切支丹の書斎


教者列伝(12)− 1614〜15年、駿府の殉教

   駿府は徳川家康が将軍職を退任してから居住した、まさに大御所政権のお膝元であり、1614年の禁教令発令に伴って、ここでもキリシタンの名簿が作成されました。町奉行の彦坂九兵衛は苛酷な取締りを嫌っていたので、なるべく逮捕者を少なくしようと努めましたが、熱意のある信徒たちが続々名乗り出たために、多くの人々が検挙されることになりました。


 【列伝】

     104   ジョアン道寿
     105   ペトロ角助

   ジョアン道寿は山城出身で、はじめ浄土真宗の信者でしたが、宣教師に導かれて洗礼を受け、伏見教会に所属、のち駿河に転居して共同体の指導者となり、財務を担当していました。またペトロ角助は長崎出身で両親ともキリシタンであり、肥後から上方へ移り、さらに駿河へ転居しました。
   1614年に駿府でキリシタンの一斉検挙が行われたとき、大部分は親戚または隣人預けとなったのですが、ジョアン・ペドロ・ジョウチン助九郎・ペトロ宗休・マヌエル・レオ・ジョアン庄次郎・リオゴ清安の8人が牢に監禁されることになりました。のち言語・聴覚障がい者であったマヌエルは釈放されて共同体のために尽力しました。7人の信徒たちは、同じく牢内にいた囚徒たちを入信させて洗礼を授けています。
   11月1日、7人は牢から出されて、灼熱の十字の烙印を額に押され、その熱鉄は骨にまで達しました。それから駿府の大通りを引き回され、安倍川のほとりに引っ立てられ、そこで両手の指を切り落とされ、加えて両足の腱を切り割かれて放置されました。夜になると信徒たちが集まり、禁令を無視して7人を小屋の中へ入れて看護しましたが、ジョアンはその日のうちに息を引き取り(50歳)、ペトロ角助は翌日帰天しました。他の4人は生き残り、ペトロ宗休を指導者として、ハンセン病患者たちを中心とする兄弟たちの保護を受けて活動を続けていました。なお、この前後にジョアン原主水胤信(のち殉教)も、同様な刑を受けて放置され、のち信徒たちの助力で江戸の浅草へ移っています。


     106   フランシスコ
     107   ガスパル
     108   パウロ
     109   トメ
     110   マチヤス
     111   ルウカス

   この6人はハンセン病患者でした。駿河の市の近くに小屋を建てて居住し、1614年に安倍川で拷問を受けて身体が不自由になったペトロ宗休を招いて教理を学んでいました。15年に入り、駿府で起こった盗賊事件関与の疑いを受けて、ペトロ宗休が奉行所に連行されましたが、彼は何の関わりもないことを弁明して家に帰されました。一方、宿主であった6人のハンセン病患者たちは、奉行所に逮捕されて掘立小屋に押し込められ、覚悟を決めて殉教の準備をしていました。11月24日、二人の部将が彼らの収容所を訪れ、キリシタンの信仰を捨てれば、療養のためにもっと快適な住まいを提供すると誘いましたが、6人はそれならむしろ生命を捨てると宣言し、殴打されるため自ら衣服を脱ぎました。そしてその日のうちに、6人は部将たちによって斬首され昇天しました。P.モレホン神父は『続日本殉教録』の中で、「彼らの名は永遠の記憶に値し、これまで日本に君臨したどの偉人・国王・将軍よりも幸せな人々である」と賞賛しています。


(2004.12.15記)


*参考文献:  『日本切支丹宗門史』 レオン‐パジェス  吉田小五郎訳   岩波文庫  1938
                 『日本キリシタン殉教史』 片岡弥吉  時事通信社   1979