切支丹の書斎


殉教者列伝(16)− 讃岐など各地における殉教

   1617年には、前回までに記述した件以外にも、各地で殉教が見られました。


 【列伝】

    181   石原アントニヨ孫右衛門
    182   石原フランシスコ

   石原アントニヨ孫右衛門は肥前国の出身で、はじめ兵卒でしたが、関が原の戦後に仕事を変えて商人となり、讃岐高松に住んでいました。讃岐にはキリシタンが少なかったので、藩主生駒正俊は特段の対策を講じていませんでしたが、1617年に至って、他の藩に歩調を合わせたように弾圧を始めました。7月16日、アントニヨは連行されるとき「天主様、私を転ばせなかったことに感謝いたします」と祈り、斬首されて殉教しました。翌日には4歳の息子フランシスコが連れ出されて泣き出しましたが、父の知人から「天に行けばお父さんに会えるよ」と言われて泣きやみ、心静かに寝入ったところを刺殺されて天に召されました。他の7〜8人のキリシタンは讃岐国内から追放処分となっています。


    183   マチヤス松安
    184   アンナ
    185   リアン甚介
    186   レオンどうてい
    187   マリヤ
    188   ミゲル仁兵衛


   マチヤス松安(しょうあん)は京都の人で、一時イエズス会の神学生となりましたが、その後は医師となり、妻のアンナとともに教理を深く学んでいました。1614年、キリシタン禁教令によって信徒たちは京都・大坂から追放されることになり、71人のキリシタンが津軽へ流刑にされましたが、マチヤス夫妻の姿もその中にありました。
   彼らは寒冷の津軽で貧困に苦しみながら荒れ地を開墾する作業に従事していましたが、その中で地元津軽の武士たちを感化させていきました。マチヤスは教理を学んだリアンどうてい
、妻のマリヤとを信仰に導き、また同じく畿内から追放されて来ていた信徒のリアン甚介は、友人となった津軽藩士のミゲル仁兵衛(にひょうえ)を入信させました。このように流人たちが共同体を守っていたので、当時津軽を訪れた結城了悟神父は、マチヤスたちの告解を聴き、皆の心を強め、励ましていました。
   津軽藩主・津軽信枚は、一時キリシタンの洗礼を受けたものの、その後あっさりと背教して徳川家康の養女を妻にしていました。1617年、彼は自分の家臣たちがキリシタンになったことを驚き、ただちに将軍に報告してマチヤスとリアン甚介とを処刑する許可を得ました。一方、信枚はリアンどうてい・マリヤ夫妻とミゲルの三人には、信仰を捨てれば命を助けると伝えましたが、彼らは棄教を拒否し、しつこく勧告に訪れた親戚たちを叱って追い返しました。やがて藩からの処刑命令が伝えられましたが、アンナも夫マチヤスとともに死を命じられ、二人は神から夫妻ともに殉教できる恵みを与えられたことを喜びました。
   6人は8月4日に牢から引き出され、詩篇を歌いながら弘前の刑場へ向かい、多くの信徒たちが奉行の許可を受けて同伴していきました。広い野原に6本の柱が立てられ、マチヤスたちが縛り付けられると、周囲の焚き木に火がつけられました。この火刑はおよそ2時間続きましたが、6人は祈りを捧げながら最後の試練に向かいつつ、地上での生命を終えました。取り囲んでいた異教徒たちも、少なからずこの姿に感動していたと伝えられています。


    189   ペトロ
    190   パウロ


   ペトロとパウロの二人は、いずれも豊後高良山の山伏で、それぞれ「ぶんしょう房」「しゅんざ房」と名乗っており、筑後に住んでいました。筑後では柳川藩主の田中吉政・忠政父子がいずれもキリシタンに好意的で、幕府の禁教令に抵抗して信徒を保護していました。特に藩士の酒井パウロ太郎兵衛が熱心に布教を行い、領内に篤信の共同体を形成していたので、二人の山伏も太郎兵衛の指導を受けて入信しました。しかし家老の石崎若狭はキリシタンの活動を嫌い、1617年に太郎兵衛を投獄し、ペトロとパウロを山伏の指導者に引き渡しました。11月26日、二人はキリシタンを憎む多くの仏僧たちに取り囲まれ、半身を地中に埋められ、石つぶての雨を浴びせられて絶命しました。ペトロは24歳、パウロは22歳でした。


    191   ジョアン三右衛門

   ジョアン三右衛門(みえもん)は摂津の人でしたが、魂の救済を求めてフランシスコ会の修道士たちに近づき、長崎で荒木トマス神父(のち背教者。立ち返って殉教したと伝えられるが詳細不明)から洗礼を受けました。以来、彼は熱心な信徒になり、大村へ行ってロザリオ会の指導者となり、司祭たちの説教を聞き、信徒たちと分かち合っていました。1617年、ジョアンの宣教活動を憎む仏僧たちが大村藩に告発したので、彼は逮捕され、12月25日の降誕祭の日に刑場へ連れて行かれました。ジョアンはそこで刀の試し斬りとなって寸断され、殉教の栄冠を獲得しました。


(2008.7.13記)


*参考文献:  『日本切支丹宗門史』 レオン‐パジェス  吉田小五郎訳   岩波文庫  1938
                 『日本キリシタン殉教史』 片岡弥吉  時事通信社   1979