切支丹の書斎


殉教者列伝(4)

   薩摩は聖フランシスコ‐ザビエルの最初の宣教地です。1548年8月15日に鹿児島へ上陸したザビエルは、薩摩藩主島津貴久から布教の許可をもらいましたが、やがて貴久が布教を禁止したので、薩摩の宣教はしばらく中断しました。その後1561年からルイス‐デ‐アルメイダ修士(のち神父)らが鹿児島や山川で宣教を再開、貴久の子・藩主島津義久や守護代義弘らはキリシタンを公認したので、少しずつ信仰が広まっていきました。さらに1600年になると、関ヶ原で滅亡した宇土城主小西行長の旧臣らが薩摩へ亡命したのを契機に、薩摩の共同体は勢力を増し、有馬から にあばらルイス神父が赴いて信徒たちの司牧を行い、ドミニコ会の司祭たちも教会や修道院を建てて行き来していたのです。しかし 1608年になると薩摩でも禁教の圧力が強まっていきました。


 【列伝】
      35  福者税所レオン七右衛門敦朝

   税所レオン七右衛門敦朝は、都城北郷家(薩摩藩第二の有力な外城主=藩内の小大名のような存在)の重臣の子でした。1596年に北郷家の三男であった北郷加賀守三久が分家を立て、平佐(いまの川内市内)の外城主になったとき、敦朝も重臣の一人として随従、平佐へ赴任しました。
   彼は音楽の趣味を持っており、同好の士であった武士パウロ吉右衛門の影響を受けてキリシタンに傾倒、1608年に入ると、ロザリオの聖母教会(川内川入江付近)でF.モラーレス神父やI.オルファネル神父から教理を学ぶようになりました。しかしこの頃から外城主北郷三久は、藩主島津家が禁教を強めていく意向であることを懸念し、自分の家臣たちがキリシタンに入信することを禁じるようになりました。
   1608年7月22日、敦朝は周囲の反対を押し切って、オルファネル神父から洗礼を受けて霊名をレオンと称し、祈りながら霊魂の救いを追究していました。11月14日、レオンは北郷家の重臣たちに呼び出され、棄教するようにとの最後通告を受けましたが、断固これを拒絶したため、16日になって三久は彼の処刑を決定しました。
   レオンは友人の貿易商シモン‐ディアス(日本人)を訪れ、ホセー‐デ‐サン‐ハシント神父らと歓談した後、屋敷へ戻って殉教の準備を整えました。翌17日早朝、レオンは白装束に着替え、自ら選んだ四つ辻の場所へ赴いて畳を二枚敷き、ロザリオを手首に巻いて、懐にはご受難のメダイを入れ、端座して静かに祈り続けた後、役人に斬首されました。39歳でした。

   なお、薩摩では翌年に宣教師が追放され、本格的な禁教の時代が始まります。イエズス会の宣教師たちは、藩主島津家久の妻の母であった竪野カタリナ永俊を頼って、薩摩へ潜入して潜伏信徒たちの司牧を行っていました。しかし1630年に矢野主膳(藩の馬術師範)が火刑となって殉教、信徒たちの弾圧が強化され、32年にはカタリナも種子島へ配流されて、薩摩の信徒共同体は次第に消滅していったのです。


*参考文献:   『キリシタン地図を歩く』 日本188殉教者列福調査歴史委員会編   ドン・ボスコ社  1991