趣味人の部屋


中国史に出てくる諡(おくりな)について(2)−−−没後降格された皇帝

   さて今回は、後の時代の君主や王朝によって、悪い諡号をつけられ、おとしめられた帝王「お気の毒編」です。  

1. 周の赧王(在位紀元前322-264);   「たんのう」と読みます。周の国力が地に落ちてしまった時期で、滅亡する直前の国王なのですが、「赧」は顔を赤らめて恥じ入る意味ですから、全く人をコケにした称号です。『史記索隠』では皇甫謐の説として、この王の本名が「誕」であったとしていますが、それに関連して生前からこう呼ばれて辱められていたのか、本当のところは分かりません。秦王朝がつけた諡号なのでしょうか? いずれにせよ、あまりにもお気の毒で、同情に堪えません。

2. 漢の霊帝(在位168-189)劉宏;   霊という諡号は「乱而不損」などいくつかの用例があり、本来必ずしも悪い諡号ではなかったのでしょう。ところが春秋戦国時代には楚の霊王や衛の霊公など、「霊」と諡された「無道の君主(とされた人物)」が何人も輩出したので、この文字の印象はきわめて悪いものになってしまいました。そして漢(東漢)の霊帝は、宦官たちを重用して国の滅亡の原因を作った君主とされています。「霊帝」という諡号は、おそらく帝が死んだ直後、宰相の何進がつけたものと思われますが、何進は帝が宦官たちを信任していることを嫌っていましたから、このようなことになったのでしょうか? 何進が宦官たちに殺害された後、政権を握った董卓、曹操はいずれも王朝の簒奪をもくろんでいましたから、自分の都合から言えば「霊帝」という諡号を改定する気が全くなかったのは当然でしょう。

3. 代(北魏)の煬帝(在位325-329,335-337)拓跋コツ〔=糸乞〕那;   代という国は、のちに華北を統一して北朝の第一王朝と称される魏(北魏)の前身です。拓跋コツ那に贈られた「煬」の諡の意味は「逆天虐民」など、悪いものばかり並んでいます。 このころの代では、部族内の分割統治の余波が強く残り、長兄系の拓跋コツ那と、三弟系の烈帝拓跋翳槐とが王位争奪を繰り広げていました。結果的に烈帝が勝利して国の統一に成功し、その後の王位、さらに北魏の帝位は、烈帝の弟・昭成帝拓跋什翼ケン〔=牛建〕の子孫が代々継承することになったのです。その関係で、反主流派最後の君主コツ那は、北魏建国後に皇帝としての諡号をつけられた際、故意におとしめられてしまったものと思われます。

4. 隋の煬帝(在位604-618)楊広;  一般的に「煬帝」と言えばこちらのほうが本家ですね。隋の第二代目の皇帝として、精力的に外征を行うなど個性の強い君主でしたが、国内の分裂状態を招き、最後には殺害されて国を失ったことはよく知られている通りです。隋王朝に取って代わった唐王朝にしてみれば、自らの正統性を主張するために楊広をおとしめる必要性があったのですから、この諡号はそのために用意されたというわけです。
   ところで、案外知られていないのは、この煬帝が隋に滅ぼされた南朝の陳王朝の最後の皇帝陳叔宝(在位582-589。隋に降伏してからの爵位は長城公)が死んだとき、「煬公」という諡号を与えていることです。煬帝は国を滅亡に導いた陳叔宝に追罰の意味でこの名を贈ったのでしょうが、まさか本人も「あすのわが身」だとは思わなかったでしょう! 何とも皮肉な話ですが・・・。

5. 唐(正しくは周)の「則天皇后」(在位690-705)武照; いわゆる武則天、中国史上ただ一人の女帝です。この人を「おとしめられた」仲間に入れる理由は、まぎれもない「周王朝の皇帝」であったのに、死後は「則天順聖皇后」という諡号をつけられ、夫(唐の高宗皇帝・李治)=唐の皇帝に「従属する妻」の位置に押し込められてしまったからです。当時の中国での性(ジェンダー)に関する感覚から言えば当然だったのかも知れませんが、現代の私たちの目から見れば「格下げ」以外の何ものでもありません(そう思わない人がいるとしたら問題なのですが・・・)。

6. 後漢(コウカン)の隠帝(在位948-950)劉承祐; 五代第四王朝の皇帝。隠という諡号の意味は「隠払不成」など。春秋時代魯の隠公のように、業績が中途半端に終わっ(て殺されしまっ)た人に贈られる場合が多いようです。この帝は父である高祖・劉知遠が後漢を建国した翌年に死没したあとを受けて即位しましたが、若い皇帝の即位とともに文官・武官のあつれきが深まり、18歳の若い帝は側近の文官連中を支持して武官たちの排除を図り、武将郭威の家族で都(開封)に滞在していた者たちを皆殺しにしてしまいました。やがて帝は郭威の武力蜂起によって殺害されて王朝は滅び、あまり芳しくない「隠帝」という諡号を贈られたのです。政治的な識見も不十分な青年皇帝が、側近に丸め込まれた末の悲劇ではないでしょうか。

7. 元の「順帝」(在位1333-70)トゴンテムル; 大元ウルス=モンゴル帝国で、中国を領有した最後の皇帝です。その長い治世は権臣のバヤンやトクトらに翻弄され、末年は各地に漢民族の反乱を招き、1368年、朱元璋(明の洪武帝)の軍によって大都を追われ、モンゴル高原に退去して翌々年に死去しました。「順帝」というのは明がつけた称号で「天命に従順で北へ退いた」という意味が込められています。これは全く明の一方的な呼び方であり、漢民族が「野蛮な」異民族を駆逐したと言わんばかりの態度ですが、その勝者であった朱元璋は後年、甚大な数の家臣たちを粛清して、史上まれに見る野蛮な君主となったことは周知の通りです。ちなみに大元ではトゴンテムルに「恵宗皇帝」という諡号(廟号)を贈っています。