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中国史に出てくる諡(おくりな)について(16)---梁

   またまた間が空いてしまいましたが、今回は南朝の梁代の諡号です。この王朝は事実上、武帝=蕭衍一代のみの王朝と言って良く、末期には侯景の乱、さらに外寇のために、土崩瓦解して終焉を招きました(本稿の主題はあくまでも「諡」であるため、侯景の乱以降の目まぐるしい政治情勢の変転の詳細は記述しません)。

   ここでの諡については他の称号や諱(実名)と区別して、〔  〕内に示し、〔襄公〕〔宣侯〕のように表記します。系譜中で罫線-のあとに続柄を記載していないものは、実子(男子)による襲爵です。また、それぞれの王侯の家の系譜は、主流とおもな傍流を除き省略しますので、封爵を与えられた子孫をすべて掲載するわけではありません。
 

*皇帝の在位年です。

・太祖文帝 蕭順之(追尊)
・高祖武帝 蕭衍 502-549
・太宗簡文帝 蕭綱 549-551
・廃帝予章王 蕭棟 551
・世祖元帝 蕭繹 552-554
・廃帝建安公 蕭淵明 555
・敬帝 蕭方智 555-557

*封爵について; 梁の時代、宗室には原則として郡王爵が授けられ(例外的に県王の爵位もあり)、推恩として王の庶子には県侯の爵位が与えられました。一般の臣将には県公・侯・伯・子・男の五等爵が設けられ、末期には郡公の爵も存在しました。また男爵の下には湯沐食侯、郷侯・亭侯、関中侯・関外侯などの爵位がありましたが、詳細が解明されていない部分もあります。


★蕭氏の宗室王侯


   斉の鎮北将軍・臨湘県侯として生を終え、文帝と追尊された蕭順之は、蕭道賜の二男であり、兄と弟とがありました。兄が蕭尚之、弟が蕭崇之で、いずれも斉の時代に没しています。

◆(無封爵)〔文宣侯〕蕭尚之-東昌県侯 霊鈞-東昌県侯 謇
◆(無封爵)〔忠簡侯〕蕭崇之-呉平県侯〔忠侯〕昺-呉平県侯〔光侯〕勱-(継嗣未詳)
       また、昺の子に、曲江郷侯 勃(陳代に被殺)
    また、崇之の子に、湘陰県侯〔恭侯〕昂
◆(斉の予章王・蕭嶷)-南康県子〔恭子〕蕭子恪-(継嗣未詳)
    また、嶷の子に、祁陽県子〔文子〕蕭子範-確(嗣爵?)
    また、嶷の子に、寧都県子〔驕子〕蕭子顕-序(嗣爵?)
    また、嶷の子に、新浦県子 蕭子雲

   蕭昺は武帝の従父弟として信任を受け、地方長官を歴任して業績がありました。蕭勱は広州刺史として辺境の安定に力がありましたが、〔光〕は臣下としては珍しい諡なので、あるいは〔元〕の誤りかも知れません。蕭勃は元帝の敗北後に広州を拠点として勢力を保ち、陳覇先が梁に取って代わったのを承認せず抵抗、滅ぼされました。蕭子恪は斉の皇子・蕭嶷の息子で、弟たちとともに梁王朝に仕えて官僚となりました。蕭子顕は『斉書(=南斉書)』の編者として知られますが、自分の才能を鼻にかけていたと言われ、それに見合って〔驕〕と諡されています。


★文帝の諸子

  文帝(追尊)蕭順之には十一人の男子があり、武帝は第三子に当たります。( )内の数字は兄弟順です。* 印を付けたものは死後追封。

*(1)長沙王〔宣武王〕蕭懿-長沙王〔元王〕淵業-長沙王〔章王〕孝儼-長沙王 慎(消息未詳)-(蕭淵猷の子)長沙王 韶
     また、懿の子に西昌県侯 淵藻

    また、懿の子に臨汝県侯〔霊侯〕淵猷
    また、懿の子に建安郡公 淵明(一時、皇帝)
◆*(2)永陽王〔昭王〕蕭敷-永陽王〔恭王〕伯游-(後嗣未詳)
◆*(4)衡陽王〔宣王〕蕭暢-衡陽王〔孝王〕元簡-衡陽王 献(被殺)
◆*(5)桂陽王〔簡王〕蕭融(無嗣)-(蕭懿の子)桂陽王〔敦王〕象-桂陽王 慥(誅殺)
◆(6)臨川王〔靖恵王〕蕭宏-臨川王 正義-(継嗣未詳)
     また、宏の子に臨賀王 正徳(被殺)
     また、宏の子に建安県侯〔敏侯〕正立-建安県侯 賁(被殺)
◆(7)安成王〔康王〕蕭秀-安成王〔煬王〕機-安成王 操
◆(8)南平王〔元襄王〕蕭偉-南平王〔靖節王〕恪-(継嗣未詳)
     また、偉の子に衡山県侯〔僖侯〕恭-静(嗣侯?)
◆(9)鄱陽王〔忠烈王〕蕭恢-鄱陽王 範-鄱陽世子 嗣(襲封前に戦死)
     また、恢の子に宜豊県侯 脩
◆(10)始興王〔忠武王〕蕭憺-始興王 亮
     また、憺の子に新渝県侯〔寛侯〕暎
     また、憺の子に上黄県侯〔替侯〕曄

   蕭懿は斉の皇帝・東昏侯の宰相でしたが、弟の蕭融とともに東昏侯に殺害され、武帝が挙兵する契機となりました。〔宣武〕は格調高いオマージュです。武帝は弟たちを信任して将軍や地方長官などに重用しました。蕭宏は能力不足でかつ放縦であったため、武帝の信頼を裏切りましたが、それでも親族に甘かった帝から〔靖恵〕と良い諡を与えられています。蕭秀をはじめとする諸弟たちは武帝の信頼に応えて実績を上げ、〔康〕〔元襄〕などの諡にふさわしく、武帝前半の政治的安定に寄与しました。帝の甥たちのうち、蕭淵猷の〔霊〕は楚王廟の信心にのめり込んだのを評されたもの、蕭正立の〔敏〕は父から廃嫡された兄に王位を譲って返したもの、蕭曄の〔替〕は大風呂敷を広げていたのが晩年に失速したものと、それぞれ生前の言行に合わせた独特の文字を贈られています。蕭正徳は武帝に反して侯景の乱に加担し、景に裏切られて殺されました。他方、一時罪あって降格されても、侯景の乱では籠城組に加わって死に、名誉回復された蕭淵藻や蕭恭のような人物もいます。蕭淵明は江陵の元帝政権が西魏に滅ぼされた後、北斉の後援により帝位に即きましたが、陳霸先のクーデタにより引きずり降ろされ、名前だけの大臣にされた後、北斉に送還される直前に腫れ物のため死亡、北斉からは「閔帝」の諡を贈られました。蕭暎は度量が広く人望があり、広州刺史在任中に陳霸先の将才を見出して万春国(ヴェトナム)征討に当たらせました。〔寛〕の諡もまたほとんど類例を見ないものです。


★「文武功臣」

   武帝・蕭衍が梁王朝を建設したとき、「文武功臣十五人」が公爵・侯爵を与えられました。いわば「元勲」なのですが、実際には15人を超えているので、誰と誰を指したものかわかりません。何しろ王朝が武帝一代で壊滅状態になったため、高祖廟に配饗されるべき功臣が記録されず、さらにそれがこの15人と一致するのかしないのかも判明していないのです。とりあえず公爵→侯爵の順に、王朝創建当時の食邑が千戸以上の人物に限って掲げてみました。それでも宗室の蕭昺を含めると18人になってしまいますが・・・。

◆望蔡県公〔忠烈公〕王茂-望蔡県公 貞秀(有罪、奪爵。後、誅殺)
◆豊城県公〔景公〕夏侯詳-豊城県公〔襄公〕亶-豊城県公 誼
◆竟陵県公〔壮公〕曹景宗-竟陵県公 皎
◆予寧県公 王亮(有罪、奪爵)〔煬子〕
◆建城県公〔静恭公〕王瑩-建城県公 実
◆作唐県侯〔康侯〕蕭穎達-作唐県侯 敏
◆寧都県侯〔烈侯〕楊公則-寧都県侯 膘(有罪、奪爵)-(庶兄)寧都県侯 朓
◆松滋県侯〔忠侯〕鄧元起-松滋県侯 鏗
◆洮陽県侯〔愍侯〕張弘策-洮陽県侯 緬-洮陽県侯 傅
◆平固県侯〔忠敬侯〕呂僧珍-峻(早世)-平固県侯 淡
◆雲杜県侯〔忠恵侯〕柳慶遠-雲杜県侯 津-陽泉県侯 仲礼(西魏に降伏)
◆霄城県侯〔文侯〕范雲-霄城県侯 孝才
◆建昌県侯〔隠侯〕沈約-建昌県侯〔恭侯〕旋-建昌県侯 寔
◆江安県侯 張稷(被殺、奪爵)-(無封爵)〔忠貞子〕嵊
◆灄陽県侯〔威侯〕王珍国-灄陽県侯 僧度
◆東興県侯〔忠侯〕鄭紹叔-東興県侯 貞
◆曲江県侯〔穆侯〕柳惔-曲江県侯 照

   知名度だけで測るわけではないのですが、南斉同様、宋の元勲あたりと比較すると、全般的に「小粒」な印象が否めません。王茂と曹景宗とは戦略に長け、〔忠烈〕〔壮〕の諡にふさわしく、武将として梁王朝の創建に貢献しました。これに次ぐ諸将が柳慶遠・楊公則・鄧元起・呂僧珍・張弘策らでしたが、元起は宗室の蕭淵藻との争論により自殺に追い込まれ、弘策は賊に殺害されています。慶遠の諡〔忠恵〕は伯父の柳元景(忠烈公)・従兄の柳世隆(忠武公)を継いだ形になり、世隆の息子・柳惔はむしろ〔穆〕に示される通り政名がありました。夏侯詳は蕭穎冑の腹心から武帝の宰相になりましたが、自ら望んで湘州に転出し、宰相に復帰する途中で死亡、〔景〕と良い諡を贈られ、息子の〔襄公〕夏侯亶は将軍・地方長官として重きをなしました。王亮・王瑩は名族・琅邪の王氏出身で、亮は仮病が露見して爵位を剥奪され、宰相格に復帰して死亡するも、前の罪を咎められたことから、〔煬〕と悪い諡をされています。王瑩のほうは謙譲な人物で、長く宰相を務め、それにふさわしく〔静恭〕と諡されました。范雲と沈約とは武帝とともに斉の「蕭子良サロン」の仲間です。范雲は草創期の吏部=人事権を担当しましたが、ほどなく没して〔文〕と良い諡を送られました。沈約は宰相として天監期(武帝前期)の安定した政治の中核であり、『宋書』をはじめ文学・史学にも大きな足跡を残しましたが、晩年には武帝の不興を買い、没後〔隠〕というあまり芳しくない諡を贈られています。


★将軍・政府高官

   上記「文武功臣」のほかに、武帝時代の前期には多くの将軍や政府高官たちが活動しました。

◆安昌県侯〔壮侯〕張斉-(継嗣未詳)
◆石陽県侯〔忠侯〕張恵紹-石陽県侯〔愍侯〕澄-(継嗣未詳)
◆永豊県侯〔烈侯〕昌義之-永豊県侯 宝業

◆湘西県侯〔威侯〕席闡文-(継嗣未詳)
◆漢寿県伯 蔡道恭-漢寿県伯 澹-漢寿県伯 固(無嗣、廃絶)
◆州陵県伯〔穆伯〕柳忱-州陵県伯 範
◆永昌県侯〔厳侯〕韋叡-永昌県侯〔宜侯〕放-永昌県侯〔忠貞侯〕粲-臧(嗣爵? 被殺)
◆浛洭県侯〔剛侯〕馬仙琕-浛洭県侯 巌夫
◆予章県伯〔威伯〕馮道根-予章県伯 懐
◆南安県男〔壮男〕康絢-南安県男 悦
◆(無封爵)〔敬子〕任昉
◆南城県侯〔忠公〕王神念-尊業(嗣爵?)

 張斉から康絢までの十人は、梁前期に将軍や地方長官として功績があった人たちであり、諡も〔壮〕〔威〕など武張ったものが多い傾向です。特に韋叡は北の将軍・元英を撃退して功があり、〔厳〕と重々しい諡を贈られ、息子の〔宜侯〕韋放も対北魏戦に寄与、孫の〔忠恵侯〕韋粲は侯景の乱に抗戦して戦死しました。任昉は「蕭子良サロン」の一員で、文官として官僚人事に与り、〔敬〕と諡されました。王神念は北魏からの降将であり、地方長官として治績を上げ、元帝時代に息子の王僧弁への褒賞もあってか、〔忠公〕と一段高い諡を贈られています。


★尚書省を占有した士族


   武帝は蕭子良サロンの仲間などを登用して、官僚機構に新風を送り込みましたが、宋王朝からの士族の力は根強く、南斉時代に引き続き、吏部をはじめとする中枢は彼らが掌握していました。尚書省の重職に加え、中書・秘書・侍中などの要職を寡占状態に置いていたのです。

◆(無封爵)〔靖孝公〕謝朏
◆(無封爵)〔胡子〕王份
◆(爵位未詳)〔穆子〕張充-(継嗣)最
◆(無封爵)〔簡粛公〕徐勉
◆東亭侯〔康侯〕王瞻-長玄(嗣爵?)
◆(無封爵)〔安子〕王志
◆(無封爵)柳惲-都亭侯 偃
◆(無封爵)〔康子〕蔡撙
◆(無封爵)〔恵子〕王峻
◆(無封爵)〔靖子〕王暕-(無封爵)〔温子〕訓
◆南昌県侯〔安侯〕王騫-南昌県侯〔章侯〕規-南昌県侯 褒(西魏へ連行)
◆(無封爵)謝覧
◆(無封爵)范岫
◆(無封爵)〔貞子〕傅昭
◆(無封爵)〔夷子〕王泰
◆(無封爵)〔粛子〕江蒨
◆(無封爵)〔簡子〕周捨
◆(無封爵)〔平子〕蕭琛
◆(無封爵)〔質子〕陸杲
◆(無封爵)〔穆正公〕袁昂
◆(無封爵)謝挙
◆(無封爵)何敬容

   士族を代表する高級官僚たちです。上述の沈約もそうですが、徐勉や柳惲(柳惔の弟、栁忱の兄)のような将家の一部も、代を重ねて名門になると、ようやく士族の仲間入りをするようになっていますが、多くは王・謝といった東晉以来の名族が仕切る世界でした。諡の種類も、多くは可もなく不可もない単諡に定番化していますが、謝朏・徐勉・袁昂のように三公に至った人物は、〔靖孝〕〔簡粛〕〔穆正〕と、良い文字を組み合わせた複諡を贈られています。


★王朝中期の武将

   武帝の在位が長かったため、武将たちも創業に寄与した者だけでなく、少し後の時代に活躍した人たちが何人か挙げられます。

◆夷陵県侯〔烈侯〕裴邃-夷陵県侯〔壮侯〕之礼-夷陵県侯 政
◆永興県侯〔武侯〕陳慶之-永興県侯 昭
◆曲江県公 蘭欽-夏礼(嗣爵?)
◆保城県侯〔桓侯〕夏侯虁-保城県侯 譔
◆広晉県侯 羊鴉仁(被殺)
◆高昌県侯 羊侃-高昌県侯 球

   中期の武将のうち、裴邃は既述の夏侯亶や韋放らと北伐に参戦し、〔烈〕と武張った諡になりました。その後、対北魏戦に従事したのは、〔武〕と諡された陳慶之、暗殺されたためか諡が無かった蘭欽、夏侯亶の弟で武将にふさわしい〔桓〕と諡された夏侯虁らになります。羊鴉仁と同族の羊侃とは北魏からの降将で、侃は侯景の乱に対峙する建康城内の軍の実質的な指揮官でしたが、籠城中に死亡、鴉仁は建康が陥落してから出奔しましたが、途上で殺害されました。


★王朝中期の宰相・政府高官;

   武帝後半期から簡文帝期に至る時期の宰相や政府高官です。

◆(無封爵)〔温子〕顧協
◆(無封爵)〔貞子〕孔休源
◆(無封爵)〔強子〕江革
◆(無封爵)〔忠子〕臧盾
◆(無封爵)劉孝綽
◆(無封爵)王筠
◆利亭侯〔簡憲公〕張纉-希(嗣爵?)
◆(無封爵)〔孝子〕劉孺
◆(無封爵)到漑
◆(無封爵)朱异
◆(無封爵)賀琛
◆(無封爵)傅岐
◆(無封爵)劉之遴
◆(無封爵)蕭介
◆(無封爵)〔貞子〕徐摛
◆河南王 侯景(簒奪、誅殺)

   王朝が成熟期に入ると、政府高官にも古くからの士族と新興氏族とが混在するようになっています。顧協の〔温〕、江革の〔強〕などは前述の蕭淵猷らと同様、生前の言行をそのまま一文字で表した梁代独特の諡だと言えます。侯景の乱に巻き込まれてからは、諡を贈られない者が多くなりました。張纉は張弘策の息子で、宰相として敏腕を振るいましたが、侯景の乱で蕭繹(=元帝)と通好したため、対立する蕭詧(=後梁の宣帝)に殺害され、元帝即位後に〔簡憲〕と贈諡されました。日本の『平家物語』で奸臣の代表に列ねられてしまった朱异は、寒門から武帝に取り立てられ、帝の意に迎合して侯景と高澄(東魏)とに二股を掛ける結果を招き、籠城戦の最中、失意のうちに死亡し、諡はありません。徐摛は簡文帝の忠実な腹心でしたが、侯景によって帝から隔離されて憤死、忠節を評されて(おそらく元帝から)〔貞〕と諡されました。その侯景は東魏から梁に降伏、処遇に不安を抱いて反乱を起こし、建康を陥落させて実質的に梁王朝を終わらせましたが、帝位を簒奪して間もなく、元帝に攻め滅ぼされています。


★武帝の諸子

   武帝には8人の男子がありました。第三子が簡文帝、第七子が元帝です。

◆(1)皇太子〔昭明太子〕蕭統-予章王〔安王〕歓-予章王 棟(一時、皇帝)
     また、統の子に、河東王 誉(元帝により攻殺)

     また、統の子に、岳陽王 詧(→後梁の宣帝)
◆(2)予章王 蕭綜(北魏へ亡命)-永新県侯 直(再興)
◆(4)南康王〔簡王〕蕭績-南康王 会理(被殺)
◆(5)廬陵王〔威王〕蕭続-廬陵王 応
◆(6)邵陵王〔携王〕蕭綸(敗死)
◆(8)武陵王 蕭紀(元帝により攻殺)

   皇太子・蕭統は〔昭明〕と諡されたのにふさわしい賢公子であり、『文選』の編者として有名ですが、父の武帝に先立って没しました。ここで武帝がその息子を皇太孫にせず、三男の蕭綱=簡文帝を皇太子にしたことが、諸王たちの思惑が飛び交って角突き合う原因となりました。蕭棟は侯景が簡文帝を殺害した後に一時帝位に据えられ、景に廃位されていったん梁王朝が中断した後、王朝を再建した元帝に殺害されています。、蕭績・蕭続はいずれも地方長官として功績があり、〔簡〕〔威〕はどちらも良い諡です。蕭綸は侯景の乱の最中に元帝と戦って敗れ、西魏軍に滅ぼされますが、〔携〕は太古の周王朝が東西に分かれた後、敗死した王の名称ですので、元帝が兄の運命を皮肉って贈ったものでしょう。蕭誉・蕭紀はいずれも元帝に滅ぼされたのですが、その元帝も蕭詧が後援を要請した西魏の大挙攻勢を受け、江陵を陥されて滅亡してしまいました。


★簡文帝・元帝の諸子

   簡文帝・元帝の皇子たちには、非業の死を遂げた者が多いのです。おもな人物だけを掲載します。

【簡文帝諸子】
◆(1)皇太子〔哀太子〕蕭大器(被殺)
◆(2)尋陽王 蕭大心(被殺)
◆(3)臨川王 蕭大款(被殺)
◆(4)南海王 蕭大臨(被殺)
◆(5)南郡王 蕭大連(被殺)
◆(8)桂陽王 蕭大成(被殺)
◆(9)汝南王 蕭大封(被殺)
◆(12)瀏陽公 蕭大雅
◆(20)楽良王 蕭大圜

   簡文帝の子どもたちは、夭折したものを除き、ほとんどが侯景に殺害されました。元帝期に諡を贈られたのは〔哀〕太子の蕭大器のみ。例外として、蕭大雅は侯景軍の兵たちと戦闘中に憤死、蕭大款・蕭大成・蕭大封の三人が元帝のもとに難を逃れましたが、西魏の江陵攻略のときにみな殺害されています。蕭大圜だけはおそらく拉致されて北周の民となり、隋代に至って役人となりました。

【元帝諸子】
◆(1)湘東王世子〔武烈世子〕蕭方等-永嘉王 荘(北斉に降伏)
◆(2)湘東王世子〔貞恵世子〕蕭方諸(被殺)
◆(4)皇太子〔愍懐太子〕蕭方矩(被殺)
◆(10)始安王 蕭方略(被殺)

   元帝の第九子が敬帝です。蕭方等は元帝が諸王であったときに事故死し、その子・蕭荘は北斉に利用されて梁の君主となりましたが、陳王朝に敗れて北斉に戻り、さらに北斉が滅亡したあと自殺しています。蕭方諸は侯景により殺害、蕭方矩・蕭方略は西魏の江陵攻略のとき殺害されました。


★元帝・敬帝期の臣将たち

   梁の後期である元帝・敬帝時代は、内戦と外圧とにより政権が目まぐるしく変転し、領土を大幅に縮小しながらも、江南の主要部分は陳王朝に継承されています。

◆(無封爵)張綰
◆永寧郡公 王僧弁(被殺)
◆枝江県公〔武公〕杜崱
◆新市県侯 胡僧祐(戦死)
◆建寧県侯 王琳(北斉に降伏、後敗死)
◆溧陽県侯 杜龕(陳霸先に敵対して敗死)
◆陳王 陳霸先(→皇帝即位)

   宰相になった張綰は張纉の弟であり、王規の子・王褒(前掲)とともに元帝期の尚書省を統括しましたが、江陵陥落に伴い失脚、綰は後梁の蕭詧配下のお飾りの大臣として生を終え、褒は西魏・北周に仕えて官僚となりました。王僧弁は元帝軍の主将であり、杜崱・陳霸先らとともに侯景を平定して大功がありました。しかし僧弁は建康駐在中に江陵陥落の報を受け、陳霸先と諮って(杜崱はすでに死去)いったん敬帝を推戴しながら、北斉の干渉により蕭淵明(=建安公)を皇帝として受け入れたため、霸先のクーデタで倒されました。杜龕は杜崱の甥、かつ王僧弁の娘婿だったため、陳霸先に報復を図りましたが、敗れて殺害されました。王琳も王僧弁の部下として戦功があり、江陵陥落後は北斉に頼ってその官爵を受け、蕭荘を封じて梁を再興しようとしましたが、陳王朝に滅ぼされています。陳霸先は対抗勢力との戦闘のさなか、王僧弁軍団の一部を与党に組み入れ、敬帝に禅譲させて自らの陳王朝を建設したため、梁王朝は終焉を迎えました。


(2016.10.23 up)