趣味人の部屋


中国史に出てくる諡(おくりな)について(5)−−−周・春秋・戦国時代

   今回からは、諡号について雑論を展開してみようと思います。所詮は素人の趣味の世界を出ないものですから、あまり専門的に読まないでくださいね (^。^)。  

   時代順に諡号の流行を追いながら眺めていきましょう。まずは上古の時代から。

周(西周)・春秋時代;   

   周の文王・武王・成王といったところが諡号の始まりなのでしょうか? どうもよく分からないところでもあります。西周の前半期(紀元前11〜10世紀)においては、封建諸侯の歴代当主の諡号も、あまり型にはまったものではなかったようです。紀元前9世紀頃から、文・武・成・宣・昭・恵・荘・共・献・孝・穆・襄などの諡号が登場します。
   これは春秋時代にも引き継がれ、上記のような良い諡や普通の諡だけではなく、問題視された君主に対しては霊・氏E煬などの悪い諡号も贈られています。

★戦国時代

   戦国時代の君主の諡号については、この時代の権威である平セ〔生+丸+力〕髦Y氏(東京大学教授)の長年にわたる研究があり、氏の一連の著書をお読みになるのが一番いいと思います。
   簡単に言えば、戦国期に成り上がった諸王侯は、自国の正統性を主張するため、それぞれ『竹書紀年』『春秋』『左氏伝』『公羊伝』『穀梁伝』などの予言書を作って、君主の継承についても諡号に類似した「生号」を定めた、ということです。ですから多くの場合、二字の号のうち一文字は「文」「武」「成」「宣」などの文字が使われており、それが予言の中での君主の位置づけを示すものになっていました。

★秦

   秦の場合を見てみましょう。

前384-361 献公(追号は元王)師隰
前361-338 孝公(追号は平王)渠梁
前338-311 恵文王 駟
前311-307 悼武王 蕩
前307-251 昭襄王 稷
前251       孝文王 柱
前251-247 荘襄王 子楚
そして始皇帝へと続きます。

   この恵文王から三代が「文」→「武」→「成(襄は変形)」という形を取っていることで、周の草創期に秦を重ね合わせているということが言えるでしょう。ですからこの歴代の号は生前に決まっていた「生号」ということになります。
   始皇帝・政が中国を統一すると、封建諸侯がいなくなり、諡号も廃止されました。続く二世皇帝・胡亥の時代、秦に対する反乱の先陣を切った陳勝が殺害された後、おそらくその残存勢力によって「隠王」と諡されましたが、この時期の史料に見えるのはこの程度でしょうか?

(2003.5.10記)