切支丹の書斎


殉教者列伝(27)− 1622年、平戸・壱岐における殉教

   江戸の徳川政権が安定期に向かうと、キリシタンへの禁制はさらに強まります。1622年にはこれまで捕縛されていた人たちをはじめ、多くの信者が殉教しました。ここでは平戸・壱岐の状況を記述します。

 【列伝】

    381   坂本ジョアン左衛門
    382   出口(いでぐち)ダミヤン「いすらい」
    383   毛利パウロ孫左衛門
    384   川窪ジョウチン庫兵衛
    385   ジョアン次郎右衛門
    386   納島アンデレ「やぶ」
    387   一之瀬ガブリエル金四郎
    388   雪ノ浦(または松崎?)ジョアン
    389   塚本パウロ

   坂本ジョアン左衛門と出口ダミヤンとは、いずれも生月の人で、ジョアンはイエズス会カミッロ‐コスタンツォ神父(福者)の伝道士および宿主であり、ダミヤンはコスタンツォ神父に船を提供しました。そのため二人は平戸藩に捕縛され、狭い牢に押し込められました。1622年5月27日、処刑のため中江ノ島へ船で護送されるとき、ジョアンは口や首を拘束されて声を出せなかったため、ダミヤンが聖歌を口ずさみながら島へ向かいました。島ではまずジョアンが「私はキリシタンです」と呼ばわった後に斬首され、続いてダミヤンがその首を抱えながら、「聖体よ、讃えられよ」と言って自分の首を刑吏の前に差し出し、斬首されました。ジョアンは31歳、ダミヤンは42歳でした。
   毛利パウロ孫左衛門は平戸の人で、イエズス会に属して平戸天主堂の管理人をしていました。逮捕されたときには85歳の高齢で、1622年6月2日、壱岐に連行されましたが、足を縛られ、袋に詰められ、頭を踏まれ、最後には海に投げ込まれました。それでもなお、一度海面に頭を出して「イエス、マリア...」と唱えてから沈んでいったと言われている、壮絶な殉教でした。
   川窪ジョウチン庫兵衛は生月境目の人で、船頭をしていましたが、藩に捕縛されて山田に拘禁されているとき、「もし私が十字架にもたれて天国に昇らなかったら、罪の重さのために天国からの追放者になっていただろう」と語っていました。1622年6月3日、中江ノ島へ連行され、ロザリオの祈りを唱えながら斬首されました。47歳。
   ジョアン次郎右衛門は生月の人で、平戸藩の武士でしたが、藩からの棄教命令を拒否して死を命じられました。自らを鞭打って覚悟を固めたジョアンは、1622年6月8日に中江ノ島の刑場へ向かい、島が近づくと「もう天国は遠くない」と語り、上陸して斬首されました。47歳。
   納島アンデレは瀬戸の出身。コスタンツォ神父の宿主となり、1622年7月22日、おそらく壱岐で殉教したと言われています。70歳。
   一之瀬ガブリエル金四郎は平戸の出身であり、教会では若くしてロザリオ会の会頭を務めていました。コスタンツォ神父の伝道士および宿主であったため逮捕されましたが、牢番の許可を得て日中だけ外出して信徒の家庭を巡回し、一斉検挙で動揺が広がった信徒たちを励まし信仰を強めていました。1622年7月26日、彼は船で生月へ連行されましたが、途中でも同乗者に説教を続け、「キリシタンの教えは、時が来れば再び興って、日本中に広まるでしょう」と語り、刑場で命を捧げました。23歳。
   雪ノ浦ジョアンと塚本パウロとは、いずれも生月の船頭であり、アンデレと同じく1622年7月22日、信仰を守って斬首されました。ジョアンは25歳、パウロは35歳でした。

   これらの人々は、みなコスタンツォ神父の宣教により感化を受け、その良き友として奉献を全うしました。神父自身も前後して平戸藩に捕えられ、後日殉教することになります。


    390   福者・太田アゴスチノ

   太田アゴスチノは肥前小値賀の出身で、15歳のとき両親とともに五島へ移住、ここで受洗しました。成人になった後、領主から教会の看坊(司祭を補佐して教会組織を管理する役)に任じられましたが、五島藩がキリシタンを禁じて教会を破壊したので、長崎へ移住しました。ここで彼は妻に先立たれ、1602年に平戸へ移り、コスタンツォ神父を補佐して伝道士として熱心に活動していました。
   1622年に入り、アゴスチノは平戸領の納島を訪問中に、同行していた籠手田ガスパルとともに逮捕され、五島で捕えられたコスタンツォ神父と一緒に平戸へ連行されました。彼は牢内でコスタンツォ神父に懇請してイエズス会への誓願を立て、修道士になっています。8月10日、アゴスチノは壱岐で斬首されて魂を神に捧げました。1867年に205福者の一人として列福されています。


(2018.02.14記)


*参考文献: 
 『日本切支丹宗門史』 レオン‐パジェス  岩波文庫  1938