切支丹の書斎


殉教者列伝(26)− 1621年の殉教

   天下太平の色濃くなっていく時期、1621年には九州各地で、宣教者の宿主たちを中心に、20人の信徒が殉教しています。

 【列伝】

    361   松尾ドミンゴ
    362   ジョアンしゅう(たかそ?)
    363   伊東ジョアン
    364   フランシスコ
    365   エレナ
    366   イネス

   松尾ドミンゴは大村領の農民であり、フランシスコ会のペドロ‐ダビラ神父やビセンテ‐デ‐サン‐ホセー神父のために宿主となりましたが、1621年、反動化した大村藩に逮捕されて入牢しました。2月13日、ホセー‐デ‐サン‐ハシント神父が秘かに牢を訪れたので、彼は告解することができ、従容として死に臨みました。翌14日に喜々津の刑場に引き出され、とろ火で一時間焼かれる苦痛に耐えたドミンゴは、最後には斬殺されて奉献を全うしました。
   ジョアンしゅうと伊東ジョアンとは、いずれも福者ナバレーテ神父や福者エルナンド神父の宿主連帯責任者でした。二人は長崎奉行によって逮捕され、1621年2月22日、ロザリオ会の衣服を着用して刑に臨み、斬首されて殉教しました。多くの信徒が彼らを慕い、奉行所によって遺体が海中に投棄されると、皆でそれを引き上げて丁重に埋葬したと伝えられています。
   フランシスコと妻のエレナ、イネス(家族?)も、長崎奉行所に逮捕され、2月26日に古賀で処刑されました。彼らの遺体も、後に信徒たちによって手厚く埋葬されています。


    367   フランシスコ半左衛門
    368   ルイス勘助
    369   南田レオ利兵衛
    370   一戸ガブリエル


   フランシスコ半左衛門はロザリオ会・フランシスコ帯の会の会員であり、宣教師たちの宿主であり、ルイス勘助は修道士たちの宿主でした。二人は大村藩に逮捕され、ともに1621年6月20日、久原で斬首されましたが、フランシスコは両腕を広げて十字に組み、見守る人たちに信仰の形を堂々と表しました。
   南田レオ利兵衛は肥前神崎の人で、佐賀鍋島家の家臣でしたが、キリシタンを受け入れない藩風に抗して長崎で洗礼を受け、信仰を守っていました。密告により彼がキリシタンであることを知った藩では、彼に棄教を命令しましたが、レオは転宗を拒否したので逮捕されました。そのため、家族は全財産を没収されましたが、彼は自分を密告した者に対してさえ、友人を通して入信を勧めました。1621年6月25日、影響を恐れた藩では彼を秘かに船で諫早へ護送し、斬首しました。殉教のとき、レオは42歳でした。
   一戸ガブリエルは太田アゴスチノ修士の宿主であり、大村藩に逮捕されましたが、日中は牢から出て信徒を訪問、激励していました。1621年7月26日、彼は船で平戸に近い刑場へ連行されましたが、刑場で説教したので新たに入信する者が出ました。斬首されたとき、ガブリエルは23歳でした。

    371   相賀五郎助
    372   ミゲル喜六
    373   福田ミゲル
    374   ペトロあらすけ
    375   アガタ
    376   ジュスタ
    377   マリヤ
    378   志垣ジョアン
    379   高島コスメ
    380   高島某(コスメの息子)


   相賀五郎助は大村の人で、若いときにコスメ‐デ‐トーレス神父から洗礼を受け、聖イグナチオ会の会頭を務めていました。ミゲル喜六は大村長与の人で、イエズス会宣教師たちの宿主をしていました。福田ミゲルは大村藩士で、教会の活動会(具体的には未詳)の会頭でした。この三人は1621年10月7日の同じ日に、それぞれ大村領の別の場所で斬殺され、殉教を遂げました。五郎助は77歳、喜六は57歳、福田ミゲルは37歳でした。
   ペトロあらすけは幼少のころから信心深く、宣教師たちを保護したことから大村藩に逮捕され、同じく10月7日に告白の祈りを唱えながら刑場へ向かい、26歳で斬首されました。妻のアガタ(17歳)、母のジュスタ(46歳)、妹のマリヤ(14歳)は、ペトロに従って死ぬ覚悟をして、藩からの棄教の誘いを拒否しました。妊産婦であったアガタは役人から、生まれる子を養育してやろうと言われましたが、「私は夫とともに、この子を天主に捧げます」と断りました。10月9日、三人は晴れ着を着て刑場に着くと、三百人の信徒たちを前に祈りを唱え、ペトロの後を追って斬首されました。
   志垣ジョアンは肥後の出身で、加藤家による迫害を避けて大村に移住し、聖イグナチオ会の会頭を務めていました。大村藩でも弾圧が強まりましたが、ジョアンは他の殉教者をしばしば刑場に見送って激励していたので、藩から咎められて逮捕されました。1621年10月9日に斬首されたとき、44歳でした。
   高島コスメは壱岐の人(?)だったようですが、追放されて大村に居住していました。10月9日、藩の役人が自宅へ踏み込み、彼がキリシタンであることを理由に、家族の目の前で首をはねました。コスメの息子はうろたえずに、父の首を高く掲げて崇敬を表したため、役人から断罪され、父に続いて斬首されました。コスメは68歳、息子は42歳でした。


(2017.04.23記)


*参考文献: 
 『日本切支丹宗門史』 レオン‐パジェス  岩波文庫  1938