「つくられたバカ殿様」 − 徳川家重評伝
はじめに
前近代、世界の大部分の国家は、絶対君主制により統治されていました。その君主権力を是認する、あるいは制約する法制度は、国によってさまざまな形を採っていましたが、君主、またはその代理者が政権の中心にいたことは、多くの国に共通しています。
歴史上の君主の位置付けは、大きく「創業の君主」「守成の君主」「中興の君主」に型分けできます。
本編で採り上げる江戸幕府の「九代将軍・徳川家重」は、「中興の君主」に分類されると、私は考えています。
こう書くと、多くの読者は、
「あれっ? 江戸幕府の中興の君主は、八代将軍・徳川吉宗でしょ?」と思われるのではないでしょうか。
実は、これこそが私たちの思考を停止させている「呪縛」にほかならないのです。
「中興の君主」とは、どのような業績を上げた人でしょうか? (1)いったん中絶した国や王朝を再建した、(2)分裂した国を再統一した、(3)統治が破綻した国や政権を建て直した。この三つのいずれかでしょう。
世界史をひもといてみましょう。
(1)に当たる君主。たとえば、東漢(後漢)の光武帝(世祖)・劉秀は、王莽によって中断させられた漢王朝を再建しました。また、ムガル朝(インド)のバーブルは、中央アジアの支配権を失ったティームール朝の王子でしたが、北インドへ移って王朝をリニューアルしました。
(2)に当たる君主。たとえば、ローマ帝国のコンスタンティヌス1世(大帝)は、東西に分裂し、さらに対立皇帝まで現れて混乱した帝国を再統一しました。また、唐の章武帝(憲宗)・李純は、国内の軍閥を制圧して分裂状態を克服し、一時的ながら国を再統一しました。
(3)に当たる君主。たとえば、フランス国王アンリ4世(大王)は、カトリックとプロテスタントの抗争が混乱を極め、国としての体をなしていない状況から、自ら転宗を繰り返しながら最終的に和平を実現させ、ブルボン朝による安定した統治を導きました。
これらの人たちを「中興の君主」と呼ぶことができます。
日本であれば、建武の新政を行った後醍醐天皇は(1)、各地の守護大名たちを抑え込んだ室町幕府の将軍・足利義教は(2)に相当すると言うことができるでしょう。
それでは、徳川吉宗は(3)なのか? 結論から言えば、私はそう思いません。吉宗が将軍になったとき、江戸幕府の統治機構がガタガタになっていたわけでは決してありません。むしろ、吉宗時代後期の拙劣な財政政策が農村の疲弊を招き、国の経済基盤が危機に陥ったのです。これを建て直したのが、次代の家重でした。
しかし、一般的には「吉宗=中興の君主」「家重=バカ殿」の認識が蔓延しているので、そうでないことを私は皆さんに解説していかなければなりません。
そこで、本編の第一章では、家重同様に誤った評価をされている君主たちを、古代から順番に掲げ、なぜそのような評価をされたのか、真相を探ってみたいと思います。...(つづく)
(2019.04.30 up)
(※徳川家の家紋「三つ葉葵」は、発光大王堂様のフリー素材を借用し、加工させていただきました)