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中国史に出てくる諡(おくりな)について(17)---陳

   今回は、南朝の第四王朝=最後の王朝である「陳」です。領域が狭く、政治制度も後代に結び付くものに乏しかったことから、歴史上あまり重視されていませんが、独特の軍制・地方統治や、ヴェトナムとの関わりから言っても、いま一度着目されてしかるべき王朝です。

   ここでの諡については他の称号や諱(実名)と区別して、〔  〕内に示し、〔襄公〕〔宣侯〕のように表記します。系譜中で罫線-のあとに続柄を記載していないものは、実子(男子)による襲爵です。また、それぞれの王侯の家の系譜は、主流とおもな傍流を除き省略しますので、封爵を与えられた子孫をすべて掲載するわけではありません。
 

*皇帝の在位年です。

・高祖武帝 陳霸先 557-559
・世祖文帝 陳蒨 559-566
・廃帝/臨海王 陳伯宗 566-568
・高宗宣帝 陳頊 568-582
・後主/長城煬公 陳叔宝 582-589

*封爵について; 陳の時代、宗室には原則として郡王爵が授けられ、推恩として王の庶子には県侯の爵位が与えられました。一般の臣将には公(郡公・県公)・侯・伯・子・男の五等爵が設けられました。また男爵の下には郷侯・亭侯などの爵位がありましたが、詳細が解明されていない部分もあります。


★陳氏の宗室王侯


   武帝・陳霸先の父、陳文讃は、太祖景帝と追尊されましたが、無位無官だったようです。武帝を真ん中に男子が三人おり、長男の陳道譚と三男の陳休先とは、いずれも梁代に没しています。また、武帝の諸子は多くが父に先立って死亡し、文帝と宣帝とは道譚の息子です。* 印を付けたものは死後の追封です。他に、陳氏の宗室の中で侯に封じられた者が11人おり、うち事績がわかっている者が三人挙げられます。

◆*始興王〔昭烈王〕陳道譚-始興王 頊(=宣帝)-(文帝第二子)始興王 伯茂(温麻侯に降格後、被殺)-(宣帝第二子)始興王 叔陵(反逆、誅殺)-(宣帝第十四子)始興王 叔重(隋に降伏)
◆*南康王〔忠壮王〕陳休先-南康王〔愍王〕曇朗(北斉により殺害)-南康王 方泰(隋に降伏)
◆*皇太子〔孝懐太子〕陳克(武帝長子。無嗣)
◆*予章王〔献王〕陳立(武帝子。無嗣)
◆*長沙王〔思王〕陳権(武帝子。無嗣)
◆衡陽王〔献王〕陳昌(武帝第六子。文帝に被殺、無嗣)-(文帝第七子)衡陽王 伯信(被殺)

   陳道譚の爵位・始興王は一時陳頊(宣帝)に与えられたにもかかわらず、彼が北周に抑留されて帰国できなかったことから、陳伯茂が祭祀を継承しましたが、兄の臨海王が即位した後、帰国した宣帝の権限が大きくなるのに反発し、臨海王の廃位後に殺害されました。そのあと始興王になった陳叔陵は後主に反乱を起こして誅殺されています。陳休先の爵位・南康王を与えられた陳曇朗も、北斉に人質になっていたときに殺され、後継の陳方泰は重なる不行跡のため、一時免官や爵位剥奪処分を受けています。陳昌は北周抑留中に父の武帝が没し、帰国途中に従兄・文帝との帝位争いを恐れた宰相・侯安都の差し金により、長江で溺死しました。戦乱による家族離散が招いた悲劇と言えましょう。その後を継いだ文帝の皇子・陳伯信は、陳の滅亡時に殺害されました。


★「翼宣王業」の功臣

   武帝・陳霸先は魏の武帝・曹操同様、前王朝が瓦解したあと、自らの武装集団をもって新王朝を創業した帝王となります。その配下の諸将は東奔西走して外敵との交戦に明け暮れましたが、特に創業に寄与した9人が武帝の廟庭に配饗されました。これらの功臣と同等な地位にありながら文帝に粛清された侯安都も追加して掲載します。

◆零陵郡公〔壮粛公〕侯瑱-零陵郡公 浄蔵(無嗣)-(弟)零陵郡公 就
◆寿昌県公〔忠愍公〕周文育-寿昌県公〔成公〕宝安-寿昌県公 リャク(丰+力+石)
◆臨江県侯〔威侯〕杜僧明-臨江県侯 晉
◆陳集県侯 侯安都(桂陽郡公→有罪、賜死→県侯を追復)-陳集県侯 亶
◆永脩県侯〔定侯〕陳擬-永脩県侯 党(消息未詳)
◆漢陽県侯〔壮侯〕胡穎-漢陽県侯 六同
◆沌陽県侯 周鉄虎-沌陽県侯 瑜
◆湘東郡公〔忠粛公〕徐度-湘東郡公〔思公〕敬成-湘東郡公 敞
◆永城県侯〔成侯〕杜稜-永城県侯 安世
◆重安県公〔忠壮公〕程霊洗-重安県侯(北周に捕われ獄死、侯に降格)文季-重安県侯 饗

   陳王朝は軍団による創業型ですから、知名度はともかく、武功から言えば各地を転戦して大いに働いた百戦錬磨の武将たちが、功臣の上位を占めました。諡は〔壮〕〔忠〕〔粛〕〔威〕などの武張ったものが多く、時代の反映と言えましょう。杜僧明・周文育は武帝が梁の将軍としてヴェトナムを征討した際に敵対勢力から降って部下になり、侯瑱・周鉄虎・程霊洗は王僧弁派から武帝に降伏して主将となって各地を転戦しました。侯安都は武帝の腹心として活動、陳昌を殺害して文帝の地位を固めるのに寄与しましたが、権力の肥大化を恐れた文帝のクーデタによって排除されました。陳擬は宗室の一人であり、地味な存在ながら、武帝を補佐して後方支援に功があり、〔定〕と諡されました。胡穎・徐度は早くから武帝の部下として働き、外敵を退けて王朝の安定に貢献しました。杜稜も武帝の古い配下であり、おもに朝廷の鎮守を担っています。


★草創期に活動した宿将

   上記、武帝廟の配饗に与った功臣のほかに、武帝時代には多くの将軍や政府高官たちが活動しました。

◆義陽郡公〔威公〕黄法𣰋-義陽郡公 玩
◆始安郡公 淳于量(継嗣未詳)
◆魚復県侯〔桓侯〕徐世譜(継嗣未詳)
◆彭沢県侯〔孝侯〕魯悉達-彭沢県侯 覧
◆興寧県侯〔壮侯〕荀朗-興寧県侯 法尚
◆東興県侯〔元侯〕沈恪-東興県侯 法興
◆西豊県侯〔脱侯〕周敷-西豊県侯 智安
邵陵県侯 呉明徹(南平郡公→北周に捕われ病没→県侯を追贈)-邵陵県侯 恵覚
◆武昌郡公〔壮公〕周炅-武昌郡公 法僧
◆遂興県侯 陳詳-遂興県侯 正理(隋に敗死)

   陳王朝草創の臣将たちは、経歴こそ十人十色ながら、武帝と強く結ばれ、その王覇の業に大きな力となりました。黄法𣰋は自前の義勇兵を中核とする軍団で、王朝中期まで各地を転戦しました。淳于量は武帝の同輩で、梁末の混乱を受けて帰順。徐世譜や沈恪も梁代に武帝と接触があり、後に配下となっており、魯悉達や荀朗は軍団を率いて北斉と対峙し、武帝に帰順しました。周敷は反逆した周迪と同郷、陳詳は宗室の一人でしたが、いずれも迪に殺害され、周敷の諡は芳しくない〔脱〕、陳詳は失敗を咎められて諡を与えられませんでした。呉明徹は王朝中期に将領の重鎮でしたが、北周との戦いで捕虜にされ不本意な晩年を送っています。周炅は北斉との戦で功を上げ、侯瑱や胡穎らに並ぶ〔壮〕の諡を贈られています。

   他方、一応は武帝の麾下に入りながらも、自らの軍団を保持し、また地方に勢力を構えて半独立体制を築いた者もいました。

◆永化県侯 熊曇朗(反逆、誅殺)
◆臨汝県侯 周迪(反逆、誅殺)
◆永興県侯 留異(反逆、誅殺)
◆候官県侯 陳宝応(反逆、誅殺)
◆陽山郡公〔穆公〕欧陽頠-陽山郡公 紇(反逆、誅殺)


 熊曇朗から陳宝応までの四人は、いずれも梁末の混乱に乗じて勢力を蓄え、武帝に面従腹背の状態を続け、軍閥として蟠踞しましたが、みな後には陳王朝に反旗を翻し、文帝に滅ぼされました。欧陽頠は嶺南を平定して軍閥となり、〔穆〕と良諡を贈られましたが、後継者となった欧陽紇のときに、宣帝によって討滅されています(紇の息子が書家として著名な欧陽詢です)


★文帝に信任された臣将

   文帝・陳蒨は将として優れており、梁末から武帝の右腕として働き、配下に独自の集団を形成していました。武帝時代に果たせなかった江南の再統一には、この文帝直属の臣将たちが与って力があり、短期間ながら政権の主要な役職を占めることになります。

◆邵陵郡公 章昭達-邵陵郡公 章大宝(反逆、誅殺)
◆建城県侯〔成侯〕沈欽-建城県侯 観
◆建昌県侯 到仲挙(謀反、賜死)
◆文招県伯 韓子高(謀反、賜死)
◆重安県侯 華皎(反逆、誅殺)
◆(無封爵)〔貞子〕顔晃
◆崇徳県子(有罪、奪爵)庾持
◆朝陽県侯〔威侯〕陸子隆-朝陽県侯 之武
◆永安県侯〔粛侯〕銭道戢-永安県侯 邈
◆常安県侯 駱牙-常安県侯 義


   章昭達は帝室陳氏と同郷で、文帝配下の主将と言うべき存在であり、各地に転戦して大きな功績があり、宣帝時代にも欧陽紇を平定していますが、なぜか諡がありません。到仲挙・韓子高は文帝の腹心として朝廷を仕切り、帝の没後は臨海王を補佐して主席宰相の陳頊=宣帝の排除を企てましたが、頊に先手を打たれて粛清されました。華皎は将としても行政官としても有能で、要衝の湘州を任されて鎮守しましたが、仲挙・子高の粛清後に反乱を起こして宣帝に滅ぼされました。陸子隆・銭道戢は文帝期から宣帝期の藩鎮を担って功があり、良将にふさわしく〔威〕〔粛〕と諡されました。


★尚書省を占有した士族

   侯景の乱以降、南朝の解体再編が行われましたが、江南に残った士族たちは、かつての不可侵的な権限こそ失ったものの、引き続き吏部尚書をはじめとする要職にあって一定の勢力を保っていました。これらの士族が寒門出身の将軍連たちと共存する状態は、陳が滅亡するまで続きました。

◆安東亭侯〔元簡公〕王沖-(無封爵)〔光子〕瑒
◆武陽亭侯〔成子〕王通
◆(無封爵)〔温子〕王勱
◆(無封爵)〔康子〕謝哲
◆(無封爵)〔簡懿子〕袁枢
◆(無封爵)沈衆(有罪、賜死)
◆建昌県侯〔章侯〕徐陵-建昌県侯 倹
◆(無封爵)〔靖徳子〕袁敬-(無封爵)元友
◆(無封爵)〔質子〕袁泌
◆(無封爵)〔簡子〕陸山才
◆甲口亭侯〔安子〕王質
◆(無封爵)〔静子〕蕭乾
◆(無封爵)〔光子〕謝嘏
◆(無封爵)〔元子〕張種
◆莫口亭侯〔恭子〕王固
◆(無封爵)孔奐
◆(無封爵)蕭允
◆望蔡県侯〔貞憲侯〕沈君理-(甥)望蔡県侯 遵礼
◆(無封爵)〔安子〕陸繕
◆(無封爵)〔簡子〕周弘正
◆建安県伯 袁憲(隋に降伏)
◆(無封爵)江総(隋に降伏)
◆松陽県侯 蕭済(継嗣未詳)
◆(無封爵)陸瓊
◆(無封爵)顧野王
◆(無封爵)傅縡(有罪、賜死)

   王氏や謝氏のような第一級の名族も続いていましたが、どちらかと言えばこれに次ぐ家々の出身者が活躍しています。徐陵は陳王朝を代表する宰相であり、梁末に北斉抑留の憂き目に遭いましたが、帰南して武帝に仕え、文帝時代に吏部尚書となり、一時弾劾した相手の宣帝にまで信任されて僕射=宰相となり、朝議の中心的存在として重きをなし、後主の初めに没して〔章〕と良諡を贈られました。沈君理は呉興の沈氏でも末流だったらしく、父の代から武帝と親しかったことから親任され、文帝のとき重臣となり、宣帝期に吏部尚書から僕射へ昇り、〔貞憲〕と良諡を贈られました。他の人たちも王朝の随所に用いられましたが、いわば飾り物的な地位に甘んじた者も少なくなかったようです。。


★新興の謀臣・政府高官

   文帝時代から王朝の安定期に入り、寒門出身の文官たちが中書舎人をはじめとする行政の中枢に進出し、政権の安定に大きく寄与しました。

◆始平県伯〔忠伯〕趙知礼-始平県伯 允恭
◆新豊県侯〔忠敬侯〕蔡景歴-新豊県侯 徴(隋に降伏)
◆(無封爵)劉師知(有罪、賜死)
◆原郷県侯(→西魏に捕われ失爵)〔恭子〕沈炯
◆(無封爵)〔徳子〕虞茘
◆(無封爵)宗元饒
◆文招県侯〔忠侯〕司馬申
◆東昌県侯 毛喜-東昌県侯 処沖

   趙知礼は武帝・文帝の、蔡景歴は文帝から宣帝にかけ、謀臣として重きをなしています。劉師知は文帝の遺命を受けて到仲挙らとともに臨海王を補佐しましたが、宣帝を排除しようとして返り討ちにされました。司馬申や毛喜は宣帝から後主の時期にかけて機密に参与しています。


★文帝・宣帝の諸子;

   文帝の諸子は、一族が殺し合ったこれまでの諸王朝と異なり、宣帝期や後主期に至っても内外の重職にありました。第二子は前述の始興王・陳伯茂、第七子は前述の衡陽王・陳伯信になります。

◆(3)鄱陽王 陳伯山-鄱陽世子 君範(襲爵前に隋に降伏)
◆(5)新安王 陳伯固(反逆、誅殺)
◆(6)晉安王 陳伯恭(隋に降伏)
◆(8)廬陵王 陳伯仁(隋に降伏)-湘浜侯 番(隋に降伏)
◆(9)江夏王 陳伯義(隋に降伏)-湘潭侯 元基(隋に降伏)
◆(10)武陵王 陳伯礼(隋に降伏)
◆(12)永陽王 陳伯智(隋に降伏)
◆(13)桂陽王 陳伯謀-桂陽王 鄷(隋に降伏)

   陳伯恭は宣帝期、陳伯智は後主期に宰相に列し、他の者もみな地方の都督や刺史に任じられました。
   また、廃帝は廃位された翌々年に没し、後嗣は実の息子である陳至沢が継承しています。

◆臨海王(=廃帝)陳伯宗-臨海王 至沢(隋に降伏)

   宣帝の諸子はおもな者だけを掲げます。第二子と第十四子は前述の始興王・陳叔陵と陳叔重です。

◆(3)予章王 陳叔英(隋に降伏)
◆(4)長沙王 陳叔堅(隋に降伏)
◆(5)建安王 陳叔卿(隋に降伏)
◆(9)河東王〔康簡王〕陳叔献-河東王 孝寛
◆(12)晉煕王 陳叔文(隋に降伏)
◆(16)岳陽王 陳叔慎(隋に捕われ被殺)
◆(17)義陽王 陳叔達(隋に降伏、唐代に至り宰相)

   陳叔文が率先して隋に降伏したのと対照的に、陳叔慎は抗戦して敗死しました。諡としては陳叔献の〔康簡〕が知られる程度です。後主にも十一人の男子がありましたが、ここには掲載しません。文帝・宣帝・後主の諸子は、隋の煬帝が後主の娘を寵愛したことを機に、多くが役人に登用されました。


★王朝中・後期の武将;

   宣帝期・後主期に活動した将軍たちを掲げます。

◆楽安県侯 裴忌(北周に捕われ隋代に死亡)
◆定襄県侯〔桓侯〕孫瑒(継嗣未詳)
◆宜黄県侯 陳慧紀(隋に降伏)
◆綏建郡公 蕭摩訶(隋に降伏、後に誅殺)
◆梁信郡公 任忠(隋に降伏)
◆逍遥郡公 樊毅(隋に降伏)
◆富川県侯 樊猛(隋に降伏)
◆綏越郡公 魯広達(隋に降伏)
◆応陽県公 王猛(隋に降伏)

   陳王朝は軍国体制を強化して勢力の維持に腐心しましたが、長江上流を押さえていた北周が北斉を滅ぼして華北を統一し、その北周の後を承けて隋王朝が政権基盤を固めた時点で、天下の大勢は定まったと言えましょう。後主期の諸将たちの奮戦空しく、隋軍は圧倒的な力で陳の領土を席巻し、後主があえなく降伏したことにより、東晉以来280年にわたる江南王朝は滅亡しました。


(2017.07.07 up)