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中国史に出てくる諡(おくりな)について(11)−−−蜀漢・呉(三国)

   今回は、三国の蜀漢と呉の諡号です。小説『三国志演義』では蜀漢の中心人物たちが善玉として中心的な役割を果たしています。呉の君臣は脇役ですが、現実には江南王朝の基を築いた事績を持っています。ここでは魏の場合と同じく、あまり個人の事跡に踏み込まず、もっぱら諡について述べてみます。

   ここでの諡については他の称号や諱(実名)と区別して、〔  〕内に示し、〔襄公〕〔宣侯〕のように表記します。系譜中で罫線−のあとに続柄を記載していないものは、実子(男子)による襲爵です。また、それぞれの王侯の家の系譜は、主流とおもな傍流を除き省略しますので、封爵を与えられた子孫をすべて掲載するわけではありません。

○ 蜀漢

*皇帝の在位年です。

・昭烈帝 劉備 221-223
・後主安楽公〔思公〕劉禅 223-263

   宗室の諸王侯です。実際には虚封で、単に俸禄をもらう皇族に過ぎない状況だったようです。

◆甘陵王 劉永(昭烈帝の子。魏に降伏後、郷侯)
◆安平王〔悼王〕劉理(昭烈帝の子)−安平王〔哀王〕胤−安平王〔殤王〕承(無嗣)−(叔父)安平王 輯(魏に降伏後、郷侯)

◆皇太子 劉璿(後主の子。魏に降伏直後に殺害)
◆北地王 劉ェ(後主の子。蜀漢滅亡に際し自殺)

   後主には他に5人の男子がいましたが、みな魏に降伏した後に列侯の爵位を与えられています。

   昭烈帝劉備時代の臣将で諡を贈られた者は下記の通りです。

◆武郷侯〔忠武侯〕諸葛亮−武郷侯 瞻(蜀漢滅亡に際し戦死)
◆漢寿亭侯〔壮繆侯〕関羽−漢寿亭侯 興−漢寿亭侯 統(無嗣)−(兄弟)漢寿亭侯 彝(蜀漢滅亡に際し殺害)
◆西郷侯〔桓侯〕張飛−西郷侯 紹
◆タイ(釐−里+來)郷侯〔威侯〕馬超−タイ郷侯 承
◆関内侯〔剛侯〕(無嗣廃絶)
◆永昌亭侯〔順平侯〕趙雲−永昌亭侯 統
◆関内侯〔靖侯〕龐統−関内侯?宏
◆〔翼侯〕法正(贈諡のみ)−関内侯 邈

   諸葛亮は中国史上の大スターですが、戦略家としての才能はあまり優れておらず、むしろ寄せ集めの蜀漢政権の中で各勢力のバランスを調整しながら、誠実に政務をつかさどった宰相としての評価が高い人物です。「忠武」という諡は、このあとの時代にも一つの典型として、傾きかけた王朝を支えた人や復興した人に対して贈られるようになっていきます。関羽の「壮繆」の「繆」は「謬」に通じる悪い諡で、その当時は彼が呉との戦いで敗死して領地を失ったことを正当に評価したものだと思われますが、後世関羽は神格化されて、清代には「忠勇神武霊祐仁勇威顕讜国保民精誠綏靖翼賛宣徳関聖大帝」というたいへんな称号を奉られています。張飛は関羽の弟分で、部下に殺害されていますが、「桓」というまずは良い諡。趙雲はまさに蜀漢の建設に生涯を捧げた勇将ですが、関羽や張飛よりも見識が優れていた人物で、「順」の字で文治の力量を、「平」の字で武将としての功績を評価されたものです。

   後主時代のおもな宰相ないし政権担当大臣です。

◆安陽亭侯〔恭侯〕蒋琬−安陽亭侯 斌(魏に降伏直後に殺害)
◆董允(不封侯)
◆成郷侯〔敬侯〕費禕−成郷侯 承
◆呂乂(不封侯)
◆〔忠侯〕陳祗(贈諡のみ)−関内侯 粲
◆平襄侯 姜維(魏に降伏直後に殺害)

   諸葛亮の没後、蒋琬・董允・費禕・呂乂が政局に当たっていた頃には、蜀漢政権も安定を保っていましたが、費禕が魏のスパイに殺害されると、国の屋台骨が揺らいでいきます。大将軍の姜維は北伐を繰り返して国力が疲弊し、内朝の政務を担当した陳祗は才能のある人物でしたが、無能な君主である後主に迎合して庶務を仕切ったので、政府は次第に信頼を失っていきます。宦官の黄皓が朝政を壟断する中、蜀漢の都・成都は魏の攻勢の前にあえなく陥落、姜維も殺されて国は滅亡しました。

○ 呉

*皇帝の在位年です。

・大帝 孫権 222-252
・廃帝会稽王 孫亮 252-258
・景帝 孫休 258-264
・末帝帰命侯 孫皓 264-280

   大帝孫権には7人の男子がありました。第6子が景帝孫休、第7子が会稽王孫亮です。

◆皇太子〔宣太子〕孫登−呉侯 英(有罪自殺)
◆建昌侯 孫慮(無嗣廃絶)
◆南陽王 孫和(追尊して文帝)−烏程侯 皓(264皇帝即位)
◆魯王 孫覇−呉侯 基(有罪廃絶)
◆斉王→章安侯(降格)孫奮(有罪誅殺)

   歴代の補佐役・丞相を掲載しておきます。

◆周瑜(未封侯)−都郷侯 胤(有罪配流)
◆魯粛(未封侯)−都亭侯 淑−都亭侯 睦
◆孱陵侯 呂蒙−孱陵侯 覇−(兄)孱陵侯 j−(弟)孱陵侯 睦
◆婁侯〔文侯〕張昭(丞相に推されたが辞退)−婁侯 休(有罪賜死)
          また、昭の子に都郷侯〔定侯〕張承−都郷侯 震
◆陽羨侯 孫邵
◆醴陵侯〔粛侯〕顧雍−醴陵侯 裕
◆江陵侯〔昭侯〕陸遜−江陵侯 抗−江陵侯 晏(呉滅亡に際し戦死)
◆臨湘侯 歩隲−臨湘侯 協−臨湘侯 璣(晉に降伏)
◆陽都侯 諸葛恪(有罪誅殺)
◆富春侯 孫峻(没後追罰奪爵)
◆永寧侯 孫綝(有罪誅殺)
◆外黄侯 濮陽興(有罪誅殺)
◆嘉興侯 陸凱−嘉興侯 式
◆万彧(未封侯? 有罪賜死)
◆張悌(未封侯? 呉滅亡に際し戦死)

   記録から見る限り、諡を贈られた者は多くありません。三国志演義で活躍する周瑜・魯粛・呂蒙といった名臣も諡はされないままに終わっています。顧雍や陸遜は呉の柱石として政局を担い、没後はそれぞれ「粛」「昭」と良い諡を贈られましたが、その一族は子孫に至っても江南の名族として東晉時代の有力士族となります。呉の後期の宰相は政変で誅殺される者が続出し、最後の皇帝孫皓の乱政もあって国内の結束を失い、280年、晉の攻撃の前に地方軍団が次々と壊滅、首都建業の政府はなすすべもなく降伏する結末となりました。

(2006.9.3 up)