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中国史に出てくる諡(おくりな)について(7)−−西漢 2

   ここでの諡については他の称号や諱(実名)と区別して、〔 〕内に示し、〔襄公〕〔宣侯〕のように表記します。系譜中で罫線−のあとに続柄を記載していないものは、実子(男子)による襲爵です。また、それぞれの王侯の家の系譜は、主流とおもな傍流を除き省略しますので、封爵を与えられた子孫をすべて掲載するわけではありません。
 

*皇帝の在位年(景帝以後。再掲)

・景帝 劉啓 前157-141
・世宗武帝 劉徹 前141-87
・昭帝 劉弗陵 前87-74
・廃帝海昏侯 劉賀 前74
・中宗宣帝 劉詢 前74-49
・元帝 劉奭 前49-33
・成帝 劉驁 前33-7
・哀帝 劉欣 前7-1
・平帝 劉衎 前1-後5
・王莽摂政時代 後5-8

★景十三王;   

   景帝には皇子が十四人いました。そのうち十番目の武帝を除くと、みな諸侯王に封じられています。。

◆臨江王〔閔王〕劉栄(廃太子。有罪自殺)
◆河間王〔献王〕劉徳−河間王〔共王〕不害−河間王〔剛王〕堪−河間王〔頃王〕授−河間王〔孝王〕慶−河間王 元(有罪廃絶)−(弟、復興)河間王〔恵王〕良−河間王 尚(西漢滅亡により廃絶)−(?)楽成侯 邵(東漢時代に入る)・・・
◆臨江王〔哀王〕劉閼(無嗣廃絶)
◆魯王〔共王〕劉余−魯王〔安王〕光−魯王〔孝王〕慶忌−魯王〔頃王〕勁−魯王〔文王〕シュン(目+氈B無嗣廃絶)−(叔父、復興)魯王 閔(西漢滅亡のとき列侯に降格)
◆江都王〔易王〕劉非−江都王 建(謀反自殺)−広世王 宮(甥、復興。西漢滅亡により廃絶)
◆趙王〔敬粛王〕劉彭祖−趙王〔頃王〕昌−趙王〔懐王〕尊(無嗣廃絶)−(弟、復興)趙王〔哀王〕高−趙王〔共王〕充−趙王 隠(西漢滅亡により廃絶)
◆長沙王〔定王〕劉発−長沙王〔戴王〕庸−長沙王〔頃王〕鮒コウ(魚+句)−長沙王〔剌王〕建徳−長沙王〔煬王〕旦(無嗣廃絶)−(弟、復興)長沙王〔孝王〕宗−長沙王〔繆王〕魯人−長沙王 舜(西漢滅亡により廃絶)−(?)臨湘侯 興(東漢時代に入る)・・・
      また、劉発の子、舂陵侯〔節侯〕劉買−舂陵侯〔戴侯〕熊渠−舂陵侯〔孝侯〕仁−舂陵侯〔康侯〕敞−城陽王〔恭王〕(東漢時代に入る)
◆膠西王〔于王〕劉端(無嗣廃絶)
◆中山王〔靖王〕劉勝−中山王〔哀王〕昌−中山王〔康王〕昆侈−中山王〔頃王〕輔−中山王〔憲王〕福−中山王〔懐王〕脩(無嗣廃絶)−(従弟の子、復興)広徳王〔夷王〕雲客−(弟)広平王 漢(西漢滅亡により廃絶)
◆広川王〔恵王〕劉越−広川王〔繆王〕斉−広川王 去(有罪自殺)−(兄、復興)広川王〔戴王〕文−広川王 海陽(有罪廃絶)−(従弟、復興)広徳王〔静王〕楡−広徳王 赤(西漢滅亡により廃絶)
◆膠東王〔康王〕劉寄−膠東王〔哀王〕賢−膠東王〔戴王〕通平−膠東王〔頃王〕音−膠東王〔共王〕授−膠東王 殷(西漢滅亡により廃絶)
◆清河王〔哀王〕劉乗(無嗣廃絶)
◆常山王〔憲王〕劉舜−常山王 勃(有罪廃絶)−(弟、復興)真定王〔頃王〕平−真定王〔烈王〕偃−真定王〔孝王〕由−真定王〔安王〕雍−真定王〔共王〕普−真定王 楊(西漢滅亡により廃絶)−真定侯 得(復興。東漢時代に入る)・・・

   諡としては趙王劉彭祖の「敬粛」だけが二字諡です。武帝の兄弟の中では、この人と武帝とが特に長寿でした。この劉彭祖は、同母弟の中山王劉勝「靖王」と仲が悪かったことで知られています。その劉勝のほうは壮麗な王墓が発掘され、金縷玉衣が話題になりました。珍しいのは膠西王劉端の「于」で、あまり類例を見ない諡号です。また、長沙王劉発「定王」は母親の身分が低かったことから、兄弟の中でも一番冷遇されましたが、この系統の舂陵侯の傍系から東漢の光武帝劉秀が登場します。

★武帝時代の将相;

   漢も武帝時代になると、丞相の権限が形骸化し、次第に政治の実権は尚書へ移行しました。

◆柏至侯〔哀侯〕許昌−柏至侯〔共侯〕安如−柏至侯 福(有罪廃絶)
◆武安侯 田蚡−武安侯 恬(有罪廃絶)
◆平棘侯〔節侯〕薛沢−平棘侯 穣(有罪廃絶)
◆平津侯〔献侯〕公孫弘−平津侯 度(有罪廃絶)
◆安楽侯 李蔡(有罪自殺)
◆武彊侯 荘青翟(有罪自殺)
◆商陵侯 趙周(有罪自殺)
◆牧丘侯〔恬侯〕石慶−牧丘侯 徳(有罪廃絶)
◆葛繹侯 公孫賀(有罪獄死)
◆澎侯 劉屈氂(有罪誅殺)

   前半期の丞相は一応その地位にあっただけという目立たない人ばかりですが、高齢で取り立てられた公孫弘の諡「献」が目立ちますね、後半期の丞相の多くは政争に巻き込まれて、いい終わり方をしていません。

   武帝時代と言えば、匈奴との戦争で大功があった二将軍が高名です。

◆長平侯〔烈侯〕衛青−長平侯 伉(有罪廃絶)
◆冠軍侯〔景桓侯〕霍去病−冠軍侯〔哀侯〕嬗(無嗣廃絶)

   霍去病の二字諡。「景」は武勇にちなんで、「桓」は領土拡張にちなんでと記録されています。若くして没した名将を惜しむ武帝の思いが反映された諡です。
   

★武五子

   武帝の六人の皇子たちのうち、末子の昭帝を除くと、その道程は明るいものではありませんでした。

◆皇太子〔戻太子〕劉拠(挙兵自殺)−皇孫〔悼皇考〕進(父敗北のとき殺害)−宣帝
◆斉王〔懐王〕劉閎(無嗣廃絶)
◆燕王〔剌王〕劉旦(謀反自殺)−(復興)広陽王〔頃王〕建−広陽王〔穆王〕舜−広陽王〔思王〕璜−広陽王 嘉(西漢滅亡のとき扶美侯に降格)
◆広陵王〔脂、〕劉胥(有罪自殺)−(復興)広陵王〔孝王〕覇−広陵王〔共王〕意−広陵王〔哀王〕護(無嗣廃絶)−(叔父、復興)広陵王〔靖王〕守−広陵王 宏(西漢滅亡のとき廃絶)
◆昌邑王〔哀王〕劉髆−海昏侯 賀(はじめ昌邑王、皇帝廃位の後封侯。没後廃絶)−(復興)海昏侯〔釐侯〕代宗−海昏侯〔原侯〕保世−海昏侯 会邑(西漢滅亡のとき廃絶、東漢時代に復封)・・・

   戻太子は非業の死を遂げた後、ただ一人生き残った孫の宣帝が皇帝となったため、追諡されたのですが、「戻」は悪い諡のまま残されています。燕王劉旦の「剌」・広陵王劉胥の「氏v、そして諡ではありませんが「海昏侯」に落とされた劉賀など、昭帝・宣帝時代の政争の敗者たちの哀れさを感じさせます。

★王子系の列侯;

   さて、武帝時代に下された「推恩令」によって、宗室の諸侯王がその領地の一部を分割して列侯に封じることが奨励されるようになりました。いわば諸侯王の弱体化政策というべきものですが、その結果、多数の列侯国が生み出されました。
   このような王子系列侯たちの諡を見てみると、数百人に及ぶ殿様たちの諡の類型が、「節」「頃」「康」「夷」「原」「釐」「敬」「質」「戴」「孝」「哀」「思」「煬」「共」など十数種類にほとんど限定されていて、それ以外の諡号は数えるほどしか散見されないというのが現実です。まあ平和な時代、特に功績があったわけでもなければ、可もなく不可もなしといったところで、生前の性格や品行などで単純評価するしかなかったのかも知れません。

★麒麟閣十一功臣

   麒麟閣とは武帝のときに麒麟(?)を捕獲した記念に作ったという建物で、宣帝が前51年に匈奴の単于が入朝したのを機会に、中興の功臣11人を表彰して肖像画を描かせました。

◆博陸侯〔宣成侯〕霍光−博陸侯 禹(謀反誅殺)−(光の従弟の曾孫、復興)博陸侯 陽(西漢滅亡のとき廃絶)
◆富平侯〔敬侯〕張安世−富平侯〔愛侯〕延寿−富平侯〔繆侯〕勃−富平侯〔共侯〕臨−富平侯〔思侯〕放−武始侯〔節侯〕(東漢時代に入る)
◆竜ガク(各+頁)侯〔安侯〕韓増−竜ガク侯〔思侯〕宝(無嗣廃絶)−(従弟、復興)竜ガク侯〔節侯〕岑−竜ガク侯 持弓(王莽滅亡のとき廃絶)
◆営平侯〔壮侯〕趙充国−営平侯〔質侯〕弘−営平侯〔考侯〕欽−営平侯 岑(不正相続廃絶)−(充国曾孫、復興)営平侯 伋(王莽滅亡のとき廃絶)
◆高平侯〔憲侯〕魏相−高平侯 弘(有罪降格)
◆博陽侯〔定侯〕丙吉−博陽侯 顕(有罪降格)−(復封)博陽侯〔康侯〕昌−博陽侯〔釐侯〕並−博陽侯 勝客(王莽滅亡のとき廃絶)
◆建平侯〔敬侯〕杜延年−建平侯〔孝侯〕緩−建平侯〔荒侯〕業−建平侯 輔−建平侯 憲(東漢時代に入り廃絶)
◆陽城侯〔繆侯〕劉徳−陽城侯〔節侯〕安民−陽城侯〔釐侯〕慶忌−陽城侯 岑−陽城侯 颯(王莽滅亡のとき廃絶)
◆梁丘賀(侯の爵位を授けられず)
◆関内侯 蕭望之
◆関内侯 蘇武

   霍光は昭帝から宣帝の初期にかけての最高権力者であり、没後に宣帝はその功績を認めながらも、妻がかつて皇后許氏を暗殺した罪を追及し、これを恐れて反逆を企てた一族を誅滅してしまいました。「宣成」の二字諡は兄の霍去病にも劣らない重みがありますが、西漢末にその家を復興しようにも、男系は一番近い者で光の従弟の子孫しか見つからなかったというのも哀れです。
   領尚書事の張安世・韓増は温厚な政界の調整役であり、丞相の魏相・丙吉は名宰相として後世に名を残しましたが、諡自体はあまりパッとしないもので、この頃には文帝や武帝に敬意を表して「文」「武」の字をなるべく避けたということも影響しているのでしょうか? 一方、蕭望之は元帝の初期に史高(下記)らとともに領尚書事(宰相)の一人に任じられながら、列侯に封じられる機会を逃し、宦官弘恭・石顕たちの策謀で自殺に追い込まれてしまいました。関内侯は列侯の一つ下の爵位で、一部例外を除いて封邑を持たない侯爵です。漢代には原則として諡を贈られるのは列侯以上の人に限られていましたので、望之にも諡はありません。
   武将としては趙充国が最も高名ですが、宣帝・元帝時代には他に、長羅侯〔壮武侯〕常恵、安遠侯〔繆侯〕鄭吉、義成侯〔壮侯〕甘延寿、破胡侯(追封)〔壮侯〕陳湯などが知られており、対外戦争で功績のあった将軍には「壮」の諡が定番だったようです。

★外戚宰相など;

   宣帝は有能な人材を発掘して政治に活用する一方、政権の要として外戚を重用しました。元帝もその路線を継承しています。

◆楽成侯〔敬侯〕許延寿−楽成侯〔思侯〕湯−楽成侯〔哀侯〕常(無嗣廃絶)−(弟、復興)楽成侯〔節侯〕共−楽成侯〔康侯〕去疾−楽成侯 修(王莽滅亡のとき廃絶)
◆楽陵侯〔安侯〕史高−楽陵侯〔荘侯〕術−楽陵侯〔康侯〕崇(無嗣廃絶)−(弟、復興)楽陵侯 淑(無嗣廃絶)−(高の曾孫、復興)岑(王莽滅亡のとき廃絶)
◆平昌侯〔考侯〕王接−平昌侯〔釐侯〕臨−平昌侯 獲(東漢時代に入る)・・・
◆平恩侯〔共侯〕許嘉−平恩侯〔荘侯〕況−平恩侯〔質侯〕旦−平恩侯 敬(王莽滅亡のとき廃絶)

   成帝時代になると、皇太后の一門王氏が代々大司馬として政権を担当しますが、これについは後述。哀帝が即位すると、外戚の地位は王莽から傅氏・丁氏に移行します。実権を掌握した帝の祖母の傅氏は、一旦高楽侯〔節侯〕師丹を領尚書事として宰相に任命しますが、自分の意に逆らったために罷免し、哀帝の母方の一族、陽安侯丁明を後任とします。傅氏が亡くなると哀帝は自分が寵愛していた高安侯董賢を領尚書事に任命。しかし哀帝の死と同時に王莽が返り咲き、賢は失脚して自殺に追い込まれました。
   諡に関して言えば、あまり変わりばえのしない平凡なものが多かったということになるのでしょうか。

★宣・元六王

   宣帝には皇子が五人。長男が元帝でした。

◆淮陽王〔憲王〕劉欽−淮陽王〔文王〕玄−淮陽王 縯(西漢滅亡のとき廃絶)
◆楚王〔孝王〕劉囂−楚王〔懐王〕文(無嗣廃絶)−(弟、復興)楚王〔思王〕衍−楚王 紆(西漢滅亡のとき廃絶)
      また、劉囂の子、広戚侯〔煬侯〕勲−広戚侯 顕−定安公 嬰(王莽摂政時代の傀儡皇太子。廃位されて公爵)
◆東平王〔思王〕劉宇−東平王〔煬王〕雲(有罪自殺)−(復興)東平王 開明−(甥)東平王 匡(王莽に反して挙兵、討滅)
◆中山王〔哀王〕劉竟(無嗣廃絶)

   元帝には皇子三人。長男が成帝、他の二人も息子の代にそれぞれ皇帝に即位しています。

◆定陶王〔共王〕劉康−哀帝(皇太子となって王家中絶)−(楚王劉衍の子、復興)信都王 景(西漢滅亡のとき廃絶)
◆中山王〔孝王〕劉興−平帝(皇帝となって王家中絶)−(東平王劉宇の孫、復興)中山王 成都(西漢滅亡のとき廃絶)

   諡は時代とともにマンネリ化してきましたが、それでも淮陽王劉玄の「文」は珍しく、この人に関して特別な業績の記録はないものの、何か美諡に値することがあったのかな、とも思いますが。

★王莽の系譜;

   王氏の台頭は、王禁の二女である王政君が元帝の皇后となったことから始まりました。王禁は皇后の父ということで、陽平侯に封じられ、亡くなると〔頃侯〕と諡されて、長男の王鳳が跡を継ぎました。その後、弟や従弟たちが次々と列侯に封じられたのですが、その系譜は下記の通りです(爵位のうち一部は王莽時代のものです)。

◆(王禁の長男)陽平侯〔敬成侯〕鳳−陽平侯〔釐侯〕襄−陽平侯〔康侯〕岑−陽平侯 莫(王莽滅亡のとき被殺)
◆(王禁の四男)安成侯〔共侯〕崇−安成侯〔靖侯〕奉世−安成侯 持弓(王莽滅亡のとき廃絶)
◆(王禁の三男)平阿侯〔安侯〕譚−平阿侯〔剌侯〕仁−平阿侯 術(東漢時代に入り廃絶)
◆(王禁の五男)成都侯〔景成侯〕商−成都侯 況(有罪廃絶)−(弟、復興)隆信公 邑(王莽滅亡のとき被殺)
◆(王禁の六男)紅陽侯〔荒侯〕立−紅陽侯 柱(王莽滅亡のとき廃絶)−(甥)武桓侯 泓(東漢時代に入り復封)・・・
◆(王禁の七男)曲陽侯〔煬侯〕根−直道公 渉(王莽に殺され廃絶)
◆(王禁の八男)高平侯〔戴侯〕逢時−高平侯 置(王莽滅亡のとき廃絶)
◆(王禁の甥)安陽侯〔敬侯〕音−安新公 舜−和新公 摂(王莽滅亡のとき被殺)

   大司馬・領尚書事(=宰相)の地位は、王鳳→王音→王商→王根、そして王莽へと継承されます。王鳳と王商との諡「敬成」「景成」は、霍光の「宣成」との相似形から、王氏の強大な権力を連想させます。
   王莽の父王曼は、王禁の二男でしたが、ただ一人若死にしたため列侯になれませんでした。そのため王莽は貧しい青年時代を送ったのですが、一族から認められて紀元前16年に新都侯に封じられ、大司馬として一族の総帥に出世。前7年に哀帝が即位すると一時失脚しますが、前1年の平帝即位とともに復活、政権を掌握しました。王莽は一族の中で自分が嫌っていた王立・王仁を自殺させ(この二人の諡が悪いのはそのためです)、王氏の中でも独裁体制を築き、紀元後8年にはついに西漢を終焉させて「新」王朝を建設したのですが、内政・外交とも拙劣で各地の反乱を招き、23年に至って劉秀(東漢の光武帝)に滅ぼされてしまいました。

(2004.5.11記)