趣味人の部屋


中国史に出てくる諡(おくりな)について(4)−−−名誉回復された皇帝

   今回は「名誉回復された皇帝」編です。
   廃位、または殺害されて追廃された皇帝の中で、後代の政権から改めて皇帝の地位を認められ、名誉回復された人たちがいます。これらの皇帝は通常「廃帝」とは呼びませんが、中国史上にこのような皇帝が何人かいます。以下に掲載してみましょう。  

1. 晉(西晉)の懐帝(在位306-313)司馬熾;   西晉第三代の皇帝です。武帝・司馬炎の子で、兄の恵帝・司馬衷のあとを継いで即位しましたが、晉の国内は宗室諸王の政権争奪(=八王の乱)によって大混乱をきたしており、さらに各地で異民族の活動が勃発して、宰相の東海王・司馬越を中心とする政権はきわめて不安定な状態に置かれていました。そして311年に司馬越が死ぬと、後継者の王衍は軍を統率する力もなく、漢(前趙)の劉曜の攻撃を受けて洛陽は陥落し、帝は会稽公に降格されて平陽へ連行されました。そして翌々年、漢の君主劉聡に殺害されています。東晉が興ると、元帝・司馬睿から孝懐帝という諡号を贈られ、皇帝として名誉回復されました。

2. 晉(西晉)の愍帝(在位313-316)司馬業;   西晉第四代の皇帝。呉王・司馬晏の子で、前項の懐帝の甥に当たります。洛陽陥落後、長安に逃れて即位しました。しかしこの政権も弱体であり、316年に漢の劉曜の軍に攻撃されてあえなく長安は陥落、帝は平陽に連行されて懐安侯に降格されましたが、翌年に劉聡の意向で殺害されました。愍帝(孝愍帝)というのは東晉の元帝・司馬睿から贈られた諡号です。

3. 梁(南朝)の太宗簡文帝(在位549-551)蕭綱;   梁の武帝・蕭衍の子です。武帝の末年に侯景の乱が起こり、軟禁された帝が幽死すると簡文帝が即位したのですが、実権は侯景に掌握されて何もできず、在位三年足らずで侯景に廃されて晉安王に降格され、やがて殺害されました。ここで一旦梁が滅亡しますが、弟の蕭繹が侯景を滅ぼして復興、元帝として即位すると、蕭綱に簡文帝という諡号を贈っています。

4. 魏(北魏)の節閔帝(在位531)元恭;  北魏の孝文帝の弟である広陵王・元羽の子です。爾朱兆・爾朱世隆らが孝荘帝・元子攸を殺害した後、擁立した宗室元曄を廃位して元恭を即位させました。帝は実権のない傀儡皇帝で、高歓が爾朱一族を滅ぼすと間もなく廃位され、その後皇帝になった孝武帝・元脩の猜疑心のため殺害されています。ところが北魏が東西に分裂した後、元恭の弟の元欣が西魏政権の柱国(宇文泰に次ぐ最高位重臣の一人)に就任したので、元恭も名誉回復されて節閔帝と諡されました。

5. 周(北周)の孝閔帝(在位557)宇文覚;  西魏の実質的な支配者・宇文泰が556年に死ぬと、その甥に当たる宇文護が実権を掌握し、禅譲を進めて西魏の恭帝・元廓を廃し、翌年には宇文泰の子の宇文覚を天王(皇帝とは言わなかった)として即位させました。宇文覚は従兄宇文護の専権を憎んで、近臣と宇文護誅殺を謀りましたが、露見して廃位され、略陽郡公に降格され、まもなく殺害されました。後年、宇文覚の弟の武帝・宇文ヨウ〔巛+邑〕が宇文護の誅殺に成功すると、兄を皇帝に追尊して、孝閔帝という諡を贈っています。

6. 唐の殤帝(在位710)李重茂; 唐の中宗・李哲の子。中宗のもとでは韋皇后が気弱な夫を圧して実権を握っていましたが、710年にはついに夫の中宗を毒殺して皇子の李重茂(韋皇后の子ではない)を皇帝として即位させました。しかし中宗の甥・李隆基が挙兵して韋皇后を滅ぼし、自分の父(中宗の弟)睿宗・李旦を即位させたので、李重茂は降格されて温王、のちに襄王に改称され、李隆基が玄宗として即位した翌713年に没しました。殺されたのかも知れません。死後、皇帝号を追復されていますが、帝室の宗廟には祀られませんでした。

7. 唐(後唐)の閔帝(在位933-934)李従厚; 後唐第三代の明宗・李嗣源の子として後を継ぎ、兄李従栄の反乱を鎮圧したところまではよかったのですが、実権はほとんどなく、明宗の養子のロ〔さんずい+路〕王李従珂が挙兵すると諸将に離反され、結局李従珂が都の洛陽に入ると、その差し金で殺害されてしまいました。後に離反将軍の一人石敬トウ〔王+唐〕が後晉の高祖として即位すると、申し訳程度に「閔帝」の諡を贈りましたが、他の同族の遺体と一緒に狭いところに簡単に合葬するという扱いだったため、見た人々は悲しんだと伝えられています。

8. 宋の欽宗恭文順徳仁孝皇帝(在位1125-27)趙桓;  北宋最後の皇帝。父の徽宗・趙佶は書画の巧みな風流天子として知られましたが、北方に勃興した金と盟約して遼を滅ぼした際、違約を重ねて金の怒りを買い、1125年に欽宗に位を譲りました。しかし二年後には金の太宗・完顔晟が大挙して来攻、27年には都の開封は陥落(靖康の変)し、北宋は滅亡、廃位された欽宗は徽宗とともに北辺の五国城に幽閉されました。やがて弟の高宗・趙構が江南に宋を復興(南宋)し、金との間に和議が成立したのですが、欽宗は南渡を許されず(高宗も自分の地位を脅かされるのを恐れて帰国を拒否していたと思われます)、配流の身で1161年に没しました。高宗は兄を先代皇帝として扱い、慣例通りに廟号・諡号を贈りました。

9. 金の煕宗荘靖孝成皇帝(在位1135-49)完顔亶;  金の第三代の皇帝で、ジュシェン(女真)名は合剌、初代太祖・完顔旻(阿骨打)の孫に当たります。大叔父の太宗・完顔晟の後を継いで帝位に即きました。金は華北を支配したことにより民族国家からの転換期を迎え、煕宗は宗室諸王などの補佐を得て皇帝独裁権を強化、中国風の中央集権国家を築き、南宋に優越的な和議を結んで国家の威信を確立させました。しかし次第に酒に溺れて人望を失い、従兄の完顔亮が実権の掌握に成功、1149年にはクーデタで煕宗は殺害されてしまい、追廃されて「東昏王」に貶められました。南斉の「バカ殿様」東昏侯・蕭宝巻の第二弾です。その後、従弟の完顔雍(世宗)が亮を打倒して即位すると、煕宗を皇帝に追復しました。

10. 明の景帝(景泰帝。在位1449-57)朱祁ギョク〔金+玉〕;  明の宣宗章帝(宣徳帝)・朱瞻基の子で、英宗睿帝(正統帝)・朱祁鎮の弟に当たります。はじめセイ〔成+β〕王に封じられましたが、1449年に英宗がオイラートのエセン‐ハンを迎撃して土木堡で捕虜となってしまうと、重臣于謙に擁立されて急遽即位し、エセンの攻撃から北京を死守しました。しかしエセンとの和議が成立して英宗が帰国すると、兄弟の対立が深まり、57年に重病に陥った際に重臣石亨らのクーデタにより英宗が復位(奪門の変)、帝は廃位されてセイ王に復され、間もなく没して「戻王」と悪諡を贈られました。後に憲宗純帝(成化帝)・朱見深が即位すると、叔父の朱祁ギョクを名誉回復しています。

   以上が数少ない「名誉回復された廃帝」です。名誉回復と言っても、傍系の「二流皇帝」のような扱いの場合が多いようです。現代中国でも獄死した後に名誉回復された元国家主席・劉少奇のような例もありますが。