切支丹の書斎


殉教者列伝(22)加賀山一族の殉教

   細川家の領内においては、小倉・中津における36人の殉教(1618年)の後も、信徒たちの間には努めて共同体を維持する者が少なくありませんでした。翌19年には上級武士である加賀山隼人正の一族が迫害のときを迎えています。

 【列伝】

    329   福者加賀山了五=隼人正興良

   加賀山了五(ディオゴ)隼人正興良は1566年、摂津高槻で加賀山隼人正朝明の息子として生まれました。10歳のときルイス-フロイス神父から洗礼を受け、イエズス会の同宿として安土のセミナリオで信仰を養いました。武士として高槻城主の高山ジュスト右近に仕え、右近の失脚後は会津領主の蒲生リオン氏郷の家臣になりましたが、氏郷が死去すると蒲生家は没落したため、了五は当時丹後宮津城主であった細川忠興の家臣になりました。
   忠興が関が原の戦後、豊前小倉39万石の大大名になると、了五を信頼して自分の名の一字を与え、7,000石を給付して下毛郡奉行に任じ、重臣の一人として扱いました。了五はグレゴリオ-デ-セスペーデス神父の指導のもと、小倉教会の中心的人物となり、質素な生活を守って信徒たちの厚い信望を得、藩内での身分も奉行職(家老級)に昇進しました。
   1611年にセスペーデス神父が死去すると、忠興はキリシタン弾圧を開始、教会の建物を破壊し、了五に棄教を迫りました。了五は「殿は拙者が地獄へ行くことをお望みではありますまい」と言って棄教を拒否したため、忠興は彼を奉行職から罷免して蟄居させました。
   1619年10月、忠興は京都の大殉教を自分の目で見た直後に小倉へ戻り、帰着するとすぐに了五と従弟のバルタッサルに死罪を宣告しました。15日、了五は妻マリヤと娘マリヤみやを呼び寄せ、「人生の苦労には喜んで耐えたいものだ」と語り、十字架のもとに平伏して奉献の意を示しました。それからセスペーデス神父からもらった修道服を着て、役人の監視のもとに小舟に乗り、城下から離れた刑場へ赴きました。到着すると了五は修道服を脱いで見守っていた信徒に渡し、履物を脱いで素足になり、役人に首をはねられて殉教しました。54歳でした。

    330   福者加賀山バルタッサル半左衛門
    331   福者加賀山ジャコベ

   加賀山バルタッサル半左衛門は了五の従弟です。了五とともに細川忠興に仕え、藩の役人として年貢の取り立てに従事していました。忠興がキリシタン弾圧を始めると、了五と同様に職を追われました。1619年10月15日、忠興から死罪を宣告されたバルタッサルは、妻ルチヤと娘テクラに足を洗ってもらいましたが、5歳になる息子のジャコベ(ディオゴの別名)が彼の膝に手を絡め、父上とともにイエス様のもとへ行きたい、とせがんだので、バルタッサルはジャコベに同行を許しました。
   刑場で、バルタッサルは、人々を前に堂々と演説を行いました。「私が十字架の死のために役人に身を預けることを、頭がおかしいのではないかと思っていませんか? 唯一の創造主だけが、私たちを目的へ導き、裁きの庭に出ることを教えてくださるのですよ。仏教の神々は、人々に生命を与えることはできません。また偶像を崇拝しても、私たちは死を免れることはできないのです」。そして彼は役人の一撃を受けて奉献を全うし、ジャコベはその傍らに膝まづき、同じように斬首されて父と一緒に天国へ向かいました。

   この三人は、2008年、ローマ教皇様から福者に列せられています。


(2013.06.30記)


*参考文献:   『ペトロ岐部と187殉教者』 日本カトリック司教協議会列聖列福特別委員会編  2007