切支丹の書斎


殉教者列伝(5)

   熊本の南・竹田両人の見事な殉教については第2回で述べたとおりです。さて、このとき八代の信徒たちの柱石となって働いていたのは、三人の慈悲役(いまの教会委員、または世話役)だったのですが、二人の武士の殉教がきっかけとなって、教会の指導者としての三人の存在が注目されるようになりました。新たな迫害の始まりです。

 【列伝】
      36  福者渡辺ジョウチン次郎右衛門
      37〜38   福者服部ジョアン甚五郎、福者服部ペトロ
      39〜40   福者三石ミゲル彦右衛門、福者三石トメ

   渡辺ジョウチン次郎右衛門は八代在の町人で1596年に受洗。播磨室津出身の服部ジョアン甚五郎は小西行長に従って肥後へ来住、酒造業を営み、1599年に受洗。三石ミゲル彦右衛門は1594年に受洗してから、八代の町人として教会の代表的な人物でした。1600年に領主加藤清正から追放された宣教師たちは、肥後の共同体の世話役としてこの三人を任命し、信徒たちの指導に当たらせたのです。
   1603年に竹田シモンが殉教した際、その首をはねた市河治兵衛は、その後友人の渡辺ジョウチンから勧められてキリシタンに入信したのですが、彼が仕えていた麦島城代の三宅角左衛門は、治兵衛の信仰告白に怒って彼を肥後から追放しました。角左衛門はこの顛末を主君加藤清正に報告したので、清正は三人を投獄し、その財産を没収することを命じました。
   1605年1月、三人の慈悲役は相次いで牢に入れられましたが、三人は異教徒の犯罪者と同室させられながら、そこで修道者のような生活を送り、外のF.パジオ神父やJ.B.バエサ神父(ジョアンに洗礼を授けた)と手紙のやり取りをしていました。その感化で何人かの囚人たちが牢内で入信してキリシタンとなっています。1606年、肥後を来訪した にあばらルイス神父は、野菜売りの農民に変装して牢内に入り、三人の告解を聴いて彼らを激励しました。そのとき熱病にかかっていたジョウチンは、8月26日、55歳で天に召されました。
   清正はこの状況を耳にして不快に思い、服部ジョアンと三石ミゲルの牢内の待遇を悪くし、番の兵卒たちに彼らを厳しく扱わせましたが、二人はひそかにバエサ神父・にあばら神父と手紙を交わし、神父たちの励ましを受けました。
   1608年末になると、八代に駐在していた野尻久蔵・蟹江与兵衛の二人の重臣は、キリシタン迫害に賛成できず、清正に状況を報告して事態を打開しようと試みましたが、かえって清正の怒りを買い、ジョアンとミゲルとは家族とともに処刑されることになりました。与兵衛は女性が処刑の対象から外されるように計らっています。
   1609年1月11日、二人は子どもたちとともに刑場へ向かいましたが、日が暮れかかってしまったため、役人たちは途中の麦畑で彼らの斬首を実行しました。まずミゲル(50歳)、そしてその子トメ(12歳)が続き、ついでジョアン(39歳)、最後に遅れて到着したジョアンの子ペトロ(5歳)が、あまりの感動で手を下せない役人に代わった見物人の武士に首をはねられ、奉献を全うしました。彼らの遺骨はマカオの聖フランシスコ‐ザビエル教会に安置されています。


*参考文献:   『八代の殉教者』 結城了悟   日本二十六聖人記念館  1985