切支丹の書斎


殉教者列伝(2)

   加藤清正は居城熊本城をはじめとする城郭建築で名高く、また肥後国内での堤防敷設など、民政にも力を入れた領主として知られています。しかし、キリシタンの歴史の中では弾圧者として突出した位置を占めている人物でもあります。もともと熱心な日蓮宗の信徒だったのですが、特に小西アグスチノ行長との長年にわたる確執は、彼のキリシタン嫌いに拍車をかける結果となってしまいました。1600年の関ヶ原の戦で行長が滅亡し、その旧領であった宇土領は清正が支配するところとなり、翌年からキリシタンの弾圧が幕を開けるのです(→右下の写真は熊本城)。


 【列伝】
      27〜29  福者南ジョアン五郎左衛門、妻・福者マダレイナ、養子・福者ルイス
      30〜32  福者竹田シモン五兵衛、妻・福者イネス、母・福者ジョアンナ


   1600年に小西行長が敗死した際、八代(麦島)城代であった弟の小西リヨゴ美作は殺害され、新たに肥後一国(天草を除く)の領主となった加藤清正は、三宅角左衛門を城代に任命しました。翌1601年、清正は領内のキリシタン追放に乗り出したので、行長の旧臣であったキリシタン武士は、内藤ジョアン忠俊は加賀へ、結城ジョルジ弥平次は有馬へと、それぞれ安住の地を求めて肥後を去って行きましたが、八代在住の比較的若い武士たち何人かはそのまま留まることを決心しました。
   清正がこれらのキリシタン武士たちを招集して棄教命令を出したとき、大部分は当面の問題回避を優先して棄教を誓約しましたが、城代三宅の友人であった伊勢出身の竹田シモンだけはこれを拒否、有馬でL.セルケイラ司教やF.パジオ神父の指導を受け、殉教の覚悟を決めて八代へ戻りました。この彼の毅然とした態度を見て、多くの武士たちが棄教誓約を後悔して考えを改め、1602年に熊本・八代を訪問したにあばらルイス神父に告解しました。高山ジュスト右近の親族であるマダレイナと結婚していた南ジョアン(大和出身)は、中でもとりわけ痛悔しており、1603年になると有馬へ渡って、ミサのとき会衆を前に自分の転びを告白し、以後何があっても信仰を捨てないと誓言します。
   こうして八代で回心運動が盛り上がり、町人たちの間でも三人の慈悲役(共同体世話人。いずれものちに殉教)が教会組織の建て直しに心血を注いでいた頃、京都から帰国してきた清正は、日蓮宗の寺を八代に建立する計画を立てました。そして自分が師と仰ぐ本妙寺の僧日真を八代に派遣して講話を行わせ、キリシタンたちに講話を聞きに来ること、また法華経を頭の上に戴くことを命じたのです。武士たちの多くは家老たちの圧力に負けて棄教してしまいましたが、南ジョアンと竹田シモンはあくまでも信仰を守り、またキリシタンの町人たちも打ちそろって日真の講話聴講に反対し、家老たちの命令を撤回させました。
   ジョアンは友人の仏教徒の武士たちが無理やり棄教させようとしたのを拒絶、三宅角左衛門に手紙を送って自分の信仰を明言しました。角左衛門はシモンに棄教を説得しましたが、シモンも断固として応じなかったので、やむを得ず熊本へ赴いて清正に経過を報告したところ、清正は二人とその家族の処刑を命じました。
   1603年12月8日、南ジョアンは妻マダレイナが三つの十字架を筆書した白い帷子(かたびら)の上に絹の小袖を着て熊本へ出頭し、通された屋敷で家老に向かって信仰を守ることを明言、祈りながら役人たちに首をはねられて殉教しました。35歳でした。翌12月9日、八代に戻った角左衛門は、早朝、竹田シモンの家に市河治兵衛という武士を派遣して処刑を宣告しました。シモンは三人の慈悲役を呼んで立ち会いを依頼し、ご受難の絵の前で手を合わせて首を斬られました。35歳でした。
   その日のうちに二人の家族、ジョアンの妻マダレイナ(33歳)と、その甥で夫妻の養子になっていたルイス(7歳)、またシモンの妻イネス(30歳)、シモンの母ジョアンナ(55歳)の四人も処刑されることになりました。ジョアンナはセルケイラ司教に別れの手紙を送っています。四人は12月9日の
夕方に十字架ではりつけにされ、神への奉献を全うしました。

*参考文献:   『八代の殉教者』 結城了悟   日本二十六聖人記念館   1985