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中国史に出てくる諡(おくりな)について(3)−−−廃位された皇帝

   今回は、「皇帝失格」とされてしまった「廃帝」編です。
   廃帝といっても、漢の献帝・晋の恭帝など、「禅譲」型の王朝交替で帝位から降ろされた前王朝最後の皇帝の場合は、そのまま皇帝並の待遇をされ、死後には皇帝としての諡号を贈られるので、公式には廃帝とは呼んでいません(実質的には廃帝と変わらず、新王朝の皇帝によって殺害される場合も多かったのですが)。  
   ここで扱うのは、王朝内での抗争で廃位された、または殺害後に追廃された皇帝たちです。

1. 漢(東漢)の海昏侯(在位紀元前74)劉賀;   「元祖・廃帝」と言うべきなのでしょうか? 漢の武帝・劉徹の孫、昌邑王・劉ハク〔骨+甫+寸〕の子で、はじめ昌邑王だったのですが、前74年に叔父の昭帝・劉弗陵が死んで後嗣がなかったことから、宰相の霍光らに要請されて漢の帝位を継承しました。ところがその際に霍光らと昌邑派の家臣との間で権力抗争が起こったらしく、彼は不行跡を理由に、在位わずか27日で霍光に廃位されてしまったのです。その後彼は「海昏侯(この封号自体が軽蔑的な意味ですが)」に封じられ、生命こそ奪われなかったものの、寂しい晩年を過ごしました。諡号は贈られていません。

2. 漢(西漢)の弘農懐王(在位189)劉弁;   劉弁は前回登場した霊帝・劉宏の子です。父・霊帝の死後に即位したのですが、母・何太后の兄である宰相の何進が宦官勢力の一掃を図って失敗、逆に殺害されてからは後ろ楯を失いました。その直後に涼州から進軍して首都洛陽を占領した董卓は、劉弁を廃して弘農王に降格、弟の劉協(献帝)を擁立、劉弁を幽閉した上、母の太后らとともに殺害してしまいました。「懐」は若死にした人や、不運にも若くして殺害された人につけられる諡号の代表格です。

3. 魏(三国)の斉王=邵陵詞(在位239-254)曹芳;   曹芳は魏の明帝・曹叡の子とされていますが、実は実子のない明帝が、一族の子を養子にして帝位を継がせたものです。治世初期には曹爽が政権を担当していましたが、前代の宰相の一人であった司馬懿がクーデタを起こして曹爽を処刑、実権を掌握しました。彼の死後は長男の司馬師が後を継ぎましたが、曹芳の側近たちは司馬師を排除して皇帝親政を実現しようと図り、計画が漏れて首謀者たちは処刑され、曹芳は司馬師に廃位されて斉王に降格されてしまいました。その後、265年に魏が滅亡して晉が成立すると、彼はさらに降格されて邵陵公に封じられ、274年に至って天寿を全うしました。「氏vは悪い諡号ですが、晉王朝側からすればこうなるところでしょうか?

4. 魏(三国)の高貴郷公(在位254-260)曹髦;  曹髦は魏の明帝の弟であった東海王曹霖の子です。前項の曹芳が廃位された後、司馬師に擁立されて帝位を継承しました。ところが、司馬師の死後政権を担当した弟の司馬昭は、日に日に専権をほしいままにしていく状況だったので、曹髦は飾り棚の上に置かれている傀儡皇帝の地位に我慢できず、ついに即位して6年目に、自らわずかな兵を率いて司馬昭を攻撃、司馬昭の部下であった賈充に殺害されました。司馬昭は曹髦が「先帝の皇太后を殺害しようとしていた」ということにして自分を正当化し、曹髦を諸侯王の格に追廃してしまったため、彼は即位以前の封号で高貴郷公と呼ばれていますが、諡号は贈られていません。

5. 呉(三国)の候官侯(在位252-258)孫亮; 三国呉の二代目の皇帝です。建国者である大帝・孫権の子ですが、即位すると宗室の宰相孫峻、ついで孫チン[糸+林]が実権を掌握しました。孫亮は聡明であり、孫チンを排除しようと企画していましたが、逆に廃位されて会稽王に降格されてしまいました。その後即位した景帝・孫休のとき、呪詛の罪で候官侯に落とされ、ついで自殺に追い込まれています。諡号はなし。

6. 晉(東晉)の海西公(在位365-371)司馬奕; 東晉第七代の皇帝。兄の哀帝・司馬丕を継いで即位しましたが、国政の実権を握っていた宰相の桓温は、自分の燕(慕容氏)征討の失敗を塗り隠すため、司馬奕を廃位して海西公に降封しました。彼は軟禁同然の処遇を受けましたが、とにかく天寿を全うしています。諡はありません。

7. 宋(南朝)の営陽王(在位422-424)劉義符; 宋の建国者である武帝・劉裕の後継者で、宰相徐羨之・謝晦・傅亮・檀道済らの補佐を受けていましたが、徐羨之らは自らの権益保持のために劉義符と衝突が避けられなくなると、彼を営陽王に廃位して惨殺してしまい、弟の文帝・劉義隆を推戴したのです。結局徐羨之らは文帝に誅殺されて報いを受けることになったのですが。

8. 宋(南朝)の劉子業(在位464-465); 宋の第五代の皇帝。孝武帝・劉駿の子でしたが、即位すると暴虐ぶりを発揮し、大臣や宗室たちを理由もなく殺害、際限もなく淫乱を重ねたため、宮廷の信望を全く失い、殺すつもりで幽閉していた叔父・劉イク〔或+ノ+ノ〕のクーデタによって殺害されました。諡どころか、封号も贈られていません。庶民並みということでしょうか。

9. 宋(南朝)の蒼梧王(在位472-477)劉c; 前項に登場した明帝・劉イクの子とされていますが、実は帝の近臣の子であったとも言われます。大臣を殺害するなど残虐行為があり、宰相蕭道成を排除しようとしましたが、先手を打った道成によって暗殺されました。その二年後、道成は宋を滅ぼして斉(南斉)を建国します。

10. 斉(南斉)の鬱林王(在位493-494)蕭昭業; 南斉の武帝・蕭サク〔|+臣+責〕の皇太子(文恵太子)・蕭長懋の子で、祖父武帝を継いで即位しましたが、宰相であった一族の蕭鸞の策謀により廃位・殺害されています。このところ南朝の廃帝は諡号を贈ってもらえない人が続きました。

11. 斉(南斉)の海陵恭王(在位494)蕭昭文; 前項の蕭昭業の弟。蕭鸞は昭業を廃位したあと、蕭昭文を帝位に即けたのですが、三ヶ月で彼を廃して自ら皇帝に即位しました(明帝)。このとき蕭鸞は禅譲の形式を採り、漢(東漢)の東海王・劉彊が皇太子の位を弟の劉荘(漢の明帝)に譲った故事を踏襲したのですが、廃位した昭文を殺害したあとも、劉彊と同じ「恭王」という諡号を贈っています。嫌味もいいところです。

12. 斉(南斉)の東昏侯(在位498-501)蕭宝巻; 前項に登場する明帝・蕭鸞の子です。即位した後は猜疑心が強く、大臣たちを次々に殺害したのですが、殺された一人・蕭懿の弟蕭衍は、宝巻の弟蕭宝融を擁立して挙兵し、都の建康を攻略して宝巻を攻殺してしまいました。「東昏侯」は言わば「海昏侯」の二代目で、封号というより諡号に近い感覚。日本語なら「バカ殿様」とでも言うべきところでしょうか?

13. 梁の予章王(在位551-552)蕭棟; 前項で登場した蕭衍=梁の武帝の曾孫、昭明太子蕭統の孫、予章王・蕭歓の子です。梁に大混乱を巻き起こして建康政府の実権を握った侯景は、簡文帝・蕭綱を廃位して蕭棟を擁立しましたが、やがて棟を廃して自ら皇帝に即位、蕭棟を幽閉しました。侯景が敗れると、蕭棟は叔父・蕭繹(元帝)の派遣した武将の手で水に沈められて溺殺されています。諡はありません。

14. 陳の臨海王(在位566-568)陳伯宗; 南朝最後の王朝、陳の第三代皇帝です。父の文帝・陳セン〔くさかんむり+にんべん+青〕を継いで即位しましたが、宰相となった叔父の陳ギョク〔王+頁〕は文帝が地方政権操縦のために配した諸将の排除を図り、これらの軍団を各個撃破するとともに、政府の要人を入れ替えて自らの権力基盤を固めていきました。その過程において陳伯宗の存在が無用のものとなったため、これを廃位して自ら即位、宣帝となりました。陳伯宗は翌々年に没しています(病死?)。諡は贈られませんでした。なお、政権を確立した宣帝は北周に対しても積極的な攻勢を試みましたが、国内の割拠状態の修復がままならず、次の皇帝陳叔宝のとき、270年続いた江南王朝はついに終焉を迎えることになったのです。

15. 魏(北魏)の東海王(在位530-531)元曄; 北魏の宗室である扶風王・元怡の子です。孝荘帝・元子攸が権臣爾朱栄を殺害すると、その一族の爾朱兆・爾朱世隆らが元曄を擁立して挙兵、孝荘帝を殺害して政権を掌握したのですが、ほどなく曄を廃して元恭を即位させました。その後、元曄は降格されて東海王となったのですが、のちに即位した孝武帝・元脩に殺害されています。彼は帝室からも疎遠な一族だったのですが、ただ政争に利用されただけという悲劇の人物だったと言えるでしょう。

16. 魏(北魏)の安定王(在位531-532)元朗; 同じような人悲劇の人がもう一人。北魏の宗室とは言っても、元曄同様に帝室から疎遠であった章武王・元融の子で、爾朱一族に反抗して挙兵した高歓が擁立、勝利を収めて節閔帝・元恭を廃位した後、ほどなく元朗をも廃位して孝武帝・元脩を即位させるといったように、北魏末期の帝位はめまぐるしく変転しました。この孝武帝は猜疑心が強かったようで(高歓の意図もあったかも知れませんが)、もと皇帝であった人たちを次々と殺害、元朗もその粛清の手を免れなかったのです。元曄・元朗はいずれも諡がありません。

17. 魏(西魏)の元欽(在位551-554); 北魏が分裂してできた西魏では、実質的な支配者は宰相の宇文泰であり、擁立された文帝・元宝炬は帝位にあるだけの存在でしたが、宇文泰と争わずに過ごしてきました。しかし後を継いだ元欽はこの状態が我慢できず、近臣と協議して宇文泰を誅殺しようと謀り、あえなく露見して廃位されてしまい、まもなく毒殺されました。そして西魏は二年後に滅亡、元欽には諡も封号も贈られませんでした。

18. 斉(北斉)の済南閔悼王(在位559-560)高殷; 北斉第二代の皇帝。父の文宣帝・高洋の後を継いで即位。しかし宰相である叔父の高演が帝位を奪う欲望を見せており、気弱になった文宣帝は臨終の際高演に、「おまえが息子から帝位を奪うにしても、殺さないでくれ!」と頼んだのですが、高演は高殷を済南王に降格した上、殺害してしまいました。ところが因果はめぐるもので、高演(孝昭帝)自身がわずか一年で病死する羽目になり、まだ少年の皇太子高百年が弟の高湛に殺されないようにと、高湛に帝位を譲ったのですが、結局高百年は高湛(武成帝)に殺されてしまいました。なお高殷には閔悼王という「若死にした人用」の諡号が贈られています。

19. 唐(後唐)のロ〔シ+路〕王(在位934-936)李従珂; 後唐は五代十国時代を代表する、軍団を基盤とする王朝で、第三代の明宗・李嗣源も初代武皇・李克用の養子として戦功があり、内乱の中で帝位に即いています。李従珂も王氏の出身で明宗の養子となり、ロ王に封じられ、明宗没後に後継者となった閔帝・李従厚を攻殺して即位したのですが、同じく明宗の養子格であった石敬トウ〔王+唐〕の反乱に遭い、敗戦の末に自殺しました。これで後唐は滅び、晉(後晉)を建設した石敬トウは、殺した李従珂を本名の「王従珂」に戻した上、庶人に降格してしまいました。

20. 金の海陵煬王(在位1149-61)完顔亮; ジュシェン(女真)人の王朝・金の第四代の皇帝。従兄の煕宗・完顔亶の宰相でしたが、煕宗が人望を失ったのに乗じてクーデタを決行、これを殺害して自ら即位しました。完顔亮は金のジュシェン文化を捨てて大胆に漢化する政策を採り、君主権力の絶対化を推進しました。しかしその政策が急激で収奪の強化を招いたため、国民の不満が蓄積、宋(南宋)を攻撃して失敗したのを機に大臣たちに殺害されました。その後に即位した従弟の完顔雍(世宗)は亮を一旦海陵王に降格し、煬王という諡号を贈ったのですが、のちに追廃して庶人に降格してしまっています。

21. 金の衛紹王(在位1208-13)完顔永済; 金の第七代皇帝。甥の章宗・完顔mの没後に即位しましたが、新興モンゴル帝国のチンギス‐ハンの攻撃に悩まされ、その防衛失敗を機に大臣のコツ〔糸+乞〕石烈執中に殺害、追廃されました。後を継いだ宣宗は永済を衛王に追復、紹王という諡号を贈っています。「紹」という諡は珍しいですが、疎遠な一族から地位を継いだ人に贈られるものですから、廃帝とは言っても、皇帝に準ずるところまで名誉回復された格好です。

   以上、廃帝と呼ばれた人たちを列挙してみました。五胡十六国や五代十国時代の地方政権まで含めれば、さらに数多くの廃帝がいるわけですが、諡号を贈られた人はまだマシなほうで、それも悪い諡が多く、まさに「勝てば官軍」という言葉のとおりです。前回の諸例も同様ですが、前代の悪を強調して自らの政権奪取を正当化する。これは日本の北条高時と後醍醐天皇、イングランドのリチャード3世とヘンリ7世などの関係とも比較できるような、世界共通の現象なのでしょう。