東京都は古くは無邪志・胸刺の国造が支配していましたが、大化の改新で一国となり、713年に武蔵の字を当てました。『延喜式』では21郡(後世22郡)。平安朝期の荘園は豊島荘・横山荘など。平安朝後期から武蔵七党や坂東八平氏などの武士団の活動地域となり、清和源氏諸流の勢力も浸透しました。鎌倉期にははじめ国司が守護を兼帯しましたが、後には相模に次ぐ関東の要地と位置付けられ、北条(得宗)家家督が守護を務めました。南北朝期にははじめ高(師直)家が守護を務め、観応の擾乱後に鎌倉公方のもとで上杉(山内上杉、一時犬懸上杉)家の分国となり、室町期に至りました。享徳の大乱の後、上杉=扇谷家が武蔵中部に勢力を広げて上杉=山内家と抗争しましたが、戦国期に入ると北条(後北条)氏綱が北上して両上杉と攻防を繰り返し、北条氏康は1546年に扇谷家を滅ぼして武蔵を制圧しました。豊臣秀吉が1590年に北条家を滅ぼすと、徳川家康が武蔵を与えられ、江戸を居城として関東を支配しました。関が原の戦後、家康は1603年に征夷大将軍となって江戸に幕府を開き、武蔵中部は幕府直轄領と旗本の所領で占められ、江戸には町奉行が設置されて住民を統治しました。1868年の江戸開城により京都より皇居が移転し、江戸は東京と改称され、1871年には武蔵中・南部が東京府と神奈川県とに分割されました。1878年に伊豆諸島が静岡県から、1880年に小笠原諸島が内務省直隷地域から移管され、1889年に東京市(区部)設置、1893年に多摩郡が神奈川県から東京府へ編入されて、現在の領域が確定し、1943年に府・市が統合されて東京都に再編されました。1945年、小笠原諸島は米国により占領されましたが、1968年に日本へ返還されて、再び東京都に編入されました。
武蔵守護職 豊島家 江戸家→喜多見家 吉良(東条)家 大石家 遠山家 徳川(田安)家 徳川(一橋)家 徳川(清水)家 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 在任期間 | 備考 |
高 重茂 | 大和権守 | 1336/7-38後 | ||
高 師冬 | 播磨守 | 1341前-44後 | ||
高 師直 | 武蔵守 | 1346前-51 | ||
上杉 憲将 | 兵庫頭 | 1351 | 父・憲顕の代官との説あり | |
仁木 頼章 | 兵部大輔 | 1351-52後 | ||
畠山 国清 | 阿波守 | 道誓 | 1353-61 | 解任後、数年は守護不設置 |
上杉 憲顕 | 民部大輔 | 道昌 | 1366/7-68 | |
上杉(山内)能憲 | 兵部大輔 | 道諲 | 1368-78 | |
上杉(山内)憲春 | 刑部大輔 | 道弥 | 1378-79 | |
上杉(山内)憲方 | 安房守 | 道合 | 1379-94 | |
上杉(犬懸)朝宗 | 中務少輔 | 禅助 | 1395-1405 | |
上杉(山内)憲定 | 安房守 | 長基 | 1405-? | |
上杉(犬懸)氏憲 | 右衛門佐 | 禅秀 | ?-1417 | |
上杉(山内)憲実 | 四郎・安房守 | 長棟 | 1419前-34後 | |
上杉(越後)清方 | 兵庫頭 | 1440前-46 | ||
上杉(山内)憲忠 | 右京亮 | 1449前-54 | ||
上杉(山内)房顕 | 兵部大輔 | 1461前-66 | ||
上杉(山内)顕定 | 四郎 | 可諄 | 1477前-1510 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
秩父 武常 | 二郎 | 平将常男 | 11C中葉 | 豊島郡豊島荘(武蔵) | |||||||
豊島 常家 | 二郎 | 武常男 | ↓ | ||||||||
豊島 康家 | 三郎 | 常家男 | ↓ | ||||||||
豊島 清光 | 豊島権守 | 左衛門尉 | 康家男 | 1180頃 | ↓ | ||||||
豊島 朝経 | 右馬允 | 清光男 | 1203 | ↓ | ?-1203 土佐守護 |
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豊島 有経 | 豊島権守 | 太郎 | 朝経男 | 1191頃-? | ↓ | 紀伊守護 | |||||
豊島 経泰 | 平六兵衛尉 | 有経男 | ↓ 後代、平塚・石神井・ 練馬の三城を拠点 |
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豊島 泰友 | 三郎兵衛尉 | 経泰男 | ↓ | ||||||||
豊島 泰景 | 三郎兵衛尉 | 泰友男 | ↓ | ||||||||
豊島 朝泰 | 孫四郎 | 泰景男 | ?-1342後 | ↓ | |||||||
豊島 宗朝 | 小三郎 | 宮城某の男 | ↓ | ||||||||
豊島 泰宗 | 勘解由左衛門尉 | 宗朝男 | ↓ | ||||||||
豊島 範泰 | 三郎左衛門尉 | 泰宗男 | 1416頃 | ↓ | |||||||
豊島 朝泰 | 三郎左衛門尉 | 範泰男 | ↓ | ||||||||
豊島 泰景 | 三河守 | 勘解由左衛門尉 | 豊島泰秀 (泰宗男)男? |
1455前-? | ↓ | ||||||
豊島 泰儀 | 勘解由左衛門尉 | 泰景男 | ↓ | ||||||||
豊島 宣泰 | 勘解由左衛門尉 | 泰儀男? | 1471前-? | ↓ | |||||||
豊島 経祐 | 七郎左衛門尉 | 新三郎 | 宣泰男 | ↓ | |||||||
豊島 泰経 | 勘解由左衛門尉 | 道翁 | 経祐男(弟?) | ?-1477後 | ↓ 1477失領 |
以後の系譜 は錯綜して 判然とせず |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
江戸 重継 | 四郎 | 秩父重綱四男 | 12C前半 | 豊島郡江戸郷(武蔵) | |||||||
江戸 重長 | 太郎兵衛尉 | 心仏 | 重継男 | 1180前-95後 | ↓ | ||||||
江戸 忠重 | 太郎 | 重盛 | 重長男 | 1205頃 | ↓ | ||||||
(途中未詳) | |||||||||||
江戸 泰重 | 四郎太郎 | 藤太郎? | 忠重裔? | 14C前半 | 江戸近傍 | ||||||
江戸 長門 | 遠江守 | 忠重 太郎 |
泰重男 | 1352前-58後 | ↓ | ||||||
江戸 高重 | 淡路守? | 藤太郎? | 長門男 | ↓ | |||||||
江戸 康重 | 駿河守? | 三郎? 右京亮? |
高重男 | 1441頃 | ↓ 以後、惣領家の動向未詳 |
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【喜多見家】 |
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木田見 定重 | 右京亮 | 江戸庶流 | 15C前半 | 多摩郡木田見(武蔵) | |||||||
木田見 信重 | 又五郎 | 定重男 | ↓ | ||||||||
木田見 広重 | 小三郎 | 駿河守? | 信重男 | ↓ | 北条家被官? | ||||||
木田見 門重 | 右京大属 | 景福軒 呂顕 |
孫八郎 | 広重男 | ↓ | 北条家被官? | |||||
木田見 常光 | 摂津守 | 浄先 | 信濃守 | 門重男 | 1546? | ↓ | 北条家被官 | ||||
木田見 頼忠 | 刑部少輔 | 興楽 | 常光男 | 1619 | ↓ | 北条家臣 | |||||
木田見 朝忠 | 摂津守 | 法心 | 頼忠男 | ?-1590 | 1602(51) | ↓ | 北条家臣 | ||||
喜多見 勝忠 | 従五位下 若狭守 |
宗珍 | 五郎右衛門 | 朝忠長男 | 1590-1627 | 1627(60) | ↓ 1590徳川家康に仕え、 喜多見領安堵 500石 1621までに累増 2,000石 |
堺奉行 | |||
喜多見 重恒 | 五郎左衛門 | 宗幽 | 半三郎 | 勝忠二男 | 1627-72 | 1679 | ↓ 1627分知 1,120石 |
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喜多見 重政 | 従五位下 若狭守 |
彦五郎 五郎左衛門 |
石谷武清二男 重恒外孫 |
1672-89 | 1693 | ↓ 1681加増 3,120石 1683加増 10,000石 1686加増 20,000石 1689怠慢、改易 |
側衆 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
吉良 義継 | 東条左馬四郎 | 等覚 尊親 |
足利義氏三男 | 1255頃 | 幡豆郡吉良荘東条(三河) | ||||||
吉良 経氏 | 上総介 | 太郎 | 義継男 | ↓ | |||||||
吉良 経家 | 上総介 | 又太郎 | 経氏男 | ↓ | |||||||
吉良 貞家 | 従五位下 右京大夫 |
左馬助 修理権大夫 |
経家長男 | 1354? | ↓ 1345四本松城(陸奥) |
1336?-45? 因幡・但馬守護 1345-54? 奥州管領 |
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吉良 満家 | 従五位下 中務大輔 |
治氏 三郎 |
貞家長男 | ↓ | 奥州管領 | ||||||
吉良 治家 | 治部大輔 | 満家男 | 1390飽間(上野) | ?-1390 奥州管領 |
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吉良 頼治 | 兵部大輔 | 治家男 | ↓ | ||||||||
吉良 頼氏 | 左京大夫 | 頼治男 | 15C初頭? | ↓ 世田谷城(武蔵) |
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吉良 頼高 | 右京大夫 | 頼氏男 | ↓ | ||||||||
吉良 政忠 | 右京大夫 | 政正 | 頼高男 | ↓ | |||||||
吉良 成高 | 左兵衛佐 | 左京亮 | 政忠男 | ?-1485後 | ↓ 世田谷および蒔田 |
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吉良 頼康 | 正四位下 左兵衛督 |
勝光院 脱山浄森 |
頼貞 左兵衛佐 |
成高男 | 1485後-1560 | 1562 | ↓ | 北条家客分 | |||
吉良 氏朝 | 従四位下 左兵衛督 |
実相院 玄参学翁 |
貞朝 | 堀越貞基男 | 1560-90 | 1603(62) | ↓ 1590失領、閑居 |
北条家客分 | |||
蒔田 頼久 | 左兵衛佐 | 耕雲寺 傑翁宗英 |
氏広 | 氏朝長男 | 1591-1609 | 1609(42) | 1591再興 長柄郡内(上総) 1,120石 1601加増 1,820石 |
徳川家臣 | |||
蒔田 義祗 | 左兵衛 | 東禅院 覚翁宗真 |
源六郎 | 頼久長男 | 1609-57 | 1657(51) | ↓ 1609幼少減封 1,120石 |
旗本 | |||
蒔田 義成 | 左兵衛 | 景徳院 雲巌宗祥 |
源六郎 右近 |
義祗長男 | 1657-91 | 1691(63) | ↓ | 表高家 | |||
吉良義俊(従四位下・侍従・左京大夫。義成長男)が1692年に高家となり、1697年より武蔵国内1,420石を知行して存続。 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
大石 為重 | 源左衛門尉 | 木曽一族? | 佐久郡大石郷(信濃) | ||||||||
大石 信重 | 遠江守 | 源左衛門尉 | 為重男 (養子?) |
?-1356後 | ↓ 多摩・入間二郡内(武蔵) |
武蔵守護代 | |||||
大石 憲重 | 石見守 | 駒丸 遠江太郎 源左衛門尉 |
信重男 | 1429 | ↓ | 武蔵守護代 | |||||
大石 憲儀 | 石見守 | 源左衛門尉 | 憲重男 | 1440 | ↓ | 武蔵守護代 | |||||
大石 房重 | 源左衛門尉 | 大夫丸 | 憲儀男 | 1455 | ↓ | ||||||
大石 顕重 | 信濃守 | 鶴寿 源左衛門尉 |
房重男 | 1455-1514 | 1514 | ↓ 1458高月城を築く |
|||||
大石 定重 | 信濃守 | 融山宗可 | 源三 源左衛門尉 |
顕重男 | 1514-? | 1527(61?) | ↓ 1521滝山城を築く |
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大石 定久 | 源左衛門尉 | 心月斎 道俊 捐館英巌 |
丑丸 | 定重男 | ?-1546 | 1549(59) | ↓ | ||||
大石 氏照 | 陸奥守 | 青雲院 透岳開公 |
源三 | 北条氏康三男 | 1546-90 | 1590(51) | ↓ 1588八王子城(武蔵) 1590後北条家とともに滅亡 |
北条家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在位 | 没年(年齢) | 所領/居所 | 備考 | |||
遠山 直景 | 丹波守 | 四郎左衛門 隼人佐 加賀守 |
明智景保男 | ?-1533 | 1533 | 1524江戸城代 | 北条家臣 | ||||
遠山 綱景 | 丹波守 | 藤九郎 隼人佐 甲斐守 |
直景男 | 1533-64 | 1564 | ↓ | 北条家臣 | ||||
遠山 政景 | 甲斐守 | 康光 右衛門大夫 |
綱景男 | 1564-80 | 1580 | ↓ 1567下総国内 江戸にも在城 |
北条家臣 | ||||
遠山 直景 | 左衛門大夫 | 千世菊 | 政景男 | 1580-87 | 1587 | ↓ | 北条家臣 | ||||
遠山 犬千世 | 直景 (左衛門大夫)男 |
1587-90 | ? | ↓ 1590失領 |
北条家臣 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
徳川 宗武 | 従三位 権中納言 |
悠然院 寛山円休 |
小次郎 右衛門督 |
徳川吉宗二男 | 1729-71 | 1771(57) | 通子=森 (近衛家久女) |
1729賄料=蔵米 30,000俵 1746武蔵等六国内 100,000石 江戸城内の 田安邸に居住 |
||||
徳川 治察 | 従三位 左中将 大蔵卿 贈・参議 |
高尚院 心月覚嶺 |
寿麻呂 | 宗武五男 | 1771-74 | 1774(22) | - | ↓ 1774没後無嗣 |
||||
徳川 斉匡 | 従一位 権大納言 |
惇宗院 戒徳厳明 |
慶之丞 右衛門督 (致仕後) 三玄翁 |
徳川治済五男 | 1787-1836 | 1848(70) | 貞子 (閑院宮美仁親王王女) |
1787継嗣、再興 | ||||
徳川 斉荘 | 従三位 権中納言 |
大覚院 性誉惟徳 |
要之丞 | 徳川家斉十四男 | 1836-39 (1839尾張徳川 家へ転出) |
1845(36) | 猶(斉匡女) | ↓ | ||||
徳川 慶頼 | 権大納言 (のち降格) |
群之助 右衛門督 |
斉匡九男 | 1839-63 | ↓ | |||||||
徳川 寿千代 | 英樹院 | 慶頼長男 | 1863-65 | 1865(6) | - | ↓ | ||||||
徳川 亀之助 (=家達) |
慶頼三男 | 1865-68 (1868徳川宗家 を相続) |
1940(78) | - | ↓ | |||||||
徳川 慶頼 (再承) |
権中納言 | 1868-69 | 1876(48) | 暉(徳川家慶女) 光子=睦宮 (閑院宮孝仁親王王女) |
↓ 1868田安藩 1869版籍奉還に より廃藩 |
四男・達孝 のとき伯爵 |
氏名 | 官位/仮名 | 法名/号 | 他の名 | 続柄 | 当主在任 | 没年(年齢) | 配偶者 | 所領/居所 | 備考 | |||
徳川 宗尹 | 従三位 参議 贈・権中納言 |
覚了院 冬巌性達 |
小五郎 刑部卿 |
徳川吉宗四男 | 1737-64 | 1764(44) | 顕子 (一条兼香女) |
1737賄料=蔵米 20,000俵 1740加増 30,000俵 1746武蔵等六国内 100,000石 江戸城内の 一橋邸に居住 |
||||
徳川 治済 | 従一位 准大臣 贈・太政大臣 |
最樹院 性体瑩徹 |
豊之助 民部卿 (致仕後) 穆翁 |
宗尹四男 | 1764-99 | 1827(77) | 在子 (京極宮公仁親王王女) |
↓ | ||||
徳川 斉敦 | 従三位 参議 贈・権中納言 |
厳恭院 経真明誼 |
好之助 民部卿 |
治済六男 | 1799-1816 | 1816(37) | 保子 (二条治孝女) |
↓ | ||||
徳川 斉礼 | 従三位 参議 贈・権中納言 |
憲徳院 義岳文教 |
松之助 兵部卿 |
斉敦二男 | 1816-30 | 1830(28) | 近 (徳川斉匡女) |
↓ | ||||
徳川 斉位 | 従三位 参議 贈・権中納言 |
崇雲院 高岳明徹 |
郁之助 豊之助 民部卿 |
徳川斉匡四男 | 1830-37 | 1837(20) | 賢子=永 (徳川家斉女) |
↓ | ||||
徳川 慶昌 | 従三位 左中将 刑部卿 贈・参議 |
英徳院 出渓義玄 |
初之丞 | 徳川家慶五男 | 1837-38 | 1838(14) | - | ↓ | ||||
徳川 慶寿 | 従三位 参議 贈・権中納言 |
承休院 栄岳凉性 |
房之助 民部卿 |
徳川斉匡五男 | 1838-47 | 1847(25) | 直子 (伏見宮貞敬親王王女) |
↓ | ||||
徳川 昌丸 | 贈・従三位 左中将 |
馨明院 浄心善行 |
徳川斉荘長男 | 1847 | 1847(2) | - | ↓ | |||||
徳川 慶喜 | 権中納言 | 昭致 七郎麿 刑部卿 |
徳川斉昭七男 | 1847-59 1862-66 (1866徳川宗家 を相続) |
1913(77) | 美賀子 (一条忠香養女) |
↓ 1859謹慎 1862再承 |
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徳川 茂栄 | 権大納言 | 建重 義比 茂徳 鎮三郎 弾正大弼 摂津守 |
松平義建五男 | 1866-69 | 1884(54) | 政子 (丹羽長富女) |
↓ 1868一橋藩 1869版籍奉還に より廃藩 |
四男・達道 のとき伯爵 |
徳川重好(従三位・権中納言。徳川家重二男。1753賄料=蔵米30,000俵。1762武蔵等七国内100,000石、江戸城内清水邸に居住。 1795没後中絶)⇒敦之助(1798再興。1799没後中絶)⇒斉順(従三位・左中将・式部卿。1805再興)⇒斉明(従三位・左中将・ 式部卿、贈参議)⇒斉彊(従三位・権中納言。1846紀伊徳川家を継承、中絶)⇒昭武(従四位下・左少将・民部大輔。1868水戸 徳川家を継承、中絶)⇒篤守(1870再興。伯爵→後に返上) |
(2018.03.18up)
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