馬衍 325-342
・康帝 司馬岳 342-344
・孝宗穆帝 司馬聃 344-361
・哀帝 司馬丕 361-365
・廃帝海西公 司馬奕 365-371
・太宗簡文帝 司馬c 371-372
・烈宗孝武帝 司馬曜 372-396
・安帝 司馬徳宗 396-418
・恭帝 司馬徳文 418-420

*封爵について; 晉の時代、宗室には原則として王爵が授けられ、郡王・県王の二等がありましたが、推恩として王の庶子には県公の爵位が与えられました。一般の臣将には公・侯・伯・子・男の五等爵が設けられ、さらに公は郡公と県公、侯は郡侯と県侯とに区分されており、伯・子・男は県爵のみ、また男爵の下に従前の列侯である県侯・郷侯・亭侯、さらに下位には関内侯・関中侯などの爵位がありました。


★司馬氏の宗室


   宣帝司馬懿の父・司馬防には8人の男子がありました。宣帝は二男になります。
(宗室のうち■印は、国内混乱の元凶であった八人の王を示します)

司馬朗(未封侯)−(司馬孚の子)義陽王〔成王〕−弈(早世)−棘陽王 奇(一時降格、司馬威の誅殺後に再封)
    また朗の子に、昌武亭侯 司馬遺−(司馬望の子)河間王〔平王〕洪−章武王 威(義陽王を継ぐ)−(弟)章武王 混−章武王 滔−章武王 休(反乱中に死亡)−(弟)章武王 珍−(河間王司馬欽の子)章武王 範之−章武王 秀(謀反誅殺)
◆安平王〔献王〕司馬孚−安平世子〔貞世子〕−安平王〔穆王〕隆(無嗣)−(弟)安平王 敦−(途中未詳)−安平王 邃之−安平王 球之
    また孚の子に、下邳王〔献王〕司馬晃−(甥)下邳王 韡−下邳王 韶
    また孚の子に、太原王〔烈王〕司馬瓌−■河間王 顒(被殺、中絶)−(司馬植の子)楽成県王 融−(甥)河間王〔武王〕欽−河間王〔景王〕曇之−河間王 国鎮
◆東武城侯 司馬馗−彭城王〔穆王〕権−彭城王〔元王〕植−彭城王〔康王〕釈−彭城王 雄(反乱、誅殺)−(弟)彭城王 紘−彭城王 玄−彭城王 弘之−彭城王 邵之−彭城王 崇之−彭城王 緝
    また馗の子に、高密王〔文献王〕泰−高密王〔孝王〕略−高密王 拠(無嗣)−(司馬釈の子)高密王 紘−高密王〔恭王〕俊−高密王〔敬王〕純之−高密王 恢之
      また泰の子に、■東海王〔孝献王〕越−東海世子 毗(石勒により滅亡)−(元帝三男)東海王〔哀王〕沖(無嗣、中絶)−(成帝二男)東海王 奕(琅邪王に移る→廃帝。転出後中絶)−(司馬元顕の子)東海王 彦璋(被殺)
      また泰の子に、南陽王 模−南陽王 保(自称、晉王)
    また馗の子に、范陽王〔康王〕司馬綏−范陽王 虓−(司馬模の子)范陽王 黎(劉粲により滅亡)
◆司馬恂(未封侯)−済南王〔恵王〕遂−中山王 耽(無嗣)−(弟)中山王 緝(無嗣)
◆司馬進(未封侯)−譙王〔剛王〕遜−譙王〔定王〕随−譙王 邃(石勒により滅亡)−(叔父)譙王〔閔王〕氶−譙王〔烈王〕無忌−譙王〔敬王〕恬−譙王〔忠王〕尚之−(甥)譙王 文思(劉裕に攻められ出奔)
◆安城亭侯 司馬通−任城王〔景王〕陵−任城王 済(被殺)
◆司馬敏(未封侯)−(司馬進の孫)彪(無封爵)

   司馬孚は、司馬氏の一族でありながら魏の宰相の立場にあってジレンマに悩み、武帝即位後に太宰に就任しましたが、むしろ肩身の狭い思いをしながら過ごし、没後に聡明な人物に贈られる「献」と諡されました。その子の司馬晃も謙虚で令名があり、恵帝のとき宰相に就任し、やはり「献」の諡を贈られています。司馬顒は恵帝を補佐していた司馬冏を打倒した後、帝の弟の司馬乂や司馬穎と同盟・争闘を繰り返し、ここに司馬虓や司馬越が介入して混乱が激しくなり、最後は司馬越が政権を掌握しますが、懐帝に罷免されて憤死、その直後に劉聡の部下石勒の攻撃を受けて洛陽が陥落するという悲劇を迎えます。紊乱の元凶であった司馬越は東晉になってから「孝献」という良い諡を贈られましたが、これは元帝司馬睿が彼に恩義を感じていたことによるもので、その後も司馬越の東海王家は皇帝から近い一門として礼遇されました。司馬顒の後の河間王家には墓誌銘より「武」「景」などの諡が見られ、これらは前代皇帝の諡として回避されているので、あるいは私的に贈られた諡かも知れません。司馬進→譙王の家は最初は「剛」「定」など平凡な諡の人が続きますが、東晉時代になって代々重用されました。

★銘饗に列した創業時の臣将

   文帝司馬昭のときに実質的に晉が創業されましたが、そこから武帝司馬炎の代にかけての輔佐の臣将として、12人が文帝廟に配饗されています。司馬孚は宣帝司馬懿の弟、司馬攸は武帝の弟なので宗室のところに掲載します。

◆楽陵郡公〔武公〕石苞−楽陵郡公 統−(途中未詳)−(苞の子・崇の従孫)楽陵郡公 演
◆高平郡公〔武公〕陳騫−高平郡公 輿−高平郡公 植−高平郡公 粋(被殺、中絶)−高平郡公(名未詳。騫の玄孫)−(甥)高平郡公 浩之
◆魯郡公〔武公〕賈充−魯郡公〔殤公〕黎民(早世、追封)−(姉の子)魯郡公 謐(有罪誅殺、中絶)−(充の従曽孫)魯郡公 禿−(充の従曽孫)魯郡公 湛(戦乱死)
◆鉅鹿郡公〔元公〕裴秀−鉅鹿郡公 濬−(弟)鉅鹿郡公〔成公〕頠−鉅鹿郡公 嵩(被殺)−(途中未詳)−鉅鹿郡公 球
◆済北侯〔成侯〕荀勖−済北侯〔簡侯〕輯−済北侯〔烈侯〕o−済北侯 識
◆博陵郡公〔元公〕王沈−博陵郡公 浚(被殺、中絶)−(沈の従孫)博陵郡公 道素−東莞郡公 崇之
◆鉅平侯〔成侯〕羊祜−(甥)鉅平侯 篇−(中絶)−(祜の兄の六世孫)鉅平侯 法興(有罪誅殺)
◆寿光公〔成公〕鄭沖−(従子)寿光公 徽−寿光公 簡
◆朗陵公〔元公〕何曽−朗陵公〔康公〕劭−朗陵公 岐
◆臨淮公〔康公〕荀−(従孫)臨淮公 徽(中絶)−(の兄の玄孫)臨淮公 序−臨淮公 恒−臨淮公 竜符


   十人のうち、「武」「元」「成」がそれぞれ三人、「康」が一人と、諡もパターン化しています。晉王朝は前代の魏王朝の母屋を乗っ取った形で成立しているため、乱世を勝ち抜いて建国したという履歴が薄いので、創業の元勲も多くは漢末から魏にかけての名望家の子孫であり、創業の功臣としては「面白みのない」人たちです(決して、戦場で敵を殺すことが面白いという意味ではありませんので、誤解なきよう)。その中で裴秀は地理に該博であり、地道ながら文帝司馬昭の権力確立を補佐し、晉初の諸制度を整備した中心人物です。また羊祜は宰相としてよりも、呉と対峙した名将として知られており、文武両道にわたる一流の人物として名を残しました。


★宣帝の諸子

   宣帝司馬懿の子どもたちですが、長男が景帝司馬師、二男が文帝司馬昭です。三男から九男までを掲げます。

◆平原王 司馬榦−安徳公 永(石勒により滅亡)
◆ ■汝南王〔文成王〕司馬亮−汝南王〔懐王〕矩(世子。追封)−汝南王〔威王〕祐−汝南王〔恭王〕統−汝南王 義−汝南王 遵之(有罪誅殺)−(甥)汝南王 蓮扶
    また亮の子に、西陽王 司馬羕(反乱誅殺)
◆琅邪王〔武王〕司馬伷−琅邪王〔恭王〕覲−琅邪王 (→元帝)−(元帝二男)琅邪王〔孝王〕裒−琅邪王〔哀王〕安国(無嗣)−(元帝五男)琅邪王〔悼王〕煥(無嗣)−(元帝六男)琅邪王 c(会稽王に移る)−(明帝二男)琅邪王 岳(→康帝)−(成帝長男)琅邪王 丕(→哀帝)−(弟)琅邪王 奕(→廃帝)−(再承)琅邪王 c(→簡文帝)−琅邪王 道子(→会稽王に移る)−(孝武帝二男)琅邪王 徳文(→恭帝)
    また伷の子に、武陵王〔荘王〕司馬澹−武陵王〔哀王〕普i被殺、中絶)−(元帝四男)武陵王〔威王〕(廃絶、没後追復)−武陵王〔忠敬王〕遵−武陵王〔定王〕季度−武陵王 球之
    また伷の子に、東安王 司馬繇(被殺、中絶)−(司馬覲の子)東安王 渾(無嗣)
◆清恵亭侯 司馬京(無嗣)−(文帝七男)燕王 機(無嗣)−(司馬冏の子)燕王 幾?(連座廃絶)
◆扶風王〔武王〕司馬駿−順陽王 暢
◆梁王〔孝王〕司馬肜(無嗣)−(司馬澹の子)梁王〔懐王〕禧(石勒により滅亡)−(司馬羕の子)梁王〔殤王〕悝−(禧の子)梁王〔声王〕翹(無嗣)−(司馬晞の子)梁王(王+逢。発音未詳。除封、没後追復)−梁王 龢−梁王 珍之(被殺、廃絶)
◆ ■趙王 司馬倫(帝位簒奪、誅殺)−世子 荂(父とともに誅殺)

   司馬亮は恵帝初期に宰相となりましたが、賈皇后の差し金で司馬瑋に殺害され、のちに名誉回復されて「文成」と立派な諡を贈られています。司馬倫はその恵帝から帝位を簒奪した人物。政情不安の中、社会は紊乱を極め、異民族の蜂起を迎えて西晉を滅ぼすに至りました。司馬睿はいち早く江南に駐屯して本拠を構え、建康を都として東晉を建設することになります。


★文帝の諸子

   文帝司馬昭には九人の男子がありました。長男が武帝。二男の司馬攸は伯父の景帝司馬師の後を継いだ形になっていますが、ここに掲げました。また七男の司馬機は叔父の司馬京を継いでいます。八男の司馬永祚は早世して封号も贈られませんでした。

◆斉王〔献王〕司馬攸−■斉王〔武閔王〕冏(被殺)−斉王 超(劉聡により滅亡)−(司馬亮の曽孫)斉王 柔之−斉王 建之
◆城陽王〔哀王〕司馬兆(早世、追封。無嗣)−(武帝三男)城陽王〔懐王〕司馬景(無嗣)−(武帝五男)城陽王〔殤王〕憲(無嗣)−(武帝六男)東海王〔沖王〕祇(無嗣)−(武帝十三男)清河王〔康王〕遐−清河王 覃(一時皇太子。被殺)−清河王 籥
◆遼東王〔悼恵王〕司馬定国(早世、追封。無嗣)−(司馬攸の子)東莱王 蕤(被殺廃絶、追復)−東莱王 遵
◆広漢王〔殤王〕司馬広徳(早世、追封。無嗣)−(司馬攸の子)広漢王〔沖王〕賛(無嗣)−(司馬攸の子)北海王 寔(連座廃絶)
◆楽安王〔平王〕司馬鑒−楽安王〔殤王〕籍(無嗣)−(司馬冏の子)広陽王 冰(連座廃絶)
◆楽平王 司馬延祚(無嗣廃絶)

   司馬攸は「献」の諡にふさわしく聡明で、父・文帝に愛され、武帝の対抗馬に挙げられましたが、晉王朝の成立後は宰相賈充らに権限を抑制され、不本意のうちに世を去っています。その子司馬冏は司馬倫を討滅して恵帝を復位させ、宰相となりましたが、司馬乂らの反対勢力によって滅ぼされました。他の文帝の男子たちは早世したものが多く、ほとんどが一族から継嗣を迎える形になり、その後継者もまた夭折するなど、「悼」「殤」「沖」などの諡が目立っています。


★西晉時代の宰相たち

   文帝司馬昭が魏の執政であったときから、多くの補佐役たちが登場して政権を支えました。

◆睢陵公〔元公〕王祥− 睢陵公〔考公〕馥− 睢陵公 根
◆大梁侯〔元侯〕盧欽−大梁侯 浮
◆新沓伯〔康伯〕山濤−新沓伯 該
◆劇陽子〔康子〕魏舒−(庶孫)劇陽子 融−(舒の従孫)劇陽子 晃
◆広陸侯〔成侯〕李胤−固(早世)−広陸侯 志
◆蘭陵郡公〔成公〕衛瓘−蘭陵世子〔貞世子〕恒−江夏郡公 璪(劉聡により滅亡)−(瓘の玄孫、再興)江夏郡公 崇
◆京陵公〔元公〕王渾−済(早世)−京陵公 卓
◆昌安侯〔元侯〕石鑒−昌安侯 陋
◆臨晉侯 楊駿(有罪誅殺)
◆安豊侯〔元侯〕王戎−(従弟の子)安豊侯(名未詳)
◆循陽侯〔元侯〕劉寔−循陽侯 躋
◆臨海侯〔元侯〕裴楷−臨海侯〔簡公〕輿
◆広武侯 張華(壮武郡公→被殺廃絶、追復侯爵)−禕−広武侯 輿
◆王衍(封爵辞退。石勒により滅亡)
◆楽広(無封爵)
◆郡公(封号未詳)孫秀(司馬倫の簒奪に加わり誅殺)
◆広陵郡公〔元公〕陳準−広陵郡公 眕−広陵郡公 逵(中絶)−(準の七世孫、再興)広陵郡公 茂先
◆弋陽県侯〔忠穆侯〕嵇紹(被殺中絶)−(再興、従曽孫)弋陽侯 翰−(孫)弋陽侯 曠
◆大陵公〔元公〕温羨(後嗣未詳)
◆劉沈(無封爵)
◆興晉県侯 羊玄之
◆武強侯 盧志(劉粲により被殺)
◆霊州公 傅祇−霊州公 宣−霊州公 沖
◆張方(無封爵。有罪誅殺)
◆西華公〔成公〕荀藩(荀勖の子)−西華公〔靖公〕邃−西華公 汪
◆臨潁公 荀組(荀勖の子、後出)
◆東平郡公 苟晞(石勒により滅亡)
◆安昌公 潘尼(後嗣未詳)
◆延陵公 高光(洛陽陥落のため後嗣なし)
◆繆播(無封爵。被殺)
◆閻鼎(無封爵。有罪誅殺)
◆〔節愍侯〕麹允(無封爵。劉聡に捕われ自殺)

   文帝・武帝時代には、二十四孝の一人として呉の孟宗と併称される王祥、竹林七賢のメンバーである山濤や王戎、長期にわたり名流士族の領袖であった衛瓘(政争に巻き込まれ殺害)など、日本人にも知られている名前が並びますが、諡の選択はやはり「元」「成」「康」が主流です。この傾向は西晉を通して続きますが、恵帝時代の後半、賢人と称された張華が殺害された頃からは、政治の混乱により、次第に諡の議論どころではなくなってしまったというのも実態かと思われます。

★西晉時代の文官たち

   宰相にはなれませんでしたが、中央の文官として活動した人たちです。

◆甘露亭侯〔威侯〕羊琇(後嗣未詳)
◆密陵伯〔元伯〕鄭袤−密陵伯〔成伯〕黙−平寿公〔元公〕球(後嗣未詳)
◆観陽伯〔康伯〕華表−観陽公〔元公〕−観陽公 混−観陽公 陶(石勒により滅亡)
    また表の子に、楽郷侯〔簡侯〕華嶠−楽郷侯 頤
◆臨海侯 侯史光−臨海侯 玄−臨海侯 施
◆薛侯〔定侯〕武陔−薛侯 輔
◆祁侯〔成侯〕李憙−祁侯 賛
◆清泉侯〔剛侯〕傅玄−清泉侯〔貞侯〕咸−清泉侯 敷
◆関中侯 庾峻−長岑男〔貞男〕a(劉淵により殺害)
◆関内侯 庾純
◆即丘子〔貞子〕王覧−裁(早世)−即丘子 
◆劉毅(無封爵)−朱虚公 暾(被殺、廃絶)
◆昌国侯〔元侯〕任ト−昌国侯 罕
◆上蔡伯〔簡伯〕和嶠−上蔡伯 済
◆崔洪(無封爵)
◆馮紞(無封爵)
◆平陵男〔簡男〕郭奕(後嗣未詳)
◆梁鄒侯〔貞侯〕劉頌−(養孫)梁鄒侯 エン(阝+焉)
◆〔成子〕李重(贈諡のみ)
◆平陽郷侯〔成侯〕賈模−平陽郷侯 遊
◆西城侯 何攀−西城侯 璋
◆孫楚(無封爵)−長楽侯(?)纂−長楽侯 綽
◆山都県公〔醜公〕王愷(後嗣未詳)
◆摰虞(無封爵)
◆関中侯 陸機(有罪誅殺)
◆亢父男 江統(後嗣未詳)
◆解系(無封爵。被殺)
◆郡侯(封号未詳)孫旂(有罪誅殺)
◆牽秀(無封爵。被殺)
◆成公簡(無封爵。石勒により滅亡)

   史論で知られる劉頌や傅玄、呉の名族として文名を成すも政争に敗れた陸機、「枕流漱石」の故事の主人公である孫楚などが著名です。諡としては「成」も何人かありますが、「簡」「貞」や、諡を贈られなかった人物などを見ると、宰相クラスと比較してやや軽い(+−双方の意で)感触があります。

★西晉時代の将軍・地方官たち

   晉は文帝司馬昭の執政時代に蜀漢を滅ぼし、ついで武帝が王朝を建ててから15年後に呉を滅ぼして、中国を統一しました。その後、八王の混乱期には諸王相互の攻伐が常態化し、地方官たちがそれぞれの兵力を率いて将軍として活動します。これら全体を一項目で括ってみました(将軍から中央政府の宰相になった人物は、上記宰相の項目に入っています)。

◆陰平県侯〔貞侯〕魯芝(後嗣未詳)
◆平春県侯〔烈侯〕胡威−平春県侯 奕
◆当陽侯〔成侯〕杜預−当陽侯 錫−当陽侯〔穆侯〕乂(無嗣廃絶)
◆襄陽侯〔武侯〕王濬−襄陽侯 矩
◆上庸侯〔襄侯〕唐彬−上庸侯(名未詳)
◆成武侯 周浚−成武侯 
◆西鄂侯〔烈侯〕羅憲−西鄂侯 襲
◆武当侯〔忠侯〕滕脩−並(継嗣 ?)−含
◆奉高侯 馬隆−奉高侯 咸
◆夏陽子〔壮子〕胡奮(後嗣未詳)
◆宛陵侯 陶璜(後嗣未詳)
◆吾彦(無封爵)
◆張光(無封爵)
◆〔孝子〕周処(贈諡のみ)−烏程公〔忠烈公〕玘−烏程公 勰
    また処の子に、東遷侯 札
◆安楽亭侯〔荘侯〕索靖−上洛郡公 綝(劉聡により滅亡)
◆上谷郡公 孟観(有罪誅殺)
◆丁紹(無封爵)
◆皇甫重(無封爵。被殺)
◆宜昌亭侯 張輔(被殺廃絶)
◆李含(無封爵。被殺)
◆都亭侯〔胡侯〕華譚−都亭侯 茂
◆南郷侯〔憲侯〕王澄(後嗣未詳)
◆永寧伯 周馥(後嗣未詳)
◆平阿侯〔敬侯〕趙誘−胤(継嗣?)
◆酒泉公 賈疋(戦死廃絶)
◆華軼(無封爵)
◆劉喬(無封爵)
◆定襄侯〔貞侯〕劉輿−定襄侯 演(戦死、廃絶)

   杜預は『春秋左氏伝』の集解(注釈本)で著名。周処の一族は呉の大族でしたが、東晉の初めに彼らを警戒した王敦らにより討伐され小勢力に転落しました。索綝は西晉末の混乱期に、漢(前趙)の劉曜に内通しようとして拒否され滅亡しています。


★武帝の諸子

   武帝の男子は26人。恵帝は二男、懐帝は二十五男になります。4人は宗室の家を継いでおり、8人が夭折して封号がありません。独立して家を建てた12人を掲載しますが、兄弟順は『晉書』の中でも混乱が見られ、すべては判明していないので、分かる者だけを〈〉内に数字を入れて表示します(*は追封)。

◆*毗陵王〔悼王〕司馬軌〈1〉(早世。無嗣)−(司馬瑋の子)毗陵王 義
◆秦王〔献王〕司馬柬〈4〉(無嗣)−(司馬允の子)秦王〔悼王〕郁(被殺、中絶)−(司馬晏の子)秦王 鄴(→愍帝)
◆始平王〔哀王〕司馬裕〈7〉(無嗣)−(司馬允の子)漢王 迪(被殺、廃絶)
◆ ■楚王〔隠王〕司馬瑋〈8〉(被殺、中絶)−襄陽王 範(石勒により滅亡)
◆淮南王〔忠壮王〕司馬允(被殺、中絶)−(司馬冏の子)淮南王 超(連座廃絶)−(司馬晏の子)淮南王 祥(劉聡により滅亡)
◆新都王〔懐王〕司馬該(無嗣、廃絶)
◆*渤海王〔殤王〕司馬恢(早世。無嗣)
◆汝陰王〔哀王〕司馬謨(無嗣、廃絶)
◆ ■長沙王〔脂、〕司馬乂〈15〉(被殺、中絶)−長沙王 碩(劉聡により滅亡)
◆ ■成都王 司馬穎〈16〉(被殺、中絶)−(司馬蕤の子)華容王 某(被殺)
◆呉王〔敬王〕司馬晏(被殺)
◆代王〔哀王〕司馬演(無嗣)−(司馬穎の子)中都王 廓(被殺、廃絶)

   司馬柬のような聡明な(諡も「献」)人物もいたのですが、恵帝が暗君で、かつ皇太子の廃嫡が起こる状況でしたから、「次」を狙った動きが絶えませんでした。八王に数えられる司馬瑋・司馬乂・司馬穎の三人もそのパターンであり、結局は非業の最期を迎えて、「隠王」「脂、」「諡なし」となってしまいました。これらの政争に巻き込まれて殺害された司馬允などを含めれば犠牲者も数多く、晉王朝の封建政策は初期の意図の当否はともかく、結果的には中央権力が脆弱という状況下で、あたら有能な人材を無駄死にさせてしまったと言うことができましょう。


★恵帝・懐帝の諸子

   恵帝の男子は皇太子の司馬遹ただ一人。懐帝には男子がなく、兄の司馬遐(清河王)の子・司馬銓を養子にしました。諸王侯として封建された者はおりません。

◆愍懐皇太子 司馬遹(廃位、被殺)−哀皇太孫 臧(被殺)⇒(弟)沖皇太孫 尚(早世)
◆殤皇太子 司馬銓(石勒により滅亡)


   東晉時代については、次回の章に掲載します。

(2008.12.22記)