切支丹の書斎


教者列伝(11)− 1614〜15年、天草など九州各地の殉教

   1614〜15年、幕府の禁教令が全国に広がると、九州地方でも多くのキリシタンが信仰のために生命を捨てました。有馬地方については別に稿を設けることとし、ここでは天草や豊後における殉教者を紹介します。


 【列伝】

      96   福者荒川アダム

   荒川アダムは肥前有馬領の荒川に生まれました。有馬アンデレ掃部の家臣でしたが、若い頃に何らかの過ちを犯してアンデレから手打ちにされるべきところ、有馬のイエズス会修道院長モラ神父のとりなしで助命されたのを機に、教会で働くようになりました。
   天草では1566年頃から布教が開始され、志岐鎮経(=麟泉。のち棄教)や天草ミゲル鎮尚など、島内の領主たちも入信するようになり、次第にキリシタンの教えが浸透し、1589年に宇土城主アゴスチノ小西行長が天草を領有するに至って最盛期を迎えました。志岐にはアゴスチノの家臣日比谷ビセンテ兵右衛門が配置され、布教を全面的に奨励し、コレジオを拠点とする文化活動の花が開きました。しかし1601年にアゴスチノが滅ぼされて唐津藩主寺沢広高が天草を支配すると情勢は一変し、公然とした弾圧は行われなかったものの、教会は藩から冷遇されるようになりました。
   1614年1月、幕府の禁教令を受け、寺沢家の富岡城代川村四郎左衛門は、天草からガルセス神父を追放処分としましたが、神父は天草から退去する際にアダムを信徒使徒職に任命して教会を託しました。すでに70歳になっていた伝道士アダムは、快くこれを引き受け、献身的に信徒の世話をしていました。3月になると藩主寺沢広高は天草領内のすべてのキリシタンの棄教を命じ、四郎左衛門はアダムを逮捕して、将軍の命なのだから転宗するようにと説得しましたが、アダムは断固として拒否しました。
   そこで四郎左衛門はアダムを裸にして横木に吊るし、冷たい風にさらしものにして意思を挫こうとしましたが、彼は屈せずに祈り続けたので、四郎左衛門は彼を一軒の狭い家に幽閉しました。そのまま60日間、アダムは訪れる友人たちに信仰を説いてやまず、ついに四郎左衛門は藩主広高に状況を報告、広高はアダムを処刑することに決定しました。
   14年6月5日の早朝、アダムは富岡城から川原へ連れ出され、そこで首をはねられて殉教しました。連行する役人に対しても、最後までキリシタンの信仰を説いていたと伝えられています。


      97   ベネジクチノ
      98   峯ルイス
      99〜101   ミゲル忠兵衛・マセンシヤ・リノ
     102   パウロ八十太夫
     103   片野ロマン八十右衛門

   ベネジクチノは摂津出身の大工で、細川領の豊後高田教会に所属していましたが、地区の宣教師たちが国外追放になった後、妻と二人の子どもたちと一緒に逮捕され、俵詰めにされて瀕死の状態になったので自宅へ送り返されましたが、直後の1614年4月6日に49歳で天に召されました。
   峯ルイスは佐賀藩深堀在住の信徒で、兄の峯コスモとともに篤信の人でしたが、宣教師追放を機に二人で長崎へ赴いて告解し、帰って運命の日を待ち受けました。深堀の領主(佐賀藩家老)鍋島茂賢の命を受けた奉行は、1614年5月29日にルイスを海に連れ出して斬首し、その遺体を海中に投棄した後、コスモを領外追放処分としました。
   ミゲル忠兵衛・マセンシヤ夫妻と、ミゲルの弟リノは、いずれも豊後木原の住人です。細川家の藩命で逮捕されて拷問を受け、1614年7月13日にミゲルとリノの二人は死刑を宣告され、刑場で火刑にされて殉教しました。マセンシヤは夫や義弟とともに刑場へ裸足で歩いて行き、二人が火刑になったあとで、役人の前に首を差し伸べて斬られ、後を追いました。ミゲル夫妻はいずれも39歳、リノは25歳でした。
   パウロ八十太夫は播磨の出身で、熊本で城内の大工の棟梁を務めていたのですが、1614年に藩主加藤忠広の命で逮捕され、1615年1月25日に胴斬りにされました。52歳。
   片野ロマン八十右衛門は豊後の出身で、豊前小倉に住んでいましたが、逮捕されて8か月、1615年3月18日に至って刑場へ引き出され、斬首されて殉教しています。


(2004.6.2記)


*参考文献:  『キリシタン地図を歩く』 日本188殉教者列福調査歴史委員会編   ドン・ボスコ社   1991
                 『日本切支丹宗門史』 レオン‐パジェス  吉田小五郎訳   岩波文庫  1938