切支丹の書斎


殉教者列伝(7)

   1612年に岡本大八事件が起こります。江戸幕府の加判(老中)本多正純の与力であったキリシタンの岡本大八が、肥前有馬の領主ジョアン有馬晴信を欺いて賄賂を詐取し、処刑されたというものです。これを契機に徳川家康がキリシタン禁教令を幕領と有馬領とに発布し、13年にかけて各地で信徒たちの殉教が相次ぎました。今回は、あまり歴史の表舞台に登場しない人たちの足跡を追ってみましょう。

 【列伝】
      44  ボナベンツラ
      45  レオン嘉右衛門

   ボナベンツラは、とあるキリシタン武士(大名?)の家老で、フランシスコ会の司祭から洗礼を受け、キリシタンを信じていました。1612年に禁教令が出ると、先代の主君の未亡人から棄教するように命令を受けましたが、彼は仏像を倒して、どこまでも信仰を守ることを表明したため、4月24日に逮捕されて首をはねられました。
   また、肥前出身のレオン嘉右衛門は、1602年に博多で洗礼を受けた信徒で、今田半四郎(豊臣家家臣?)に仕えていましたが、7月7日に大坂で半四郎に呼び出されて信仰を捨てるよう命じられ、拒否したため半四郎にその場で斬殺されています。35歳でした。


      46  伊東ミゲル
      47   マチヤス小市

   伊東ミゲルとマチヤス小市は有馬領有家に住む兄弟で、ミゲルは有家の教会信心会の大組頭を務め、マチヤスとともに教会の組織化に尽力していました。ところが1612年にジョアン有馬晴信が岡本大八事件によって失脚、処刑され、息子の直純が藩主になると、藩では幕府の意向を受けて領内キリシタンの大弾圧を開始しました。二人はこの迫害に屈せずに教会の柱石となって共同体を守っていましたが、藩に捕えられ、7月26日に兄弟とも斬首されました。ミゲルは50歳前後、マチヤスは30代前半でした。


      48   北レオン久左衛門

   北レオン久左衛門は有馬領千々石の武士で、少年のとき洗礼を受け、共同体では葬祭などの教会行事のときに中心的な立場にありました。1612年に新領主有馬直純の迫害が始まると、レオンは信徒たちを激励して信仰の火を燃え上がらせていました。そのため藩当局に逮捕されたのですが、藩主の重臣や奉行たちに対して堂々とキリシタンの正義を論じ、有馬へ連行されて8月22日に斬殺、50歳で殉教しました。


      49   おんだ(恩田? 本多?)トメ平兵衛
      50〜53   マルタ・マチヤス・ジュスト・ジャコベ

   トメ平兵衛は、摂津高槻でジュスト高山右近長房、その後は肥後宇土でアゴスチノ小西行長に仕えていましたが、アゴスチノの死後牢人となり、加藤清正の難を逃れてジョアン有馬晴信の家臣となりました。1612年に有馬直純の迫害が始まると、トメに対しても逮捕命令が出されたので、彼は1月28日に奉行のもとへ出頭し、食事中に奉行から刀の提出を求められたときに、切っ先を自分のほうに向けて差し出し、その直後に奉行に斬殺されて殉教しました。41歳。このとき同席していた弟のマチヤス(31)も一緒に斬られ、ついで二人の母マルタ(61)・トメの子ジュスト(11)とジャコベ(9)も奉行所に召喚されて首をはねられ、道程をともにしています。


      54   有馬フランシスコ
      55   有馬マチヤス

   フランシスコとマチヤスの兄弟は、ジョアン有馬晴信と後妻ジュスタとの間に生まれた子どもたちでした。父が刑死し、母のジュスタも流罪になった後、二人の幼い兄弟は異母兄の新藩主直純の監視のもとに置かれ、直純は二人を日野江城内の牢に幽閉しました。二人は牢内で励まし合って信仰を強め、祈りの日々を送っていましたが、1613年4月25日、直純の命によって刺殺されました。フランシスコは8歳、マチヤスは6歳でした。


*参考文献:   『日本切支丹宗門史』 レオン‐パジェス  吉田小五郎訳   岩波文庫  1938

(次回は1613年、浅草教会信徒たちの殉教についてお話しします)