切支丹の書斎


殉教者列伝(25)− 清田卜斎一家の殉教

   小倉では加賀山一族が帰天(1619)した後にも、領主・細川家によるキリシタン弾圧が続き、1620年には教会の指導者であった清田卜斎一家の殉教がありました。

 【列伝】

    356   福者清田シモン卜斎
    357   福者マダレイナ
    358   福者トメ源五郎
    359   福者マリヤ
    360   福者ジャコベ文蔵

   清田シモン卜斎は豊後の名門武士の一族であり、大友家の家臣でした。1578年頃、熱心なキリシタンであった兄の清田ロマンに勧められて受洗したと思われます。1581年にイエズス会の修練院に入りましたが、わずか三日で夜中に逃げ出してしまい、在俗のキリシタン武士として大友家に仕えていたようです。1593年に大友義統が改易・没落したため浪人となり、妻マダレイナとともに教会の看坊(在俗の信徒世話人)となって、聖堂の管理や信徒の祈りの指導に携わっていました。その後、1604〜09年には広島でマテオス‐デ‐コーロス神父を補佐し、一時、フアン‐デ‐ルエダ神父の宿主となって宣教活動を支えていました。
   1617年以前に、シモンは小倉教会へ移り、ロザリオ会員の代表者として、妻や従者のトメ源五郎たちとともに信徒の共同体の中心になっていました。すでにキリシタン弾圧を強めていた領主・細川忠興は、たびたびシモンに使いを送って棄教するよう命令しましたが、彼らは信仰を強く持ち続けました。1620年8月15日、シモン、マダレイナ、トメ、トメの妻マリヤ、二人の息子ジャコベ文蔵は捕縛され、改めて役人から棄教を迫られましたが、五人とも断固として拒否しました。
   すでに死を覚悟したシモンは、コーロス神父に書簡をしたため、「デウス様はついに私の宿望をかなえてくださったのです。しかし私の罪ゆえにこの幸福を失うのではないかと恐れます。どうぞ、私たちのためにデウス様が勇気と力をくださるよう願ってください」と書き送っています。
また少年ジャコベ文蔵は役人から殴打されたときに、「僕を殴ってもなおさらダメですよ。僕の胸でも身体でも、気の済むように突いて引き裂いてください。僕は死ぬまでキリシタンですから」と英雄的に応答しました。
   翌8月16日、5人は最後の別れのあいさつを交わした後、刑場に連行されました。60歳のシモンは、細川忠興が自分たちの死を引き延ばしてくれたために殉教の準備ができたことに感謝の言葉を述べました。5人は刑場で逆さ磔にかけられ、相次いで天に召され、19日に至ってまだ息をしていたトメとジャコベの父子が、槍で突かれて奉献を全うしました。

   1868年、5人はローマ教皇様から福者に列せられています。


(2016.04.04記)


*参考文献: 
 『日本切支丹宗門史』 レオン‐パジェス  岩波文庫  1938
 『キリストの証し人』 フーベルト‐チースリク  聖母文庫  1995