切支丹の書斎


殉教者列伝(24)鈴田・水沢などにおける殉教

   1620年に入ると、潜伏していた宣教師たちが日本各地、さらに蝦夷地などへも活動の幅を広げる一方、幕府による弾圧は少しずつ強化される傾向が見られました。

 【列伝】

    348   福者アンブロジオ‐フェルナンデス

   アンブロジオ‐フェルナンデスは1551年頃、ポルトガルのアルデア‐ド‐シストに生まれました。1570年に商人としてインドへ渡航、貿易に従事しながら、一時は軍人になったこともありました。1578年に中国から日本へ渡航し、台風で遭難して助かったのを機会に、修道生活への道を歩みました。1579年にイエズス会入会、下(しも)地区の修士として長崎コレジオの院内係を長く務め、1593年に志岐で最終誓願を立てました。
   1614年の宣教師追放令のあと、アンブロジオは日本にとどまり、潜伏して宣教活動に従事していました。1618年12月14日、長崎のドミンゴ‐ジョルジュ宅で、カルロ‐スピノラ神父とともに奉行所役人によって逮捕され、大村の鈴田の牢に投獄されましたが、牢内でも模範的な修道者として人々の尊敬を集めました。1620年1月7日、高齢で身体が弱っていたアンブロジオは、主の公現のミサの後に脳卒中で倒れ、そのまま息を引き取りました。69歳でした。スピノラ神父が最期の秘跡を与え、遺体は牢の脇に葬られました。
   1868年、ローマ教皇様から福者に列せられています。

    349   福者マチヤス

   マチヤスは肥前加津佐の生まれで、1606年にイエズス会の伝道士となりました。1614年の宣教師追放令以降、マテウス‐デ‐コウロス神父が長崎に潜伏して宣教活動を続けたため、マチヤスはコウロスに随従して、信徒たちを激励していました。1620年に至って奉行所の見張りに捕縛され、大村で牢に入れられました。取り調べの際には殴打、踏み付け、水責め、木材責めなど、ありとあらゆる拷問により、司祭の居場所を教えるよう迫られましたが、「知ってますよ。転びバテレンのトマス荒木様の居場所ならね」と皮肉っただけで、ついに口を割りませんでした。最後には5月22日、牢役人に後頭部を強打され、そのとき舌が噛み切れて出血し、そのまま絶命しました。49歳でした。
   1868年、ローマ教皇様から福者に列せられています。

    350   ジョウチン
    351   アンナ
    352   トメ
    353   トメ
    354・355   (いずれも名は未詳)

   ジョウチンとアンナは出羽庄内の出身で、陸奥(伊達領)水沢(小沢?)に来住し、夫婦ともに1618年に洗礼を受けてキリシタンとなりました。小沢の領主・石母田宗頼は、キリシタンへの取り締まりを強化し、1620年にジョウチンを
仙台へ連行して、藩から棄教を迫りましたが、彼は応じずに信仰を貫き、仙台滞在中にジェロニモ‐デ‐アンジェリス神父に告解することができました。ジョウチンは小沢へ連れ戻され、11月6日、宗頼の家老の命令によって、妻アンナ、他の4名のキリシタンとともに刑場に引き出されました。トメという同じ霊名の者が2人、名前が未詳の者が2人、合わせて6人がともに斬首されて殉教しました。ジョウチンは66歳、アンナは60歳でした。このとき、水沢周辺の多くの信徒が刑場を取り囲み、ロザリオを手にして祈りを捧げ、6人の殉教を讃えたと言われています。


(2015.09.20記)


*参考文献: 
 『日本切支丹宗門史』 レオン‐パジェス  岩波文庫  1938