切支丹の書斎


殉教者列伝(19)村山等安一家とその友の殉教

   村山アントニヨ等安は長崎の豪商でした。彼の人生は波乱に富んでおり、その生涯に少なからぬ過ちやつまづきがありましたが、迫害のときを迎えて立ち返り、その指導力のもとに一家や関係者の多くの人々が、それぞれの立場でキリシタンの証し人となり、手を携えて信仰のために命を捧げました。


 【列伝】

    240   村山アントニヨ等安

   村山アントニヨ等安(とうあん)は長崎代官として知られる歴史上の著名人ですが、彼の生涯をめぐっては毀誉褒貶がたいへん多く、江戸時代には大坂豊臣家側の人物としておとしめられ、その業績が埋もれてしまった面も少なくありません。また彼に対する評価はカトリック教会の中でさえ大きく分かれています。その背景には後述するイエズス会とドミニコ会との宣教方針の違いに基づく人間関係が影を落としていると考えられます。ここではアントニヨの経歴の中で、陰の部分と光の部分、弱さと強さとを述べながら、その生涯を振り返りたいと思います。

   アントニヨの出身地は尾張・安芸・博多など諸説あり、生年も1562年とも66年とも言われており、正確なことは判明していません。1587年の禁教令のころまでには長崎に居住し、受洗・入信する機会を得ましたが、霊名のアントニヨを日本風になまった形でワントーと名乗り、商人としてそこそこに成功していました。
   1592年、当時の長崎を代表していた博多出身の商人たちが豊臣秀吉の不興を買って険悪な状況にあったとき、アントニヨは自ら代理を申し出て肥前在陣中の秀吉に謁見しました。そのとき南蛮料理(陶器の壺とも言われています)を活用した機転の利いた対応で、秀吉から信頼され、ワントーを逆に読むトーアン=等安という名前を与えられ、長崎における惣領の地位を与えられました。
   豊臣家が没落し、徳川家康が政権を握ってからも、アントニヨは1605年、長崎代官に任命され、外町を中心とする長崎の指導者の地位を保持し、この年に彼は大村・有馬・唐津の三藩と四者会談を行って、長崎と大村領との境界問題を決着させています。彼は南蛮貿易の要衝にあって手腕を発揮しながら、一方で政治・経済におけるキリシタンの諸勢力のバランスを保つことが、自分自身を含めた長崎の信徒の安全を図るのに適切だと考え、そのような見解に基づいて幕府に対する働きかけを行っていました。

   当時、日本におけるキリシタンの宣教は、先行するポルトガル系のイエズス会が日本の旧来の宗教・習俗に一定の理解を示すことにより、多くの実りを収穫して幅広い層に信徒の共同体を拡大していました。これに対し、あとから参入したスペイン系のドミニコ会やフランシスコ会は、妥協を許さない熱烈な宣教によって強い信仰を望む日本人の心を捉えていました。このような宣教方針の対立が見られる中で、イエズス会のジョアン‐ロドリゲス神父が徳川政権に接近して政治・経済に影響力を持ったことは、ポルトガルとスペインとの均衡を崩す危険性を秘めていました。
   1609年、マードレ‐デ‐デウス号爆破事件に関してイエズス会が政権批判的姿勢を取ったことを契機に、アントニヨは幕府に画策してロドリゲス神父を失脚させ、マカオに退去させるに至りました。これは当時の長崎をめぐる政治情勢を的確に読んだアントニヨの冷徹な戦略だったと考えられます。しかしこのことが尾を引いて、アントニヨはイエズス会から裏切り者の烙印を押されました。
   このような術策を用いた結果、長崎の朱印船貿易の筆頭商人として富と権力とを確立したアントニヨは、次第に華美な生活に流れ、その精神は堕落していきます。長崎の茂木村に豪邸を構えた彼は、金を湯水のように使い、多くの女性たちを妾として抱えました。また些細なことから何人もの奉公人たちを容赦なく殺害するなどの非道をしばしば働き、妻や子どもたちからも愛想を尽かされました。前述のロドリゲス神父失脚事件以来、アントニヨと距離を置いていたイエズス会の宣教師たちからは、大悪人として扱われ、告解さえ許されないようになりました。

   あるとき(時期は不明ですが)、このような生活に空しさを感じ、心から悔い改める気持ちになったアントニヨは、妾たちに資金を分け与えて家から出し、妻や子どもたちと和解した後、茂木から長崎の代官屋敷へ戻りました。彼はすでにいくつかの教会に資金を拠出していましたが、回心した後の1610年から11年にかけては、桜町のサン‐フランシスコ教会や古川町のサン‐アゴスチノ教会建設に対して一層精力的に支援していきました。
   1612年、徳川家康はついに幕領において禁教令を発布し、14年に入ると全国でキリシタンを禁制としました。長崎奉行・長谷川左兵衛は14年1月に長崎に入って迫害を開始します。ドミニコ会はこれに対して、ロザリオの組編成による共同体の強化と、聖体行列による贖罪の顕示とを提案し、アントニヨをはじめ多くの信徒がこれに賛同しましたが、イエズス会は政治的な判断からこの動きに理解を示さず、別行動を取る結果になっています。
   1614年5月9日の聖金曜日から二十日にわたり、数千人が参加する贖罪の大行進が行われました。人々は鞭で身体を傷つけ、荒縄で身体を縛り、十字架を背負うなどの苦行しながら、長崎市内を行列しました。アントニヨは家族とともに参加し、人々とともにこれまでの罪を悔い改めながら敬虔な喜びを分かち合いました。
   その年の10月、宣教師は長崎から追放され、11月にかけてほとんどすべての教会が破壊されました。しかしアントニヨは、長崎代官として追放に協力するように見せかけて、他方で宣教師のために沖合に乗り換えの船を用意し、ドミニコ会の司祭たちを日本に連れ戻して潜伏させたのです。

   1615年、幕府はアントニヨの勢力削減を図り、長谷川左兵衛は彼に朱印船による台湾渡航を命じました。準備も何もなされていない中での話ですから、事実上の「台湾遠征」命令だったのですが、十三隻の船で出航した村山艦隊は暴風雨のために離散瓦解してしまいました。また1617年にはやはり幕命によって遣明使節を福建省に送りましたが、これも明王朝側から貿易を拒絶されて失敗に終わります。こうしてアントニヨの政治的立場は悪化していきました。
   ここに末次平蔵という人物が登場します。彼は長崎の内町を代表する博多商人の実力者であり、いったんは洗礼を受けてキリシタンになっていました。しかし歴史の古い内町の商人たちは長崎におけるキリシタンの隆盛を快く思わず、彼らの意思を集約した平蔵は、アントニヨを敵視するイエズス会に密着することで教会の分裂を図り、一方で長崎奉行を介して幕府に接近し、長崎を自由都市から幕府直轄領へ転換せしめようと画策しました。
   1618年1月、江戸に召喚されたアントニヨは、ついに将軍徳川秀忠から長崎代官を罷免され、平蔵がこれに取って代わりました。新長崎代官の平蔵はさっそくアントニヨを滅亡させるため、秀忠に告訴状を提出しました。それにはアントニヨが大坂の陣で豊臣方に加勢したこと、宣教師を匿ったこと、多数の奉公人を殺害したことなどの罪状が書かれてありました。アントニオは幕府の取り調べ役人からキリシタンであるか尋ねられたとき、堂々と「いかにも、天主のお恵みによって、私はキリシタンです」と答えました。かくしてアントニヨの有罪が決定し、10月には全財産を没収され、甲斐に配流されました。

   1619年、甲斐から再び江戸へ送られたアントニヨは、12月1日、斬首されて奉献を全うしました。

   (なお、アントニヨの一族のうち、長男のアンデレ徳安夫妻と二男のフランシスコ(司祭)とは別の箇所で登場しますので、以下にはこの三人を除いた人たちを紹介します)


    241   村山ジョアン長安
    242   村山パウロ
    243   村山ペトロ

   村山ジョアン長安は秋安ともいい、アントニヨの三男です。父のアントニヨを補佐して長崎の外国貿易を経営していました。幕命による台湾遠征に際しては、司令官の立場で出航しましたが、暴風雨のため艦隊は四散し、ジョアンはコーチシナに立ち寄ってから日本に帰国しました。禁教令にもかかわらずバレート神父をはじめ宣教師たちを保護するのに尽力したため、1619年、弟のパウロ(アントニヨの五男、20歳)・ペトロ(同・六男、18歳)とともに京都で逮捕され、11月に至って斬首されて殉教しました。


    244   村山マヌエル久四郎
    245   村山リヨゴ
    246   村山ミゲル
    247   村山アントニヨ
    248   村山マリヤ
    249   村山ジュスタ


   村山マヌエル久四郎はアントニヨの四男、リヨゴは七男、ミゲルは八男です。またアントニヨ・マリヤ・ジュスタはいずれもジョアン長安の子どもたちです。マヌエルは父の失脚に伴い投獄され、他の家族は自宅軟禁されていました。1620年7月24日、マヌエル・リヨゴ・ミゲル・アントニヨの四人が斬首され、ほどなくマリヤとジュスタも殺害されました。こうしてアントニヨの一門はすべて主のために献身したのです。
   マタイ福音書16章『わたしのために命を失うものは、それを得る』。


    250   アンデレ
    251   カテレイナ
    252   アントニヤ
    253   マルタ
    254   マリヤ
    255   野寺ジョアン伊兵衛
    256   エリザベタ
    257   ジョアン
    258   サンチョ新蔵
    259   セラフィナ
    260   レオン
    261   マリヤ
    262   マダレイナ
    263   (名前不明)

   アンデレはアントニヨ等安の持ち船の船頭で、1614年の宣教師追放の際に、沖合に船を停泊させてアントニヨの二男・村山フランシスコ神父ら宣教師たちの再入国に協力し、フアン‐デ‐ルエダ神父をはじめドミニコ会司祭たちの宿主でもありました。カテレイナはアンデレの妻。アントニヤ・マルタ(寡婦)・マリヤ(1618年11月には16歳)はいずれもアンデレ・カテレイナ夫妻の娘でした。
   野寺ジョアン伊兵衛はその船の掌帆長で、フランシスコ神父の宿主となっていました。エリザベタはジョアンの妻。ジョアンはジョアン伊兵衛・エリザベタ夫妻の息子でした。
   サンチョ新蔵はその船の書記でした。セラフィナはサンチョの妻。夫妻にはレオン(1618年11月には10歳)・マリヤ(同、7歳)・マダレイナ(同、4歳)・第四子(同、9か月)の子どもたちがいました。
   これらの三家族は村山家と固いきずなで結ばれ、みなロザリオ会員になっていました。アントニヨを失脚させた末次平蔵の告発により、彼らは長崎で逮捕されました。そして14人はいずれも1618年11月25日、火刑により殉教しました。


(2010.04.27記)


*参考文献:  『長崎代官 村山等安 その愛と受難』 小島幸枝   聖母文庫  1989